2018年3月11日日曜日

倭の神坐す地(1)

さて、長らく間を空けてしまいました(汗)。
事情は色々ございまして、これから12回にわたって言い訳を書いていこうと思うのですが…。
あ、もういい?

このシリーズタイトルだけではなんのこっちゃ分からないと思いますが、おいおい分かっていく予定となっております(笑)。

さて、土成町に知る人ぞ知る「薬王子神社」が鎮座いたしております。

薬王子神社
阿波市土成町浦池字西宮64
御祭神 大己貴(おほなむち)命 徳島県神社誌
    大己貴(おほなむち)命 少彦名命  土成町史



承和年間(834-847)山田阿波介古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築く際に祝祭したと言い伝えている。一名薬王権現とも云い疫病流行の際、祈願して、霊験あらたかであったとも云う。又、池の守護神とも尊崇し、大池の西にあるので「西の宮」とも呼んでいる。
徳島県神社誌

薬王子神社
 浦ノ池の氏神で「西の宮」とも呼ばれる。神社の起源は古く、伝承によると、承和(9世紀)の昔、阿波の国司としてやってきた山田古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築いた時に祝祭した。この神は疲病流行の時祈願すると効験あらたかで、「薬王権現」と称されていた。明治元年奇玉(くすたま)神社と改め、更に明治100年に当たり薬王子神社と改めた。神社には古い棟札が残され、現在の社殿は嘉永元年(1847)のものである。
 この薬王権現は、日和佐の薬王寺のもとで、こちらではやらないので日和佐へもっていった。厄除けはこちらが本家と宣伝をしたのが効いたのか、10月の祭礼には多くの参拝客が訪ずれるようになった。  阿波学会研究紀要

と、いうのが神社由緒の簡単なご紹介になるのですが。
簡単には日和佐の薬王寺の元となった神社であります。
御祭神については

大己貴命
別名
大穴牟遅神/大名持神/大汝神:おおなむちのかみ
大国主神:おおくにぬしのかみ
大物主命:おおものぬしのみこと
八千矛神/八千戈神:やちほこのかみ
大国主とは、大国を治める帝王の意味。大黒様としても知られる神。

大穴牟遅とは、大名持で、功績多く著名なという意味であり、また大地持(地をナと訓む例には地主(なぬし)・地寄(なよせ)などがある)。

八千矛とは、多くの矛を持つ神、即ち武威の神名。宇都志国玉は現国御魂の義で、現在の国の守護神。
『播磨国風土記』神前郡の八千軍野は、天日桙命の軍兵が八千人であったからと記されている。 八千の日桙軍が八千矛と考えると、天日桙命の伝承の一部が混在しているのかもしれない。

玄松子の記録より

少名比古那命は、国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。 wikipedia
となります。
大己貴命の説明がやたら多いのは別名があまりにも多いからなのですが、要は大国主命であり、大黒様であるわけなのです。

さて、この「薬王子神社」、阿波国司として赴任した山田古嗣(ふるつぐ)が灌漑対策として「浦池」を作った時に奉斎したとされており、灌漑工事が記録として出てくるのは下の写真「文徳実録(もんとくじつろく)」が初出であるのです。
『日本文徳天皇実録』(にほんもんとくてんのうじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書。六国史の第五にあたり、文徳天皇の代である嘉祥3年(850年)から天安2年(858年)までの8年間を扱う。略して文徳実録ともいう。編年体、漢文、全10巻。wikipedia


相摸權介從五位上山田宿禰古嗣卒 古嗣 左京人也 越後介外從五位下勳六等益人之長子也 爲人廉謹 而寡言辭 幼歳喪母 敬事從母 天性篤孝 甞讀書傳 至於樹欲靜而風不止 子欲養而親不待 流涕不禁 卷帙爲之沾濡 弘仁十二年丁父憂 哀毀過禮 天長三年爲陸奧按察使記事 五年爲少内記 六年遷爲少外記 承和元年轉爲大外記 公卿大臣以備顧問 推薦文士 多見納用。故人仰之。十三年出爲阿波介 政績有聲 阿波美馬兩郡 常罹旱災 古嗣殊廻方略 築陂蓄水頼其灌漑 人用温給 後爲相摸權介 病卒於官 時年五十六

で、この「薬王子神社」下、大正十年の土成村史を見てみますれば

ごめんねスキャンが傾いちゃったの(^^);


当時は「奇玉神社(くすだまじんじゃ)」と呼ばれており、それ以前は「薬王子権現」と呼ばれていたことが読めます。
祭神の一柱である「少彦名命」が医薬の神様とされており、神仏習合の際に薬王子とされたことから薬王子権現とされ、日和佐に移って「薬王(寺)」となったわけです。
まあ、これはわかります。
では何故「大己貴命」が相祭されているのでしょうか?

古事記、神代巻 大国主の段を引用いたします。

故、爾れより、大穴牟遅と小名毘古那と、二柱の神相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。然て後は、其の小名毘古那神は、常世国に度りましき。
故、其小名毘古那神を顕はし白せし謂はゆる久延毘古は、今者に山田の曽富騰といふぞ。此の神は、足は行かねども、尽に天の下の事を知れる神なり。
是に大国主神、愁ひて告りたまひけらく、「吾独して何にか能く此の国を得作らむ。孰れの神と吾と、能く此の国を相作らむや。」とのりたまひき。
是の時に海を光して依り来る神ありき。其の神の言りたまひけらく、「能く我が前を治めば、吾能く共与に相作り成さむ。若し然らず国成り難けむ。」とのりたまひき。
爾に大国主神曰しけらく、「然らば治め奉る状は奈何にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ。」と答へ言りたまひき。此は御諸山の上に坐す神なり。

つまり、
大国主神(大己貴命)とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れと、自分を祭るよう希望した。これが御諸山の上に坐す神である。
という一節であります。



「お前は何が言いたいんだよぉぉぉぉ!」
と仰るでしょうけど(いわない?)、端的に言っちゃえば
「奇玉(くすだま)」は「奇魂(くしみたま)」のことでしょう、ということです。
「玉」⇄「魂」は古事記、神道云々を特に挙げずとも、よく見かける表現ですよね。

つまり御祭神が大国主神(大己貴命)と少彦名神であることより「奇玉(くすだま)」の社名はこのエピソードより採ったものだと考えるのですが、そうであるならば、「大国主神(大己貴命)」の幸魂奇魂というのは「大物主」であるので、当社の「本当の」祭神は
「大物主」
ではないかとの想定ができるのです。

大物主は、海を照らし現れた神で、蛇神であり、水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきた。このことから、最も信仰古き神々の内の一柱とも考えられる。古事記によれば神武天皇の岳父、綏靖天皇の外祖父にあたる。なお、大国主の分霊であるため大黒天として祀られることも多い。また、三輪氏の氏神でもある。wikipedia

この「奇玉(くすだま)」=「奇魂(くしみたま)」については土成町の「総合学術調査報告」な内の「土成町における神社の変遷の概要」にも記載があり、あながち的外れとも言えないように思います。

ちなみに「薬王子神社」の大国主神(大己貴命)は「大黒天」摂社として祀られています。

(うーん、「薬王子」が「薬王寺」になってる…)

では「薬王子神社(奇玉神社)」祭神が「大物主」であるならば、何がどうなるのか?
次回より話を進めていきたいと思いますが、シャレにならないくらい、ワタクシ弱ってますので(いやマジで)、いつ途切れるやもわかりません。
そのあたり、力尽きたらごめんなさい。
続く

今、こんな感じ(笑)