2020年6月17日水曜日

番外:大御和神社

2020年六月五日の徳島新聞朝刊に下の記事が掲載されたことにショックを受けた方も少なからずいらっしゃったと思います。

要は
社殿や社務所の老朽化による雨漏りや、境内樹木の伐採等に年々費用が増し、ここ数年は今まで以上に経費がかさむため、境内地の一部を売却し、売却した資金で社殿及び社務所を新築することとしたとの記事です。

正直なところ境内地の売却に関して、一個人としては、どう考えても賛成できませんが、当事者でない人間が何を言っても詮方ありませんし、神社側、氏子側、双方の話を聴き比べているわけでもなく、裁定できる立場にはありません。
できることは、この状況と「大御和神社」についてワタクシが知っていることを開帳し、皆様の理解の一助とすること程度なのでしょう。
では。

大御和神社(おおみわじんじゃ)
徳島県徳島市国府町府中644



延喜式式内社

創祀年代は不詳である。一説に大和国三輪神社から勧請されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された式内社である。

往古は印鑰(いんやく)大明神と称し、阿波国総社であったとも言われ、一般に「府中宮(こうのみや)」と呼ばれる。明治5年(1872年)に郷社に列し、昭和11年(1936年)に県社に昇格した。

御祭神
大己貴神 大山咋神
延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。
延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。

ちなみに、平安時代に編纂された弘仁格式、貞観格式、延喜格式の三つの格式(律令の補助法令)の総称を三代格式(さんだいきゃくしき)という。
つまり「格」が法律のこと、「式」が神祗の取り決めのことでありまして、「格」と「式」を合わせて「格式が高い」などと使われる様になったそうです(シッタカ)。


御祭神の大己貴神については
「大穴牟遅神・大汝神とも書き、大名持神とも。大国主神の別名」

大山咋神(おおやまくいのかみ)は、日本神話に登場する神。
『古事記』、『先代旧事本紀』「地祇本紀」では大山咋神と表記し、『古事記』では別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と伝える。

程度で「今は」勘弁してください。書き出すと十回でも足りません。




御祭神 大己貴命(大国主命)
延喜式内小社で「府中の宮」と親しまれている。
王朝時代国司政庁が此の地におかれ阿波国古代 の祭政の中枢となり、その国府の鎮守として、 累代国司の崇敬が厚かった社である。
本社は国璽の印及び国庫の鑰を守護せられし 神徳により印鑰大明神とも称したと伝えられる。「印鑰」即ち国司の宮印と諸司の蔵のかぎが紛失せぬように祈り、又神社の中に保管したという。
明治三年大御和神社と奉称し同五年郷社に列せられ昭和十一年県社に昇格した。



十年前の写真ですが、この時点で既に文字の判別が困難となっておりますが、中央あたりに
「四十二代 文武天皇 大宝二年(七〇二年)、當国国司 国璽の印...云々」
と記されているのをどうにか...。

つまり社記によれば、創起は少なくとも「大宝二年(七〇二年)」以前に遡り1300年以上の時を経ていることになろうかと思われます。


ちなみに隣町の石井町にも「大御和神社」があり、同じ鍵の神門となっています。
あるいは境外摂社かとも思いますが、距離が離れすぎています。

詳しくは(詳しくないけど)
あなたの知らない「大御和神社」』をご参照ください。

話を戻しまして
阿波國江戸期のの地誌である「阿波志」の記載を示します。

ちなみに「阿波志」とは
徳島藩の11代藩主蜂須賀治昭は寛政4年(1792年)に、『阿波志』の編集にあたらせるために、お抱え儒学者の佐野山陰(佐野之憲、佐野憲、藤原之憲、藤原憲とも。1751年-1819年。)を「編集御用」に任じた。
佐野は、翌寛政5年(1793年)に、国内の町や村、港に地誌調査を命じた。これにより、各地の官吏や庄屋を通じて諸地の地理や歴史、戸数と人口、田畑の石高や特産品、神社仏閣や名所旧跡に関する情報が収集された。その後、寛政10年(1798年)には佐野自らが各地の巡察を行い、資料の収集も行った。
これらの情報がまとめられ整理されて、藩命から23年後の文化12年(1815年)に全12巻12冊の『阿波志』として完成した  wikipedia



大御和祠
延喜式亦爲小祀在府中村即大巳
貴命今穪府中宮又穪印鑰或曰大
寶二年國司始給鑰囙名非印鑰童子也隣
村共祀其側有天照太神祠土人穪伯母宮

上が明治期の神社紹介絵図、下が現在の神社。
社地は全く変わっていないことが分かっていただけるでしょう。
ちなみに、下は「国府町史料」の大御和神社関連部分。


どうも、「印鑰大明神」は中村に「別に」存在していた様にも見られますが、本題じゃないので微妙にスルー。
で、今回残される社地は「おおよそ」下図程度の様です。
シロートが勝手に線引きしたんで間違ってたらごめんなさい。

もう一つ重要なことは、国府町のこの近辺は「国衙(こくが)」であったことでしょう。
あるいは「国庁(政庁)」であったかもしれませんが、位置が確定されていない現在「国庁」であるとは言い切れませんが、少なくとも「国衙(こくが)」の一部であったことは確実ではないかと思われます。

国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。wikipedia


つまり、各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼ばれた、ということですね。


無論、およそ30回にわたる調査は実施されておりますが、如何せんこの近辺はご存知の通り古い街並みが残り、発掘調査が非常に困難な地区であります。
下図の様な「条里制」による区割りが想定され、その中心部付近に大御和神社が鎮座していることがみられます。

なお、土地勘の理解のため、参考までに国府駅近辺の字名を下図に示します。

国庁の位置は、未だ特定されておりません。

なお、この様な「埋蔵文化財包蔵地(遺跡)」の開発を行う場合には工事着手の60日前までに届出が必要となっています。

上図は、徳島市の「埋蔵文化財包蔵地図」(部分)。

そして、香川県においては「国府跡」は埋蔵文化財センターによる調査により

 「国の史跡」に指定されております。
今年、2020年のことです。
讃岐では国指定の史跡、阿波では売却して宅地?マンション?ってですか。



最後にtwitter上の「大御和神社(府中の宮)を守る会※準備中」アカウントを紹介しておきます。


大御和神社(府中の宮)を守る会※準備中
徳島県徳島市国府町に鎮座する大御和神社(おおみわ神社)は通称、府中の宮神社(こうのみや神社)と呼ばれています。6/5徳島新聞記事にもでましたが、境内の8割が売却と大半のご神木が伐採されようとしています。
5/1に宮司、総代から氏子各位に対して「大御和神社境内地売却及び社殿新築工事について」のお知らせが届きました。
内容としては、社殿や社務所の老朽化による雨漏りや、境内樹木の伐採等に年々費用が増し、ここ数年は今まで以上に経費がかさみ、氏子皆様へのご負担を大きくしていました。
これ以上氏子の皆様にご負担を強いる事は出来ないと、臨時の総代会を数度開催し協議した結果、境内地の一部を売却し、売却した資金で社殿及び社務所を新築することとなりました。
売却額と売却先、2164坪の内400坪を差し引いた面積が売却。売却額を社殿境内新築及び各種事業へ充当。と、記載された内容でした。
一部売却と記載されていましたが、実際は1764坪の8割が売却で一部しか残りません。これは氏子に一切相談がなく総代と宮司で決定されたのです。
5/1にお知らせが届いてから、わずか半月で一台の重機が入り、玉垣には足場が組まれました。近隣住民は、何が起こっているのか分からないというのが現状でした。今のところ工事は進んでいませんが。
現段階では、工事は進んでおりませんが、いつ始まるか分からない状況です。
この1ヶ月間で、宮司・総代に一旦工事を止めて今後の方針についての話し合いをしてきましたが、進展なく今に至ります。
みなさんリツイート、いいねありがとうございます。もうすぐリツイートが100件に到達します。徳島から全国、これだけの人が関心をもってくれていることに、感謝しきれません。まだ始まったばかりですが、これからもどうぞ宜しくお願いします。

とのことです。
よろしければ、リツイートなりお願いいたします。
神社にとっても氏子にとっても、この神社を崇敬する人々にとっても、良い方向に進みますように。