2012年4月29日日曜日

鳴門市大麻町 天河別神社

あきません、せっかくのゴールデンウィーク(ゴールデンウィークなんて
関係ねーやって人もいるでしょうけど、そこはすんませんとしか言いよう
無いですけどね)だというのに毎年の「五月鬱」ですな。
ボクの場合双極型なんで躁の時は動けるんですけどね(笑)
(マジ、今年の鬱はひどいや。生きてるだけで、めっけもんてな感じですわ、ホントに呼び出しでもない限り動けんもんね)
で、動ける時に外で食事したりするんですが、オヤジなんで最近クドいものが
減って来て、こんなとこで
(石井町浦庄の「そば好」最近ちゃんとしたソバ食べられるとこが少ないんですね)
こんなのを食べたりしてます(一応大盛り)。
ではまた(こればっか)。
でも、ホント最近「それらしき」ところにあまり行ってなくて、写真も前のモノですが。
なおかつ、皆様方(どこの)おいでになってる場所でしょうから目新しくもないという
ことで、ほとんどご紹介のみとなりますが、ご勘弁を。
鳴門市大麻町池谷の「天河別神社」でございます。
場所はここ。池ノ谷隧道東側を「すぐ」南に。

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御祭神 
ん〜、徳島県神社誌では天石戸別(あまのいわとわけ)命となっております。
これはちょっと後で。
言わずと知れた「天河別神社古墳群」に鎮座する神社でございますが
創立年代不詳
これも徳島県神社誌より
「阿波志」には「松童祠 池谷村に在り」と記されており、また「寛保改神社帳」には
「池谷村松童権現 別当池谷村宝撞寺」とある。大谷村八幡宮(現宇志比古神社)の末社
であった。明治三年天河別神社と改称した。
 とあります。
 で、御祭神ですが「天河別命」と書いてあるものもあるし。
天河別命は天富命の父とか書いてあったりもして訳分んない。
(天富命の父なら阿波忌部系図を見ると天櫛耳命ってあるしねぇ)
 また宇志比古神社の末社であったとの記載を考える・・・とめんどくさいので(おいおい)
でなく、ちょっと外れて行きそうなので(ホントは全然外れてないんだけどね)
ちょっと置いといて。
ちなみに奈良時代の「朝野群載」にも「天河別神」って載ってますけどね。
で、ご本殿がちょっとショボイ。
はさておき(置いてばっかりですな)
ご本殿は県指定史跡・天河別(あまのかわわけ)神社古墳群の1号墳上にありまして
1、2号墳で竪穴式石室が見つかり、築造時期は当初4世紀前半であると言われて
おりましたが、天河別神社1号墳は、県内最古の古墳であり、国内最古級であると
言われて来た西山谷2号墳より、さらに数十年古い3世紀後半に築かれたものであると
推定されています。
 また、この2例の築造年代は土器の破片などから近畿地方で見られる同様の竪穴式石室
よりも古い時代であることがわかってきました。これは近畿地方の竪穴式石室の起源が
現在の徳島県と香川県にあたる阿讃地域にあるとする仮説を裏付ける発見であると考え
られています
ここらは「広報なると」より。
 ただし、今はやはり大麻町の萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)が3世紀前半の築造と
言われておりますので国内最古の地位は明け渡しております(笑)
にしても、ここ大麻町近辺には「萩原墳墓群」「天河別神社古墳群」「宝幢寺古墳群」
などの最古級の古墳群が点在している、すっごい地域ではあります。
なぜか2号墳の写真は分んなくなったのと、3号墳はなんでか看板がなかったので
割愛します(写真じゃふつ〜の丘と見分け着かないから)
5、6号は迷いそうになったのでヤメました(笑)
さて、これで終われば一段落、って思ってたんですが
ちょっと上で書いた「朝野群載」にね困った事が書いてあるの。

板東村と大谷村との山の奥に あまがつぶといふ高き山有り、古へ天河神社てふは是なり
後池谷村に移し祭りて松童権現といふなりとみつ、いともくすき事なる、まゝ人のあやし
といふべきことながら書記しける

松童権現の前には「あまがつぶ」という高き山にあったそうです。
で、また困った事に「あまがつぶ山」があるんですわ。

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「天円山」と書いて「あまがつぶ」と読んでしまうんです。別名天ヶ津峰(あまがつみね)。
頂上には「天ヶ津神社」があります。
まだ登ってないのに書いてしまうのは、ちょっとなんですが。
その「天ヶ津神社」には伝承がありまして、神社鳥居の前の由緒書きに

祭神は天錐命(天鈿女命)である。天照大神の岩戸隠れの折、ホトを丸出しで踊り大神を引き出した女神である。やがて瓊瓊杵尊に従って天下るとき、出迎えた猿田彦命と連れだって天下った。猿田彦命は西の大麻山に祀られ、天錐命は猿田彦命と相対してこの山に鎮座されている。以来大麻山に棲む猿が峰伝いにこの山に遊びに来た。


とあるそうです、誰か登って見て来て下さい(←お前が行けよって?そうですなぁ)
じゃあ、御祭神は「天鈿女命」?天石門別の系譜に加えられるべきでしょう。
主祭神じゃないかもしれませんね、6号墳まであるし。


大麻比古神社にしても明治以前は主祭神は猿田彦命とされておりましたが・・・

ならば・・・

ここから先はまだ書けません・・・

鬱のせいだけでもなくてね。

2012年4月22日日曜日

契約の箱

4月22日(日)付け 徳島新聞連載「阿波っ子Times」より。
小・中・高校生向けのページですが。
いや、凄っいなぁ。
上の画像はクリックすると拡大するはずですので、ゆっくり読んでみて下さい。
紀元前587年エルサレムが滅ぼされた時、行方不明になった、十戒の記された
石盤が納められている「契約の箱(アーク)」が剣山に隠されていて、四国に
ユダヤの王国を築いた、と言う説を「小・中・高校生向きに」
説明しています。
また、日ユ同祖論や旧約聖書と日本神話との類似点にまで言及するという豪華版。
日本語とヘブライ語の類似に着いても書いてます!!!
大杉氏が泣いて喜びそうな内容っすねぇ。
いやぁ徳島新聞さん、マジすごいっすねぇ。

でも、これじゃ入試には役立たんでしょう(笑)。

2012年4月21日土曜日

「樫原神社を綺麗にせん会!」開催報告

G「あ〜、たるいなぁ。ゴミ掃除ってかよ、うわっ晴れてやんの」
K「え〜っ、マジでやるんスかぁ」
G「どしよっかな。ブログでやるって書いちゃったしなぁ」
T「ま、行くだけ行って、写真撮って、やったって書きゃいいっしょ」
G「それいいね、でも誰かが後で行って『ゴミ減って無いじゃん』とか言われたら?」
K「じゃ、家からのゴミ撒いて増えてましたって書けば?」
G「すげぇ、それは発想の外だな、いただき!」

てなことは、決してございません。

イニシャルにも全く意味はございません(笑)。

ちゃんと行って参りました。
で、みんな早いの。
9時って言ってたのに、8時45分に着くともういるの。
会長の立場が無いじゃない。
(やっぱ会長なんて言ってるわ)
桜はすっかり終わっていたものの、なんとか雨も降りませんでした。
というか、陽も射して来てけっこう暖かな日和でございました。
これも日頃のワタクシの行いの良さと人徳というものでしょう。
(石は投げないで下さい、石は投げないで下さい)
それにしても、ここ樫原神社にこんなに多数の車が集まった事があったでしょうか。
多分あったでしょうけどね(笑)。
掃除は簡単に済まさせていただきました。
とは言っても各自ゴミ袋、数袋づつにはなりましたが。

きよっさんが「これだけ?」って感じでいたのは気付いてましたが、全部取りきれない
のは前回来た時に感じてましたし(さらに奥には結構な量があるの)ブログで告知
して、このようなご報告をさせていただく事で、一応の役目は果たせたのではないかと
思っております。
(きよっさん、掃除の後、もう無いはずの桜の花びらが降ってたでしょ、あれは神倭伊波礼琵古命がもういいよって言ってるシルシだと思いませんか?)

また、おいでになる方が、捨てられているペットボトルの1つでもお持ち帰りいただける
気持ちになっていただければ「良し!」でありましょう。

さらには、今回「たろさん」にも、ご参加いただきまして貴重な「バカ話」をすることが
でき楽しい一時を過ごさせていただきました(笑)。(←なんで(笑)がつくんだ)

「たろさん」「きよっさん」ありがとうございました。
また「妄想」の話で盛り上がりませんか(笑)

ご同意をいただきながら、ワタクシめの勝手で参加いただけなかった皆様方にもこの場で
心よりの謝意を示させていただきたいと思います。

またの機会があれば、ぜひとも「ぐーたら」抜きでも(笑)ご参加くださいませ。

ありがとうございました。

2012年4月15日日曜日

土成町 樫原神社

ちょっと間が空いてしまいました、かな。
またまた、知ってる人は知っている有名どころではございますが
ようやくにして、行って参りましたので書かせていただきます。
すえドンさんのブログにも書いてあるので、ダブルんですが
そこはそれ、ということでね。
阿波市土成町樫原山ノ本 樫原神社
鈴川山に鎮座いたします。

場所はここ

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入口がひじょーに分りにくいので写真も載せておきます。
東(熊谷寺の方)から行けば左に山本光学の建物を見た辺りから山の方へ入ります。
斜めにじゃなくて、直角に入るところ(分りにくいなぁ)。
ポニーの居る自販機まで行くと行き過ぎ。
御祭神
徳島県神社誌には「神日本磐礼毘古之命(かむやまといわれひこのみこと)」と記載され

『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)
『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
若御毛沼命(わかみけぬのみこと)
狹野尊(さののみこと)
彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。
「神武天皇」のことです。
創立年代不詳
明治32年山崩れのため社殿埋没のため大正七年再建された。天保十二年(1841)の
棟札が残っている。
徳島県神社誌より
とあります。
知ってる人も信用しがたい「奈良県橿原神宮」の元社と言われている神社です。
詳しくは、今回は書きませんが。
この付近は和名抄に記されるところの秋月郷にあたる場所でありまして
平城京跡出土木簡に
「阿波国阿波郡秋月郷庸米物部小龍一俵」との記載が発見されております。
さらには、(まだ詳しく書いてませんが)田上郷戸籍断簡にも秋月郷の記載が
見えるのは有名なところです。
画像は田上郷戸籍断簡の一部
ま、そこらは余談ですが
お参りさせていただいて一つ見つけたのが
地神塔が二つある。
この様式も始めて見ましたが。
つまりはここに元あった神社社地に樫原神社が移設されたということです、300m先から。
鳥居は?と見れば、内側の鳥居が
「鈴川神社」となっております。
これはうちの奥様が見つけたんですが
「社名が違う」などとほざいて仰っておりましたので見てみれば確かに!
「鈴川神社」となっておりますね。
この「鈴川神社」は徳島県神社誌にも土成町史にも記載されておりませんでした。
ここらの由緒が分れば面白いんですが。
それにしても「鈴川神社」とはね。五十鈴川を連想させますね。
当然の事ながら、今は「樫原神社」とのみあるだけです。
平然と十六菊の神紋が輝いております。


ちょっと資料を探す時間が取れずに(←また言い訳)詳しく書けないのが残念
なのですが。
最後に、ここの裏山を覗いてみれば
この有様!!!
拾えるものならと思いましたが、用意もしてないし、拾える量じゃない!
ペットボトルだけじゃなく、家電製品のゴミなんかも捨ててある!!!
来週は分りませんが近々もう一度行って拾える分は拾ってくるつもりなんですが・・・
なんか、裏に呼ばれてるような気がしたんですよ、ホントに。
後で撮って来た写真を見てみても。
(一番上の神社入口からの写真)

右端の御神木が泣いてるでしょ。

2012年4月8日日曜日

摩盧山 正寿院 焼山寺

前回ちょっと言ってた面白そうな話とは別の話です。
資料を入力するのが間に合わないんで、ひとまず棚上げしときます。

昨日の土曜日やっとこさ時間ができたかなと、お出かけしようとして
たんですが、急に所用が入って中止。
1時間くらいして、やっぱ行けるわって、もう訳分んない。
こんな時はホントは出かけちゃ行けないパターンなんです。経験上(笑)。
でも、出かけてしまいました。(前置き長いなぁ)

史跡公園の桜も満開。
石井、農業大学の夜桜もビューティフル(ゆうべね)。
 
神山のしだれ桜を横目で見ながら目的地へと(目的地はナイショ)。
下分から岳人の森を経由して、と山道を進むと。
嫌な予感。
天気も雨から雪へと変わってきました。
まだ上那賀へも入ってないのにこれは、まずい。
そして・・・
「オーマイガッ!!!」
4月7日ですぞ!。
そりゃ、考えが甘かったと言われりゃそれまでですが。
FFのノーマルタイヤじゃどうにもなりません。
泣く泣く同じ道を引き返します。
このまま帰ったんじゃバカみたいなので、どっか寄ろうかな。
あ、焼山寺でいいや(この罰当たりモンがぁぁぁ!!!)。

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唐突に行ったんで、何を調べる訳でもないし、面白い話もありませんが。

焼山寺(しょうさんじ)は徳島県名西郡神山町にある高野山真言宗の寺院。
四国八十八箇所霊場の第十二番札所。摩盧山(まろざん)正寿院(しょうじゅいん)と
号する。
本尊は虚空蔵菩薩。深い山中にあるため、四国八十八箇所霊場の中でも随一の難所として
知られる。
また、阿波霊場三難所の一つにも数えられ「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と呼ばれる。
wikipediaより
こんな難所に車でふらっとお参りできるんですから、有り難いことですよねぇ。

まず駐車場に車を停めると、インパクトのあるお出迎えが。
では縁起などを、お寺の掲示板より。
本寺は弘仁5年(815年)弘法大師の開基にかかり摩盧山正寿院焼山寺と言う。

本堂に虚空蔵菩薩を祀り、大師堂には弘法大師の御像が安置されている。
その昔、この山一帯は毒蛇の棲む魔域で、しばしば大雨を降らし、或は大風を起こし、
また諸作物を害するなど災いをなし附近の人民にを虐げていた。
大師はかかる魔境をこそ仏法鎮護の霊域とすべきであると山を登られた。
大師の開創を恐れた魔性共は全山を火焔として聖者の行を阻み妨げたが、大師は恐れず
印を契んで敢然と登られるや、不思議と劫火は見る見る消え衰え、大師の法力により
天変地異あとを絶ち、楽土と甦った。
そこで山中に一宇を建立して、焼け山の寺と名づけ給うた。故に山号を魔盧山と呼んだ。魔盧とは梵語で水輪の意、すなわち火伏せに因んだ山号である。
今も尚、山上に毒蛇を封じたと称せられる岩窟があり、その岩頭に三面大黒天を刻んで立したと伝えられ、三面大黒天は現在、寺内に安置せられ、日本三体の一つとして其の霊験は所に聞こえている。
境内には国主蜂須賀公より寄進せられたる霊鐘ありまた、正中年には後醍醐天皇御宇霊跡して、清浄の地たること上開に達し、国家鎮護のため勅願の御綸旨を下され、今、寺宝とて保存せられている。
これより一キロ登れば海抜の奥の院に至る。その附近、護摩壇、求聞持の窟、せり割り岩、
閼伽の水、五葉の丸、杖立の峰など、大師ゆかりの遺跡、名勝が数多くある。



また

寺伝によれば大宝年間(701年 - 704年)、役小角(役行者)が開山し庵を結び蔵王権現を祀った。のちに空海(弘法大師)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(水輪)の印を結びながら進むと、山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願するととうとう大蛇を岩窟の中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したという。
wikipedia より

そして寺領内には「十二社神社」が祀られており。
 この付近の神社の別当寺であったここ焼山寺は、近辺の神社を合祀した「十二社神社」
を祀っておりますが、度重なる火災により、合祀した十二社の由緒、由来が完全に
無くなっております。
大分前に書いた左右谷の「稲飯神社」もここに合祀されているのではと思ったりも
いたしますが、今となっては調べる術もありません。

そして、ここ焼山寺には全国三指に入る(だったはず(笑))「三面大黒天」が
祀られております。
この三面大黒天は毘沙門天・弁才天と合体したお姿であります。
詳しいこと書いてると、まーた何かありそうなのでヤメときます(笑)。
写真もヤメとこうかな(笑笑笑)
帰る時には参道にこんなの発見。
「(大和魂)エンセン井上!」ナニしに来てんだよぉ!(お参りですよね、はい)
ブログ見ると、こう書いてあったけど。

えと、あと。
ここも寄ったけど、この衛門三郎の話ってナンか後味悪いんですよね。

という訳で、なーんも捻ってないんですが(ひねらニャならんのかのぉ)
焼山寺へ行ってきたお話でございました。
この日はホントに寒くて焼山寺でも雪がちらついてました。
ではでは。

2012年4月5日木曜日

天石門別八倉比賣神社 五穀祭

面白そうなの話があるので、週末に書けたら書きますが無理だったら楽しみにして
いただいてます皆様に申し訳ないんで、ちょっとだけ間つなぎに書きますね。

年の始め頃、天石門別八倉比賣神社前の参道に幟(のぼり)が立つ時。
(電話が架かって来て5時起きで立てに行くんだよ)

1月15日は特殊神事と呼ばれる「お粥試神事」が行なわれます。

それは日も落ちて誰もが眠りにつこうとする頃
神事に参加する地元の人々が静かに神社本殿に集まってきます。
(一部やかましい人もいたりします(笑))

深夜に行なわれるこの神事、一年の農作物の植え付けの割合を決める極めて重要な神事
なのです。

崩れかけの火鉢に鍋をかけ、竹筒で粥を炊きます。
その炊きあがり具合で占うのですが。
ちょっと古い資料より。

八倉ハ彌倉(いやくら)ノ意デ、八倉比賣ノ神號ヨリ考察シテモ、農業ノ守護神デアリ
又陰暦正月十五日ニ此社デハ五穀ノ豊凶ヲ占フ五穀祭ガ行ハレ、此ノ地方ノ人ハ占ノ
結果ニヨツテ播種ノ撰定ヲスルホド重大ナ祭デ、當日ハ賽者数千陸續トシテ参道ヲ登リ
雑踏ヲ極メル。

「数千陸續トシテ参道ヲ登リ」とあるほどの祭典でありました。
無論、この数千は占いの結果を受ける人々であって
(こんなのね、今年のもあるけど写真撮ってなかったから古いのね)
神事そのものに参加できる人はごく僅かであったことでしょう。
深夜に炊きあがったお粥によって播種の選定結果を書いたこの「年穀試」が
その場で作られ、配られます。
そして本当ならば、此の後日の出まで社殿で過ごし、日の出を迎えるのです。
が、さすがに最近はそーゆー訳にも行きませんので、解散するのですが
残りたい人は残ってもいいのです。

そして残ったほんの数人の人は数千年伝えられた「秘中の秘」とされている
儀式を目にすることができるのです。
そんな儀式があればね(笑笑笑笑笑笑笑)。

ま、上の3行はウソですけど「お粥試神事」は結構重要な神事でありまして
秋の大祭もそうなんですけど、1月15日は決して動かさないのです。