2011年12月23日金曜日

仏王山 大山寺

寒い一日となりました。
天長節の本日、徳島県板野郡上板野大山 四国別格二十霊場第一番札所「仏王山大山寺」
へ行って参りました。
「大山寺」読み方は一応「たいさんじ」、でも「おおやまでら」でもいいそうです。
上板の人は「たいさんじ」って言ってます。
場所はここ。


より大きな地図で 大山寺 を表示

寺伝によれば6世紀前後、武烈天皇・継体天皇の時代に西範僧都(せいはんぞうず)が開基した阿波国最初の仏法道場であると伝えられている。 wikipedia

開基( かいき )
西暦500年頃、西範僧都(せいはんそうず)によって開基されたと伝わる。 大山寺HP


大山寺崎縁起
当山は西暦五二五年頃、武烈継体天皇の御宇西範僧都の開基にして、
阿波仏法最初の道場で、弘法大師が阿波入国の砌、堂塔を整えられ
仏王の山号を奉り、恵果和尚より授かりし、千手千眼観自在菩薩の尊像
を奉安し、四国霊場開創の根拠地とされる。    山門記載の縁起



通説による仏教伝来が宣化天皇3年(538年)とされておりますので、もうこれだけで
だーれも信用してくれないような由来となっております。(笑)
ねえ、そろそろ宣化天皇3年(538年)の仏教伝来ってのを改めませんか?

前にも書きましたけど、西国三十三所の一番「那智山青岸渡寺」の寺伝にだって
仁徳帝(313~399)の御代に印度より裸形上人が(釈尊入滅後882年頃)一行六人と共に熊野浦に漂着し、熊野の各地を巡歴し那智大滝に於て観世音を感得し今の堂の地に庵りを造り
とあるじゃないですか。

納められております千手千眼観自在菩薩は恵果和尚(もちろん唐の青竜寺の恵果大阿の
ことですね)より授かったもの。
いかに仏法伝来の要諦であるかが伺えます。
でも凄いでしょ「仏王山」ですよ。

さて能書きは置いといて、行ってみますか。
うちからなら、六条大橋を渡ってまっすぐ、地蔵寺の手前の交差点を西へ、しばらく
進むと「大山寺」の看板があちこちにあるので、その通りに進むと着きます。
(すいません、石を投げないで下さい!)
下の仁王門まで一時間もかからなかったかな?
仁王門は修復中でございました。 
この仁王様(吽形)も悲惨な御姿になっておりました。
 一日も早い修復をお願いいたします。
えらい石段を延々と登り
鐘楼門へ辿り着きます。
ちなみに石段が嫌な人は手前の分かれ道のところで「納経所」の道を進めば
この鐘楼門のすぐ脇まで車で乗り込めます。

ワタクシめは石段を上ってる途中で散歩のオジサンにそのことを聞き、思わず11段ほど
転がり落ちてしまいました(ウソ)。
え〜、本堂でございます。
寿永4年(1185)源義経が屋島合戦の戦勝祈願を行なったという噂でもちきりです。
(おいおい)
 ちなみに土御門上皇も護摩堂を建立、不動明王像を奉納し、病気平癒の祈祷会を厳修され
たそうです。

納経所のところにあった地図、 ここまで来てるんですけど。

ところで、ここ「大山寺」では毎年1月第3日曜日に「力餅」と呼ばれる、大鏡餅
(86キログラム)を載せた三方(合計169キログラム)を抱えて歩く距離を競う行事が
行われておりまして。
その像が..............
こ、こ、怖い。
で、帰って来たんですが、しまった!奥の院「波切り不動」を拝めなかったぁ!
帰り道で南を眺めれば「気延山」がこんな風に。
以上ですが、もうちょっと書くことがあるだろうって?
それを調べに行ったんだろうって?
どうゆーことですか、まさか大山津見神のことを書けとかおっしゃるのでしょうか。
ここ「大山」に住んでいた「大山住神(大山積神、大山津見神、大山祇神)」のこと
でしょうか?
同じ板野郡上板町神宅にある鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)は日本唯一の
鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)を祀る式内社であることでしょうか?
で、その夫神である「大山津見神」のおわします山が、ここ「大山」であるということ
でしょうか?
今治の大山祇神社が総本山ではないなどという、とんでもない話を書けというので
しょうか?
それとも、大山津見神の娘であり、国府町の桜間神社の御祭神「木花之開耶姫」との
関わりを書けというのでしょうか。
そして、桜間神社のすぐ北側に野槌(椎)神社(野椎神は鹿屋野比売神のこと)が再建されている事などを書けばいいのでしょうか?
もういい?
でも、まだ書けないんですよ。
もう一回図書館に行って「◯◯◯◯誌」を確認するまでは。

9 件のコメント:

  1. 今ごろ、こんにちは。
    私の記事からつながせていただきました。
    健全第一の私のブログには“あやしい噂”は書けないもので。

    それにしても武烈天皇・継体天皇の時代って調べてみると、かなりあやしいというか、危ない時代だったようですね。
    それに一応の決着を着けられたのが聖徳太子だったのかな。

    このへんも阿波史の視点から探ってみると“公史”では分からない史実が明らかになってくるように予感します。
    いつもながら、ありがとうございます。

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  2. P.S.
    大山祇神といえば、大阪の淀川中流に『三島鴨神社』という神社があります。
    高槻市のHPにさらりと「延喜式神名帳にも記載されている、日本で最初の三島神社で、大山祇神と事代主神を奉る。仁徳天皇の頃、百済より大山祇神を迎えて淀川鎮守の社を造ったのが始まりとされ、伊予と伊豆の三島と並び“三三島”と呼ばれる」などと、さらりと書いてあります。
    マークしてもいい神社でしょう?

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    1. これは面白〜〜い!!!
      伊予三島神社の元社ですと!!!
      『伊予国風土記逸文』の「乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の国より渡り来まして、 津の国の御嶋に坐しき。御嶋と謂うは、津の国の御島の名なり。」
      ですな。
      津の国御島とは摂津国三島という訳ですな。
      伊豆三島神社の御祭神は阿波から渡った事は断言できます。(まだ書いてないけど)
      で、もう一つ分ったのが「越智氏」は弥生期に大陸から渡って来た「秦氏」だったことです。
      (説明できないけど(笑))
      支離滅裂だけど、ありがとうございます。

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    2. でも、津の国=摂津国 とは限りませんよね。
      黄泉津国の津を“の”にしているけれど、出雲=津の国の可能性もあるんじゃないかと疑っています。
      伊予と伊豆を結ぶなら阿波のほうが自然で、淀川を遡るのはもう少しあとでもよさそう。
      難波が“あっち”ではなく“こっち”だとすると。
      …のらねこ先輩の感化を受けすぎたかな。

      それにしても百済の国より渡り来まして~なんて堂々と書いてあるのには唖然とします。
      秦(越智)氏は半島経由じゃないですよねえ。

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    3. すんません、コメント見れてませんでした。
      変な言い方ですけど、津の国が摂津国でなくてもいいんです。
      今回分ったのは(想像ね、いや妄想か)越智は「落ち」ではないかと(意味不明ですいません)。

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  3. 私の祖先(高祖父)は板野郡大山村大字神宅のようですが、その前はどこから来た人たちなのか今も大変興味あります。
    ぐーたら さんの投稿を見てたいへん興味を持ちました。「鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)は日本唯一の
    鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)を祀る式内社である」とありましたが、この神、鹿屋野比売神に私の名前が含まれていてビックリです。そんな多い名前ではありません。何故か大分県、富山県に集中しているようです。感激しました。

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    1. ご自身の出自を探る一助になったのであれば嬉しいですね。
      それにしても「鹿屋野比売神」に含まれてる名前って!
      どこを取っても珍しいでしょう(笑)
      一番最初の文字は含まれるんですか(笑)

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  4. 姫野です。大分県、富山県の姫野さんとはなんとなく違うような気がしておるのですが。
    枝野郡大山村大字神宅村357番の出とのことです。
    この地番の古地図など見つかったらいいな、なんておもっている次第です。
    北の果て旭川に移民、苦労がたくさんあったでしょうね。

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    1. おお、姫野さんでしたか、富山より大分や福岡に多いようですね。
      それにしても神宅村とは、良いところのご出身ですね。
      旭川ってもしかしたら蜂須賀公の農場へ同道したんですかね。
      http://goutara.blogspot.jp/2010/11/blog-post_11.html
      旭川から近いですよ。

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