2021年1月1日金曜日

「ヤマトタケル」って誰?(5)

うにゃー、グダグダしてる間に年を越して2021年となってしまいました。

とりあえずは、新年明けましておめでとうございます。

「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)
「ヤマトタケル」って誰?(3)
「ヤマトタケル」って誰?(4)

もう忘れてるでしょうが、前回では「ヤマトタケル」の御子であると伝えられる「息長田別命」は「阿波真人広純」ではなかったか、との説を書かせていただきました。

その真偽はともかくとして、次は「ヤマトタケル」についてはどうなんだ?と考えてみましょう。

「ヤマトタケル」って誰?(3) では

阿波國(古)風土記 逸文(萬葉集註釋 卷第七)

阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。
勝間井と名づくる所以は、昔、
倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。


の一文を紹介させてもらいました。


「ヤマトタケル」自体の存在を疑う説があるのは承知しています。

『古事記』では、倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある。
wikipedia


確かに、古事記に
小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。

とのあらすじを見るにおいて
>倭建(ヤマトタケル)の号を献じた
の記載より「倭建(ヤマトタケル)」は「号」であるため特定の個人ではないという見方もできます。
が、仮にも「倭健天皇命」が、この阿波国を巡幸していたという記録が(古)風土記にある以上、その「誰か」が存在していたことは疑いないと思われるのです。
また「風土記」は官製であり、朝廷に提出するための公式文書であります。
その文書に「倭健天皇命」とは、意図無くしては書かないと思うのですが。

では、「勝間の井」より洗い直してみましょうか。

動画にしちゃったよ

かつて、国府町観音寺には「勝間井」なるものがあり、その畔には「正等庵」なる庵があり、一枚の板碑があったと言う。
後藤翁はこう記します。

觀音寺村の舌洗の池といふを勝間井などといへる㕝につきて
此池をかの風土記なる勝間の井なりといへる㕝(こと)は、辨財天・正等庵の縁起に見ゆるぞ、おのが見しはじめなりけり。されどことふみ作りし人の名も、年月もしるされず、また七條(藤原)淸香ぬしの天保十亥年の文あり、その文、板にえりて摺りしものを見たり、されど其文おのれがめには、いかにぞやと見なすところのあなれば、そをいひいでゝ、後の人のかふがへをまたましとて、あげつらふこと左のごとし。もとも名も年月もしるされざるものには、名東郡圖、または、村附舊跡記、抔あり、こは淸香ぬしの文より、後とも前ともうつせしものにあなれば、見わきがたかり。尚つぎつぎたずぬべし。

いわゆる、源義経が屋島に向かう際にこの井の名を村人にたずね、勝間の井と答えたところ、勝間とはよい兆しであると喜び、兵士や馬の口をそそいだとの伝説を紹介しており、元は「したらひの水」であるという話です。
ここが、阿波國(古)風土記に云う「勝間の井」であると書かれております。

この文に対して後藤翁はこう書きます。

そもそも、この淸香といひし人は、いにしへしぬぶ人とは見ながら、其人となりはしらず、世にはあしわざする人もあれば、勝間の井のふるごとを、仙覚大人が万葉集の抄に引用せるにて、めずらしく見いでて、その處をたづねわびしころ、したら井の清けき水と、かの縁起とを見て、おのがたづねわびしころなれば、めづらかには有ながら、かの佛ざまの、例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく、さながらすつるもおしく思へられて、かくしらずがほに、少し巻文をかへ、古老にたくして書きしものと、おのれはおもほゆ、いかにあらん、後の人かふがえさだめてよかし。

うわぁ、強烈な一文でありますこと。
この七條淸香(七條文堂)あるいは藤原淸香という人は板野郡七条村字中村馬立の出身で徳島に出て、名医と云われた人だそうです。国学、和歌を京で学び、「阿波國風土記」の「勝間の井」に興味を持ち調べるほどに、この結論に達したようです。
その淸香を後藤氏は
「世にはあしわざする人もあれば」とか「例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく」とか、きっついですなぁ。
で、この「例のきたなき處よりいでし縁起」なんですが、後藤翁が探し出してきております。なんで「例のきたなき處よりいでし縁起」なのかが分らないし、読んだ限りでは特におかしな縁起でも無さそうなんですがねぇ。
まあ、この観音寺近辺も後藤氏の管轄であったようでいわば所領内のこと、充分すぎるほど知ってる場所なんで、なにか思うところもあったんでしょう。

要は弘仁年中、嵯峨帝の御宇に僧空海がここにどんな旱魃にも涸れることのない井戸を掘り、里人が「渇を」「免れた」ので「渇免(かつま)の井」と呼び、それが「勝間」となったとの大意です。
後は、この地に龍石ありとか、善女龍王を勧請して雨乞いを行なったとか、お決まりの縁起がつらつらと書かれております。
ちょっと気になる箇所もありますが、おおよそは、そんなもんです。
これを見る限りは、古風土記に云う「勝間の井」とは考えづらいところがあり、後藤翁もこれを見て「あーあ」と思ったとか思わなかったとか、ですかね。
どちらにしても、「ここじゃない」と思ったことは確かです。
でも、ここで諦めてはいないんですね。
さらに「勝間の井」が「阿波郡勝命村」にあるとの情報を得ます。
そうですね、勝命村に調査に出かけるのです。

この「勝命村」の「勝間の井」のことは、かの野口年長も知っており、勝命村の隣、大俣村「スケノカタ」にあるのではないかと、考えていたようですが、老齢のため調査に出向くこともできなかったそうです。
この勝命村に勝間の井があるというのは、どうも水戸藩の「大日本史」が出処らしく

香美(今の香美村に、香美原あり、秋月の西南にあり)に勝間井有り。日本武尊、櫛笥を井に遺す、因りて名づく。(仙覚の万葉抄に、阿波風土記を引き、本書に云ふ、俗に櫛笥を謂ひて、勝間と為すと)

からきている様です。
また、応永17年(1410)八月十八日の京都北野天満宮での一切経供養で奉納された「仏説宝雨経」の奥書に
「阿州久千田庄勝間井於善福寺」
の記載が確認されていることより、「勝間井」自体の存在は確実だと思われます。

これは野口年長の「粟の落穂」によれば、勝命の北に当たる現在の市場町大字大俣の「スケノカタ」の泉が「勝間井」だということです。


野口年長「粟の落穂」より部分


まあ、この辺りは以前にも数回に分けて書いたこともあるので、さらっと流しますが。
この伝で言えば、国府町の「勝間井」はホンモノじゃない、ということになるんですが。

で書きました。


国府町中村には「伊勢姨ノ宮」と呼ばれた神社がかつて存在し、御祭神は「倭姫命」であったことが記録として残っております。
「倭姫命」を「姨(おば)」として呼べるのは無論「ヤマトタケル」。
その意味からも「国府町」の「舌洗いの池」こと「勝間井」の実在について信憑性が出てきたことにならないでしょうか。

だいぶ間が空いてしまったので、調子を取り戻せていませんが、次回はこれほどお待たせしないと....
続く