2011年2月5日土曜日

穴吹町 白人神社と神明神社

美馬郡穴吹町字口山(くちやま)宮内の白人神社です。
県西部の人はここらを「くっちゃま」と呼んでるそうです。
(ホント?嫁さんは知り合いがいて、そういってるそうです)
場所はここ、家からだと一時間くらいかかったかな。


より大きな地図で 白人神社 を表示

で、今回はちょっと恥ずかしいんです。
行った場所じゃなくて、動機が。
四国放送で、ここを紹介してて「ここに連れてけ」と言われたので行ってきました。
石のウサギをなでて開運するそうです。
ボクはウサギ、嫌いなんです。愛想がないし、凶暴だし、ネズミの仲間だし(げっ歯目ね)
飼ってる人は知ってるでしょ、あの愛想のなさ、機嫌とっても知らんぷりしてるしねぇ。
(カルロスさんごめんなさい)

それはさておき。
あああ
上の写真が本殿です。
◯に白の神紋(?)です。

白人神社は1596~1614年(慶長年間)の初め、稲田修理亮によって再興されたといわれ、阿波藩の家老であり脇城主(後に淡路城代となる)であった稲田家の信奉が厚かった神社です。
 稲田氏は代々鎧・刀・画などの寄進をたびたび行っていますが、当神社玄関にある「白人大明神」と刻まれた額も稲田主税助植春の奉納したもので、彗雲鉄啀の書になるものです。そのほか同神社に保存されている箙(えびら)は木製で、蜻蛉の形の彫り物を施し、全国的にも類例が少ないといわれています。   美馬町HPより

彗雲鉄啀の書になる額がこれです。

そして・・・
はいはい撫でればいいんでしょ。
わあ、ウサギさんだ、ウサギさんだ、カワイイなあ(棒読み)
ご神燈の上にうさぎが座っており、神様の使いとされている。この神社は、古く仁賢天皇の時代、白髪の老翁が天下り、「この谷は聖地なり」といって神々を祭りしずめ、宮内に改めるべしと告げた。保元の乱の後、讃岐におられた崇徳上皇をたずねてきた源為朝が、阿讃国境の相栗峠で弓を引いたところ、うなりをたてた矢は、この毘沙門獄に当たり、はねかえって白人神社におちた。この古来弓は、今も神社の宝物となっていて、旧正月14日お的神事が今に伝えられている。   徳島県観光情報サイトより

ついでに、こんなのもね。
いや、ちゃんと拝みまして、ウサギ様も撫でさせていただきましたよ(ウッ)。
話が前後しますが、御祭神は
伊弉冉神、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、天照大神、豊秋津姫命、崇徳天皇、源 為朝侯
となっております。

ここの氏子には』昔から七十五人の宮人というのがあって、遷宮、お弓、神輿渡御
の行事を行い、決して他家をいれないそうです。
二千年前から続いているという説もあります。

 徳島県神社誌によりますと、往古は現地西南の丘に古社があったそうです。
というか、すぐ横に見えてるんですね。
知る人ぞ知る、というか、あんまり書きたくない神社ですねぇ。
ここらのブログをやってる人は、絶対一度は書いてるからなぁ。
それと、ここの事を書き出すと、泥沼なんですので・・・

「磐境神明神社」
ここから百三十段ほどの石段を上がっていきます。
ううつ、ここを登るのかって。裏に回れば車ですぐ近くまで行けるんですが
そこはそれ、老体にむち打って登ります。

登った所に看板が。
でも、こんな看板はどうでもいいんです。
五社三門様式の磐境(いわくら)です。
石で囲まれ、入口(門)が3つ、内側にお社が五つ。
石囲いの中に入ると、あまり広くなくて、写真は撮りにくいです。
五社も一度には写真に納まらない。
で、困った事に、この様式が古代ユダヤの祭祀場と形式が同じだという人がいるんです。
テレビでもやってたんですよね。
前イスラエル大使のコーヘン氏が調査にやってきたという事で。
YouTubeの動画があったので一応張っておきますが。
真ん中から少し後部分で紹介されてます。


けど日ユ同祖論って、明確な証拠が出てきにくいんで、なんとも言いにくいんですよね。
個人的には、いくらかの人数と文化が流れてきた可能性はゼロじゃないだろうけど、完全に
民族的な同祖はないんじゃないかと思ってます。
(ユダヤ人のほとんどにに蒙古斑があるのなら、ちょっとは考えてもいいかな)
まあ、参考程度にってことで。


と、いう訳で(どういう訳って、久しぶりに書いたなぁ)
白人神社のウサギを撫でて帰路についた訳です。

最後にもうひとつだけ、まぜておくと
帰る途中で、こんな所へ寄って見ました。

より大きな地図で 鯰の碑 を表示
阿波町の岩津橋を北に渡った所にある「鯰の碑」です。
凄いでしょ。
説明にあるように「日文(ひふみ)」と呼ばれる神代文字で刻まれた碑です。
これ以上説明はしませんが、なかなか濃ゆいでしょ。
分けて書いたら三回分位になったんで、ちょっともったいないような気が。
その分、突っ込みが足りないって?無理いわないでくださいよ。

27 件のコメント:

  1. ぐーたらさんのおっしゃるように、うさぎは「愛想ない、凶暴、なつかない」です。特にわが家のはそうです。ありとあらゆるものを齧ります。気をつけていても、鋭い歯で被害が止まりません。
    そんな訳で、とってもかわいいです(^ω^;)(;^ω^)

    この白人神社へは以前、木屋平から穴吹川沿いに下っている途中で寄りました。境内の大木に興味がわきました。
    ウサギの木彫り彫刻に気づきましたが、ご神燈の上にうさぎが座っていたのには、気づきませんでした。惜しいことをした。

    ところで白人神社と名前は県内の他にもありますね。
    白人神社は渡来系だと言われているのを何かで見たことがあります。どんなもんですかねえ。

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  2. サクラサク48692011年2月6日 20:19

    ぐーたらさん、こんばんは♪
    白人神社に行かれてたのですね。
    撫でうさぎって、私が行った時はなかったような・・・(笑)
    全然記憶にありません。
    私は白人神社の前にある橋げたと境内の巨樹が心に残っています。

    神明神社の奥へ行くともっと凄いってすえドンさんがおっしゃっていましたね。
    行きたいけどなかなか実現しません。
    ぐーたらさんは行かれましたか?

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  3. to カルロス さん
    昔、近所に庭でウサギを飼ってる家があって、よく寄らせてもらってたんですが、何回行っても、どう可愛がってもなつかない(笑)
    後年、うちの子供が保育園で飼ってるウサギに指をかじられたこともあって、ウサギは大好きです(うーむ)
    白人神社は渡来系であるとは思いますが、大陸系や高句麗なんかとはちょっと違うような気がします。
    ここら微妙ですよね。

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  4. to サクラサク4869 さん
    こんばんは。
    そうですね、撫でうさぎは、多分最近できたんじゃないですか(笑)
    神明神社の奥へは行きかけたんですが、その時は3人で行ってたのと、目的はウサギでしたので、それ以上の突撃は阻止されてしまいました(笑)
    一人だったら・・・いやいや。
    それと、七十五人の宮人が気になります。七十五膳神事というのが県内五つの神社で行われてます。
    偶然に七十五っていう半端な数字が一致するのが奇妙です。

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  5. ぐーたらさん、こんにちは
    昨日、サクラビトさん御夫婦が、来てくれました。あまりお話できなくて残念でしたが、とっても感じのいいかわいい方でしたよ。ブログにもたくさん紹介してくれました。ぐーたらさんのおかげです。ありがとうございました。
    先日、紹介していただいた白人神社に、行かれたのですね。前イスラエル大使が、調査にこられたとか・・・徳島にも凄い所が、ほんとにたくさんあるのですね。ユダヤのシンボルマークがあるかもしれないだとか・・・

    うさぎは、子供達が小さい頃裏の敷地に、放し飼いにしていたのですが、以前住んでいた方が植えていた木がみんな枯れてしまいました。(穴堀が仕事ですから、根を噛み切るのです)子供もたくさん生みます。その頃、ハムスターも飼っていて、うさぎとハムスターだらけでした。やはり、見かけは、かわいいのですが、まったくなつきませんでした。

    また、穴吹の方は、行く時もあるので、白人神社行きたいと、思っています。

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  6. to みーちゃんママのママ さん
    サクラビトさん行きましたか。
    言い出しっぺの本人がまだお邪魔できてなくて、申し訳ございません。
    あれから北島方面は何度か通ったんですが、お昼になかなか行き着かなくて。
    また、北島には鯛浜の水神社か新喜来、光蓮寺の夢つげ地蔵を見に行こうかな
    と思ってますので、その時にでも寄らせてもらいます。
    サクラビトさんが激賞してたようなので楽しみです。

    うさぎはねぇ・・・みかけは可愛いですね(汗)
    昔はどこの家でもよく飼ってたんですが、なんででしょうか?

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  7. うさぎに対する思いは先日の岡崎神社の話でお聞きしてますが、
    此処は「シラヒト」神社と読むんですか?「ハクト」じゃなくて。
    鳥取県の白兎(ハクト)海岸傍にある白兎神社には
    特急”白兎”で行けますが...因幡の白うさぎ
    仁賢天皇の2代前(第22代)の清寧天皇は生来髪が白かった、と
    伝えられ、子がなかったので播磨から「はとこ」に当たる顕宗/
    仁賢兄弟を迎えて跡を継がせた、と云う話は余り関係ない?

    それよりも神明神社!吸い寄せられますねえ。
    何なんでしょ?ホントニ。
    小生なんか「神明」と聞けばお伊勢さんくらいしか浮かばない。
    イコピコさんは熱く語るでしょうけど、日ユ同祖は少し無理が
    ありそうに思いますね。

    こちらも余り意味なく長いコメントになりました。
    日文は割愛。

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  8. to 猫の兄弟 さん
    すいません、ふりがながなかったですね。
    「しらひと」神社です。
    ウサギは、まあ、いいんです。
    >清寧天皇は生来髪が白かった
    そうだったんですね。
    滋賀の猿田彦神を祀る白髭神社なんかを連想しちゃいました。
    で、神明神社。名前だけ見れば伊勢の関係のようですが、ここはホントに解りません。いつものようなテキトーな想像もできないくらいです。
    ただ、先代旧事本紀に伊勢の国造(くにのみやつこ)は天日鷲命であると書かれているそうです(原典未確認)。
    日文を割愛は右に同じ(笑)

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  9. to 猫の兄弟 さん
    追伸
    徳島県の阿波市阿波町に伊勢という地名があって、そこに「古賀茂神社」
    という神社があるっていうのは偶然でしょうか(笑)
    で、その奥に「伊勢神社」です(笑笑)
    ちょっと離れた半田町には「天皇」って地名もあります。
    ご参考までに(何の)

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  10. 「どんどん」、ちょっと前に行ってきましたよ。
    メニューも多くて、近所なら飲みに行くのにねえ・・。

    「日ユ同祖」というと表現がオーバーなだけで、古代ユダヤの影響は間違いなくあると思います。
    ただ、古代の日本はユダヤに限らず多民族国家、人種のるつぼだったのです。
    古代の日本の人口から考えれば、文化や技術の高い一族一団が大陸から渡来してきただけで、その影響力は想像以上のものがあったでしょうね。

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  11. to のらねこ さん
    うっ、出遅れてるなぁ。
    サクラサクさんのブログ見て、いかにもうまそうなんで行きたいんですが
    なかなかタイミングが合わずに・・・。
    これで、のらねこさんのブログにも書かれた日には・・・。

    >文化や技術の高い一族一団が大陸から渡来してきただけで
    そうですね、数十人規模だったとしても、渡来していればえらい事になっていた事は想像に難くないですね。
    よく言われるように猿田彦神も異様な風貌のようですし、古代の日本が南洋系、アジア系、北方系と多様な民族の集合体であった事は納得です。

    あ〜、オコノミヤキ食べたい。

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  12. >サクラサクさんのブログ見て、いかにもうまそうなんで

    見てなかったよ・・・。
    今から覗きます。

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  13. みーちゃんママのママ2011年2月10日 9:46

    ぐーたらさん、のらねこさん、おはようございます。
    ぐーたらさんのおかげで、のらねこさんにも、お越しいただきましてありがとうございました。気がつきませんで、申し訳ございませんでした。のらねこさん、もし今度お越しの節は、一声お掛けくださいませ。

    水神社は、(この辺では、水神さんとよばれています)子供達の小さな時から何かとお世話になっていますので、ぜひ皆様にも水神社紹介していただきたいと思います。 

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  14. to みーちゃんママのママ さん
    フジグラン北島に車を置いて、水神さんまでいってきます(笑)
    近いうちには、お好み焼きを食べにいくつもりですので。
    多分、ワタクシも黙って行くような気がします(笑)
    身長2メートル20センチのチェ・ホンマンに似た人が来たら
    それが私です(ウソ)

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  15. 皆さんは未来に行ってしまいましたが、今回は2回目のコメントです。

    岩津橋の鯰の碑について
    有る時点で、四国は倭語地名のほとんどが漢音から韓音に変わったようだ。
    岩津橋の「岩」は漢Yan、韓bawi:ばい梅Mei・美Mei・米Mei
    ・貝Bai・買Bai・白Bai:baeg・ひゃく百Bai実際はイントネーションと発音が
    異なるが、当時の人には同じに聞こえたのではないだろうか。
    韓「白」baegは漢「百」Bai即ち白=百(川)となり、岩津は川津のことの様だ。
    別に「米」を採用すれば「米津」で、生津、山津、美馬津の変化はありえる。
    「よまよみのかい:砥の蝦夷」でお馴染み。
    鯰が見えてきました。

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    1. >有る時点で、四国は倭語地名のほとんどが漢音から韓音に変わったようだ。
      と仰るのであれば朝鮮語成立の経緯からして1443年の訓民正音以降であることで
      よろしいでしょうね。
      それ以前に岩津、美馬津等の地名があったかなど調べるのも面白いかとおもいますよ。

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  16. 磐境神明神社のための辞書を創りました。3回目のコメントです。

    七十五膳(神事):ちそうぜん:馳走膳
    七十五=十二:そつ:卒:十一たす一:土と水=泥  
    ここに、一は il:水
    七十:ちそ、ちす:蜘蛛、千種、宍粟(客土)土合、都祁、十合(そご、そあい)
    十二(そあい、そつ)=卒、泥
    五膳:ごぜ御所みせ:mite下Xia:茶、狭、夏Xiaくわ:鍬、桑=池
    七十五人:7+5=12人、ひとり、ふたり、・・・卒足(月が満杯になった:満月)
    :十二月:師走
    七十五膳:十二膳:十二eumsig(生子、王子):
    十二人の王子:七と五人の王子=七十五人の宮人:姫Jiと五人の宮人
    かぐやひめ物語か(因みに、月は土と同意)

    神事を行っていた当時の人達にとって、泥こそ最高の食事であった。
    地神族、天孫族は農業、鉱業を営み、土から多くの物を得ていた。今も同じ。

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    1. 全項目にコメントは付けられませんが
      十(じゅう)を+(プラス)と見るとは
      あまりに強引ではありませんか。

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  17. 五十鈴はいすず。十は発音しません。なぜなら、い(う)と鈴です。
    兎(土)足す鈴。又、うずはすずで蘇我
    言葉遊びの様ですが漢字の用法が確定していなかった当時は造語が
    多かった。と、私は見ています。
    明治のころはbase ballが造語の野球です。
    全部こじつけなので「うそ」になりそうです。

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    1. 五十(いそ)鈴(すず)から「いすず」と変化したと見る方が自然じゃないですか。
      西条八十(やそ)でしょ、山本五十六(いそろく)でしょ。
      五十を「いそ」と読むのは普通で発音しないのはおかしくないですか?
      地名にだって「五十棲(いそすみ)」「五十沢(いそざわ、いささわ)」
      とかいくらでもありますよ。

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  18. 訓民正音以前から韓語はあったはず。ただこのときに標準化された
    だけと思います。今の半島の韓でなく、漢に滅ぼされた秦の始皇帝の臣下
    たち、東大氏殷(しうしいん)の辰国人。東夷と呼ばれてしまった族たちが韓です。

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    1. だから、訓民正音以前の地名に漢字をあてはめるのがおかしいといっておるのですよ。

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  19. 鯰の歌碑の作者は岩雲花香氏との事ですが
    直訳すれば村雲(五十猛)と須佐之男の尊と読めます。
    粟阿波泡五十渦.。。○は蘇我須佐之男
    同氏はすべてをご存知だったようです。

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  20. 引き続き、変な解説をいたします。
    <相栗峠からの鏑矢は毘沙門獄に当たり跳ね返って落ちたところが
    白人神社(白人大明神)・・・
    倭武の放った恐ろしい矢をも跳ね返す人がいた毘沙門獄
    とは高越山でしょうか。落ちた矢の場所は倭武の進撃の象徴でしょうか?
    白人(相栗峠?)は重要な意味がありそうです。

    さらに「彗雲鉄啀」を解釈すると
    『五十猛の子孫でありながら、冬の蠅みたいに私は情けないです。
    先祖は立派な「群(村)雲の剣」を持っていたのに
    私は「影の薄い、すじ雲の曲がった刀」しか持っていません。』!!
    どれもこれも重要課題になると思いますが

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    1. ちょっと空けてたら。

      前にも書きましたように、自説の展開や解説については、ご自身のブログなり
      HPでお願いできませんか。

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  21. 口山…くっちゃま! そうですね。言いますね!
    高校の同級生にもくっちゃまの子がいました! 

    岩津の石碑…そういえば見た気がしますが、その時はタウンページ配りに忙しくて、その後忘れておりました。
    面白いから行ってみましょう!!

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    1. 岩津の石碑は川の向こうからでもよく見えますね。
      神代文字の歌碑も全国唯一だそうですので(笑)

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