2011年5月4日水曜日

伏線になるかな

最近ちょっと横道にそれる事が多いような気がします。
でも、これは書いておかなくちゃいけないような気がしますので
お付き合いください。
日本の神様や神社の分け方として、天津神系、国津神系とか天孫系、出雲系
などの分け方が一般的であるようです。
で、その中の「出雲系」といわれる神社についてなんですが。
この呼称について納得できない方も(一部に(笑))いらっしゃると思いますが
それはさておき。
阿波の国において延喜式式内社として祀られている神社のうち「出雲系」の神社
として下のような神社が挙げられます。


式内社 阿波國美馬郡 建神社
旧村社
御祭神 建速須佐之男命
徳島県美馬市脇町猪尻建神社下南1


式内社 阿波國阿波郡 事代主神社
旧郷社
御祭神 事代主命
徳島県阿波市市場町伊月字宮ノ本100-1


式内社 阿波國麻殖郡 天村雲神伊自波夜比賣神社二座
旧無格社
御祭神 天村雲命 伊自波夜比賣命
徳島県吉野川市山川町村雲133


式内社 阿波國勝浦郡 事代主神社 
鎮座地 徳島県勝浦郡勝浦町沼江字田中71
御祭神 事代主命


式内社 阿波國名方郡 多祁御奈刀弥神社
旧郷社
御祭神 建御名方命
徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪213-1


式内社 阿波國名方郡 大御和神社
阿波國総社
旧県社
御祭神 大己貴神 大山咋神
徳島県徳島市国府町府中644


式内社 阿波國名方郡 御間都比古神社
旧無格社
御祭神 御間都比古色止命
徳島県名東郡佐那河内村下モノミ石74-2


式内社 阿波國勝浦郡 勝占神社
旧郷社
御祭神 大己貴命
徳島県徳島市勝占町中山26


式内社 阿波國那賀郡 八桙神社
旧郷社
御祭神 大己貴命 他 三十四柱
徳島県阿南市長生町宮内463


県内広範な地域にまたがっていますが、いわゆる「長国(ながのくに)」にあたる
場所に存在しています。
阿波には「那賀」という地名があり、旧事本記、続日本紀にいう「長国(ながのくに)」
であり、蜑(あま)の男狭磯(おさし)で書いた日本書紀の允恭天皇紀に見られる
「長邑(ながのむら)」のことです。
この「長邑」の中心に当たるのが御間都比古色止命(みまつひこいろとのみこと)を
御祭神とする阿波國名方郡 御間都比古神社であると考えられます。
御間都比古色止命は新撰姓氏録によれば「長公、大奈牟智神児積羽八重事代主命之後也」
とあり大己貴命(おほなむちみこと)の子孫だということです。

では、いわゆる「出雲系」の神社の分布を見ると
出雲、隠岐、石見、播磨、摂津、和泉、紀伊、阿波
と一つの範囲が想定できます。
また銅鐸を見ると、阿波国から40個が出土しています。
出雲からは50個、それに比して大和からは16個と圧倒的に少ない数です。
これらの事から出雲から播磨、そして阿波までの大己貴命を祖先とする「出雲族」
阿波から見ると「長邑」の「長族」の範囲が見えてくるのではないでしょうか。

では、「長族」(以降はあえてこう書きますけど)はどこから来たのか?
以下の事はワタクシめが勝手に書く事なので信じなくてもかまいませんが、どうも
最近インドが気になって仕方ないんです。
最近古代の日本人について考えた事では「那智山青岸渡寺」の縁起として

仁徳帝(313~399)の御代に印度より裸形上人が(釈尊入滅後882年頃)一行六人と共に熊野浦に漂着し、熊野の各地を巡歴し那智大滝に於て観世音を感得し今の堂の地に庵りを造り、其後推古帝の時に(593~629)大和より生仏と云える聖が来て、玉椿の大木に如意輪観世音彫刻し、前の観世音を胸に納められたと寺伝されている。

と紹介しました。
滋賀県東近江市にある天台宗の寺院石塔寺(いしどうじ)は山号を
阿育王山(あしょかおうざん)といいます。
そうです、インドのアショーカ王の名がついています。


石塔寺境内にある石塔の中、三重石塔については、次のような伝承があるそうです。

平安時代の長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中、五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」と聞いた。
寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。3年後の寛弘3年(1006年)、播州明石(兵庫県明石市)の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏した。
そして、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、武士の野谷光盛なる者が、石塔寺(本願成就寺)の裏山に大きな塚を発見した。
野谷光盛と天皇の勅使平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号した。


眉唾ですか?

しかし記録としては、紀元前308年~紀元前257年、アショカ王がインドの辺りから
東西南北に仏教宣教師団を派遣しています。
その数、東西南北の一方向につき、護衛の軍隊を含めて1万人にも及び、5年毎に
会議を開いて報告させたことが、岩に刻んで記録されているということです。
西に向かったグループは、エジプトのアレクサンドリアで仏教を布教したことが
エジプト側にも記録が残っており、その他、シリア、マケドニア、チレニア
イピルス等の国々で布教したことが記録されていますが、東に向かったグループの
記録が残っていないそうです。
で、どんな地方へ向かったかの記録を見てみると
「アパランタカ(Aparantaka)」へ向かった一団があります。
通説では「アパランタカ(Aparantaka)」は
上の画像にあるようにPanjabの西ですが、後世、中国語で記録された遠征の記録では
「アショーカ王とインド思想」参照
中国語表記で「阿波蘭多迦」となっています。
偶然ですよね。

もう一つ、卑弥呼女王国の中の小国群「旁国」の一つに「巴利国」という国がありますが
これは古来中国でパーリ聖典のパーリを「巴利」と書く当て字と全く同じで、パーリコク
としか読めない、というのも偶然でしょうね。

出雲の伝承に「祖先は毒蛇と象の国から来た」とあるのを書きました。

「長国(ながのくに)」は徳島の研究者の間では「ナーガ(蛇)の国」の事
だとよく言われます。

インドから渡来した一団が出雲に上陸し、播磨を経由して阿波国「長国」を
形成したいう推定は穿ち過ぎでしょうか。
そう考えると銅鐸にしても初期の梵鐘と見る事も可能です。

まだまだ、書き足りません。
「那賀」「那珂」の地名との関連、「長国造(ながのくにのみやつこ)」である
「韓背足尼(からせのつくね)」との関係、「息長氏(おきながし)」との軋轢
「奴国」との関連等々調べるほどに泥沼です。
他にも書きたい事がありすぎるのに時間がない。

こんな感じの事でよければ、もうちょっと書いてみますがいかがでしょうか?

最後にもう一つだけ、インドは中国では「身毒」「天竺」とか呼ばれてましたが
正しい発音は「インド」であり語源は「インダス」から来ています。
で、唐の僧玄奘三蔵による「大唐西域記」には「インド(indu)」は「月」のこと
であると書かれているそうです(原典未確認)。
そして「長族」「出雲族」インド渡来説を頭に置いて「月読命」の素性を考えるとき・・・

いやぁ、それはないっすよね。いくらなんでも(なんのことやら)
今回は訳分らないでしょ。

10 件のコメント:

  1. アショカ王による仏教宣教師団が日本にも来ていたとするならば壮大なロマンですね。いつもながら、ぐーたらさんの発想は深い洞察を感じます。

    アショカ王の時代には文字があったので、それが日本にも伝わって何らかの形で残っておれば、仮説が事実に近づいていくと思います。ただ梵鐘はインドではなく中国がルーツだったように思いますが。

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  2. to カルロス さん
    三国一のなんとかっていうでしょ。
    日本、唐、天竺、新羅とか高句麗じゃなく天竺。
    むちゃくちゃ遠いように思うんですがなぜか入ってるんですよね。
    そこら辺りからも気になって仕方ないんで世迷い言を書いてみました(笑)
    宣教師団が1万人規模で東方(中国以西)に派遣されていたなら、その一部数十人から数百人が朝鮮半島、日本へ来ててもおかしくないような気もします。
    で、ここから長族へ結びつけることができるのかどうかってところですね。

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  3. 伊古彦ちゃん2011年5月4日 13:14

    ぐーたら先生。こんにちわ。(ぺこり)
    まあ。仏教研究家であり、悉曇(シッタン)・サンスクリット研究家でもある、拙者・伊古彦ちゃんからお手伝い的に応援するとしたら・・・。
    皆さんが宗派を異にしても周忌ごとにお寺さんが書いてくれる卒塔婆。正式には「ストゥーパー」ですが、あれに書かれる文字は、下から、「地(ア a)、水(ヴァ va)、火(ラ ra)、風(カ ha)、空(キャ kha)」の梵字による種字を、裏には仏教の智慧をあらわす金剛界の大日如来の種字鑁(バン van)を梵字で書くことが多いです。
    で、何が云いたいかというと、一番上の種字は「ソラ(空)」。つまり空の人。徳島人なら、一度は聞いたことあるんでないで?
    それから「ナーガ」に関して若干補足させて頂くと、以前私が怪しいと云い続けた「中津峰山」。頂上に石積の岩境が建造されているのと、中腹のお寺には如意輪寺があり、この如意輪観音さまは、弥勒菩薩と同じ半跏思惟像なのである。
    また中津(ナカツ)という字名、多家良(タカラ・・他から)と云う音韻を考えると、あながちぶれてはいないとおもえるのだが・・?!

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  4. to 伊古彦ちゃん
    銅鐸に刻まれている文様が文字ではないかとの推測もあるようですね。
    今度、ちゃんと調べてみようかな(「かな」ってついた時は大体すぐに忘れてしまうですよねぇ)
    那賀川の上流の方も「ソラ」って言うみたいですね。
    で、「ナーガ」については多分もうちょっと書けそうなので、気長に待っててね。
    (なので、タイトルがこうなったのよ)

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  5. 伊古彦ちゃん2011年5月4日 21:56

    なるほどね!(笑)
    楽しみに首をナ~ガくしてお待ちしております。

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  6. to 伊古彦ちゃん
    座布団一枚!!!

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  7. 事代主命を祖とする富家(出雲大社上官家)の言い伝えでは、
    インドのドラヴィダ族が北経由で出雲に来たそうです。

    その家の言い伝えでは、タケミナカタはコトシロヌシの子
    のようです。

    秦の徐福が彦火明命でスサノオの事を指しているそうです。

    天村雲命の海部氏系(紀氏、忌部氏、尾張氏、多氏など同族)と
    才の神信仰の大国主、事代主の出雲族が、天村雲命を
    初代王(神武)として倭の国で王朝を開いたそうです。

    これはその家の伝承なのですが、私はこの倭が阿波だと
    考えています。

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    1. ごぶさたしてます。

      >インドのドラヴィダ族が北経由で出雲に来たそうです。
      情報ありがとうございます、ボクはそこまで調べられませんでした。
      秦の徐福云々は「宮下文書」でしょうか?
      偶然かどうか、今その辺りの資料を探ってます。
      また、海部氏系(紀氏、忌部氏、尾張氏、多氏など同族)についても「阿波國続風土記」関連文書で見つけたものもあり、あまりの偶然にホントに鳥肌立ってます。
      事代主命の海神としての系統がかすかに見えてきたような気がします。
      ありがとうございます。

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  8. こんばんは!
    コメントは久しいのですけれど、いつもお勉強させて頂いてますよぉ。

    藤ノ木古墳から 出土した品々を見ているとね、
    ダイレクトに 何かが伝わったのではないかなぁと・・・。
    歴史のひよっ子は、思っているのです。。。
    笑ってやってください。。。。。^^)

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    1. お久しぶりです。
      諸般の事情で長らくコメントできませんで失礼いたしました。
      藤ノ木古墳は直径50メートルを超える非常に大型の円墳ですので、よく言われるように比較的新しい規格(ポリシー)で作られた古墳なんでしょう。
      古い古墳は必ず小さいのです。
      築造年代は6世紀後半から末期あたりと推定されておりますし、学芸員さんはあまり認めてないですが鳴門の大代古墳の埋蔵物も奈良の手本であるように思えます。
      なんてね♡

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