ま〜た台風じゃないですか、籠ってブログでも書いてろって言われてるんですかね。
「
阿波國一之宮 大麻比古神社(1)」もご参照くだされ。
え〜、大麻比古神社の話を続ける前に書いておかなければならないのが
「鹿江比賣神社(かえひめじんじゃ)」です。
またまたまたまた、Wikipediaより引用すれば(いかんなぁ)
『延喜式神名帳』阿波国板野郡に小社(国幣小社)として掲載され、元慶7年(883年)9月5日には従五位上に叙された記録があるが(『日本三代実録』)、現在その論社として以下の2社が挙げられている。なお、祭神は鹿江比売神(命)と見られており、「かえひめ」の訓から草野姫(かやのひめ)と同神とされ(『古事記』には「鹿屋野比売神」、『日本書紀』には「草祖(くさのおや)草野姫」として現れる)、草の神とされている。
で比定されているのが
上板町に鎮座する葦稲葉神社に合祀されている鹿江比賣神社
これは、すえドンのフォト日記の「
鹿江比売神社♪」でご紹介いただいております。
ここでは「葦稲葉神社」に合祀されております。
あ、「エンゼル製薬社員の笑えるペットの話、時々お役立ち情報」の
「
葦稲葉神社」でも電話番のフーさんが紹介してくれておりますので、ぜひとも
コメントをお願い致します(笑)
と、もう一つが大麻比古神社の境内にある小祠、鹿江比賣神社
上の写真の大麻比古神社大鳥居のすぐ右脇に「天神社」があるんですが
(逆光で失礼致します)
この境内に小さい祠がありまして
これが「鹿江比売神」を祀るもう一つの比定社でございます。
「鹿江比売神」につきましては、ぜひとも後述させていただきたく存じます。
では、大麻比古命とは何者であるのか?(何者なんて言っちゃいけませんよね)
大麻比古神社の由緒書きには、はっきりとは書いてないですが「天太玉命」と「猿田彦神」
の御神徳をあわせたとあり「天太玉命」を意識してるようです。
また、前の記事にも書きましたように
「徳川義道の著にかかる「神祇實典」には「大麻比古者天太玉命也」と書いてある。」
そうですので、一般的には「天太玉命」だと解釈されているようです。
また、「安房斎部系図」「古代氏族系譜集成」に、天日鷲命→大麻比古神(子)→
由布津主命(孫)とあるようです。
こうなると「天日鷲命」は?「天太玉命」は?となりこんなブログじゃ書ききれなく
なってまいります。
では、ホントにそれでいいのか?別の解釈はあるのか?と考えていた時に
おお、いい資料があるじゃないですか。(阿波弁で「あるでないで」ってやつですね)
「阿波國続風土記」
「大麻比古神社」の部を見てみますと論文並みの文書量!
ちょっと長いですが、お付き合いください。
大麻比古神社
板東の吹田村に在り此社の座す山を大麻山と称す◯◯◯◯◯◯なり三代実録貞観元年正月二十七日甲申奉授阿波國従五位下大麻比古神従五位上同九年四月二十三日壬辰阿波國従五位上大麻比古神授正五位上元慶二年四月十四日巳卯授阿波國正五位上大麻比古神従四位下七年十一月甲子朔授阿波國従四位下大麻神従四位上。
一宮記神名帳頭註◯◯社説に猿田彦神を祭ると云ふ道輔按に天足彦國押入命を祭るに猿田彦神と称ふ事多し延喜式近江國滋賀郡小野神
社二座(名神大)をも諸書弁(?)社説に猿田彦神天鈿女命なりといふ(近迩荘小野村に在り)仁明天皇紀承和元年二月辛丑小野氏神社在近江國滋賀郡敕聴彼氏五位以上毎至春秋之祭不待官符永以徃還同四年二月癸卯敕聴大春日布瑠粟田三氏五位巳上准小野氏春秋二祠時不待官符向在近江國滋賀郡氏神社とあり姓氏録左京皇別下小野朝臣大春日朝神臣同祖彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也大徳小野臣妹子家于近江國滋賀郡小野村因以為氏日本紀◯とあり小野氏神社なれば天足彦國押入命なる事明けし(尚此外にも天足彦國押入命を猿田彦神を祭ると云ふ社甚だ多し然れど此小野氏の事は特に明なれば引出したるなり又布瑠宿禰も同氏なれど布留神社は若◯主御◯にて氏神に非ざる故に引べきに非ず)此に準へ思ふに大麻比古神社実は天足彦國押入命なるべし古事記に御眞津日子訶惠志泥命此天皇娶尾張連之祖奥津余曽之妹余曽多本毘賣命生御子天押帯日子
命者春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣云云之祖成とあり板野郡は奥津之郡な
るべし(おきはいと約りつはたに通ふ)大は美称阿佐は余曽にて御母の本居に依て大麻日子と申せしなるべし其は姓氏録左京皇別下大春日朝臣出自考昭天皇々子天帯彦國押人命也
仲臣令家重千金委糟為堵于時大鷦鷯天皇
(註)大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)仁徳天皇のこと
(謚仁徳)臨◯其家詔(?)号糟垣臣後改為春日臣桓武天皇延暦二十年賜大春日朝臣姓とある
仲臣の令は米餅㫪大使主の子八榎木事命なり神八井耳命忌人と成て神祇を奉典せしより七世孫仲臣の子上成務天皇の御世に尾張國嶋田悪神を平服せし事姓氏録右京皇別下嶋田臣の條に見えたり此の子孫は嶋田臣とのみ称して中臣を称ざりしと見えて他に所見なし応神天皇仁徳天皇などの御世佐久命其子木事命も中臣職を司どりしにて(仁徳紀十三年秋九月始立茨田屯倉因定㫪米部此より以前は中臣佐久命にて㫪米部起てより米餅㫪部の家なれば委糟為垣の説実に然るべし當昔の千金は今の二萬両に當るなれど穀を買時は二百萬石を買べし木事命の第市川臣は始て布留社を建て神主となる是布留宿禰の祖なり)
其後雄略天皇の御世春日和珥臣深目の娘
童女君宵に七喚して春日大娘皇女(更名高橋皇女)を産む皇女は仁賢天皇の皇后となりて一男六女を産む(一男は武烈天皇となり六女は今略す)マタ和珥臣日瓜(ひふり)の女糠(あら)君春日山田皇女を産む(日本紀巻四観松彦殖稲天皇紀六十八年條天足彦國押人命此和珥臣等始祖也とあり姓氏録左京和尓部宿禰右京和迩部に氏みな同じ)此御世頃に天足彦命の裔の中臣部の中より春日部を立て火國阿波國の中臣部等みな春日部を出せしと見ゆ継体天皇七年九月勾の大兄皇子親を春日皇女を聘ふ八年春日皇女に迊布屯倉を賜ふ勾大兄皇子は即ち安閑天皇なり元年秋七月辛巳朔詔曰皇后雖同天子而内外之名殊隔亦可以充屯倉之地式樹椒庭後代遺迹廼差勅使簡択良田マタ二年五月甲寅二十六所の屯倉を置たまへる中に火國春日部屯倉阿波國春日部屯倉あり九月丙午詔桜井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税とあり此二所の屯倉は本より春日皇后属たる春日部の住地にて初より其地名と成たるなれば本より春日臣氏の産土
にて其氏神を祭たるが此時より盛大に成り賜へるなるべし(春日部は春日皇后に属たる名なる事は元年條に◯城部枳◯喩の女幡媛を春日皇后に奉りて春日部采女と称しても見るべし)
欽明天皇の御世常磐大連と伊礼波連とに始て中臣連の姓を賜ふ(常磐連等は黒田大連の子なり天児屋命より十九代黒田大連に至るまで中臣の職も氏も賜はりたる事なし神代に天児屋命天太命神事を司れる様に言へるは欽明天皇の御世より後の説なり)
後も天足彦國押人命の子孫も代々中臣姓を称して姓氏録巻三十未定雑姓右京中臣臣観松彦香殖稲天皇(諡考昭)皇子天足彦國押人命七世孫米舂大使主之後不見とあり此姓の人萬麿、眞萬、乙長、都奈美、奈美高、天足、大継、舩守、清主、吉公、廣成、系麿、宗副、清貞、(己上左京戸)安成、屎麿、全黒、財王、眞◯(鵟:のすり?)堅魚麿、鳥、耳、継縄、第氏、福成、ノ二十五姻斉衝三年中臣の本系帳を除れて惟岳宿禰の姓を賜はり二十五姻共に右京九條の二坊に編れたる事大中臣系図に見えたり阿波國中臣部も永く伝わりしと見えて類聚三代格に阿波國中臣部あり今も当社近く並の村に中富といふ最広き
地あり(阿波國春日部の名尚尋ぬべし姓氏録未定雑姓山城國春日部村主津速魂命之後也は別事なり)
因に記す族第長年消息して大麻比古神社の有地を板東といふは後の称にて古は中富の内なりしも知べからず中富は東中富西中富とて最広き村なり中富邑の川を中富川と云ふ類聚三代格に阿波國中臣部あり是に因て考れば祭神天児屋命には有らぬかと云ひ遺せたり最珍しき考なり然れど天児屋命には非ざる事上に辨へたるが若し
以上
わたしゃ、飲んでた「チョーヤ梅酒ノンアルコール」を思わず吹き出してしまいました。
「大麻比古神社実は天足彦國押入命なるべし」
天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)
孝昭天皇の第 一皇子じゃないですか!
これは次回に続かざるを得ないでしょう。