2014年4月27日日曜日

阿波市土成町 薬王子神社(奇玉神社)

腰が痛かったので(笑)極力フラットな場所を探して行って参りました。
(家で安静にしてろって?ごもっともですが、寝込んでたら鬱で鬱で死んじゃいます)
で行ってきたのが

薬王子神社(奇玉神社)
阿波市土成町浦池字西宮64
場所はここです。


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御祭神 大己貴(おほなむち)命 徳島県神社誌
    大己貴(おほなむち)命 少彦名命  土成町史


由緒は
承和年間(834-847)山田阿波介古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築く際に祝祭したと言い伝えている。一名薬王権現とも云い疫病流行の際、祈願して、霊験あらたかであったとも云う。又、池の守護神とも尊崇し、大池の西にあるので「西の宮」とも呼んでいる。
徳島県神社誌

で、「薬王子」と言えば、当然日和佐の四国八十八箇所霊場の第二十三番札所「薬王寺」を思い浮かべる訳なんですが...
「土成村史」を見てみますれば、「浦池」の項に「池邊に昔熊谷直實の創建と傅うる蓮生寺及び薬王寺の奥の院の稱ある薬王権現(奇魂神社または西宮明神ともいう)の祠等があって...云々)とありまして、なんと薬王寺の奥の院であると言うではありませんか。
さらに、さらに阿波学会研究紀要を繙いて(ひもといて)みますれば

薬王子神社
 浦ノ池の氏神で「西の宮」とも呼ばれる。神社の起源は古く、伝承によると、承和(9世紀)の昔、阿波の国司としてやってきた山田古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築いた時に祝祭した。この神は疲病流行の時祈願すると効験あらたかで、「薬王権現」と称されていた。明治元年奇玉(くすたま)神社と改め、更に明治100年に当たり薬王子神社と改めた。神社には古い棟札が残され、現在の社殿は嘉永元年(1847)のものである。
 この薬王権現は、日和佐の薬王寺のもとで、こちらではやらないので日和佐へもっていった。厄除けはこちらが本家と宣伝をしたのが効いたのか、10月の祭礼には多くの参拝客が訪ずれるようになった。

な〜んだ日和佐の二十三番札所「薬王寺」の元社だったんですね〜。
寺なんで元社って言い方はおかしいですけどね(笑)
確かにこちらの由来には「薬王」とありますね。
改築記念碑は「薬王」ですけどね。

「薬王寺」の寺伝によれば、
神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願により行基が創建したという。弘仁6年(815年)には平城上皇の勅命によって空海(弘法大師)が本尊として薬師如来を彫り再興したとされる。
ですので「薬王子神社」の
承和年間(834-847)山田阿波介古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築く際に祝祭したと言い伝えている。
と時代が合わないと仰るかもしれませんが、
山田阿波介古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築く際に祝祭した
のであって、それ以前になかったわけではないのです。

さて、 山田阿波介古嗣(ふるつぐ)が築いた「浦之池」には碑がありまして
「浦之池は、別名大池・御池または万代池といわれている。
 承和十六年(846)国司として赴任したてきた山田阿波介宿彌古嗣が、承和年間(847年頃)干害で困っているこの地に築いたと伝えられている。一説には昔地震にあい、陥没して池になったともいわれているが、陥没地を利用して池としたものとも考えられる。面積は、1.929ヘクタールで、当初は堤がなかったが、明治維新の頃堤を築いたといわれている。水深は約1.8メートルで、古来から水が湧出して枯渇することがなかったといわれている。
 しかし、現在は池も築造当時より小さく土砂で埋まって水深も浅くなり、水の湧出も少なくなっている。
  平成元年十二月  土成町」
と刻まれております。
 山田阿波介宿彌古嗣については阿波国司だったにもかかわらず詳しい事が伝わっておりません。
「前賢故實」に少し載っていましたが(顔がわかんない)
山田宿禰古嗣。天性篤孝,廉謹寡言。
 幼喪母,敬事從母。嘗讀韓詩外傳,至於「樹欲靜而風不止,子欲養而親不待。」流涕不禁,卷帙為之沾濡。後遭父喪,哀毀過禮。歷任陸奧按察使,為大外記。公卿因薦以備顧問。古嗣好推獎文士,多見舉用。
 承和中,累進從五位下阿波介,著政績。初阿波多旱災,古嗣蒞任,築塘蓄水,以備灌溉。民賴其利。
 仁壽中,卒。年五十六。
 賦秋雨 【經國集 154】
秋雨正滂沛 旬朝麗玉堂 花濃藂發越 鷰度石飛翔
已濯蘭林佩 更霑薰草香 迎風散斜影 清暑送浮涼
似露飄長樂 如塵拂建章 長年無破塊 崇德詠時康

とある程度。
ちなみに
山田氏(山田造・山田宿禰)は中国系渡来氏族。周朝の第23代王霊王の子孫で、王昶の後裔とされる。
とあるのは、ちょっと面白いと思いませんか?
(思わない?はい、すいません)

そして
山田 古嗣(やまた の ふるつぐ、延暦17年(798年) - 仁寿3年12月21日(854年1月24日))は、平安時代初期の貴族。姓は造のち宿禰。越後介・山田益人の長男。官位は従五位上・相模権介。
能吏として知られ、内記・外記を歴任して文筆をもって朝廷に仕えたのち、地方官としても治績を挙げた。『日本後紀』の編纂にも携わっている。
とあるのがWikipedia。

また
承和13年(846年)阿波介として地方官に転じる。同国の阿波郡・美馬郡は、常に旱魃に悩まされていたが、古嗣はため池と用水を築造する灌漑事業を成し遂げ、その仁政と能力の高さから広く名声を得た。現存する浦池(徳島県吉野川市(旧土成町)内)と古池(徳島県三好市(旧池田町)内)は、古嗣が築造したとの伝承が残っている。
とも記載されております。

という訳で、北方の人は厄よけならこちらが近いですよってとこですね。
(ちょっとちがうかな(笑))
さて、貼ってた湿布の効き目が切れたので、薬局に寄って帰りますかね....
と。

2014年4月6日日曜日

善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(訂正と追記)

善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(2)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(3)END
についての訂正と追記です。

まず「善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)
そして、この善入寺島(粟島)には古来独特の風習があり、葬儀の際には墓を作らずに極楽壙(ごくらくこう)と呼ばれる穴に被葬者を投げ入れるというものです。
この風習については、阿波國最初の歴史書である「阿府志」
 極楽壙
 在宮島八幡祠 北方六七歩、篠竹環生
 この村古朴葬不要 浮屠(ふと)無 塚墓死者皆
 投葬
 于此
との記載があります。

と書きましたが「阿府志」ではなく「阿波誌」の誤りです。
訂正いたします。

続いて追記ですが、まず外に阿波咩(あわめ)命が祀られている神社として、市場町の粟島神社を挙げる事ができます。(猫麻呂さんのご指摘)



ご祭神は「天津羽命(あまつはねのみこと)」すなわち「阿波咩命」のことです。
また「阿波波神」とか「阿波神」と呼ばれる事もあります。
もう一つ、「阿波咩命」が「事代主命」の本后である関係からかどうかは定かではないですが、鹿児島県肝属郡肝付町の「西宮神社」に「事代主命」と共に祀られております。

摂津国西宮大神の示現とありますので「あの」西宮神社からの勧請なんでしょうが、ならば、この「阿波咩命」はどこから?
なんて考えませんか?
そうです、単純に「事代主命」は阿波から赴いたと考えれば何の矛盾も起こらないのです(笑)「事代主命」は阿波から摂津へ、伊豆諸島へ、安房へ、「阿波咩命」を連れて赴いているのです。
何度も書いてる事ですが、「事代主」は役職名です。そして「阿波咩」も、もしかしたら事代主命の本后のポジションの事を示すのではないでしょうか。
で、ちょっと笑ってしまったのが善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(3)ENDで東京都神津島の「阿波命神社」を調べていたときです。
ここについての資料としては「伊豆三嶋大明神由緒」とか「事代主神事蹟考」とかあるんですが「事代主神事蹟考」の付録に三宅神(「事代主命」のこと)が当初、三宅島阿古に上陸し后八柱を娶り二十七柱の御子神を設けた、いわゆる「三宅島の事代主」の系図がありまして。
これを見ると
「はぶの大后」からはじまり「長濱の御前」がいわゆる「阿波神」(阿波咩命)である事が記載され(赤傍線部分).....
八柱の后の呼び名とその御子の名前が記され.....
最後の八柱目の后の
 最後八柱目、言ってみれば最後の最後の御子の名が....
徳島県民ならきっと笑えるところでしょう。
と言うか、関東の方にこの意味は分らないんじゃないかと思いますが。
こんな名は阿波出身以外では決して付けられないでしょう。
これがどういう事かを考えてほしいなぁって思います。

と、いう訳で「訂正と追記」お開きとさせていただきます。
うすうす感づいていると思われますが、「伊豆三嶋大社御祭神」の出自が阿波である事と「阿波咩命」については別に書こうかなと思っておりますが、すぐ書いてしまってはブログ名に偽り有りとなってしまいますので(笑)そのうち、としておいて下さいませ(笑)
(いやこれだけ書くのも2年越しなのよ〜)