2010年5月29日土曜日

天石門別八倉比賣大神御本記(おまけ)

まず
天石門別八倉比賣大神御本記 
天石門別八倉比賣大神御本記(2)
天石門別八倉比賣大神御本記(3)
天石門別八倉比賣大神御本記(4)
をご覧ください。

やっとここまでたどり着きました。
最終回のおまけです。
じつは一回アップしてたんですけど何を血迷ったのか削除してしまいました。
半分寝ながら書いてたら知らないうちに「削除」ボタンをポチッと。
うああ、と思った時には「確認」ボタンまで押してると言う始末。
耄碌じいさんと呼んでください。

で、おまけは「杉の小山の記」の序文です。
なぜ、序文を最後に紹介するのか?それは歴史の闇の.....、もういいか。
書いたのは「本居太平」。かの「本居宣長」の養子の方です。
これを頭に置いて読んでみてください。
現代語訳はおもいっきり砕いて書いてみました。
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阿波國矢野の人、柳の園の森眞秀、此書をもち来て、おのれにはしぶミかきそへよとこふによりて、いでやとて見れば、かしこの名西郡の矢野村にしづまりまします、杉尾の神社のゆゑよし記(しる)したる書なり。
そはもとより、ふるく傅はれる社家の記ありて、古代のかきさまに正文字(まさもじ)、眞假字(まかな)まじへてかきたるふミにて、ふとは、よミくたしがたき所〃あれは、その本書(もとつふみ)のまゝに、あらたに假字(かな)がきにあらためしるしたるなり。
そのかゝれたるは出雲國杵筑の出雲宿禰俊信翁にて、かの國の、さきの國造何かしの君の弟にて、今の國造の君の叔父になんあれば、いとも尊き神の裔(はつこ)にて、ふること学びのつたへは、わが鈴屋翁(すずのやのおきな)のをしえ子なれは、年久しく学ひて心ざしふかきひとになんあれば、此のふミにしるされたることゞも、ひがことあるべくもあらず。
いと尊くなむありけるを、本つふミは古記にて、所〃うたがはしき事どもなきにしもあらぬは、冩し巻(うつしまき)は人のうつしとるたびことに、うつしひがむる事もありてなるべし。
萬葉集一巻矢野神山の歌は柿本朝臣人麿呂之歌集に出(いず)と裏書に見えて、人麿呂大人の歌にもあらす。
又その國所も定めがたし。秋寝覚(あきのねざめ)といふ物には、伊豫國(いよのくに)と注したるもおほつかなきことなり。
これが外、後世歌は此萬葉の歌によりて題詠(だいよみ)などによめる歌なれば、その國所にはかゝわらねば、梓弓といふも枕詞にいへるのミにて、すべて證(あかし)とはいひかたきことなり。たしかなる事は續日本後記承和八年八月戌午、奉授阿波國正八位上天石門和氣八倉比咩神従五位下と見え、三代實録元慶三年六月壬午授阿波國正四位下天石門別八倉比咩神正四位上と見えたることは、いとも定かにまぎらはしき事しなければ、いと尊くなんありける。


阿波國矢野の出身で、柳の園の森眞秀という人が、この本を持って来て、序文を書いてよと頼んで来ました。
見せてみ、と言って見れば、名西郡の矢野村に鎮座なさってます、杉尾の神社の由緒を書いてある本じゃないですか。
それは、古くから伝わる社家の記録で、古代の文字を混ぜて書いてある文で、読みにくい所がいくらかあるため、その元の意味は変えないようにして、新たに仮名で書き直してます。
その本を書いたのは、出雲國杵筑の出雲宿禰俊信翁という方で、出雲の國の先代の何とか言う國造(くにのみやつこ)の弟で、今の國造(くにのみやつこ)の叔父さんに当たる人です。
とても尊い神様の子孫であるし、古典を学んだ事については、うちの鈴屋翁(すずのやのおきな:本居宣長)の弟子として、長年学んで知識もある人ですので、この本に書かれた事も、間違いがあるはずもありません。
とてもすばらしい本だと思いますが、元になった本は昔に書かれたものなので、所々疑わしい所が無い訳じゃありません。
と言うのも写本というのは人間が書き写した物なので、書き写すたびに、写し間違える事もあります。
萬葉集一巻にある矢野神山の歌は「柿本朝臣人麿呂之歌集」に書かれてます、と裏書にありますが、柿本人麿呂の歌じゃありません。
また、その書かれた場所も決定する事はできません。
秋寝覚(あきのねざめ)と言う本には、伊豫國(いよのくに)であると注釈がありますが、これも怪しいもんです。
その他の後から詠んだ歌も、萬葉集の歌のタイトルだけを見て詠んだ歌なので、その詠んだ場所には関係ないです。
梓弓と書いてあっても、単に枕詞として書いてあるだけなので、これが証拠とは言えません。
「続日本後記」に「承和八年八月戌午、奉授阿波國正八位上天石門和氣八倉比咩神従五位下」とあること、「三代實録」に「元慶三年六月壬午授阿波國正四位下天石門別八倉比咩神正四位上」と書いてあるのは確かな事なので、その事については、とても尊いことだと思います。

紀伊国 本居太平

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「本居太平」すっごく失礼な奴だと思いません?
人の本の序文に普通こんなこと書きますか。
うちのおやじの弟子で立派な人だとか言っておいて、書いてある事は昔の話なので
「間違って伝えられた事もある」とか「写し間違う事もある」なんて全然正反対の
事を言ってるじゃないですか。
こういうのを二枚舌って言うんです。
ましてや最後には「確かな事は『続日本紀』と『三代實録』に書いてある事だけ」
なんて、この「杉の小山の記」に書いてある事を全面否定してるじゃないですか。
ほんっっっっっとに最低な奴でしょ。
ただ、太平くんの立場に立ってみると「古事記伝」をやってた親父(養子ですが)の
弟子が師匠の本を真っ向から否定するような本を書いてて、さらに「序文を書け」
なんて持ってこられたら、これは困りますよね。怒り狂うかもしれません。
でも著者はなんと出雲の國造の叔父。軽々しく断りもできないでしょうね。
この本を持って来た「森眞秀」という人がどんな人だかよく判りませんが、想像するだに
「本居宣長」のお弟子の書いた本だから息子に序文を書いてもらおう、なんて軽い気持ち
で持って来たんじゃないでしょうか。
想像すると人間関係も見え隠れして、なかなか面白くないですか。

さてさて、書きたかった事も、書けなかった事もまだたくさん残ってますし
宴もたけなわではございますが、時間もよろしいようですので、このあたりで
お開きとさせていただきたく存じ上げます。

おみやげに、少しばかりのお写真をお出しいたしますので、ご覧くださいませ。
お足下にお気をつけて、お帰りくださいませ。


山頂の祠
山頂近くの四国電力31号鉄塔より北東に向かって
大泉神社手前より眉山を望む。つまり名東、加茂名方面。
真正面あたりに高崎八幡。
国府町敷地付近より気延山北面を望む。
左下に御寄神社

5 件のコメント:

  1. イコピコのひとりごと2010年5月29日 14:51

    ぐーたら先生。こんにちは。どのようなお仕事をされているのか存知上げませんが、いつも貴殿のユーモアあふれる文章と、難解な漢文を器用に読み下され、さらには私のような興味本位であちらこちらと渡り歩く、ブログサーファー!?のこころを見事につかんで離さない新鮮な切り口のコメントに滲み出る、卓越した文章力に羨望する今日この頃です。私ももう少し県立図書館に通って読書に励んでいれば良かったのに。ふくよかな水着のおねえさん見たさに、ヤングマリンに通うようになったのがすべての間違いで(ローカルネタでごめんじょ)。なつかしい風景と楽しい話題をいつもありがとうございます。引き続き私たちファンを楽しませてくださいね。(合掌)

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  2. to イコピコのひとりごと さん
    いえいえ、しがない事務系の勤め人でございます。
    中央公園内の県立図書館には夏休みによく通いましたが、ほとんど児童書の部屋にしか入っておりません。
    宿題をかたづけにいくつもりが、図鑑類を引っ張りだして空想にふけるばかりでございました。
    今は、いかがわしい妄想に耽っております。
    ヤングマリンは交通の便と料金の高さでほとんど行っておりません。
    行ったのは、水が汚いので有名だった市民プールと、蔵本公園内のプールでございます。ふくよかな水着のおねえ様がたは皆無でございました。
    後年、北の脇海水浴場にはじめて行った時は、この世の楽園ではないかと感激の涙が滂沱のごとく頬をつたいました。
    まじめな話題の中に、腰が抜けそうな、おバカなフレーズを入れるのを生きがいとしてブログを綴っていく所存でございます。
    これからもお付き合いいただければ望外の喜びでございます。(神意如嶽、神恩如海)

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  3. >いとも定かにまぎらはしき事しなければ
    ここにこいつの馬鹿っぷりがにじみ出ておりますね。
    まあ、何も知らずに「杉の小山の記」だけを初めてみればこうなるのも当然ですか。
    ところでそのころ(どのころ?)、金槌の私は野郎どもと吉野川の流れのゆるいところで水遊びしてました。
    泳ぎの達者なやつは向こう岸まで泳ぎ切るんですが、流されながら斜めに泳ぐので、泳ぎ着くころには大分下流へ行ってました。
    あのころは毎年子供が吉野川で溺れ死んでましたね。
    ちなみに図書館などという文化的な施設はありませんでしたが、私は学校の図書室ではいつも戸川幸夫とか椋鳩十の動物ものしか読みませんでした。
    ○○犬物語とか、鷹匠物語とか、人と動物のふれあいがテーマの本ばかりでした。
    その戸川幸夫を今検索したら、著作に「ヒトはなぜ助平になったか」というのがあって、ぶったまげました。

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  4. to のらねこ さん
    そうですね、よく考えてみれば、今この本を出版したとしても同じでしょうね。
    180年前と状況が変わってない事に驚きます。
    ところで(笑)、その頃のうちの近辺では川での水遊びは完全禁止でした。
    吉野川も鮎喰川も河口近くになって子供が泳ぐには無理でしたから。
    それでも溺れてしまう子供が、毎年ではないですがいたのを憶えてます。
    ちょっと大きくなってからは、プールだけでなく、まだあった沖の洲の海水浴場にも行ったりしてました。それも埋め立てられて、なくなりましたし。
    >「ヒトはなぜ助平になったか」
    それはすごい。ぜひ一読してみたい本ですね。
    椋鳩十は大人になってから読んで、なんでもっと早く読まなかったんだと思ってしまいました。
    眠れない夜はいろいろ思い出してしまいます。

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  5. イコピコのひとりごと2010年5月30日 8:11

    うわ~。とんだ古代史の話題にしてしまってすみません。ところで、ほのころ(お前昭和何年生まれなんなぇ)、近所の園瀬川は、基本的に遊泳禁止でしたが、小学校にはプールがありませんでした。夏になると簡易プールは設営されたり、ちょと前は園瀬川に綱を張り、遊泳エリアを作って泳いでいたのです。たしか場所ごとに立て札があり、「およがれん」もしくは「ひとりでおよがれん」というものだったように記憶しています。沖の州にも津田にも海水浴場がありました。水泳のあとは生姜入りの「あめゆ」を飲ませてくれました。給食の牛乳は小4からで、その前は「はと茶ミルク」と云う名称のハト麦入り脱脂粉乳をブリキの食器で飲んでいました。まあ、毎年おぼれて死ぬやつがいたけど、水中めがねとツキ(金つき)を持ってもうほこらじゅう、潜りまくっていましたね。あと椋鳩十。たしか小学校の教科書が光村書店で、なんじゃらじいさんとガンとかいうんだったように記憶しています。じいさんがガンを助けるんですが、猟師のくせに助けるんよなほれが。フェアな戦いを挑むじいさんに男を感じた少年時代でした。

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