2021年4月29日木曜日

「ヤマトタケル」って誰?(6)

えらく、間が飛んでしまいました。
書いてる本人がどこまで行ったか忘れてますもん(泣)

「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)
「ヤマトタケル」って誰?(3)
「ヤマトタケル」って誰?(4)
「ヤマトタケル」って誰?(5)

本編がこのシリーズの中核となる論であったのですが、4ヶ月足掻いてみましたが、確たる史料が見つかりませんでした。
このままお蔵入りも考えたのですが、苦渋の選択として、仮説のまま論を進めてみたいと思います。

ただ、この仮説の正統性については、それなりの自負はあります(現在のトコねwww)。

さて、「天語歌(あまがたりうた)」というのをご存知でしょうか?

古代の宮廷歌謡。ヤマト朝廷の大嘗祭(だいじようさい)の酒宴に,伊勢の海部(あま)出身の族長,天語連(あまがたりのむらじ)(渡来系の海語連ではない)が部民の天語部を率いて大王(天皇)に服属を誓った,勧酒の寿歌に由来する。天語連から宮廷に貢いだ采女(うねめ)らも奏したか,宮廷風に物語化されて《古事記》雄略天皇条の3歌曲の名にのこる。歌詞は古い海部系の神話詞章にも通じ,歌劇的な神語(かむがたり)の結句〈事の語り言(ごと)もこをば〉の類型をもつ。(世界大百科事典 第2版)


〘名〙 上代歌謡。宮廷寿歌の一種で、天語連(あまがたりのむらじ)の伝えたものか。「事の語りごとも是をば」という終句をもち、「古事記‐下」に三曲見える。従来は、多く「あまことうた」と呼ばれた。
※古事記(712)下「此の三歌は天語歌(あまがたりうた)ぞ」
[補注]一説に、天語連と海語連とを同氏姓の異表記として、天語歌は伊勢の海人語部(あまがたりべ)が伝えたものとする。なお、同じ終句をもつものに、神語(かんがたり)がある。→神語(かんがたり)
〘名〙 ⇒あまがたりうた(天語歌)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版

で、それがどの様なものかと引用しますれば

天語歌
<古事記 下巻 雄略天皇 六より>

纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
八百土よし い築きの宮
真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
こしもあやかしこし 高光る日の御子

事の語る言も 是をば (100・伊勢国の三重の采女)


葵祭の采女

<現代語訳>

纏向の日代の宮は、朝日の照り輝く宮、夕日の光り輝く宮
竹の根が充分に張っている宮、木の根が長く延びている宮
(八百土よし)築き固めた宮でございます。
(真木さく)桧つくりの宮殿の、新嘗の儀式をとり行う御殿に生い立つ、枝葉のよく茂った欅の枝は、上の枝は天を覆っており、中の枝は東の国を覆っており、下の枝は田舎を覆っています。
そして上の枝の枝先は、(ありきぬの)三重の采女が捧げ持っている立派な盃に浮んだ脂のように、落ちて浸り漂い、おのころ島のように浮んでいます。
これこそなんとも畏れ多いことでございます。 (高光る)日の御子よ、事の語り言として、このことを申し上げます。


倭のこの武市に 小高る市のつかさ
新嘗屋に生い立てる 葉広のゆつ真椿
その葉の広りいまし その花の照りいます
高光る日の御子に 豊御酒献らせ
事の語り言も 是をば
 (101・大后)

<現代語訳>

大和のこの小高い所にある市に、小高くなっている市の丘。
そこの新嘗の御殿に生い立っている、葉の広い神聖な椿よ。
その葉の様に心広くいらっしゃり、その花の様にお顔が照り輝いていらっしゃる(高光る)日の御子に、めでたいお酒を差し上げて下さい。
事の語り言として、このことを申し上げます。

ももしきの大宮人は 鶉鳥 領巾とりかけて
鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 うずすまり居て
今日もかも 酒むづくらし 高光る日の宮人
事の語り言も 是をば
 (102・天皇)

<現代語訳>

(ももしきの)大宮人は、ウズラのように首に領巾をかけて、セキレイのように、長い裾を交えて行き交い、庭雀のように、うずくまり集まって、今日はまあ、酒に浸っているらしい。
(高光る)日の宮の宮人たちは。
事の語り言として、このことを申し上げる。

以上が「古事記‐下」の三曲であります。

纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮...
この歌については次のような説話がともなっております。すなわち雄略天皇が豊楽を行った際に、伊勢国の三重の采女(うねめ)が大盃を献ったところが、その盃に落葉が浮いていたために雄略は怒り、采女を殺そうとした。そこで采女が雄略の怒りをしずめるために「吾が身をな殺したまひそ。曰すべき事有り」として歌ったのが、この歌だと いうのです。
この歌は『古事記』に「天語歌」すなわち海人部が語り伝えた歌の一首とあることから「元来は伊勢の海人部が臣従を誓う歌として、新嘗祭の場で歌われたものが、雄略天皇の物語にはめこまれて伝えられるようになったものと思われる」とされております。

一応、原文も記載しておきます。
又天皇、坐長谷之百枝槻下、爲豐樂之時、伊勢國之三重婇、指擧大御盞以獻。爾其百枝槻葉、落浮於大御盞。其婇不知落葉浮於盞、猶獻大御酒。天皇看行其浮盞之葉、打伏其婇、以刀刺充其頸、將斬之時、其婇白天皇曰「莫殺吾身、有應白事。」卽歌曰、

麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜 多氣能泥能 泥陀流美夜 許能泥能 泥婆布美夜 夜本爾余志 伊岐豆岐能美夜 麻紀佐久 比能美加度 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流 毛毛陀流 都紀賀延波 本都延波 阿米袁淤幣理 那加都延波 阿豆麻袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理 本都延能 延能宇良婆波 那加都延爾 淤知布良婆閇 那加都延能 延能宇良婆波 斯毛都延爾 淤知布良婆閇 斯豆延能 延能宇良婆波 阿理岐奴能 美幣能古賀 佐佐賀世流 美豆多麻宇岐爾 宇岐志阿夫良 淤知那豆佐比 美那許袁呂許袁呂爾 許斯母 阿夜爾加志古志 多加比加流 比能美古 許登能 加多理碁登母 許袁婆

しかし、この歌に出 てくる「纏向の日代の宮」は景行天皇の都であり、雄略天皇の郡はあくまで「長谷の朝倉の宮」でありますので、なんらかの理由で景行天皇御代の歌が雄略天皇紀に紛れ込んだものと思われるのです。

で、これを伝えたのが「天語連(あまがたりのむらじ)」という氏族なのですが

【天語歌】より
…古代の宮廷歌謡。ヤマト朝廷の大嘗祭(だいじようさい)の酒宴に,伊勢の海部(あま)出身の族長,天語連(あまがたりのむらじ)(渡来系の海語連ではない)が部民の天語部を率いて大王(天皇)に服属を誓った,勧酒の寿歌に由来する。天語連から宮廷に貢いだ采女(うねめ)らも奏したか,宮廷風に物語化されて《古事記》雄略天皇条の3歌曲の名にのこる。

この説明でややこしいところは
天語連(あまがたりのむらじ)(渡来系の海語連ではない)が部民の天語部を率いて大王(天皇)に服属を誓った
の部分なのでして、要は「天語連」と「海語連」の二つの氏族があり、どちらも「あまがたりのむらじ」と読むのですね。

新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)によれば、この「天語連」




県犬養宿祢同祖 神魂命七世孫天日鷲命之後也

とあり、なんと「天日鷲命之後」だというのです。


さて、古事記に「日の御子」との記載がある箇所は5カ所と言われております。
以下に示します。

1.高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く 諾な諾な 君待ち難に 我が着せる 襲の裾に 月立たなむよ(中巻 景行条)

2.誉田の 日の御子 大雀 大雀 佩かせる太刀 本吊ぎ 末振ゆ 木の 素幹が下木の さやさや(記 ) (中巻 応神条)

3.高光る 日の御子 諾しこそ 問ひ給へ 真こそに 問ひ給へ  吾こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生むと 未だ聞かず(記 ) (下巻 仁徳条)

4.纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日光る宮 竹の根の 根足る宮 木の根の 根延ふ宮 八百土よし い杵築きまきさの宮 真木栄く 檜の御門 新嘗屋に 生ひ立てる 百足る 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は  鄙を覆へり 上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は 在り衣の 三重の子が 捧がせる 瑞玉盞 浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに 是しも あやに畏し 高光る 日の御子 事の 語り言も 是をば(記 )(下巻 雄略条)

5.倭の 此の高市に 小高る 市の高処 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が葉の 広り坐し 其の花の 照り坐す 高光る 日の御子に 豊御酒 献らせ 事の 語り言も 是をば(記 ) (下巻 雄略条)             

1は東国遠征の帰路の尾張国において、倭建命の贈歌に対し美夜受比売が応じた歌

2は大雀命(仁徳)に対する吉野の国主の歌

3は 雁が卵を産んだ例を尋ねた仁徳天皇の歌に、建内宿禰が応じた歌

4は雄略天皇に対する三重の婇の歌(天語歌)

5は雄略天皇に対する 若日下王の歌(天語歌)である。         


「日の御子」と讃えられるのは、倭建命、仁徳・雄略天皇の三者であり、中でも仁徳・雄略については二度も「日の御子」と讃えられており、『古事記』においてすべての天皇が「日の御子」と讃えられるわけではなく、そのあり方は偏在的ではあるのですが。

今回は「ヤマトタケル」についての考察でありますので、「1」の

高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く 諾な諾な 君待ち難に 我が着せる 襲の裾に 月立たなむよ

の歌について、最初に紹介した「天語歌」と見比べますと

高光る 日の御子」

の部分は共通であり、「纏向の日代の宮」が雄略天皇御代の話ではなく、景行天皇御代の事であるならば、また「ヤマトタケル」が景行天皇の御子であることから考えるに、もしや

纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
八百土よし い築きの宮
真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
こしもあやかしこし 高光る日の御子

事の語る言も 是をば (一〇〇・伊勢国の三重の采女)

の歌は「ヤマトタケル」のことを歌ったのではないかと考えてしまうのです。

上記の歌が天皇に対してのものであるから、「ヤマトタケル」についてではないという考え方については、他4つの歌に見えます様に「日の御子」は天皇に対してしか歌われておりません、という他ありません。

また、話は前後しますが「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)巻第十 国造本紀によれば、伊勢國初代の国造(くにのみやつこ)
古代日本の行政機構において、地方を治める官職の一種。 また、その官職に就いた人のこと。 軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。wikipedia

は下図のように



橿原ノ朝以天降天牟久怒ノ命ノ孫 天ノ日鷲 令勅定賜國造

天日鷲命」が国造を賜っているのです。

んでもって、これは何度も出してるんで、恐縮ですが「天日鷲命」は少なくとも六人はいたと考えられますので、その伝から言えばこの伊勢国造である「天日鷲命」は六代目かな、などと考えてしまいます。


また、「ヤマトタケル」と忌部との関係を訝しがる方もいらっしゃるかもしれませんが
例えば下野国鷲宮神社。


公式サイトの由緒を確認してみますと

御由緒
都賀町家中の総鎮守として、また「お酉様」として親しまれております鷲宮神社は伝えられるところによれば大同3年(808)の創建で、最初は思川の側にありましたが再三の洪水の為、朱雀天皇承平元年(931)現在の地に遷宮したとされています。

御祭神の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は別名を天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)と申し、阿波(徳島県)忌部(いんべ)氏の遠い祖先で楮(こうぞ)や麻(あさ)を植えて製紙・紡績の業を興し、皇祖天照大御神(こうそあまてらすおおみかみ)が天磐屋(あめのいわや)に御隠れになった時、白和幣(しろにぎたえ)を作り神々と共に祈祷せられ、磐戸開きに大きな功績をあげられた神様です。

その後、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際に東国治定や開発の為、日本武尊と共に三浦半島を経て船で安房国(千葉県)に移って来た忌部氏が、利根川を上るようにして東国を開発していくのに伴い、天日鷲命も広く祀られていきました。


また「酉の市」起源発祥と言われる「浅草鷲神社(あさくさおおとりじんじゃ)の由緒にも


由緒
古来この地に天日鷲命が祀られており、その神社に日本武尊が東征の折に戦勝を祈願したと伝えられている。実際には隣接する長国寺に祀られていた鷲宮に始まると言われるが、当社は、江戸時代中期から酉の市で知られ、東京都足立区の大鷲神社の「おおとり」に対し、当社は、鷲神社は「しんとり」と称された。その後、明治初年の神仏分離に伴い、長国寺から独立し鷲神社となった。

とあり、なんらかの形で「ヤマトタケル」と「天日鷲命」あるいは忌部氏と関わりがあったことが窺えるのです。

それにしても、決定的な史料は見出せませず、あくまで状況証拠ではありますが、かなりいい線いってるのかなと思ったり(笑)

誤解を恐れずに持論を書けば、海部と関わりのある「ある姫」を伊勢に移したのは忌部、その功績により、あるいは「その姫」を永劫お守りするために「伊勢国造」を賜ったのが「天日鷲命」ではないかと...

そして海部(あまべ)は息長氏の系譜である日本武尊(やまとたけるのみこと)を「天語歌(あまがたりうた)」として語り継いだ...

伊勢の海部と阿波との関係は、知る人ぞ知る共通点があり、例えば


とか、伊勢志摩方言の一覧を見ると、いくらでも出てくるんです。
順不同でいくらか紹介しますと











「ももぐる」が出てくるとは...

というわけで、ちょっと横道に逸れてしまいました。
次回は東国の「ヤマトタケル」について...かな。
続く


2021年3月6日土曜日

追悼

阿波古代史における在野研究者の重鎮、M氏が二月逝去されました。

謹んで心からご冥福をお祈り申し上げます。

まず、阿波國の「在野」古代史研究家というのは因果なもので、その解釈であるとか、研究の方法論については、本当に独自のメソッドを貫いているのが当たり前になっているんです。

なんで、そこからそんな結論が出てくるのか?

と、言いたくなる様な方法論があちらこちらにみられるのですが(お前のことだよって?はい、仰る通りです)、M氏についても最初は「その手」の方法かなと、思ってた時期もありました。

が、この研究資料と発表をみた方もいらっしゃると思いますが、フィールドワークを含む、この調査は、想像を絶する内容が記載されておりました。

この調査は以後の氏の研究のベースとなったものだと思います。


阿波國における古(いにしえ)には某超有名神社の神職を務めていた系譜の某家の祭祀についてが調査内容となっております。


「霊部」と書いて「もののべ」と読む。
「もの」とは「霊」のことであるという内容から始まり、物部氏の出自にまで言及した、驚愕の調査内容なのです。


M氏無き今、私はその内容を開示することも解釈することもいたしません。
それはM氏にしか許されないことであるからです。
これも、詳しくは説明できない内容であります。


ただ、某社に伝わるのと全く同じ内容の祭祀方法と、さらに根元につながる祭祀が阿波國に伝わっていることは明確に示されております。


それは、繰り返し行われていた、氏の講義の端々に現れておりましたが、何人の方が気に留めていたでしょうか。


もう一度繰り返しますが、私はこの件について更なる資料の開示はいたしません。
関係者の方々は氏の講座の時に十分にお聞きになり理解されているものと思うからです。
なので、私の解釈も示しません。
氏とは方法論も解釈も違っているからです。
これは、誰が正しいとか違っているとかいう話ではないのです。
根元へのアプローチ方法が根本から違うのです。

ただ、某日、某所に集まった数人については、確かに
「同じ月を見ていた」
のです。
群盲であったかも分かりませんが、少なくとも「同じ象」を撫でていたのです。

Mさん、楽しかったですね。

多忙を言い訳にせず、もっとやっとけば良かったですね。

でもMさん、あれはやっぱり違ってると思いますよ、また説明しますから(笑)。


2021年2月18日木曜日

轟城の記

すっごい昔になりますが
石井町 轟神社
って記事を書いたことがありまして、この記事の書き方が「轟城」と「轟神社」を完全に混同しておりましたので、改めて書き直してみましょう、というお話なのです。

まず、正確な場所なのですが、下図の場所が「そこ」。
その下の写真が「その場所」であるわけなのです。




で、古文書に記された轟城としては『阿州古戦記』に記されるところの「轟城夜討」が有名であるのでして

天正十年(1582年)七月三日夜、長宗我部家臣北村閑斎、野中三郎左衛門池田肥後守ら三千の兵が轟城を攻める。正次は援軍二千余の側面攻撃と同時に城を出て、五十余騎で突撃。長宗我部勢は正面、側面からの攻撃により三百余名を討たれ、撤退。この合戦を「轟の夜戦」と云う。天正十年八月、長宗我部家に攻められ落城。

とあります。
そこここの史料を羅列いたしますれば

 ①『阿波志』の記事 轟在下浦村北臨河水南面諸山藤原正次拠此天正十年陥今為民居
 ②『井蛙堂蔵』 轟城 近藤勘右衛門藤原正次紋三ツ引添文字高千石 片の丸同孫太郎正行
 ③『阿波国一巻古城の部』轟城 下浦轟の城主近藤勘右衛門尉正次、子孫太郎正行、太田文云紋□、三好大状記云、近藤殿、藤原氏、紋三ツ引、添紋一文字、馬印幕紋四ツ戈、名乗忠久、一家八人、牛牧殿同前也。

 ④『古事雑記』 古城地轟の城、旧地小名轟にて城屋敷と言ふ所の地は北の手は西より東へ飯尾川流れ、元来此川諏訪の前筋よりの行通りにて此地北筋は半丁計も尚北を流れ居たりしを、轟の城要害の為にとて態々南へ掘込み水を引きたるより今 斯くの如しとなり、右川岸の地は大籔行廻り、実に一城の遺跡とは地姿に顕然たり、光南の手に至りては如何にしてありけ ん、之れぞと見ゆる構の形も存せず、されど右三方の地は城地たりし事勿論の義と見え、其上小名及び畠地の字、且又古老の伝説にも当所前の城主こそ近藤勘左衛門正次なりとは正しく言伝えたり、尚又此城地の西の手に国実村へ通する道ありて 爰に橋を渡したり、之れをば「御所の瀬の橋」といふ、されど件の城の辺なりとて御所とは更に言ふべくもあらず、しかの みならず是等の地よりして南へ至るに二、三丁四方の地は壱居の備ある所にして、且掘廻りありて之れをば外堀と言ふより 爰なる小名ともなれり、斯て右地東隣は高瀬某の居城地蹟、西隣は田村某の居城せし地なれども、何れも其構根元小さくし て西なる城の外堀と見る時は、其構不相応に広く、高瀬某の掘と見るには余りに近く、外堀とは言ふべくもあらず、何れ此 地は永禄・元亀の年、此等より当村に居住せし如き小身の居地とも覚へずなん、扱又件の外堀より却に当りて是又二、三丁 計の地なる山辺に、一間半四方計りにて高さ六尺計に築上たる芝渡りの塚あり、之れを旧来御墓と唱へ来れり、此称凡人の 言ひたらんこと甚覚束なく、ただ尋常の称ならざる御所かたがたに付て思へば、当村及び石井村にも数々王子権現と言ふ社 あるにも近くありせば、承久年間なる土御門院行在所なりけるにや、さにあらずとも中人以上なる人の在居なりけん、扱 亦、外堀に落来る水源、小見山谷と言ふより、彼の御墓の山裾に至り、是より山路を東へと渡りけん水を、左右に堤を構へ 態々外堀に引きたるなり、斯て此水脈垂れる所、凡てにはあらずして唯々外堀と言ふ所のみ、古へよりして今に到るまで姪の子を産むこと絶てなきも一つの奇異なり。

⑤轟の隠居城
轟の隠居城と言ひ伝へたる地、滝宮牛頭天王社地山の西に隣れる尾筋の下にあり、芝折とて其幅一間半計もやありなん、地築立る壇上の如く態々平にせし地と見へ、今は無用の地なりとて葬式等いとなみ、且、近来墓所とはなれりける。

⑥阿州轟城夜討
天正九年秋九月、土佐かたの兵一宮より出て、轟の城を攻んとす、兵将には土州西寺の堅済、池田肥前守、野口三郎左衛門なり、城主は三好家近藤勘右衛門尉正次、同孫太郎正行、其外氏族名を得たる武士五十余騎、惣兵三百余盾籠ける、此城は地勢堅固にして、多兵といへども囲みかたき要地也、北は川、南は山、順を切立屏風の如くなる切岸なり、 其上岩石けはしくそはへて、足たまりもなき所也、然るを南の山手より取寄て大寺、堅済、池田、野口を大将として、一宮 、より大兵を以て相臨む、勝瑞より後詰として、存保みつから二千余兵を以て、延明の山より尾つたひに、東の峯に諸勢を打上、谷越に鉄砲を打かくる、漸く日も暮ぬれは、土州勢も互に挑み戦て、陣屋を取固め、終に戦に疲たり、然る所に城中の 兵五十余人すくりて、手足達者を指出し、夜軍かくる他矢なく射ければ、土佐勢三千余人、大に驚き騒て、取合さんとする 所を射るほどに、百人許射ふす、五十人の者共、鯨波を揚れは、東の峯より同音に鬨を作り山河一同に崩るる計鳴りわたれ ば、攻手の多兵乱立て、敵を拒く方術もなく、少兵追立られて、嶽より崩落て死する者もあり、敵に遇て死する者もあり、□死凡三百人と也、攻手破て退ければ、存保も城兵を加へ、用心して勝瑞に帰陣す。(『阿州古戦記』) 

⑦轟城古文書写 (近藤氏蔵)
藤原家抑々右大臣藤原□□従弟近藤六鎌田隼人両人源氏に従ふ源義経大将当国勝浦郡へ下向なされ、平家の逆族を目指して川岸を数度渡り漸く彼の麓に行き山に登り給ひしに行 き暮れ陣所へ一宿有て味方の勢を見給うに勢夥敷見え給い大将不思議に被思召則ち鎌田隼 人、坂西近藤六両人を被召被仰様者は「逆族無之哉味方の軍勢を改め見よ」と有ければ慎 んで両人申けるは「当なき改めもの也如何いたして宜敷哉窺ひ奉る」と申ければ大将宣ふ には「味方の軍勢にはAの下紐に小鈴を付け有り是を目当に被改よ」と有りければ猶予な く改めしに程無く逆族数多顕れ出で逃げ散らんとする処大要不洩さす討留む大将御感不浅大悦に被思召併し乍この度国の帝都に平家の逆族在りと知り 「是より双士は引返し帝都に止り守護せよ」との命に依り則 ち鎌田隼人は名西一楽郷に乗り込み又坂西近藤六は轟の御所 に二手に分れ尋入すれども更に一士も敵対ものも無之居城し 坂西近藤六藤原の近家と号す源義経退出の交流人と相成り其 れ己来る孫之者先祖の名近藤六豊後守と相名乗り流人住居 に暮す時に男子なくして一宮城主小笠原家の三男相続に来り て近藤六藤右衛門藤原正興と号す正興子近藤勘右衛門尉藤 原正次と号す三好長春に見出し預り城主に被居銀高三百貫を 賜う先に藤右衛門鎮守八幡宮にならべ祀り来る元祖近家己来 代々の先祖を轟棋権現と合せ祭り之有るに勘右衛門代に当り て不思議ありて東の丸にうつし奉る故に廟所の事也と写し置かれ天正惣乱之比落城に及ぶといへとも一に先祖之流礼に近藤六藤右衛門尉正興近藤勘右衛門正次此両祖轟祇権現に近藤図書合祭り置もの也


等々、の史料が散見されますのですが、武将名などで詳しく書き残されているのが「三好記」でして、ちょっと長いのですが転記しておきます。
あ、出所は「群書類従」でありますです。(画像は一部)




轟之城夜軍之事

轟ノ城、近藤勘右衛門尉正次。同孫太郎正行。其外同名親類。名ヲ得シ兵五十餘騎楯籠テ居タリ。此城ト申ハ。北ハ川。南ハ山ノ岨ヲ。屏風ヲ立テタル如ク。數十丸切立タル切岸也。其上 岩石鹸クソビエテ。懸引自在ナラザル處二。一ノ宮ヨリ土州ノ西寺ノ堅済。池内肥前守。野中三郎左衛門尉フ大將ニテ。一千餘南ノ山手ヨリ取卷タリ。

勝瑞ヨリ存保公轟ノ城へ為ニ加勢ト二千餘騎ニテ延明ノ山ヨリ尾傳ヒニ。存保公東ノ峯ニ諸勢ヲ打チ上。谷ヲ隔テ。矢合ノ鉄炮軍ヲシ給ケル。漸夕陽傾キ。已ニ暗夜ニ成ケレハ。土佐勢互ニ挑合テ陣取堅メタル處へ。城中守。赤澤入道宗傳。赤澤鹿之丞。西條益大輔。馬詰三四郎。岡甚之丞。七條孫次郎。坂東肥後守。弟五郎右衛門。三好何右衛門。竹內笹大輔。大代內匠。姬田甚左衛門。野本左近。長鹽六之進。北原右近。大寺松大輔。近藤內藏助。野中玄番。香美馬之進。光富新左衛門。堀江藤大輔。佐藤久右衛門。安養寺左馬ノ助。瀬部喜右衛門。原田久左衛門。高志右近。清久三之丞。內藤助大輔。奈良太郎兵衛。片山岸右衛門。角田平右衛門。飯尾善ノ丞。智惠嶋源次兵衛。乘嶋入道來心。甘利奥右衛門。白鳥左近。高畠宇右衛門。飯田半右衛門。弟十拾大輔。田村盤右衛門。鎌田九馬右右衛門。鈴江新兵衛。古川龜右衛門。粟飯原平ノ丞。 石川六之進。櫛淵左近。湯淺豐後守。新居川洲右衛門。宇奈瀨龜之進。芥河兵庫。四ノ宮外記。由木善左衛門。古津竹右衛門中庄主膳。延野兵衛ノ進。其外名ヲ得シ勇士クッキャウノ侍三百餘一騎討死シケレハ。存保公モ討死シ給イントテ。

先陣近ク押寄セ給ヒケルヲ。家臣東村備後守ト云老功ノ兵進ミ出テ申ケルハ。敵ノ進ム時ハ其勢ヲ拔ス事。是レ太公カ兵道ノ秘術二テ候。又長 良ガ兵書モ見ル其ノ虚ナルハ則進。見其實則止ト云リ。敵今實也。先進ム敵ノ勢ヲ御抜カシ候得ト。再三理ヲ盡シテ申ケレハ。存保公此義ニ同シ給ヒ。靜ニ人數ヲクリ引ニ勝瑞ヘゾ被引ケル。

元親モ静ニ跡ヲ被レ付ケシガ。二万餘騎ノ兵ニ中飯ヲ調サセ。夕景ニ勝瑞へ被寄ケル。勝瑞ノ城ト申ハ。墓々敷堀ヲモホラズ。僅ニ屏一重バカリ塗テ。方一二町ニハ不過。其內ニ櫓十四五程掻雙ヘタリ。僅ニ五千餘騎ノ小勢ニテ大敵ヲモ不恐。誰ヲ頼ムトモナク防ギ戰給ケル。存保公ノ心ノ程コソ不敵ナレ。家臣木村新之尉。近光勝瑞ノ在家二火ヲ付。一宇モ不殘焼排ヒ。城中靜マリ返テ居タリ元親ハ勝瑞ノ在家ヨリ北ナル龍音寺ニ本陣ヲ堅メ士卒、在家ノ焼跡ニ陣ヲ取テ居タル處ニ。九月五日。日已ニ西山ニ際ナントスル時。俄ニ天カキ曇リ。風吹キ雨降事車軸ノ如シ。雷ノ鳴事山ヲ崩スカ如シ。寄手是ニ恐レ騒テ。爰彼ノ木ノ陰ニ立寄群リ居タル處ニ洪水出來テ。 忽ニ梢ヲ浸シ。或ハ牛馬數ヲ盡シテ流拾リ。

或ハ近邊ノ民屋流出タリケレバ。土佐勢失為方テ。森林ノ梢ニ昇リ。或ハ民屋 ニ上リ居ル處ニ。森志摩守方ヨリ存保公ノ城中思仕不寄處へ。兵粮米數十俵小舟數多ニ積テ入。柿原三五義長ト云侍三好家ノ恩愛ヲ不忘シテ。玉薬一廉入タリケレハ。籠城ノ兵共龍地ノ黒雲に飛翔スル如ク。勢強ツテ各舟取乘リ。寄手梢ニ居ヲ。舟ニテ行キ。下ヨリ突殺シ。或ハ民屋ニ上リ居ヲ射殺ス 事其數ヲ不知。寄手忍エ兼テ。急ギアツカイヲ入テ和談ッタリ。

元親モ陣ラ被引存保公モ城ズ被明讃州へ立退給フ。 篠原自遁モ 木津ノ山ヲ立退キ。淡州へ渡海シタリケレハ。則木津ニハ元親ヨリ城ヲ構ヘテ。 東條紀伊守カ甥。東條關之兵衛ヲ被置。關之兵衛カ人質トシテ。弟東條唯右衛門ハ土州へ遣ハシ置。渭ノ山ノ城ニハ吉田孫左衛門尉康俊ヲ被置。一ノ宮城ヲハ江村孫右衛門尉 親俊ニ令守。脇ノ城二ハ元親ノ甥長會加部新右衛門尉 親吉ヲスエ。大西白地ノ城ニハ。中內善助ヲ置。富岡ノ城ニハ元親ノ弟長曾加部內記亮親康ヲ被居。海部鞆ノ城ニハ。田中市之助政吉ヲ置ル。何モ用害堅メテゾ守護シタリ。

誤字、脱字は「やさしく」ご指摘ください。
最近(昔から)メンタル弱いんです。

で、下写真が、「轟神社」というわけです。




おまけ

近藤勘右衛門尉正次の弟である孫太郎正行の居城「片の丸城」が「轟城」の60メートルほど西にあったことも記録に残っております。(下図)




2021年1月1日金曜日

「ヤマトタケル」って誰?(5)

うにゃー、グダグダしてる間に年を越して2021年となってしまいました。

とりあえずは、新年明けましておめでとうございます。

「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)
「ヤマトタケル」って誰?(3)
「ヤマトタケル」って誰?(4)

もう忘れてるでしょうが、前回では「ヤマトタケル」の御子であると伝えられる「息長田別命」は「阿波真人広純」ではなかったか、との説を書かせていただきました。

その真偽はともかくとして、次は「ヤマトタケル」についてはどうなんだ?と考えてみましょう。

「ヤマトタケル」って誰?(3) では

阿波國(古)風土記 逸文(萬葉集註釋 卷第七)

阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。
勝間井と名づくる所以は、昔、
倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。


の一文を紹介させてもらいました。


「ヤマトタケル」自体の存在を疑う説があるのは承知しています。

『古事記』では、倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある。
wikipedia


確かに、古事記に
小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。

とのあらすじを見るにおいて
>倭建(ヤマトタケル)の号を献じた
の記載より「倭建(ヤマトタケル)」は「号」であるため特定の個人ではないという見方もできます。
が、仮にも「倭健天皇命」が、この阿波国を巡幸していたという記録が(古)風土記にある以上、その「誰か」が存在していたことは疑いないと思われるのです。
また「風土記」は官製であり、朝廷に提出するための公式文書であります。
その文書に「倭健天皇命」とは、意図無くしては書かないと思うのですが。

では、「勝間の井」より洗い直してみましょうか。

動画にしちゃったよ

かつて、国府町観音寺には「勝間井」なるものがあり、その畔には「正等庵」なる庵があり、一枚の板碑があったと言う。
後藤翁はこう記します。

觀音寺村の舌洗の池といふを勝間井などといへる㕝につきて
此池をかの風土記なる勝間の井なりといへる㕝(こと)は、辨財天・正等庵の縁起に見ゆるぞ、おのが見しはじめなりけり。されどことふみ作りし人の名も、年月もしるされず、また七條(藤原)淸香ぬしの天保十亥年の文あり、その文、板にえりて摺りしものを見たり、されど其文おのれがめには、いかにぞやと見なすところのあなれば、そをいひいでゝ、後の人のかふがへをまたましとて、あげつらふこと左のごとし。もとも名も年月もしるされざるものには、名東郡圖、または、村附舊跡記、抔あり、こは淸香ぬしの文より、後とも前ともうつせしものにあなれば、見わきがたかり。尚つぎつぎたずぬべし。

いわゆる、源義経が屋島に向かう際にこの井の名を村人にたずね、勝間の井と答えたところ、勝間とはよい兆しであると喜び、兵士や馬の口をそそいだとの伝説を紹介しており、元は「したらひの水」であるという話です。
ここが、阿波國(古)風土記に云う「勝間の井」であると書かれております。

この文に対して後藤翁はこう書きます。

そもそも、この淸香といひし人は、いにしへしぬぶ人とは見ながら、其人となりはしらず、世にはあしわざする人もあれば、勝間の井のふるごとを、仙覚大人が万葉集の抄に引用せるにて、めずらしく見いでて、その處をたづねわびしころ、したら井の清けき水と、かの縁起とを見て、おのがたづねわびしころなれば、めづらかには有ながら、かの佛ざまの、例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく、さながらすつるもおしく思へられて、かくしらずがほに、少し巻文をかへ、古老にたくして書きしものと、おのれはおもほゆ、いかにあらん、後の人かふがえさだめてよかし。

うわぁ、強烈な一文でありますこと。
この七條淸香(七條文堂)あるいは藤原淸香という人は板野郡七条村字中村馬立の出身で徳島に出て、名医と云われた人だそうです。国学、和歌を京で学び、「阿波國風土記」の「勝間の井」に興味を持ち調べるほどに、この結論に達したようです。
その淸香を後藤氏は
「世にはあしわざする人もあれば」とか「例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく」とか、きっついですなぁ。
で、この「例のきたなき處よりいでし縁起」なんですが、後藤翁が探し出してきております。なんで「例のきたなき處よりいでし縁起」なのかが分らないし、読んだ限りでは特におかしな縁起でも無さそうなんですがねぇ。
まあ、この観音寺近辺も後藤氏の管轄であったようでいわば所領内のこと、充分すぎるほど知ってる場所なんで、なにか思うところもあったんでしょう。

要は弘仁年中、嵯峨帝の御宇に僧空海がここにどんな旱魃にも涸れることのない井戸を掘り、里人が「渇を」「免れた」ので「渇免(かつま)の井」と呼び、それが「勝間」となったとの大意です。
後は、この地に龍石ありとか、善女龍王を勧請して雨乞いを行なったとか、お決まりの縁起がつらつらと書かれております。
ちょっと気になる箇所もありますが、おおよそは、そんなもんです。
これを見る限りは、古風土記に云う「勝間の井」とは考えづらいところがあり、後藤翁もこれを見て「あーあ」と思ったとか思わなかったとか、ですかね。
どちらにしても、「ここじゃない」と思ったことは確かです。
でも、ここで諦めてはいないんですね。
さらに「勝間の井」が「阿波郡勝命村」にあるとの情報を得ます。
そうですね、勝命村に調査に出かけるのです。

この「勝命村」の「勝間の井」のことは、かの野口年長も知っており、勝命村の隣、大俣村「スケノカタ」にあるのではないかと、考えていたようですが、老齢のため調査に出向くこともできなかったそうです。
この勝命村に勝間の井があるというのは、どうも水戸藩の「大日本史」が出処らしく

香美(今の香美村に、香美原あり、秋月の西南にあり)に勝間井有り。日本武尊、櫛笥を井に遺す、因りて名づく。(仙覚の万葉抄に、阿波風土記を引き、本書に云ふ、俗に櫛笥を謂ひて、勝間と為すと)

からきている様です。
また、応永17年(1410)八月十八日の京都北野天満宮での一切経供養で奉納された「仏説宝雨経」の奥書に
「阿州久千田庄勝間井於善福寺」
の記載が確認されていることより、「勝間井」自体の存在は確実だと思われます。

これは野口年長の「粟の落穂」によれば、勝命の北に当たる現在の市場町大字大俣の「スケノカタ」の泉が「勝間井」だということです。


野口年長「粟の落穂」より部分


まあ、この辺りは以前にも数回に分けて書いたこともあるので、さらっと流しますが。
この伝で言えば、国府町の「勝間井」はホンモノじゃない、ということになるんですが。

で書きました。


国府町中村には「伊勢姨ノ宮」と呼ばれた神社がかつて存在し、御祭神は「倭姫命」であったことが記録として残っております。
「倭姫命」を「姨(おば)」として呼べるのは無論「ヤマトタケル」。
その意味からも「国府町」の「舌洗いの池」こと「勝間井」の実在について信憑性が出てきたことにならないでしょうか。

だいぶ間が空いてしまったので、調子を取り戻せていませんが、次回はこれほどお待たせしないと....
続く