ラベル 神社など の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 神社など の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年8月25日日曜日

倭の神坐す地(11)

ひじょーに間が空いてしまいました。
本当に申し訳ございません。
え?ど、土下座?

いや、お怒りは重々承知しております。伏してお詫び申し上げます。
というわけで、続きです。

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
倭の神坐す地(7)
倭の神坐す地(8)
倭の神坐す地(9)
倭の神坐す地(10)

倭大国魂神と大物主を追ってだいぶ遠くまでやってきてしまいました。
(え、そうでもない?)
え〜、先に阿波における物部の痕跡について、『「大田田根子命」については書かんのかい〜!!』という 脅し お問い合わせがありましたので、記しておきますと。
阿波説においては「大田田根子命」がご当地出身であるというのは既定の事実とされておりまして、詳しい説明がめんどくさいんで、あちこちからの引用ばっかになっちゃいますが。

【大田田根子 おおたたねこ】
記・紀にみえる伝承上の人物。
大物主神(おおものぬしのかみ)の子。三輪(みわ)氏の祖。崇神(すじん)天皇の代に疫病や災害がつづいたとき、天皇の夢にあらわれた大和(奈良県)の三輪山の大物主神のお告げにより大神(おおみわ)神社の神主となる。その結果、疫病がやんだといわれる。「古事記」では意富多多泥古命


日本書紀によると、大田田根子命が発見されたのは茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)とあり、
 古事記ではこの場所を、河内の美努(みの)の村と記されています。
 倭大國玉神大國敷神社のすぐ西隣が三野(みの)町です。

 また、大田田根子命の名も地名からの由来であると考えられ、この神社の南の吉野川対岸の地名がつるぎ町太田(旧貞光町)なのです。

写真は徳島県美馬郡つるぎ町貞光の太田神社(田寸神社)
写真は太田川橋

 更に、大田田根子命の先祖に「活玉依姫(いくたまよりひめ)」がいますが、その別名が「三島溝杭姫(みしまみぞくいひめ)」と呼びます。
 ※補足:三島溝咋耳命(みしまみぞくいみみのみこと)の娘。神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の母。
 そして、その貞光町の東隣が、三島(穴吹町)です。
 三島溝咋耳命の別名は陶都耳命(すえつみみのみこと)であり、大田田根子命が見つかった場所が日本書紀では、陶邑なのです。
  『倭名抄』によると、阿波国三好郡の郷名は、三繩(美奈波)、三津(美都)、三野(美乃)です。
と、いうわけですね(どーゆー)。

さて、もう一度「阿波志」を見てみましょう。
延喜式亦小祀と爲す重清村谷口里に在り即ち廢城の東麓なり
神代紀註に一書に云ふ大國主神又の名は大物主神、又は國作大己貴命と號す又は葦原醜男と曰、又は八千戈神と曰、又は大國玉神と曰、又は顯國玉神と曰
其祠舊大祭料十緡(こん)、城主小笠原氏所割、兵燹に罹り小祀と爲る
なおかつ、「大物主」とは「物部の主の序列トップ」との想定より「物部氏」の系譜を下図の通り表示いたしました。
では、さらに物部の系譜を詳しく記載いたします。

6代
武建大尼命(たけたつおおね)開化 :大尼
伊香色謎命(いかがしこめ)   孝元天皇の妃、開化天皇の皇后
伊香色雄命(いかがしこお)   開化・崇神 :大臣
7代
建胆心大禰命(たけいこころおおね) 崇神 :大禰
多弁宿禰命(たべのすくね) 宇治部連、交野連 崇神 :宿禰
安毛建美命(やすけたけみ) 六人部連 崇神 :侍臣
大新河命(おおにいかわ) 垂仁 :大臣・大連
十市根命(とおちね)   垂仁 :大夫・大連
建新川命(たけにいかわ) 倭志紀縣主 垂仁 :侍臣
大咩布命(おおめふ) 若湯坐連
8代
物部 武諸隅連公(たけもろずみ) 矢田部造 崇神 :大連
物部 大小市連公(おおおち) 小市直 成務 :侍臣
物部 大小木連公(おおおき) 佐夜部直、久奴直 成務 :侍臣
物部 大母隅連公(おおもろずみ) 矢集連 成務 :侍臣
物部 胆咋宿禰(いくいのすくね)   成務 :大臣
物部 止志奈連公(としな) 杭田連 成務 :侍臣
物部 片堅石連公(かたがたし) 駿河国造 成務 :侍臣
物部 印岐美連公(いきみ) 志紀縣主、遠江国造、久努直、佐夜直 成務 :侍臣
物部 金弓連公(かなゆみ) 田井連、佐比連、 成務 :侍臣
9代
物部 多遲麻連公(たじま)   景行 :大連 
物部 五十琴宿禰連公(いことのすくね)   神功 :大連・宿禰 
物部 五十琴媛命(いことひめ)   景行天皇の妃
物部 五十琴彦連公(いことひこ)    
物部 竺志連公(つくし) 奄智蘊連 景行 :侍臣
物部 竹古連公(たけこ) 藤原恒見君、長田川合君、三川蘊連 景行 :侍臣
物部 椋垣連公(くらがき) 城の蘊連、比尼蘊連 景行 :侍臣
10代
物部 印葉連公(いには)   応神 :大連 
物部 山無媛連公(やまなしひめ)   応神天皇の妃
物部 伊与連公(いよ)   仁徳 :侍臣
物部 小神連公(おかみ)   仁徳 :侍臣
物部 大別連公(おおわけ) 矢田部連 仁徳 :侍臣 
物部 伊呂弗連公(いこふつ)   履中・反正 :大連 
物部 麦入宿禰連公(むぎりのすくね)   允恭 :大連・宿禰 
物部 石持連公(いわもち) 佐為連  
物部 目古連公(めこ) 田井連  
物部 牧古連公(まきこ) 佐比佐連  
11代
物部 真椋連公(まくら) 巫部連、文島連、須佐連  
物部 布都久留連公(ふつくる)   雄略 :大連
物部 目大連公(め)   清寧 :大連
物部 鍛冶師連公(かぬち) 鏡作小軽馬連  
物部 竺志連公(つくし) 新家連  
物部 大前宿禰連公(おおまえのすくね) 氷連 安康 :大連・宿禰
物部 小前宿禰連公(おまえのすくね) 田部連 顕宗 :大連・大宿禰
物部 御辞連公(みこと) 佐為連  
物部 石持連公(いわもち) 刑部垣連、刑部造  
12代
物部 木蓮子連公(いたび) 仁賢 :大連 
物部 小事連公(おごと) 志陀連、柴垣連、田井連  
物部 多波連公(たは) 依網連  
物部 荒山連公(あらやま)   宣化 :大連
物部 麻作連公(まさ) 借馬連、笶原連  
13代
物部 麻佐良連公(まさら) 武烈 :大連 
物部 目連公(め)   継体 :大連
物部 長目連公(おさめ) 軽馬連  
物部 金連公(かね) 借馬連、野間連  
物部 呉足尼連公(くれのすくね) 依羅連 欽明 :宿尼
物部 建彦連公(たけひこ)高橋連、立野連、都刀連、横広連、勇井連、伊勢荒比田連、小田連  
物部 尾輿連公(おこし) 欽明 :大連
物部 奈洗連公(なせ)    
14代
物部 麁鹿火連公(あらかい)安閑 :大連 
物部 押甲連公(おしかい) 宣化 :大連
物部 老古連公(おゆこ) 神野入州連  
物部 金連公(かね) 野間連、借馬連  
物部 三楯連公(みたて) 鳥部連  
物部 臣竹連公(おみたけ) 肩野連、宇遅部連  
物部 倭古連公(やまとこ) 流羅田部連  
物部 塩古連公(しおこ) 葛野韓国連  
物部 金古連公(かねこ) 三嶋韓国連  
物部 阿遲古連公(あじこ) 水間君  
物部 大市御狩連公(おおちのみかり)   敏達 :大連
物部 守屋大連(もりや)
別名・弓削大連   用明 :大連
物部 今木金弓若子連公(いまきのかなゆみのわくご) 今木連  
物部連公 布都姫夫人(ふつひめおおとじ)
御井夫人・石上夫人   崇峻天皇の夫人
物部 石上贄古連公(いそのかみのにえこ)   推古 :大連
物部 麻伊古連公(まいこ) 屋形連  
物部 多和髪連公(たわかみ)    
15代
物部 石弓若子連公(いわゆみのわくご) 今木連  
物部 毛等若子連公(もとのわくご) 屋形連  
物部 奈西連公(なせ) 葛野連  
物部 大人連公(うし)    
物部 目連公(め) 大真連 欽明 :大連
物部 雄君連公(おきみ)   天武 :大紫冠の位
物部 鎌束連公(かまつか)    
物部 長兄若子連公(ながえのわくご)    
物部 大吉若子連公(おおよしのわくご)    
物部 鎌姫大刀自連公(かまひめおおとじ)   推古 :参政
物部 恵佐古連公(えさこ)   推古 :大連
16代
物部 耳連公(みみ) 今木連  
物部 馬古連公(うまこ)   孝徳 :大華上の位
物部 忍勝連公(おしかつ)    
物部 金弓連公(かなゆみ) 今木連  
物部 荒猪連公(あらい) 榎井臣 孝徳 :大華上の位
物部 弓梓連公(あづさ) 榎井臣  
物部 加佐夫連公(かさふ) 榎井臣  
物部 多都彦連公(たつひこ) 榎井臣 天智 :大連
17代
物部連公 麻侶(まろ)
と、書き続けておりますが、途中「物部 塩古連公(しおこ) 葛野韓国連 」の部分が赤字で示されているのを奇妙に思われるかも知れません。
この物部塩古、先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀 によれば

弟、物部塩古連公(もののべのしおこのむらじきみ)
葛野韓国連(かどののからくにのむらじ)らの祖
とあり、

葛野韓国連については
連姓。辛国、物部韓国ともいう。本拠地には和泉国和泉郡唐国(和泉志)など諸説ある。
ウヂ名の由来については、続日本紀延暦九年十一月に韓国連源らが「是物部大連等之苗裔也」「源等先祖塩児、以父祖奉使国名故改物部連為韓国連」と上奏したことがみえ、下記の姓氏録和泉国神別にも同様の記事があるように、物部氏の一流が韓国に派遣されたことにちなむ。また、渡来系集団による物部氏同族への冒称と見る説もある。
氏人には、上記の韓国連源のほか、役君小角に師事し、のち天平四年十月に典薬頭に任じられた韓国連広足や、物部韓国連真成(続紀延暦八年正月)がいる。

伊香我色雄命の後裔。(「録」摂津国神別)
采女臣に同祖。神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。武烈朝に韓国に遣わされ、復命したときに韓国連の姓を賜ったという。(「録」和泉国神別)

そして、こちらも見ていただきたいのですが。
 

ついでに、こう。

「先代旧事本紀 天孫本紀」の「物部氏系譜」「尾張氏系譜」「海部氏系図(勘注系図) 」を見比べた時、
物部氏の一流が韓国に派遣されたことにちなむ。
の部分と「天村雲命」こと「五十猛命」が新羅に赴いていたことにより、「天村雲命」が物部氏の祖と重なってくると思われるのです。

仮に、「天村雲命」が物部氏の祖であったとして、ヤマタノオロチを切った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」)を思う時

「天羽々斬(あめのはばきり)」
ヤマタノオロチを切った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」)が、物部氏の神社「石上布都魂神社」に祀られヤマタノオロチの体の中にあった草薙剣(別名「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ))が尾張氏の神社「熱田神宮」に祀られている。

まとめ:大宜都比売命の裔(6)
でも説明いたしましたが

「大宜都比売命」が又の名を「大阿波女(おおあわめ)神」「阿波女(あわめ)神」「阿波波(あわわ)神」であり、「天津羽羽神」であります。

ヤマタノオロチを切った十拳剣は「天羽々斬(あめのはばきり)」。
ちなみに「羽羽」「羽々」は大蛇を表す古語なのです。
となれば、多少なりとも筋書きが見えてくるではありませんか。
こうやって、話をまとめようと画策しておったのです。

さて、ここで上一宮大粟神社公式インスタグラムより




大粟神社の境内社はたくさんあります。
しかし、明治になり神仏分離令や合祀運動の混乱で分からなくなってしまいました。
宮司家の阿部家旧記が見つかり、江戸時代から明治初めのまさに神仏分離令の混乱期の神社明細帳がいくつか見つかりましたので、謎の祠や、忘れさられた神々がこれからお目覚めになられるかと思います。
さて、神仏分離令で多くの境内社が失われたのですが、二社は残されたのです。
若宮神社(粟神社)と八坂神社です。
若宮神社北向きと言う特殊な神社でして、オオゲツヒメ神さまの若宮とされる葦稲葉神の社です。
また、本来は大粟山自体を神として信仰していますが、古くから口伝で宮司家は若宮神社を粟神社としてあわせてまつりました。
父神である大物主さまを祀ります。
大粟神社のもっとも重要な神社の一社がこの若宮(粟)神社です。
つぎに崇敬される神社は八坂神社です。
江戸時代は、瀧宮牛頭天王社と呼びます。
現在は先代が復興し、社を別の場所に再建しましたが、豊玉姫神社が相殿で祀られていました。
八坂神社の祭神スサノヲ神は、
大粟神社の八神宮の筆頭である腰宮と並び別格の扱いです。
それもそのはず、八坂神社は裏鬼門の大久保に本宮が鎮座します。
八坂神社境内には、火にまきこまれたオオゲツヒメ神さまがお馬を石に変えて、大久保に舞い降り難を逃れたと言うお馬石神話が残ります。
お馬石をまつる御馬石神社は丹生内山ですが、八坂神社にはミニお馬石が祀られています。
残念ながら御馬石神社は山道が荒れ整備が追いついていないため、我々地元の人もしばらく迎えない状態です。
氏子会で整備事業を始めたいと思っていますが、
八坂神社へお参りくださればお馬石を遥拝できます。
さて、
明日は境内摂社粟神社の祭礼を午前10時より行います。
古き神々の信仰が忘れ去られた近世末期でも、八坂神社と若宮神社は境内に残されました。
若宮神社は大久保にも上角にも分祠されています。
そして実は境内社若宮神社は「葛倉神社」と書いてある記録が阿部家にはありました。
葛倉神社は腰宮です。
腰宮は一宮ともいわれました。
若宮とは言いますが、
境内社が北面しているところからも、
若宮神社が最も重要な摂社であることは変わりないでしょう。
一宮とも伝わる神社だからこそ、宮司家は「粟神社」と尊称してきました。
さらには、阿部家旧記に記録がありますが、大粟山自体をお祭りしていたのです。
若宮神社にはこのような信仰があったのです。
粟忌部や国造伝承で葦稲葉神さまをご存知の方はいらっしゃいますが、山自体の信仰を是非とも知っていただき、
大粟山の偉大な神さまである大物主神さまをお祀りください。

あか〜ん!!!
これを読んでしまったら「このままでは」次が書けないではありませんか(涙)
いくつか想定できる論はありますが、これ以上この稿は引っ張れません(個人的に)。
一旦出直し、捲土重来を諮りますので、尻切れとんぼで終わることをご容赦ください。

かならずしや、違う形で書き直させていただきますので。
仮の「END」とさせていただきます。

やめてくださいっっっ....

2018年12月31日月曜日

倭の神坐す地(10)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
倭の神坐す地(7)
倭の神坐す地(8)
倭の神坐す地(9)
前回よりだいぶ間が空いてしまいまして申し訳ございません。
いろんなところから「はよ書け」などの脅し激励をいただいておりましたが、諸般の事情で全く書くことができませんでした


さて、「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」をもう少し見ていきたいと思います。
愛媛大学の川岡教授らによれば、この「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」については他の多くの「河野系図」よりも史実を反映している可能性が高いとされており、この冒頭部は物部氏系の流れをくむ形で書かれており、現在では物部氏系に属するとする見方が有力視されているそうです。



天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ヲ以テ越智姓河野氏之太祖ト号ス

二代 天山命ヲ生ム

三代 宇摩志麻治命
と続き
四代 味饒田命(うましにぎたのみこと)
五代 神八井耳命(かんやいみみのみこと)  
六代 出石心命
七代 大綜麻杵命

八代 欝色雄命
九代 伊香色雄命
と続くわけですが、上の図、五代 神八井耳命(かんやいみみのみこと)の部分を見ていただきたいのですが

神八井耳命(かんやいみみのみこと、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。
『日本書紀』では、神八井耳命について多臣(多氏)の祖と記している。
また『古事記』では、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする。
wikipedia
この「長狭国」については太田亮氏の 『姓氏家系大辞典』を確認してみれば

安房国の東部であり「奈加佐」と同じとあります。
「長狭」は「長」であり、「奈加佐」は「奈佐」であると容易に想像できるではありませんか。無論、安房国の東部といえば忌部氏の進出した地であることは論を挟まないでしょう。
さらに「多氏の祖」であるという部分を調べてみれば
多氏(おおし/おおうじ)は、「多」を氏の名とする氏族。
日本最古の皇別氏族とされる。「太」「大」意富「飯富」「於保」とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。
皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされる。

この部分「意富」(おお、おほ)は阿波国「宅宮神社(えのみやじんじゃ)」の比定社である「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」を連想することも容易でしょう。
ちなみに
宅宮神社(えのみやじんじゃ)は徳島県徳島市上八万町に鎮座する神社である。
創祀年代不詳である。『延喜式神名帳』阿波国名方郡の「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」に比定されている(式内社)。式内社で唯一、大苫邊尊を祀る神社である。名方郡12社の1位に挙げられる名社で、貞観16年(874年)に従五位下の神階を得ている。主祭神は家宅・建築の神であるとされる。旧郷社。
と式内社の中でも異彩を示す神社でもあります。

写真は「宅宮神社」


七代「大綜麻杵命」については、度々、幾度も記載してきました。
『先代旧事本紀』では、大綜杵命は伊香色謎命の父とされています。

先代旧事本記の記載では
五世孫 鬱色雄命
此命 輕境原宮御宇天皇御世 孝元 拜為大臣 奉齋大神
活馬長沙彥妹 芹田真雅姬為妻 生一兒
妹 鬱色謎命 此命 輕境原宮御宇天皇 孝元 立為皇后 誕生三皇子
則 大彥命
次 春日宮御宇天皇 開化
次 倭姬命是也
春日宮御宇天皇尊皇后曰 皇大后 磯城瑞離宮御宇天皇 崇神 尊為 太皇大后
弟 大綜杵命 此命 輕境原宮御宇天皇御世 孝元 為大禰
春日率川宮御宇天皇御世 開化 為大臣 則皇后 大臣奉齋大神 高屋阿波良姬為妻 生二兒
弟 大峰大尼命 此命 春日宮御宇天皇御世 開化 為大尼供奉 其大尼之起,始發此時矣
六世孫 武建大尼命 鬱色雄大臣之子 此命 同天皇御世 開化 為大尼供奉
孫妹 香色謎命 大綜杵大臣之子伊 此命 經境原宮御宇天皇御世 孝元 立為皇妃

誕生 彥太忍信命也
天皇崩後 春日宮御宇天皇 開化 即以庶母立為皇后 誕生皇子
即是,磯城瑞籬宮御宇天皇也.崇神
崇神天皇御世 尊為 皇太后 纏向天皇御世 垂仁 追贈 太皇太后
弟 伊香色雄命 大綜杵大臣子 此命 春日宮御宇天皇御世
となっており

これも今まで何度も記載してきた『麻植郡郷土誌』によれば、
御所神社「祭神大麻綜杵命を祀る」
「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」
「阿波風土記に曰く、大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし」

写真は御所(五所神社)


といくつかの接点を確認し、さらには五代 神八井耳命(かんやいみみのみこと)との関係を窺える神社が存在するのです。

 「伊豫王子大権現」


この「号伊豫皇子」の部分ですね。
神八井耳命(かんやいみみのみこと)の名を冠した神社であります。
実際にこの場所地名、字名自体が
「徳島県徳島市渋野町伊予王子」となっております。
渋野丸山古墳、渋野天王の森古墳のすぐ近くです。

とは言うものの、徳島県神社誌にも記載は無く、関係ありそうなのが
「阿波國勝浦郡村誌」渋野の項
越智通春墓 本村北方字 伊豫王子谷ノ田圃ノ内ニアリ
碍碑石高サ二尺茸苔石ヲ蝕ス傍ニ梅ノ一樹アリ
古老云 通春ハ伊豫人ニシテ河野四良太夫ト稱ス
民部太丈通久之子 元亀元年軍敗シ 本郡中角村ノ城主 中角河内双(?)ハ
母ノ実家ナルヲ以テ来リテ居ル 后本村ノ新開右京進ノ招ニ応シ来リ同居ス
元和七年正月七日没ス 其ノ末孫本村ニ存ス

ただし、越智通春、永享元年(1429)泉州堺で戦死というのが通説のようで、なぜ渋野に墓があるのかは全く解っていないことを追記しておきます。

それと、もう一つワタクシが伊豫王子(皇子)と関係があるのではないかと考えておりますのが神山町阿野字神木(じんぎ)の伊豫神社
下の「神山地名考」の記事にもありますように神社庁でも由緒等が分かっていない、曰く付きの神社です。



無論「徳島県神社誌」にも記載はありません。
ただ、愛媛県伊予郡松前町の「伊豫神社」の御祭神などから類推するに、あるいは
(以下略)。
ちなみに「伊豫神社」の御祭神は「彦狹嶋命」、配祀「愛比賣命」「 伊予津彦命」「 伊予津姫命」「 大日本根子彦太瓊尊」「細媛命」「 速後神命」「 伊予親王」「 藤原吉子」となっております。

つまりは「多氏」(凡直(おおしのあたい)に見られるように粟凡直の系譜)の流れの元に、物部の系譜と忌部の系譜が付いたり、離れたりを繰り返しているようにも見えるのです。
いわゆる「集合離散」(ドラマ)ってやつですね。
ただし完全にイコールじゃないところがミソなんでしょう。

さて、分かりにくさに輪をかけまくってきましたこのシリーズ、次回で一旦まとめようと思います。
力尽きなければ、書けると思いますので少々お待ちくださいませ。

あ、と、良いお年を🙏

写真は、美馬の山中で出会った子イノシシ

2018年11月3日土曜日

倭の神坐す地(9)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
倭の神坐す地(7)
倭の神坐す地(8)

言い訳なしで続けます。

前回ちょっと出てきました、太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963 を確認してみましたら、結構面白い内容がありましたので、ご紹介しておきます。




国造本記に「波多国造に瑞籬(みずかき)(崇神)朝の御世、天韓襲命・神教に依りて、国造に定め賜ふと云う」と載せたり。蓋し韓襲は長国造の祖韓背と同人にして、観松彦色止の裔と考へらる。したがって長、都佐(土佐)の両国造等と同族にして、賀茂、三島族の経営せし国なるべし。

賀茂はいいとして「三島族」とは?、と思っちゃいますよね。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)


大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。




溝咋神社(みぞくいじんじゃ)


創建は不詳。社伝では、第10代崇神天皇の頃に創建されたとしている。当社は祭神節にあるように三島溝咋耳一族を祀っており、『古事記』『日本書紀』の諸伝承との関係が指摘される。
『古事記』神武天皇段では、大物主神が勢夜陀多良比売(玉櫛媛)を見染め、丹塗矢に化して比売の陰部を突く。そして比売は驚いたが、その矢を床に置いたところたちまち壮夫となり、比売との間に富登多多良伊須須岐比売命(媛蹈鞴五十鈴媛命)が生まれたという。
『日本書紀』神代巻では、媛蹈鞴五十鈴媛命が大三輪神の子と記すとともに、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。『日本書紀』神武天皇即位前庚申年8月16日条にも同様の記載があり、ここでは玉櫛媛は三島溝橛耳(溝咋耳命)の娘と記されている。
これらの文献を踏まえた上で、さらに当社の境内社には大物主神でなく事代主神が祀られていることから、事代主を奉祀する鴨氏と三島勢力との交流が指摘される。実際、周辺には三島鴨神社・鴨神社といった神社や、鴨村・鴨林といった地名が残り、鴨氏の勢力がうかがわれる。後世になってこの交流が記紀神話に再構成され、出雲系の神が上記の様に強調されたと考えられる。また、三島溝咋耳一族の実態については明らかでなく、三島県主との関係を指摘する説はあるが定かではない。溝は「水」を象徴し、耳は「長」を表すことから、安威川水系の用水に関わる氏族と考えられる。

「溝咋(みぞくい)」については上記の説明にもあるように、一般的には「溝」は水を咋」は杭を顕し水利を司った氏族であるとの見方であるようですが、考えてみてください「用水に関わる氏族」ってなんなのでしょうか?
用水の工事ばっかりやってる氏族?
そんな氏族があったのでしょうか?
無論、あったとしてもおかしくはないでしょうが、それならばどこの治水工事を行ったとか、どこの洪水の時に活躍したとかの伝承がどこかにあってもおかしくないと思うのですが、それも見当たらない。
そこで、一つの考え方を提示いたします。
参考とするのは大阪市立大学講師、辻本 正教氏の「鳥から読み解く「日本書紀・神代巻」

要約はご勘弁願いたいのですが、要旨としては、日本書紀の神代巻に現れる神名は鳥のトーテムで説明がつくということなのです。
 イザナギ・イザナミはセキレイに交合を倣います。
「時に鶺鴒(にわくなぶり=セキレイ)あり、飛び来って其の首尾を揺す。二神見そなはして之に学ひて、即ち交の道を得つ」ですね。
例えば神代巻第1段冒頭の「葦牙(あしかび)の如」とされる神の「牙」は鴉の嘴(くちばし)を示している。
「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とも呼ばれる「阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)神」はアジガモをトーテムとする神である。
等々、
ある時期の一つの系統の氏族が「鳥」のトーテムを持って自らの出自を示したという考え方はある意味納得できる部分が多いように思われます。
その考え方を延長とするならば、「溝咋(みぞくい)」の「咋」は「クグイ」ではないでしょうか。

鵠 読み方:クグイ(kugui)
ガンカモ科の鳥

鵠 読み方:クグイ(kugui)
ハクチョウの異称
鵠(くぐい)をコウノトリの古語とする説もありますが、これはどちらでも構わないでしょう。
この考え方に立って考えた時、鳥をトーテムとして持つ一族が日本建国に大きな役割を果たしてきたことと、そのルーツの一部が(敢えてこう書きますけどね)阿波に深く繋がっていることを認識していただきたいと思うのです

併せ、こちらもお読みください。


必ず全部ご覧ください。
ボクの書いてることと違うことが書いてあるのは当たり前、神代の事なんて「群盲象を撫でる」如きでありまして見解が全く同じなんてありえません。
ただ共通する部分が...ね(以下略)。

さて、話がずれてしまいました。
では「三島」とはなんぞや?
伊予の大山祇神社、伊豆の三嶋大社、高槻の三島鴨神社が「三三島」と呼ばれた。
とのことであります。
まずは上で書いた、伊予の大山祇神社

大山祇神社
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。

祭神
大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)
別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも、「三島大明神」とも。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。
元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としての性格も強い。

大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されている。
wikipedia

次に伊豆の三嶋大社
三嶋大社
御由緒
御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。
御祭神
大山祇命[おおやまつみのみこと]、
積羽八重事代主神[つみはやえことしろぬしのかみ]、
御二柱の神を総じて三嶋大明神[みしまだいみょうじん]と称しています。
大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます。
三嶋大社ホームページより

そして摂津の三島鴨神社
三島鴨神社

延喜式神名帳にも記載されている、日本で最初の三島神社で、大山祇神と事代主神を奉る。仁徳天皇の頃、百済より大山祇神を迎えて淀川鎮守の社を造ったのが始まりとされ、伊予と伊豆の三島と並び「三三島」と呼ばれる。
高槻市ホームページより

これら「三三島」の関係を見るにwikipediaの大山祇神社より年表を転記いたします。
年表
・仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
・推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮おんどのみや、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)

・大宝元年(701年)、現在地(今治市大三島町宮浦)への遷宮に向け造営が始まる (『三島宮御鎮座本縁』)

・霊亀2年(716年)、16年をかけ造営終了 (『三島宮御鎮座本縁』)
・養老3年(719年)4月22日、遷宮の儀 (『三島宮御鎮座本縁』)

・仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
については下図「釋日本紀」より

「御嶋。坐す神の御名は大山積の神。一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。
此神、百済の國より度り来まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。」
つまり、伊豫國風土記では、仁徳天皇の御宇に摂津の三島江に出現し、伊予へ移ったとされているわけです。

さらに
・推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮おんどのみや、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)
については下図『三島宮社記』を参照願います。



 つまりは、摂津から大三島に移りさらには今治に移ったと。
ならば摂津の前は本当に百済であったのか?
摂津の三島鴨神社の御祭神は「大山祇神」「事代主神」の二柱となっていることと、あるいは「津の國の御嶋」が「三島鴨神社」ではなく西宮神社(大国主西神社)であったとすれば、御祭神は「えびす神」つまり「大国主」であり「事代主」。
「大山祇神」と「事代主神」の混同が考えられるのではないでしょうか。
ちなみに伊豆の三嶋大社についての研究者はこの説を採っており

この「事代主事跡考」を読むと、

伊豫國三嶋より伊豆へ大山祇神を祀った(御祭神は「大山祇神」と「事代主神」の2説ある)のは「いみじき謬りなり」だそうです。


逆に摂津の三島は伊豆の「事代主」が通ったため「三嶋」を冒称したのであると結論づけているのです。

仮に、「津の國の御嶋」は伊豆から移ったものであり、御祭神が「事代主」であるならば以前
まとめ:大宜都比売命の裔(12)
まとめ:大宜都比売命の裔(15)END
などでも、さんざん書いてきたように、大宜都比売命こと「阿波咩命」「阿波波神」「阿波神」が「事代主命」の本后として海を渡って赴いた地が 東京都神津島の「阿波命神社」であり、そこから安房神社、三嶋大社へ遷座されたことは明白です。
さらに言えば、この「事代主」は阿波から赴いた事代主であることも確実だと考えるのです。
話がくどくなりすぎたかもしれません。
要は「三島族」は阿波から伊豆の「御島」に渡った「事代主」と「大宜都比売命」の一族のことを示し、鳥の名をトーテムとして冠したことが言いたかったのです。
なので、「三島溝咋」は「御島」から渡ってきた「溝(水際)」の「咋(くぐい、白鳥)」を冠する一族であったと考えるのです。

さて、話は唐突に変わりますが「伊豫國」に「河野氏」の一族が現存しております。

河野氏(こうのし/かわのし)は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れを汲むとされる。第22代当主河野通清以降は「通」を通字とする。
室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書『予章記』と『予陽河野家譜』などではその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。
wikipedia

いわゆる「越智氏」を祖とする一族でありますが

越智氏は越智郷(現在の今治市国分付近)が出自とされる。5世紀後半に近畿政権の国造制により、現在の愛媛中東部に五国造が行なわれ、地域の支配者が任じられた。その内一つ「物部大新河」の孫「小市国造小致」が越智氏の始まりとされている(『国造本紀』)。
wikipedia

その系譜として『予章記』『予陽河野家譜』などが知られておりますが、ここに門外不出とされた「天徳寺所蔵 伊予国造家 越智姓河野氏系譜」なるものの存在を知ることができました。
いわゆる「越智系図」などでは
上図のように孝霊天皇から始まる系図として記されておりますが、「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」においては


「天御中主大山祇神之後 天照皇太神曾孫 初代 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ヲ以テ越智姓河野氏之太祖 ト号ス」
と「饒速日命」を祖とする系譜として記されております。

21時から3時まで6時間ぶっ通しで書いたら、すっごく疲れたので、このあたりで

続く