2011年12月3日土曜日

南井上村誌(追記)

前回書きました、南井上村誌の追記です。
井戸寺の写真などがありませんでしたので、今日インフルエンザの予防接種に行った
ついでに撮ってきました。
まともに行っても10分かからずに着きますので単にズボラしてただけですね。(笑)



井戸寺(いどじ)は、徳島県徳島市国府町井戸にある寺院。宗派は真言宗善通寺派。四国八十八箇所霊場の第十七番札所。瑠璃山(るりざん)、真福院(しんぷくいん)と号す。本尊は薬師仏を中心に1体、左右に3体ずつ安置した七仏薬師如来で、聖徳太子作と伝えられている。



寺伝によれば、天武天皇の勅願により673年に創建した妙照寺が前身とされる。伝承では弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩、十二神将、四天王、日光菩薩、月光菩薩を刻んで安置したという。また、その際に土地の人々が水不足で困っていることを知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼ぶようにし、寺号も井戸寺と改めたという。
貞治元年(1362年)細川頼之の兵火に遭い、ついで天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火でも堂宇を焼失、慶長年間(1596年 - 1615年)に徳島藩主蜂須賀氏によって再興に着手され、万治4年(1661年)にようやく本堂が再建となる。また、昭和43年(1968年)には失火により本堂が焼失。幸い本尊は救い出され、3年後に再建された。
これがWikipediaよりの引用です。

ちなみに南井上村誌には
井戸寺は記述の如く天武天皇白鳳二年に御願によって建立されたもので、阿波国最古の寺である。建立当時の本尊は上宮太子(聖徳太子)の彫刻された十二上願如来で、其の御胸間に毘首羯磨(びしゅかつま)作の薬師如来が御坐された。又脇士の日光月光は行基菩薩が刻む所であった。四大天王、不動明王、十一面観世音は弘法大師の厳作を安置され、七堂伽藍、輪奐の美を誇ったが兵火の為に一部を焼かれ、嘉永年間桜間城にあった阿波国の豪族田口成良これを修理した。
これから百六十年余を経た天文十二年、僧芥誠は勧進となって井戸寺の復興に当たった。塙保己一が著した群書類従にはこの当時の勧進帳が収録されている。天保取調書には辨才天社に復興に当り先に埋め置いた多くの仏像を掘出したと記されている。

以下略

と記されております。白鳳二年は寺社縁起に照らせば673年頃。
この頃、田舎の(あえてこう書きますが)寺に聖徳太子御作の御本尊、行基菩薩作の日光月光、空海作の十一面観世音像が納められ、寺自体は御願、つまり勅願寺、天皇の勅により築かれた寺なのです。
さらには天武天皇勅願の井戸妙照寺の比定ではないかの説もあり、それならば時期的にも合いますが、天武天皇即位が673年頃なので即位して真っ先に行なったかのような感じすら受けてしまいます。
また、妙照寺は和田村、井戸村全てを含むほどの寺領を持った巨刹でありました。
現在の井戸寺は、そのほんの一部ということです。

でねぇ、「毘首羯磨(びしゅかつま)作の薬師如来」ってあるでしょ。
毘首羯磨はインドの伝説の名工で、空海が唐に渡った時に毘首羯磨作の仏像を何体か持って帰ったと言う代物なんです。
ここはさすがに疑っちゃうんですが。(笑)
これは井戸寺に立てられてました縁起。
あ、ここのも673年って書いてあるから、これでいいんですね。
ただし、南井上村誌には「おもかげ井戸」を空海が一夜で掘ったなんて事は「全く」
書いてございません。(笑)



では、その「おもかげの井戸」と言いますか「日限大師」を。
由来と一緒に出しておきますが。
前回から書いてますように、これは弘法大師空海が一夜で掘った井戸ではありません。
水をのぞいて姿が映れば無病息災であるが、映らない場合は3年以内に不幸があるという
伝説もいわれがありません。
ここは山幸彦と豊玉姫が出会った、桂の木の傍らに掘られていた井戸なのです。
空海が掘ってもいいですけど、勅願寺を立てる時に、水が悪い地元の人のために掘ったなんて理由をつけなくてもいいんじゃないですか?

村誌にもありましたように
「古事を追慕さるる大師が由緒深き霊井に御姿をうつされ
以て俗人共に神代ながらの神聖さ正しさを保てと訓えられた」
その井戸なのですよ。

だ〜から、お遍路のみなさーん、八十八箇所巡りはスタンプラリーじゃないんですよ〜。
由来とか由緒とか少しは調べてから来てね〜。
面白いんだから。


8 件のコメント:

  1. きよっさん2011年12月4日 7:55

    ぐーたらさん、おはようございます。
    以前の入田村史といい今回の南井上村史といい、読んでみると驚かされるばかりですね。本当の由来を知らない徳島県人が多いのが悔やまれますね。
    もうこの際、ぐーたらさんが阿波の村史を網羅して解釈も付け加えてガイドブックを出版してもいいんじゃないかと⁉ (ってか自分が読みたいだけですけど…。(笑))
    もちろん、その時は気延山の栗拾いマップは付録でお願いします。(笑)

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  2. 伊古彦麒麟2011年12月4日 8:56

    ぐーたら先生。おはようございます。(ぺこり)
    いや~。ためになりました。(笑)
    もう先生の使命はあきらかになりましたね。
    「間違った記録を元通りに復元し整備活動を命じる」
    って、何処かのお役所から一筆頂戴し、
    寺社の総代住職に真実を教えて歩くこと。
    ついでに中津峰山に関することも調べて頂けると
    うれしいんですが・・・・。
    首をなが~くしてお待ちしていますよ。(笑)

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  3. to きよっさん
    ちょっと舌足らずの記事でした。
    けど
    聖徳太子作の七仏薬師如来
    毘首羯磨作の薬師如来
    行基菩薩作の日光月光菩薩
    弘法大師作の四大天王、不動明王、十一面観世音
    そして天武天皇ご即位直後の勅命
    井戸村の由来なんて全く違ってますしね。
    これで、なーんも感じない奴がいたら、小一時間説教ですね(笑)

    栗拾いマップはナイショ(笑笑笑)

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  4. to 伊古彦麒麟 さん

    面影をうつしてみれば井戸の水 結べば胸のあかやおちなん

    空海の言う「おもかげ」がまさに解ってしまいました。
    なかなか一度思い込んだことは改められませんよね。
    (ねえ総代住職様方)
    中津峰山はイコピコさんに残しておかなくちゃねえ(笑)
    いや、調べますけど。
    ところで、八万町法花谷の天満神社はこわいですね。
    イコピコさんがちらっと書いてましたので前まで覗きに行きましたが
    雰囲気が怖くて帰って来ちゃいました(笑)いやホント。

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  5. 伊古彦麒麟2011年12月4日 16:35

    ええっ?そばまで行って帰ってきたと・・・。
    私は最近の映像を楽しみにしていましたのに。
    いやね。あそこの神社の園瀬川寄りには、洞窟
    があって・・。大きな石組みの地下用水路があったのです。
    好奇心旺盛だった伊古彦少年は奥の方まで行こうと
    考えたのですが・・・。
    何が云いたいのかというと、あの小さな丘は、
    歴史的に新しいのではないか?何かを埋めて
    隠したんじゃないかって考えたわけです。
    近くの潜水橋(軽自動車が通れるくらいか)を
    渡ったところに、木綿の晒し屋がありました。
    今は喫茶店に変わっていますが、中富姓(中臣氏)
    であり、歴史的な妄想欲をかき立てられる地域
    なんですよ。

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  6. to 伊古彦麒麟さん
    だってぇ~(笑)
    前は通ったんですよ。
    車はちょっと離れたところなら置けそうだったし。
    でも、その時背筋に寒気が走ったんですよ、いやホント。
    ボクはそんなの苦手だから(笑)もう一目散。
    風邪の引き始めかな?いやいや。
    なんかよくわからなかったですけど、今度は善き日を選んで行ってみますので、期待しないで待っててね。

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  7. 白鳳2(673)年なら白村江の敗戦からやっと10年で壬申の乱の翌年。どこにも余裕なんてありゃしない時期ですよね。都はココにあったのなら理解できます。曽我氏神社も遠くないし...。
    この気延山一帯はすべて掘り起こしてみるべきですね。いったい何が出てくるやら。

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  8. to ALI爺さん
    そうです。
    壬申の乱の翌年ですよね。
    普通なら阿波くんだりまで意が及ぶはずも無い時期ですね。
    その時期に妙照寺、童学寺と巨刹を勅願で建立。
    (童学寺は私寺との説もありますが入田瓦窯跡が私設とは考えられないので童学寺もやはり勅願でしょう)
    ふつ〜では考えられないと思いますよね(笑)

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