2016年5月29日日曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(5)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
の続きです。
気分としては、延々と泥濘(ぬかるみ)が続いております(笑)
さて、もう一度「鬼籠野(おろの)村郷土誌」に戻ってみます。



「備考 祭礼と兵乱」部より
一宮大粟神社の祭官は上古より殊に其神裔たる粟國造の下分上山村の國造本館にありて世々奉仕する特別の官にして之を宮主と唱へ相傳ふること神祖より三十四世國造家宗成に至りて時の豪族小笠原長宗に横奪せられ長宗一宮氏を冒して祭官に任せられ相傳ふること三世にして成行と云ふ成行の父成宗一宮城を築き移る是れより城主と祭官とを二分して其子に傳ふ長を成良とす代々城主を相傳して一之宮城に居り次を成直とす祭官を相續して神領村國造別館にありて祭職を務む之を一宮殿の祖とす一宮殿代々祭職を傳ふる又数世にして木屋平氏に滅せらる惜い哉一之宮殿の亡びて後祭官絶へて僅かに別當神宮寺と御供炊人なる阿部氏等の奉仕するのみとはなりて千古の盛典格式をして空しく其儀を失はしめ随て式内の大社をして空しく他の小社と相齋しからしむるに至る噫請ふ誠に口碑傳説の信すべき證在を列舉して其理を詳述せん
上一宮大粟神社の分靈を祭祀する名東郡上八万村大字一宮村一宮神社に傳はる阿波女社宮主祖系と題せる書あり上古より祭官たりし國造家三十四代世の人名を記し其末に「以祭事傳神禄附属祭官宮内大輔長宗」と書せり蓋し小笠原氏未だ一宮氏を冒さざる前に於て祭官職を得て祭官の傳來を記述せしものとす此書果して原本なるや將た一宮殿に藏する所のものを傳冩せしものなるやを知らずと雖も以て本社祭官の傳來を察知するに足る其書によれば祖神を阿波女神となしその始祖を若室神と為す若室神より天盤戸主神健豊神健忍方神多久理彦神八倉主神宇賀主神畠多神等数世の諸神相継き後を佐人と云ふ佐人より賀田彦、於志翁、屋那男、岩肩彦、豊長彦、里利夫、與理彦、田茂理、豊茂理、豊成、兼諸、経宗、忠成、忠宗、宗長、宗信、宗國、宗慶、宗堅、宗親、宗昌、宗時、宗行の二十余世を経て祖神より三十四世を國造家宗成と云ふ宗成に至り祭神を以て神録附属を祭官小笠原宮内大輔長宗に傳へしを知る即ち上古阿波女神の神裔代々國造家として祭官を奉せしこと暦然たり
以上の國造家が在往せしを國造本館と称し今尚上山村栗生野に其館跡存せり上古より世々國造家の在往せし所と云ふ而して神領村に國造家別館なるものとあり即ち阿波風土記に國造館となせるもの之れなり

マスクがかかってはおりますが、「阿波女社宮主祖系」はご覧になっていただきました。
続いて文を見ていくと「栗生野に其館跡存せり」との記載が認められます。
神山町の「栗生野」に「其館」つまりは粟國国造(くにのみやつこ)が政(まつりごと)をおこなっていた国造館の跡が存在していたとの意味です。


伝承であるとか、正式な国史に記載されていないとかは、別にして「御神号改正願」中にも


「栗生名(現在の「栗生野」)」近辺に粟國国造本館があったと記載されております。
くどいようですが、この文書は「埴生女屋神社」の社号改正願として県知事に提出された文書なのです。
現在の「栗生野」は、ちょっと地図が見難いですが、この辺り。

この様な場所であり、

ワタクシが本館跡だと推定するのが、ここ「妙見宮」。


であり、先に出した


「阿波女神社宮主祖系」に

若室神     葦稲葉神ナルベシ 今若宮是シ
天磐門主神
健豊神
健忍方神
多久理彦神
八倉主神
宇賀主神
畠多神    千波足尼ナルベシ

とある「多久理彦神」について「大粟比売考証」に記載があり



と、「栗宇野名」(これも現在の「栗生野」)に塚(墓)があり、「くりふのみはか」と呼ぶ事のの記載が確認できます。
もちろん、現在も「くりふのみはか」は残っております。
そして、ここを守る一族、つまり「大宜都比売命」から「多久理彦神」そして、現在までの繋がりを保つ一族が、今尚存在する事を次回以降説明いたしましょうか?
(おっと疑問系で終わるところが、あざといなぁ(笑))
続く









「にゃあ」は今回なしね(笑)

2016年5月26日木曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(4)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
の続きでございます(やれやれ、どこまで続くものやら)。

今回は文字ばっかりですので、読み飛ばして頂いても結構です(まじっすwww)。

さて、話はちょっとだけ戻りまして「大宜都比売命」を祀る神社についてなんですが。
「玄松子の祭神記」なども参考にしてみますれば、ざっと

一宮神社     徳島県徳島市一宮町西丁237
上一宮大粟神社     徳島県名西郡神山町神領字西上角330
尾針神社            岡山県岡山市北区京山2-2-2
小内八幡神社     長野県中野市安源寺字石原572
太平山神社 境内 稲荷神社   栃木県栃木市平井町659
頤氣神社 境内 農産神社    長野県長野市松代町西寺尾字柳島1006
墨坂神社 境内 養蚕社     長野県須坂市墨坂1-8
熊野出速雄神社 境内 侍従神社 長野県長野市松代町豊栄5454

などなどであります。

尾針神社と小内八幡神社は式内社ではありますが、尾針神社の場合「大宜都比売命」は配祀神となっており、小内八幡神社は御祭神は「應神天皇 大氣都姫神 神功皇后」で、八幡神社という事より主祭神は「應神天皇 」ではないかと考えられます。
変な言い方ですが、メインを張っているのは(笑)「一宮神社」と「上一宮大粟神社 」くらいではないのでしょうか。

ではありますが、ここで知っておいて欲しいのが島根県石見地方の伝説であります。
島根県益田市乙子町に鎮座します佐毘𧶠山神社に伝わる「狭姫(サヒメ)伝説」でありますが、この「狭姫」なんと「大宜都比売命」の娘だというではありませんか。
引用してみましょう。

穀物の種を伝えた狭姫(サヒメ)
むかし、朝鮮半島から日本へと大海原を一羽の赤い雁が飛んできた。その背中には、狭姫という小さな神様が乗っていた。 そしてその手には、母親の大宜都姫(オオゲツヒメ)から形見として手渡された稲・麦・豆・粟・ヒエの五穀の種がしっかりとにぎられていたんじゃ。
「わしが死んだら、わたしの体から穀物の種が生えるから、おまえはそれを持って当方の日本に行って暮らしなさい。」。
母親が乙子(末っ子)の狭姫に残した遺言じゃった。赤い雁に乗った狭姫は、はじめに見つけた小さな島に降りようとしたんじゃが、
「ここでは魚を捕って食うから種はいらん。」といって断られたんじゃ。
それで再び雁の背に乗った狭姫は、比礼振山にやって来て、その里の人たちに種を分けたちゅうことじゃ。
種を伝えたから「種」という名前が付けられ「赤雁」の地名も赤い雁が降りたことから付けられたということじゃ。
出典 「益田の民話」より

社伝として、もう少し詳しい引用はさらに興味深く

高天原にて乱暴を働いた須佐之男命(スサノオ)は、天照大神(アマテラス)の怒りに触れられ、髪を切り、髯を抜かれ、手足の爪も抜かれて高天原から追放される身となった。

その放浪の途中、新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に立ち寄られた須佐之男命は、そこで大宜都姫命(オオゲツヒメ)と出会い、食べ物を求められたが、大宜都姫命は道中の事とて恐れながら口中の飴ならばと差し出すと、須佐之男命は「無礼である」と大いに怒り、その場で大宜都姫命を斬り捨てた。

大宜都姫命は、息絶える前に娘の挟姫(サヒメ)を呼び、全身の力を振り絞って顔・胸・手・足など五体を撫で擦りながら、稲・麦・豆・粟・稗などの五穀の種を生み出された。そして、挟姫にその五穀の種を授けて「母亡き後は豊葦原(とよあしはら)に降り、五穀を広めて瑞穂の国とせよ」と言い残して息絶えた。

挟姫は、母の亡骸にすがって泣き悲しんだが、その時、どこからとも知れず飛んで来た1羽の赤い雁に促され、涙をぬぐって五穀の種を携え、雁の背中に乗って東方へ旅立ったのである。

やがて雲間より、鷹島(高島)という一つの島が見えた。挟姫はその島に降りて種を広めんとしたが、そこに棲む大山祇命(オオヤマヅミ)という荒くれた男達は「この島では魚や鳥、獣を獲って食うので種はいらぬ」と挟姫を追い返した。

挟姫が次の島である須津(すづ)の大島(鷲島)に辿りつくと、そこに棲む足長土(アシナヅチ)という荒くれた男達に「この島では魚を獲って食うから、種などいらぬ」と再び追い返された。

そこで挟姫は大浜の亀島(神路泊)で一休みし、次に豊葦原の本土に渡って赤雁(地名)にある天道山(てんどうざん)に降り、そこから一際高い比礼振山(ひれふりやま)に降り立った。

挟姫は比礼振山を中心として五穀の耕作を広めながら、日々の糧を恵み、民を助け、賊徒を追い、心安らかな国を開かれた。そして、種村(たねむら)、弥栄(やさか)、瑞穂(みずほ)、佐比売村(さひめむら)など東へ東へと進み、遂に佐比売山(小三瓶)まで辿りついた。

最初に耕作を始めた村が、大宜都姫命の乙子(末娘)ということに因んで「乙子町(おとこちょう)」となり、種を伝えたことから「種(たね)」となり、持参した五穀の種を赤雁の背から大空に千振(ちぶり)に振り蒔いたその様から「千振(現・種村町)」となり、「赤雁(あかがり)」の地名も赤い雁が降りたことから付けられたという。

以前にワタクシめが書かせていただきました

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)とは誰なのか」

を、ご覧頂いた方ならば「おお」と言って、布団かぶって寝てしまうでしょうが(笑)
まあ、そういう事なんです。

そして、こういう伝説もありまして

権現山(比礼振山(ひれふりやま))と大麻山の背くらべ
 乙子の権現山には杉のきがいっぱい生えていたんじゃ。
浜田の大麻山は石ころの山じゃった。
ある日のこと、「おまえたあ、わしの方が背がたかいぞ。」権現山の神様は、自分の山に生えていた杉をぬいちゃあ放り、抜いちゃあ放りしたんじゃ。
大麻山の神様は、自分の山の石を、拾うては投げ、拾うては投げたんじゃ。
このふたりの神様のけんかは、どっちが勝ってどっちが負けたかは知らんがのう。
このけんかがもとで、権現山には石ころが多いというんじゃよ。
出典 「益田の民話」より

ご存知かと思いますが浜田の大麻山は、阿波忌部の本拠地。
写真は浜田市大麻山神社(おおあさやまじんじゃ)
御祭神 天日鷲命 猿田彦命 大麻彦命(太玉命)

ちなみに下の写真は石見の国三宮 大祭天石門彦神社
 阿波忌部が第十五代応神天皇の朝石見の山守部となった時に勧請....云々と由緒に見え。

で、阿波にはこのような伝承があります。
最近振りちぎっておりますawa-otoko様のブログより引用いたします、一宮神社の伝承でございます。
(awa-otoko様引用させていただきたく、伏してお願い申しあげます。文句とか苦情とかございましたなら、ご連絡くださいませ。至急に早急に、ダッシュで御対応差し上げます)

一宮大明神 大宜都比売命
                   大阿波姫命、伊古那姫命

当社は大宜都比売命を奉祭社に而御座候。
此神粟を作り初め給う故、大粟姫命と申奉る。御神系は伊奘諾尊、伊将冊尊二柱の御神の御子にて、伊予国大三島に御鎮座始めは伊予国丹生之内より、神領村に御鎮座あり、其後鬼籠野村に御鎮座ありといへども年月不分明其後人皇十三代成務天皇御宇日本武尊の御子息長田別皇子阿波国造となり給ひ府中村に在し給ひし時、大宜都姫神を崇敬し給ひ一宮村に鎮座なさしめ給ふよしに候。(略)

其御四十五代聖武天皇勅願として、天平年中諸国に一宮国分寺に建立ましまし候節、大宜都比売命を阿波国一宮大明神と被成由。依而地名も一宮村と申候。

其後 五十二代嵯峨天皇御宇 弘仁年中 弘法大師四国順拝の時一宮大明神を十三番札所に入即詠歌に「阿波の国 一宮とはゆうたすきかけて たのめよこの世 後の世」

其後 元暦の比 源義経平家追討のため讃州八島へ御発向の砌り一宮村滝下と申所御通り被成候時一宮大明神遥拝あり、中指の鏑矢二筋宮御願書等其辺の松に御かけ被成候。由申伝候。

只今其所を伏拝八幡と勧請仕一宮末社にて御座候。

八島の軍勝利を得給ひ凱陣の節 永楽銭三千貫御寄附ありし由申伝え候。其後天正の乱の時 長曽我部のため社を焼失され神耺長門守も歿落の砌 御願書も灰燼と相成候由申伝候。

一社伝云。大阿波姫命 鹿に乗せられ伊予国大三島へ通はせ給ふ御使の鹿も伊予国に毎々通ひけるに女鹿は麻植郡にて殺されけるとぞ。殺人も神罰にて家断絶しけるとなん。故に一宮末社の中に鹿ノ社とてあり。 

大阿波姫命伊予へ通はせ給ふ折から高越の神と闘争し給ふ事ましまし互に石を投げ合給ふ中に立て御扱の神あり。

その石歯に中りて甚疼み給ふ故此後歯を疼むものは吾快くして得さすべしと宣ふ御誓ひにて、今に広野村行者野に歯辻明神とて小社あり。

右投げ合いし石 入田村大畠と申所の山上に数万の河原石あり。この争の後は大三島への御通ひ路を深く忍び給ひ候由申伝候。

前に記す女鹿は殺された男鹿まで残り折々は神使に参りしを北方辺にて見たるものも有之由承候然れ共是等の事は神変にて是ぞと申慥なる証拠御座なく候。

右高越神と一宮神と御争の証しと申は今に一宮氏子の者は高越参詣不仕勿論縁組等も不仕候。

大阿波姫命はもちろん「大宜都比売命」、それが「高越の神」つまり忌部の神と石の投げあいをしたと。
浜田では大宜都比売命の娘が住む比礼振山と忌部の住む大麻山が石の投げあいをしております。
妙な一致です。
ここで大事な事を一つだけ
「大宜都比売命」と「忌部」は仲が悪い。

それと、そこに棲む大山祇命(オオヤマヅミ)という荒くれた男達、伊予国大三島に御鎮座始めは伊予国丹生之内より、神領村に御鎮座ありってとこwww。

と、まあホントに文字ばっかです。

ちょっと横道に逸れてしまいましたので、軌道修正して次回へ続く。









にゃあwwwwwwwwwww

2016年5月24日火曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(3)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
の続きです。

で、神山の伝承から言えば

大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。
wikipedia

馬に乗って神山の丹生山までやってきて、ここに乗ってきた馬が石になったという「お馬石」があります。


  馬を降りて辿り着いたところが「天辺丸(てんぺんまる)」
「天辺丸(てんぺんまる)」は微妙に押しかけて欲しくないんで、よければ探してください(笑)
ちなみに、伊勢国丹生の郷(現三重県多気郡多気町丹生)からとあったので、和名類聚抄を探してみましたが...
多気郡 に丹生郷は見つかりませんでしたので、もしあるのならば、ご存知の方は教えてくださいませ。
もしかしたら、もっと小さい村程度の地名かもしれませんね(棒)。
ちなみのちなみに「天辺丸(てんぺんまる)」近辺から西方向を眺めたときに見えるのが左側の山から丹生山、高根山、東宮山(正面の山)、焼山寺山(正面尖った東宮山のすぐ右)となります。

 なんか、前回のネコの写真が妙にウケてたので
ちょーしコイてワンコの写真で一休み

では、もう一度縁起をご覧いただいて


上一宮大粟神社 御縁起
鎮座地 名西郡神山町神領字西上角三三〇
又の御名
御祭神 大宜都比売命 又の御名 天石門別八倉比売命、大粟比売命
御例祭 歳旦祭(一月一日)
例大祭(一月十日) 祈年祭(四月十一日)
新嘗祭(十二月十一日)
一、 古事記によると大宜都比売命は粟国(阿波)を開かれた祖神で五穀養蚕の神として古代から農耕を守り生命の糧を恵み続けられています
一、 神亀五年(七二八)聖武天皇御勅願所となり 元暦二年(一一八五)御祭神に位階正一位を給い 以来正一宮大明神として広く崇敬されてきました
一、 旧事記によると当社の古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼が国造を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司りましたが時の祭官一宮宗成に代って歴応四年(一三四一)阿波守護の小笠原長宗が祭官となり後に一宮大宮司となり その子成宗の代に一宮町に当社の分霊を勧請して一宮神社を創建しました 蜂須賀家政は当社に二度も参拝し 代々の 藩主も深く尊崇していました
一、 今に残る江戸時代の十四枚の棟札(最古寛文十三年)からも社名が 一宮明神 田ノ口大明神 大粟上一宮大明神 上一宮大明神などと 変った事がわかります 明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改めら れたが 明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大 粟神社に確定されました
撰 宮司 阿部千二
     氏子会
     大粟山保勝会

ここの赤字の部分
埴生女屋神社と改めら れたが 明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大 粟神社に確定されました
一時期「埴生女屋神社」とされたのは、多分ですが、慶応4年から明治元年頃までの神仏分離令と明治政府による社格制度により、相応の位階を持つ神社に対し調査が行われたからではないでしょうか。
阿波国においては三代実録にあるように「埴生女屋神社」が階位を与えられていることから「埴土郷(はにごう)」に存在するが故に「上一宮大粟神社」を「埴生女屋神社」としたのかもしれません。
しかし
阿波国に「埴生女屋神社」と比定される神社は別に存在いたします。
小松島市中田町に鎮座いたします「建島女祖命神社(たつしまめおやのみことじんじゃ)」。ここは、滋賀県高島市新旭町饗庭に鎮座する、木津荘の惣社である波爾布神社(はにふじんじゃ)が天平13年に御祭神である「波爾山比賣命(はにやまひめのみこと)」を勧請したことは有名な話になってきています(早くからボクが書いてたことは誰も褒めてくれないけど.....)。
まあ、カッコ内のはなしは置いといて、
聖武天皇の御宇、井出左大臣橘諸兄公が当社を尊崇して、天平13年3月神輿一基、神供田二町歩を寄進した。今も栗屋田(御厨屋)の小字名が残っている。醍醐天皇の元弘年間に至るまで、高島郡北部の大社として隆盛を極めた。
事より、近畿圏内では「波爾山比賣命」といえば、この神社を指していたそうです。
一応、由緒書きを出させてもらいます。
これこれ、ここの部分に阿波国勝浦郡建島女祖命神社奉勧請之實とあるでしょ。

また美馬市には式内社「波爾移麻比禰神社 」も存在するという豪華な布陣(笑)
そこら(どこら?)を併せ鑑みるに(笑)「波爾山比賣命」は阿波の国神(くにつかみ)であったと言ってもいいのでは?

に、しても「上一宮大粟神社」の氏子は明治25年「上一宮大粟神社」は「埴生女屋神社」ではない、社名を戻してくれとの嘆願に至ります。
「御神号改正願」です。

これも出せない史料で申し訳ございません。
氏子一同連名での「御神号改正願」を県に対して提出し明治28年、願は了承され、改めて「上一宮大粟神社」と復称したわけであります。
その際に、疎明史料として「上一宮大粟神社古伝書」「粟國開主神跡考」等々、驚愕の史料が提示されたのです。

続く(笑)


2016年5月17日火曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(2)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
より続きます。

では、「阿波女社宮主祖系」画像が出せないので、内容を転記してみます。
縦横逆になるのは勘弁してください


----------------------------------------------------------------
阿波女神社 宮主祖系

若室神     葦稲葉神ナルベシ 今若宮是シ
天磐門主神
健豊神
健忍方神
多久理彦神
八倉主神
宇賀主神
畠多神    千波足尼ナルベシ

佐人
賀由彦
於志翁
屋那男
岩肩彦
豊長彦
里利夫
與理彦
田茂理
豊茂理
豊成
兼諸
絰宗
忠成
忠宗
宗長
宗信
宗國
宗廣
宗堅
宗親
宗昌
宗時
宗行
宗成
----------------------------------------------------------------
以上となっております。
知ってる人にとっては、いきなりインパクト強い内容だと思います(笑)


確認しておきたい点は3点と前回も書きました。

1. 古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼(ちはのすくね)が国造を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司った。
2. 神祖より三十四世國造家宗成に至って小笠原長宗に横奪せられ長宗が一宮氏を冒して祭官に任せられたこと。
3. 「阿波女社宮主祖系」と題されている、祭官たりし國造家三十四代世の人名を記した書が一宮神社に伝わっていること。

項目1の「応神天皇の御代に千波足尼(ちはのすくね)が国造を拝命し」
先代旧事本紀の国造本紀部分を確認いたしませう。
出典は国史体系より

粟國造。
軽島豊明御世。高皇産霊尊九世孫千波足尼定賜國造。

とあり、軽島豊明御世で応神天皇13年の時であります。
これがいつ頃かを特定いたしましょう。
日本書紀の応神天皇紀は、好太王碑文や三国史記と比べて120年遡っていることは有名です。
例えば「百済本紀」阿辛王(あしんおう:「しん」は、くさがんむりに「辛」)の記載は

腆支王 或云直支 梁書名映 阿辛之元子 阿辛在位第三年 立爲太子 六年 出質於倭國 十四年 王薨 王仲弟訓解攝政 以待太子還國
(倭国に人質だった王子(腆支王)は阿辛王の死により、帰国することになった)
の記載があり

日本書紀の
十六年春二月 王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁 莫不通達 所謂王仁者 是書首等之始祖也 ◎是歳 百濟阿花王薨 天皇召直支王謂之曰 汝返於國以嗣位 仍且賜東韓之地而遣之 【東韓者 甘羅城・高難城・爾林城是也】

の部分に相対します。
これから見れば応神天皇16年は阿辛王の亡くなった年、西暦では405年に当たることが確認できるのです。
つまり、千波足尼(ちはのすくね)が国造を拝命したのは応神天皇13年なので、西暦では402年ということになります。

阿波女神社 宮主祖系では
----------------------------------------------------------------
若室神     葦稲葉神ナルベシ 今若宮是シ
天磐門主神
健豊神
健忍方神
多久理彦神
八倉主神
宇賀主神
畠多神    千波足尼ナルベシ
----------------------------------------------------------------
ですので、暫定的に天皇在位を計算する場合、よくあるように平均在位20年で計算してみると葦稲葉神こと若室神の存在時期は西暦260年頃、阿波女神は西暦240年頃となってしまいます。
そっか、西暦240年頃かぁ(笑)
ってのは、一旦横に置いておきます。

文字ばっかりなんで、ちょっと休憩

そして次葉を確認すると、これがショック。
小笠原長宗からはいいとしても、その前に「前系略之」
 ホントなら「古」一宮氏や「上山城」に籠って社を守った「田口氏」や一宮領から長講堂領に伝領されたときの「山科氏」あるいは1146年当時の宮司「河人成高」らの名が連ねられるべきが略されているんです。
下の写真は、そこら(笑)のことも書かれてる(らしい。まだ、ちゃんと読んでないwww)柚宮八幡宮所蔵(勧善寺)大般若経奥書写。

で、あります(何がwww)。
つまりは推定で西暦900年頃から1300年頃までの系譜がごっそりと抜けているってことなのです。
そこらがどこまで突き詰められるかは、どなたかに任せて(笑)、次回に続くのです。

追記
「河人氏」「田口氏」「桜間氏」はどうも蘇我一族らしい、なんて書いたらM氏は喜ぶでしょうか(笑)

2016年5月15日日曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(1)

んーと、5月14日に話をさせていただいたんですけど、内容の動画などが公開できない状況になっておりますので、当日の説明と「前置」で何回か書いたものに追記して「まとめ」とさせていただこうと目論んでおります。
で、タイトルを「まとめ:大宜都比売命の裔」とさせていただきます。

で、今回の(1)は上一宮大粟神社の祭祀を執り行っていた祭官一族が取って代わられた下りとなります。
まず、上一宮大粟神社の縁起を再確認いたしますと。
上一宮大粟神社 御縁起
鎮座地 名西郡神山町神領字西上角三三〇
又の御名
御祭神 大宜都比売命 又の御名 天石門別八倉比売命、大粟比売命
御例祭 歳旦祭(一月一日)
例大祭(一月十日) 祈年祭(四月十一日)
新嘗祭(十二月十一日)
一、 古事記によると大宜都比売命は粟国(阿波)を開かれた祖神で五穀養蚕の神として古代から農耕を守り生命の糧を恵み続けられています
一、 神亀五年(七二八)聖武天皇御勅願所となり 元暦二年(一一八五)御祭神に位階正一位を給い 以来正一宮大明神として広く崇敬されてきました
一、 旧事記によると当社の古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼が国造を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司りましたが時の祭官一宮宗成に代って歴応四年(一三四一)阿波守護の小笠原長宗が祭官となり後に一宮大宮司となり その子成宗の代に一宮町に当社の分霊を勧請して一宮神社を創建しました 蜂須賀家政は当社に二度も参拝し 代々の 藩主も深く尊崇していました
一、 今に残る江戸時代の十四枚の棟札(最古寛文十三年)からも社名が 一宮明神 田ノ口大明神 大粟上一宮大明神 上一宮大明神などと 変った事がわかります 明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改めら れたが 明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大 粟神社に確定されました
撰 宮司 阿部千二
     氏子会
     大粟山保勝会

そしてもう一度鬼籠野(おろの)村郷土誌の記載を。



「備考 祭礼と兵乱」部より
一宮大粟神社の祭官は上古より殊に其神裔たる粟國造の下分上山村の國造本館にありて世々奉仕する特別の官にして之を宮主と唱へ相傳ふること神祖より三十四世國造家宗成に至りて時の豪族小笠原長宗に横奪せられ長宗一宮氏を冒して祭官に任せられ相傳ふること三世にして成行と云ふ成行の父成宗一宮城を築き移る是れより城主と祭官とを二分して其子に傳ふ長を成良とす代々城主を相傳して一之宮城に居り次を成直とす祭官を相續して神領村國造別館にありて祭職を務む之を一宮殿の祖とす一宮殿代々祭職を傳ふる又数世にして木屋平氏に滅せらる惜い哉一之宮殿の亡びて後祭官絶へて僅かに別當神宮寺と御供炊人なる阿部氏等の奉仕するのみとはなりて千古の盛典格式をして空しく其儀を失はしめ随て式内の大社をして空しく他の小社と相齋しからしむるに至る噫請ふ誠に口碑傳説の信すべき證在を列舉して其理を詳述せん
上一宮大粟神社の分靈を祭祀する名東郡上八万村大字一宮村一宮神社に傳はる阿波女社宮主祖系と題せる書あり上古より祭官たりし國造家三十四代世の人名を記し其末に「以祭事傳神禄附属祭官宮内大輔長宗」と書せり蓋し小笠原氏未だ一宮氏を冒さざる前に於て祭官職を得て祭官の傳來を記述せしものとす此書果して原本なるや將た一宮殿に藏する所のものを傳冩せしものなるやを知らずと雖も以て本社祭官の傳來を察知するに足る其書によれば祖神を阿波女神となしその始祖を若室神と為す若室神より天盤戸主神健豊神健忍方神多久理彦神八倉主神宇賀主神畠多神等数世の諸神相継き後を佐人と云ふ佐人より賀田彦、於志翁、屋那男、岩肩彦、豊長彦、里利夫、與理彦、田茂理、豊茂理、豊成、兼諸、経宗、忠成、忠宗、宗長、宗信、宗國、宗慶、宗堅、宗親、宗昌、宗時、宗行の二十余世を経て祖神より三十四世を國造家宗成と云ふ宗成に至り祭神を以て神録附属を祭官小笠原宮内大輔長宗に傳へしを知る即ち上古阿波女神の神裔代々國造家として祭官を奉せしこと暦然たり
以上の國造家が在往せしを國造本館と称し今尚上山村栗生野に其館跡存せり上古より世々國造家の在往せし所と云ふ而して神領村に國造家別館なるものとあり即ち阿波風土記に國造館となせるもの之れなり

確認しておきたい点は3点

1. 古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼(ちはのすくね)が国造を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司った。
2. 神祖より三十四世國造家宗成に至って小笠原長宗に横奪せられ長宗が一宮氏を冒して祭官に任せられたこと。
3. 「阿波女社宮主祖系」と題されている、祭官たりし國造家三十四代世の人名を記した書が一宮神社に伝わっていること。

順序が逆転しますが、項目3の「阿波女社宮主祖系」に関しては、元徳島県教育長の福家清司(ふけ・きよし)氏の「阿波国一宮社と「国造」伝承」という 論文があり、その中で

「阿波女社宮主祖系」についての言及があり


この「阿波女社宮主祖系」現在は一宮神社には伝えられていないとの記載が見受けられます。

また、大正4年の神領尋常高等小学校校長である日浦氏が編纂した「神領村誌」に「阿波女社宮主祖系」を閲覧した旨の記載があることから、大正初期までは存在したとの見解を示しておられます。


上記写真は大正4年の「神領村誌」
つまりは100年ほど所在不明になってた訳なんです。

で、公開できないのが下の史料「阿波女社宮主祖系」(笑)
怒られちゃうけど入ってた封紙だけ写真を出します。

史料に
蜂須賀氏は(一宮)光信を一宮神社の神職に招き、以後、光信の子孫が一宮神社の神職を世襲した。そして、勝定のとき、蜂須賀氏の縁戚である小倉小笠原氏と同姓であることを憚って、小笠原から笠原に改姓したと伝えられている。
とあるとおり、神主笠原となっております。
内容は、上記写真のように始まる内容なのですが、公開許可を得ておりませんので、マスク写真でご容赦いただきたいと思います。
で、次回からはこの内容から始まる大宜都比売命末裔の説明をさせていただきます。
続く