2010年9月29日水曜日

忌部神社遷座考(4)

忌部神社遷座考(1)


前回までの記事をお読みでない方は上の記事からどうぞ。


前回はどうも先を急ぎすぎて、説明が少なすぎたようでした。
いくらか、追加しておきます。

小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)
天保5年12月30日(1835年1月28日) - 明治43年(1910年)3月29日)国学者。
徳島の人。藩校で漢学経史を学び、古典の研究に専念し、本居内遠の門人である池辺真榛に
師事。
安政元年(1854年)、江戸に出て、村田春野、小中村清矩と交わった。
文久ころ、勤王論を唱えて幽閉された。
明治2年(1869年)、藩から地誌の編集、典籍の講義を命じられた。
廃藩ののち、名東県に出任した。
明治7年(1874年)、教部省に出仕し、明治10年(1877年)に文部省で修史館掌記として
『古事類苑』の編集に従った。
明治15年(1882年)、東京大学古典講習科で国文を講じ、さらに文科大学講師、
その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、国宝の調査に従事し、
明治32年(1899年)、美術学校教授、御歌所参候を兼ねた。
明治34年(1901年)、文学博士。「徴古雑抄」の著がある  Wikipedia より

池辺 真榛(いけべ まおり)
文政13年(1830)6月6日~文久3年(1863)9月8日 〔享年〕34

徳島藩士、国学者。池辺光友の長子として生まれる。
安政6年、藩主蜂須賀斉裕に召されて江戸に行き、政道の諮詢に答えたが、他に任用を
妨害され、空しく帰郷。
文久元年、南佐古町の某家に寄寓して著述に従事し、また志士と交わって国事を談じた。
3年春、小杉榲邨とともに藩政を非議した罪で、7ヶ月余藩邸に幽閉。
9月8日、急病のため歿した。
はじめ郷人の井上春城・吉成芳介に就いて学び、のち難波に遊学して、萩原広道に
国学・和歌を学んだ。
弘化5年、本居内遠に入門。その高弟となった。
『古語拾遺新註』『活語略図説』『栄華物語略註』など27部211巻を著わし、内遠に
賞賛されたが、現存しているものはわずか6部のみに止まっている。
うち『古語拾遺新註』は、昭和3年に明治聖徳記念学会の校訂により刊行された。
国学者伝記集成. 続編、 阿波人物誌より

と、まあ引用してみましたが、こんな紋切り型の説明じゃピンときませんよね。
でも、ここらを書き出すと一向に話が進みませんので。

そして、もひとつ追記ですが


>そして、孝義(たかよし)の養子となった正親は文政九年(1826)名を佐渡とします。
>そうです、
>「後、文政九年(1826)二宮佐渡が山崎村の神主として迎えられた」
>と書いた「二宮佐渡」はこの正親です。



と、書きましたが、なんで麻生から二宮かといいますと、美馬郡猪尻村八幡神社神主の
二宮出羽守が勝太夫の親戚で正親はその弟とあります。
神職の免許自体は麻生佐渡正で取ってるようですが、もともとが二宮姓ですし、二宮佐渡と
記載してある資料もありましたので、わたくしめも二宮佐渡としました。



えーと、先に進んじゃいます。前回で

1815年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足し、神社改めが
行われました。
徳島県では忌部神社が国幣中社として扱われる事となったのですが、前回まで
にも書いたように正式には所在が不明です。
候補としては川田種穂神社・宮島村(川島町)八幡宮・西麻植村中内明神・上浦村斎明神・
牛島村大宮等が挙げられていましたが、阿波藩より国の官吏となっていた
小杉榲邨(こすぎすぎむら)は明治七年二月二日、建言書において山崎忌部
神社が妥当であるとしました。
まで書きました。
で、この建言書の中で小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)は、木屋平村三ツ木三木貞太郎所有の
古文書。正慶元年(1332)十一月氏人十三名の契約書を、重要な証拠の一つとして挙げて
います。転記します。

御衣御殿人(みそみあらかんど)契約状
契約 阿波国御衣御殿人子細事
右件衆者御代最初御衣御殿人たるうゑは 相互に御殿人中自然事あらば是を実放聞放べから
す候。此上者衆中ひやう定をかけ其可有儀者也。但十人あらば七八人儀につき 五人あらば
三人儀につくべきものなり。但強盗山賊海賊夜討におき候ては、更に相いろうべからず候
上者 不可に入及。そのほかのこと一座見放べからず候。但 この中にいぎをも申しいらん
がましきこと申物あらば、衆中をいだし候べきものなり。此上は一年に二度よりあいをくわ
へてひやうぢやうあるべく候。会合二月二十三日やまさきのいち九月二十三日いちを可定者
也。仍契約如件
正慶元年十一月





明治四年の調査のとき、阿波藩の役人はこの文書を見ていませんでしたが、小杉榲邨
が明治六年(1873)国の命令で調査した時
この文書を見て、上記文書中「やまさきのいち」とあるので忌部の正蹟を確信したと
いうことですが、この調査を行ったのは「野口年長」。

1850年から調査に入り、明治四年にも調査している「野口年長」がこの文書を見ていない!
「四至立石(しいしたていし)」をも調査発見している「野口年長」がです。
確かに「山崎村忌部神社考」を見ても「阿波国続風土記」を全部ひっくり返してみても
その記述は見つけられませんでした。














ただ、含みがある部分として
「阿波国続風土記」の第五巻87ページ左の部分です。
「是より下次の巻に......日鷲神裔孫の成行木を記したるに......」

とありますが、無論この五巻目が最終です。
どこかに眠ってるのかもしれませんが、行方は知れません。


そして、この建言に基づいて、明治七年五月九日付けで、国は実地調査のため、官員を

名東県(今の徳島県)に出張させると小杉に口達しました。
明治七年五月十日付国から実地検査のため大沢清臣・清水重華が出張し、この時小杉榲邨
は名東県(徳島県)の役人でしたが、立ち会うよう命ぜられました。
その結果、明治七年(1874)十二月二十二日山崎忌部神社は国幣中社と決定されました。
こうして山崎村、国幣中社忌部神社の宮司は蜂須賀隆芳、同権宮司加茂百十が任命され
明治八年二月十三日祭典が行われましたが、
国幣中社に決定の上はそれに相応しい社殿の建造も必要なので、明治十一年より
度々営繕願を政府に出していましたが承認されず数年が過ぎていきました。

それは、明治七年(1874)十二月二十二日山崎村の忌部神社が国幣中社に決定されると、
それまで沈黙を守っていた貞光村が忌部神社は当方が正蹟であると言い出していたからです。

明治八年(1875)一月田村神社宮司細谷庸雄は「忌部神社鎮座考」及び
「忌部神社正蹟」三冊を著し、忌部神社正蹟は貞光村であると主張しました。
この田村神社って何?といいますと、香川県高松市にある田村神社のことです。
なぜ高松市の宮司が出張って来るのでしょうか。
小杉榲邨によるとこの細谷庸雄はもと種穂忌部神社の宮司で香川に栄転した人だそうです。
これに対して当時国の官吏となっていた小杉榲邨も「鎮座考辨妄」一冊を著してこれを
弁駁します。
明治九年三月には細谷庸雄は「正蹟補考」を出し前著を補正した所、小杉榲邨また
「正蹟補考辨」を出し両者が対面して討論に及んだ事もあったということです。

で、前回は山崎村側の主旨を出しましたので。貞光村側の言い分も挙げますと


1貞光村には忌部に関わる史跡、旧跡が多数残る
2貞光村村田国蔵所蔵の永禄の棟札がある。 この棟札には「天日鷲命四国一宮」と
あるので、真の忌部神社であるとする
3麻植氏系図、三好康長の願文、忌部市のあったこと。

などです。
さて、争いは、いよいよ泥沼化してきました。
いよいよと言えば松本伊代(ふっる〜)。
次回で両村の争いは一つのクライマックスを迎えます。

いや、ほんとに先を書きたいんですが、まだひと山ふた山ございます。
今日はこの辺でおやすみなさい。

2010年9月26日日曜日

忌部神社遷座考(3)

例によって、前回までの記事をお読みでない方は。

忌部神社遷座考(1)

忌部神社遷座考(2)を、先に読んでくださいませ。

前回は寛政十三年(1801)郡奉行の稲田武七郎、手代の三木名七が惣代と面談

し、中川式部を神主と認めれば山崎村忌部神社を旧態造営し朝廷へも奏上する

旨の調停案を示しましたが惣代らは当然納得せず郡奉行は引き下がります。





その後、郡奉行より中川式部廃職の申し付けがあり、忌部公事は一応の解決を
見る。

まで書きました。
後日談として、竹次郎こと麻生織之進は決着の2年前、寛政十一年(1799)八月
身罷って(みまかって)おります。
ということは山崎へは帰らなかった(帰れなかった)という事でしょう。
また子息孝義(たかよし)は天保四年(1833)京都で身罷ったとの記録が
あるようなので、やはり山崎へは帰っておりません。
そして、孝義(たかよし)の養子となった正親は文政九年(1826)名を佐渡とします。
そうです、
「後、文政九年(1826)二宮佐渡が山崎村の神主として迎えられた」
と書いた「二宮佐渡」はこの正親です。
ようやくにして村雲勝太夫と竹次郎、山崎村民の願いは三代目という形で叶えられた訳ですが、
この二宮佐渡、翌年の文政十年(1827)二月に亡くなっています。三十九歳だったという事です。
さらに正親の子秀俊は、幼名志津馬といい、父の死亡時十歳で神職は勤められなかったはずですが、
天保十年(1830)志摩と改名しているので、この時跡目を継いだのでしょう。
嘉永三年(1850)には従五位下河内守となっているそうです。


さて、ようやく話は明治に入ります。
1815年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足し、神社改めが
行われました。
徳島県では忌部神社が国幣中社として扱われる事となったのですが、前回まで
にも書いたように正式には所在が不明です。
候補としては川田種穂神社・宮島村(川島町)八幡宮・西麻植村中内明神・上浦村斎明神・
牛島村大宮等が挙げられていましたが、阿波藩より国の官吏となっていた
小杉榲邨(こすぎすぎむら)は明治七年二月二日、建言書において山崎忌部
神社が妥当であるとしました。

当ブログを読んでいただいている方はご存知でしょうが、
明治二年(1869)阿波藩は新政府の「修史の詔」による正史編纂事業の開始を声明を受け
明治天皇の勅命として正史編纂プロジェクトを発足させました。
これが、「阿波国風土記編輯御用掛」で、その中心となっていたのが小杉榲邨です。
(やっと宣伝できたよ〜。ずっと更新できてないんでアクセス減ってます。ちなみに追加する
ネタはちょっとだけあるんですけどね。後藤家文書とか....)

建言書の画像です。
要旨としては
1.山崎村忌部絵神社は、今、王子神社と呼んでいるが、本殿は二社で王子神社と
天日鷲命(あまのひわしのみこと)社と並んでいる。
2.此の日鷲神社は忌部山の頂上にあったが応永の頃(1394~1428)地震のため
土砂崩れで現在の地に移設したと言い伝えられる。
御供田、其址古器もあるがそれは信じがたいが、旧地がある。
3.四至立石(しいしたていし)当地では四方詰の石といっている。屋敷や所領
の境界を定める石でこれがある。
4.木屋平村三ツ木三木貞太郎所有の古文書。正慶元年(1332)十一月氏人
十三名の契約書がある。
5.木屋平村三木家は忌部氏人の子孫で、天皇即位の時行われる大嘗祭には
御衣御殿人(みそみあらかんど)として麁服(あらたえ)を織進した家柄で
あり、忌部神社と深い因縁がある。
6.山崎村に忌部市といって、古来より毎年二月九日、九月二十三日市が立つ
時、三木家は五里余の道を遠しとせず忌部社に参詣している。
これ御衣御殿人(みそみあらかんど)十三人の契約に基づくものであろう。

などです。
ちょっと先走りますが、この後、貞光村との正蹟争いに発展した時の山崎側の
基本的な考え方が上の通りです。
ここで一つだけ出しておきたい資料がこれです。

















小杉榲邨の師である池辺真榛が著した「古語拾遺新註」です。
忌部神社の正蹟についてはこう書かれています。

阿波國忌部祖也、神名帳に阿波ノ國麻殖郡忌部ノ神社(名神大月新嘗、或ハ號ス麻殖神、
或ハ天ノ日鷲神社)と見え、和名抄に麻殖郡の郷名に忌部(伊無倍(イムベ))と見ゆ
此レこの神を祭れる社、また其氏人の住し郷名なるを、中古の亂世に二ノながらあらけ
失て、何地(いずこ)をはかとも定めがたくぞなりにける。
(今ノ世は麻殖ノ郡川田村棚穂ノ社に合せ祭り奉れる故、世ノ人多くは棚穂ノ社即チ忌部
ノ神社なりとおもへれど、彼ノ社は正殿伊弉諾伊弉冉二神を祭れる由なれば、もとより
別社なり。

簡潔にして種穂忌部神社を否定しています。
そして、面白いのが「四至立石(しいしたていし)」につき発見の模様が書かれています。
発見したのが、かの「野口年長」!
「阿波国風土記編輯御用掛」主要メンバーの一人です。
この「野口年長」が嘉永三年(1850)山崎村を調査した時に発見しています。
どうゆう経緯で調査したかは書かれていませんが、徳島藩校であった長久館よりの出仕
かな?と思ったり。(ここらは自信ありません)
で、その部分を転記します。

かくて、年長彼ノ村に往し時、彼ノ黒岩と云ふなる舊社地を巡り察けるに甚不審く
(いといぶかしく)巨大なる建石を見出せり、其ノ數四本にして四方にあり。
(其ノ中に辰巳隅に建てるは、殊に大にして、一丈餘もあり、又戊亥隅なるも大かた
おなじ、是は畠中に建チてたれもよく見知りたり)孰レも巨石にして、更に人造のもの
とは見えざる如くなれば、此は必ず方域の境界をしめす榜示ならむと思はれける故、
村長に就て、何の料に設し石なるやと問れしを、村長もいかなる事とも知らす。
年長云、若シくは此ノ石、類聚神祇本源に載たる寳龜二年太政官符に見えたる大社四方の
榜示ならむも計りがたし。
(類聚神祇本源の引用部分は略す)
量りたらむには知らるべしとて、後チに其ノ社の神主麻生氏をたのみて量らしたるに、
東西十一町、南北ニ七町許(ばかり)ありとて、繪圖(えず)に記しておこせたるを
見れば、案(おも)ひしがごと、大凡(およそ)大社の例、四至九町の制に合(かな)
へり。

これは、凄いですねぇ。村長も知らなかったのを「類聚神祇本源」の記載を基にして
測ってみるとぴったりという、シュリーマンもびっくりでしょう。

さて、脇道にそれてしまいましたが、全てパズルの一コマです。
ちょっと長くなりすぎたのと、続きがまた錯綜、そして二転三転の議論で
こんがらがってますので、整理して出直します。
では次回で。
(なんか、フォントが変なのがなおらないよぉ)

2010年9月23日木曜日

公園の掃除です

忌部神社遷座考の続きがまだ書けないので、ごまかしにかかります。
前の日曜日、阿波史跡公園の掃除に行ってきました。
公園の草取りとかです。このクソ暑いのに、長袖、長ズボンの作業着で首にタオル巻いて
軍手して、鎌持っての重装備です。
で、草取りをしてから公園愛護会の会長さんに頼まれて、「椿の実」をもいでいきます。
ここ、史跡公園には2000本ほどの椿の樹が植えられてます。
ここはまだましですけど、すっごい傾斜のところを昇り降りして、実を取ります。
ちょっと写真が見にくいですが鈴なりになってるのが判りますか?


こんな感じで成ってます。
これは中くらいの大きさです。
こうしてひたすらちぎっていきます。
で、これをどうするのかって?
もちろん油を取るのです。椿油。

これは熟れきって、ちょっと使えない実ですが、こんな実の部分を取り出します。

こうやって実を取り出して選別して搾油業者に出すそうです。
ちなみに10キロ採取して、中身はその1割から2割、搾油したら、その1割程度の
油が取れるそうです。だから、えーと、10キロの生実から油は最大200グラム
しか搾れません。
もちろん原価計算なんかしたら、軽く足が出ます。
で、出来上がりがこれ。


添加物なし、100%ピュア国産(県産)(町産)椿油です。
ヘアケアはもちろん、日焼け止め、家具の手入れ、刃物の保護、天ぷら用、炒め物用
と多彩な用途に使えます。
市販はしてません。イベントとかの時に配る程度だそうです。
ほーら、欲しくなってきたでしょう。

2010年9月22日水曜日

忌部神社遷座考(2)の訂正

前回記事で「民部」「式部」とか息子、弟など自分でも判りにくいな、と思ってたら
やっぱ、やってました。
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早雲民部は弟の早雲式部を連れ

この頃、神職が中川民部から息子の中川式部に変わっていたが
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ただしいのは「息子」です
よければクリックして見てください。
一番左のところ「中川式部」は嫡子となっています。
謹んで訂正いたします。

2010年9月20日月曜日

忌部神社遷座考(2)

えー、すえドンさんのチェックにおびえながら「その2」を書き進めます(笑)
享保年間の頃からの「忌部公事」の話からなんですが
この辺りは極力、さらさらっと流していきたいと思います。(先が長そうですので)
ただ、この辺りにも、ひじょーに重要なポイントがあります。
そして、あんまり詳しい説明を入れられなかったんですが、吉田神道、土御門家
白川家など朝廷や神祇家に直結するところに興味深いものがあります。
これ、もしかして(失礼な言い方をすれば)そこらの小説より面白いとおもいます。



事件は享保の末頃(1735)山崎忌部神社神主麻生家三十五代社常(たかつね)(勝太夫)
の時に始まります。
山崎忌部神社はそのころでも式内社として昔から世に知られていましたが長曽我部氏の寺社
の破壊により由緒が判らなくなった事もあり、阿波藩へ上申して、正式に忌部神社として認
めてもらいたく、山崎村惣代の人々と相談していたが、当時の川田村多那保神社神主早雲民部は
多那保神社が式内社忌部神社であると主張し、この争いは六カ年にも及びました。

藩もこの事情を知っていたにもかかわらず、この争いを無視し、一カ年が過ぎます。

正式な忌部神社として藩が認めれば、広大な社地を返還せざるを得なくなり、年貢収入が
ガタ減りになってしまうからなんですね。
今の税金徴収と同じ考え方です。

で、早雲民部は藩の家老長谷川近江の頭入(かしらいり)(藩士に納税する百姓)で主人と
従者の関係であったので当時藩の当職、山田職部は当然、早雲に加担する方向で動こうとします。

そこで村雲勝太夫(村雲社常)は密かに京都へ行き、朝廷へ願い出る方が有利と思って
元文五年(1740)十一月密かに上京しました。
そうです、この密かにというところが問題ですね。

この時神社の官領はは吉田家であったので、同家へ願い出た所、阿波国の副申がなくては
採用はできないと云われ、困っていた所、土御門家の雑掌(雑事を扱う役人)某に言うと
「土御門家へ入門して官服の免許を受けたその後、同家から官領の所へ願い出れば式社に
指定されるであろう」と、言われたので、元文五年(1740)十一月十五日、名を雅楽(うた)
と改め、土御門家へ入門しました。

ちなみに吉田神道(よしだしんとう)とは、室町時代京都吉田神社の神官吉田兼倶によって
大成された神道の一流派で、唯一神道、宗源神道とも言うそうです。
江戸期には神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたそうで勝太夫が願い出る
には適当だったのですが....
また、土御門家については、村上源氏、安倍氏、藤原北家と三家あるようですが、この時
京都梅小路にいた安倍氏が該当するようです。

そして勝太夫は京都に滞在して阿波藩の副申を待っていましたが、この村雲勝太夫の動きを
多那保神社主の早雲民部へ誰かが知らせたようです。

早雲は当然驚きます。このままでは山崎が認定されてしまう。
で、早雲は村雲勝太夫が関所破りを行って上京したと藩に訴えました。
藩は村雲勝太夫を帰国させ神職を剥奪し海部へ追放します(寛保元年二月四日)

早雲民部は山崎忌部神社外摂社、末社の神職を藩から命ぜられます。

このとき山崎村村民は協議して、村雲勝太夫の次男竹次郎に跡目を継げるよう藩に願い出
ましたが、藩は、竹次郎はまだ六歳なので十五歳になれば神主とするがそれまでは
早雲民部に神職をさせることと決定しました。
いわゆる先送りですね、六歳だろうが何だろうが跡目を継ぐのに関係ないような気がしますが。

村民は藩命に従い、檀那寺金勝寺へ預けられ、母は出里である阿波郡岩津の岩津家へ引き取られます。

村雲勝太夫が追放されて八年後の寛延二年(1749)十月二十五日頃、村雲勝太夫は密かに海部の
配所を抜け出て山崎村へ帰ります。
無論、竹次郎のことが心配だったのですね。
十一月一日海部の配所へ帰る前に忌部神社へ立ち寄ろうとしますが、その事を石本某が
知ることとなり早雲民部へ密告します。
早雲民部は息子の早雲式部を連れ拝殿で参拝をしている村雲勝太夫に暴行を加えます。
で、村雲勝太夫はこの暴行が原因で死亡するんです。

翌年(寛延三年(1750))竹次郎が十五歳となったので山崎村民は竹次郎相続の願書を
藩へ提出しましたが何の回答もなく、一年後再度願書を提出したがこれにも回答はあり
ませんでした。
先送りの効果が発揮されてます。

この頃(宝暦年中(1751~))場所は貞光村。
忌部神社の神主村雲左近が忌部神社の本宮は貞光であるとする確証となるべき神宝を
持って再びこの問題を持ち出していました。
ところが藩はこれに対して、密かに信仰してもよいが正式には公認しないと裁定しました。
山崎村の争議が関係してるかどうかは判りませんが、関係してたと見るのが妥当でしょう。
それで、本営を造営し、鳥居に弘仁五年(814)中、空海執筆の額を掲げたところ近国は
もちろん遠国まで評判となり、多数の参拝者が貞光へ入り込んで来ました。
それで藩は村雲神主と子の伊織を逮捕、入獄の上阿淡両国を父子共追放され、忌部正統の
証拠となるべき品々を没収され問題の額面は打ち砕いて川原で焼き捨てられました。
その時のご神宝は
忌部神社御神体
御鏡 御神号裏にあり
御棟札壱枚 元享元年辛酉十一月廿三日
大檀那北条相模守平朝臣高時公
右は社殿炎上の節祖先(村雲左近)宮内少輔広重と云者身命を投打炎の中より取除き末社
東山権現の社に隠し置たる者環御す
御長刀 天ノ一箇命の御作也
天日鷲命に御来臨の節御愛用の打物也。社殿炎上より百八十余年経て石塚中より出現す
御鏡 弐面 此度出現 日鷲命御子 櫛岩間戸命 豊岩間戸命 二神の御神体也
鬼面 壱面 櫛岩間戸命 御作也
其の外 小財宝数多くあるといえども記さず
宝暦四年(1754)戌◯十一月

御長刀 天ノ一箇命の御作也とありますね。
百八十余年経て石塚中より出現す、とあるので例の長曽我部氏の時失ったか、隠して
いたのが出てきたということでしょう。
この際、本物の天ノ一箇命の御作かどうかは関係ないんです。
そう伝えられる御物が出てきたという事が一つのキーになると思いますが、
この件はまた後で。


話は戻って、竹次郎は十五歳より山崎村民の子供等の手習いの教師となって神職相続の
認可を待っていましたが、五年経っても藩からの達しはありませんでした。

宝暦四年(1754)竹次郎は成人し、寺と藩の許しを得て京都へ出向く事とした。
早雲民部が未だ神職についている事と、父親が土御門家にいた事に倣ったのかもしれま
せんね。
当然早雲民部は大いに喜びますよね。竹次郎がいなくなれば己の旧悪が露呈する事も
無いですから。
氏子の家に出かけ釜祓や屋祈祷を行うようになります。
最初は村民只の一人も承諾しなかったが、早雲民部しか神事を行えないというのであれ
ば、ということで受け入れる家が増え始め百戸ほども受け入れるようになります。
そして早雲民部は、元の川田村多那保「権現」の社を京都白川家の許しを得て種穂忌部神社
と改め、自らも早雲より中川と氏を改めた。

白川家は、皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元
単に伯家ともいいます。
当時の勢力は吉田神道に圧されてました。


また、山崎忌部神社に残っていた神鏡を種穂忌部神社に持ち帰り、仮にと置いてあった
御霊代をも種穂忌部神社の神殿に納め、あろうことか山崎忌部神社に火をつけ焼いて
しまうという暴挙に出る。

山崎村の氏子たちは怒り早雲民部改め中川民部の神職剥奪と竹次郎の復職を願い出るが
藩は忌部社はすでに種穂と定まったこととして、取り合わなかった。

山崎村民は神の祟りがあるだろうと噂したが、豈図らんや気が触れる者が多数出、村内を
走り回る姿が見られた。

ここ、非常に象徴的ですね。

宝暦四年(1754)竹次郎は名を麻生織之進と改めていた。
天明三年(1783)中川民部が神事を行うたびに、奇妙な事が起こるので、村民氏子一同が
藩に訴えたがこの時も何の達しも無かった。
翌年(天明四年)再度の追願に藩は、中川民部の神主の職はそのままにするが中川民部には
身を慎むよう訓告を与えるとしたが、村民は納得しなかった。

この後に竹次郎こと麻生織之進が一時帰村した時に村民が訴えた事などを話したが、麻生
織之進は既に京都で仕官しているので、との回答であった。
ただ、中川民部が神職を退けば連絡を請うとの事であった。
その時には戻ろうと思ってたんでしょう。
天明四年(1782)の飢饉、天明六年(1784)の洪水が起こり、これは祟りであるとの噂
でしたが、天明の飢饉は全国的なものだったので、祟りとは関係ないんでしょうが、村民
はそんな事、知る由もないですよね。
この頃、神職が中川民部から息子の中川式部に変わっていたが、怪事は度々起こり、山崎
村民は毎年出訴を続けていたが、藩は取り合わず村民は寛政七年(1795)箱訴(藩主への
直訴)に及んだ。
この時藩の神社係、妹尾勘佐衛門が来村し、村民からの顛末書の提出により事実を確認
したが、その後1年経っても裁可無く、箱訴を行った惣代六名が投獄されたのみでした。
獄中で死者も出たようです。

そして、寛政十三年(1801)郡奉行の稲田武七郎、手代の三木名七が惣代と面談し、中川
式部を神主と認めれば山崎村忌部神社を旧態造営し朝廷へも奏上する旨の調停案を示しま
したが惣代らは当然納得しませんよね。
当事者が当職に付いたままですものね。
郡奉行は引き下がります。

その後、郡奉行より中川式部廃職の申し付けがあり、忌部公事は一応の解決を見る。
後、文政九年(1826)二宮佐渡が山崎村の神主として迎えられた。
先の郡奉行、稲田武七郎は一年毎に隣村の神職を雇い、祭祀を行うようにとの、達しを
出していたが、その通りに行われていたかは不明である。

こんな所ですが、大体合ってるでしょ?
小さいところは勘弁してもらって、流れはこんな感じかなと思うんですが
違ってたら指摘してください。
すぐに、ごめんなさいって言います、懺悔でもなんでもします(うわぁ、弱気)

でも、考えるに当時の藩は、いわゆる民事に介入しない事で寺社勢力を奪おうとしている
事が見え見えですね。
で、致命的なミスが無ければ次回に進みます。

2010年9月17日金曜日

忌部神社遷座考(1)

「分け入っても分け入っても青い山」
気分は山頭火です。
「調べても調べても闇の中」
何日、資料片手にして寝てしまった事か。
ほんっっっとに、この度ばかりは書くのを止めようかと思ったテーマでございますが
それにも増して、見つけた「こいつ」を出しておきたいという気持ちで書き出しまし
たが、どうも「ぐーたら」の手に余りそうな雰囲気です。
が、「たかが、そこらのおっさんのブログ」と開き直ってみましょうか。

何回で終わるか見当もつきませんが(案外2、3回で終わったりして)
お付き合いいただければ幸い至極でございます。
前置きが長くなりました。
タイトルは仰々しくも「忌部神社遷座考」などとぶち上げてしまいます。
ではでは。


徳島市二軒屋町二丁目四八に鎮座ましましておられます
「忌部神社」でございます。
主祭神 天日鷲命
こんな関係のブログをご覧の皆様方はすでにご存知とは思いますが
(今日は文章が硬いなあ)
「天日鷲命」は阿波の忌部の祖でありますが日本書紀の一書(あるふみ)と
先代旧事本紀にのみ登場し古事記には出てきません。

まずは神社の由緒書きから見てみましょうか。



太古天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙製麻紡織の諸業
を創始され特に天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時
白和幣(しろにぎて)をつくり神々と共に祈祷(いの)られ天の岩戸開きに
大きな功績を挙げられた。
その子孫は忌部と称して国家祭祀の礼典を掌どり
神武天皇の御代阿波国に下りこの郷土を開拓し代々朝廷に荒妙御衣(あらたえみそ)を貢上した。
それは大嘗祭(天皇即位の大礼)の用に供された。
麻植郡の名も麻を植える事から起きたものである。
このように天日鷲命を奉祭する忌部神社は忌部族すなわち徳島県民の
祖神を祭り古来阿波の国総鎮守の神社として朝野尊崇篤く延喜の制には
官幣大社に列せられ、且つ名神祭の班幣に預かり(名神大社)西国随一の
格式の大社として、四国一宮とも称せられた。
文治元年源義経八島合戦のみぎり太刀一振を奉納、那須与一は弓矢を
奉納、更に文治三年源頼朝御供料として田畑一千町歩を寄進したしたこ
とが伝えられている。
当社は中世以降兵火にかかり久しくその社地が不明であったが明治四年
国幣中社に列せられ、明治七年その所在地を麻植郡山崎村とされたが、
同十四年美馬郡西端山村に遷祀、さらに明治十八年徳島市の金刀比羅神社
へ仮御遷座、同二十年現在地に新社殿成り奉遷鎮祭し奉った。
昭和二十年、戦災のため社殿をはじめ主要建物をほとんど焼失し、現在
の本殿は昭和二十八年拝殿は昭和四十三年に復興されたものである。



今回は出典など必要がある箇所以外は、あえて書きません。
あっちこっちからの引用で、書いてる本人も訳が分からなくなっております。


そして、「徳島県神社誌」からの引用です。

忌部遠祖天日鷲命、太古穀麻を植えて紡績の業を創始し、皇祖天照大神の功臣の内に
列せられた。
後世、其の神徳を称えて麻植神と称し奉り、子孫は忌部と称えて国家祭司の礼典を掌った。
神武天皇の御世、阿波国に遣わされて郷土を開拓し、苗裔長く此国に留って践祚大嘗祭の
御贄を奉仕するを例とした。
「日本書紀」神代巻天岩門の段に「粟国忌部遠祖天日鷲所作木綿云々」、更に「古語拾遺」
に「天日鷲命阿波国忌部祖也…
天日鷲命之孫造木綿及麻並織布 仍令天富命率日鷲命之孫求肥饒地遣阿波国殖穀麻種 
其裔今在彼国 当大嘗之年 貢木綿麻布及種々物 所以郡名為麻植之縁也」と詳述されている。
延喜の制、名神大社に列した。
「延喜式」神名帳には「阿波国忌部神社名神大月次 新嘗 或号麻植神或天鷲命」とみえる。
また、「続日本紀」に「仁明天皇嘉祥二年(八四九)阿波国天日鷲神に従五位下を授奉る」とある。
その後「三代実録」によると、清和天皇貞観元年(八五九)従五位上、陽成天皇元慶二年(八七八)正五位下、
同七年(八八三)従四位下と、それぞれ昇位を重ねている。
当社は中世兵火に罹りて久しく旧社地不明であったが、明治四年五月国幣中社仰せ
出されて以来、その社地をめぐって論争があった。
政府は明治七年麻植郡山崎村天日鷲社を該社と決定、鎮祭したが、その後異論あり、
同十四年美馬郡西端山村に遷祀。更に同十八年現社地に隣接する郷社金刀比羅神社に
仮御遷座、同二十五年五月新社殿竣成と同時に奉遷鎮斎し奉った。
大正十一年の皇太子御参拝等徳島県を代表する社であったが昭和二十年七月戦災のため社殿焼失。
同四十三年五月社殿復興。同五十五年授与所造営。現在神社本庁別表神社となっている。
なお、美馬郡貞光町西端山字吉良に鎮座する
五所神社(天日鷲命をまつる忌部神社の旧地)を摂社としている。


今回書きたいのは

当社は中世兵火に罹りて久しく旧社地不明であったが、明治四年五月国幣中社仰せ
出されて以来、その社地をめぐって論争があった。

この部分なんですね。
簡単に書けば
1815年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足しました。
その際、式内社である忌部神社が、神祇官所管の国幣中社にされることとなったの
ですが、正式には所在が不明です。
そこで、忌部神社の比定が急務となったわけです。

このとき小杉榲邨の考証により、1874年(明治7)麻植郡山崎村(吉野川市山川町)
の忌部神社が、式内社と判断されました。

これに対し、美馬郡西端山(つるぎ町貞光)の五所神社を、古代の式内社である忌部神社に比定する見解が出され、
激しい争いとなりました。
美馬郡内にある阿波忌部の伝承などが挙げられた後、小杉の考証は却下され、1881年(明治14)、五所神社が忌部神社と決定されました。

こうして比定地論争が白熱し上申書の提出合戦の呈をなしてきたことから、明治18年
には政府の意向により二軒屋町の現在地に社地が定められ、1887年(明治20)に遷座祭を行って国幣中社忌部神社が新設されました。
五所神社は新しい忌部神社の摂社となりました。


県史について詳しい方ならば、「もう議論は出尽くしたじゃないか」
とおっしゃるでしょう。
議論は尽くしても真実は出てきてません。


なぜ、比定地論争が起こったのか?
山崎、貞光どちらが本当なのか?
なぜ現在の場所に遷座されたのか?

判らない事だらけです。
それにもまして「面白い」事だらけです。


「真実は細部に宿る」と言うじゃないですか。
この、いわゆる「忌部公事」重箱の隅の隅までつついたとき何が出てくるのか?
私にも判りません(あ、いいかげん)
行ける所まで入ってみますが.......

では次回からはまず、享保の末頃(1735)から追っかけてみたいと思います。
300年にも垂んと(なんなんと)する忌部の正蹟争いです。
(そうなんです、まだ前置きなんです、先が思いやられます)


いやあ、ぶちあげてしまいました。
(心の中でやめときゃいいのにと誰かが叫んでます。とほほ
ついでに「アドベンちゃ〜」などと、たむケン風にも叫んでます)

2010年9月12日日曜日

「バラハク」へ行ってきました

いつもの話題とはちょっと違うんですが、高知市のカルポートでやってます
西原理恵子 博覧会「バラハク」へ行ってきました。

早い目に出発して、高知の朝市へ。
何度か行ってるんで、目新しいもの以外は素通りですね。
こんなの見かけたので、

これは芋のてんぷらです。
ほれほれ、揚げたてでうまいっすよ。
それで、のらねこさんも行ってた「ひろめ市場」へ
朝っぱらから、皆さんやってますなあ。
えーい、こんなの頼んじゃえ。塩じゃなく、ふつーのですが
いつもながら高知のはうまいっすねえ。
でも、運転手は飲めません。「FREE」で我慢、ガマン。
で、食べまくった後、ようやく開催場所の「カルポート」へ。

中の写真は撮影不可だったのですが、ここだけはいいとの事だったので

これは恥ずかしいぞ。
写真で見えるほどは太くないんですが、着てる服がこんなのだったので.......
(恥ずかしいのはそこかい)

ところで、西原理恵子は大ファンです。
「毎日かあさん」もいいですねえ。
時間があったので、その後「桂浜」へ。とにかく暑い暑い。
「坂本龍馬」像の写真は撮ってません。
人が多すぎて撮るタイミングがありませんでした。
その代わりに


こんなのばっかし撮ってました。
帰りに長曽我部氏出陣の像のある「若宮神社」もありましたが
嫌いなので写真は撮ってません。
あとはひたすら帰るだけ。あー、疲れた。いつまで暑いんでしょうね。

2010年9月8日水曜日

懺悔の部屋(3)

ああ、神様またしても、またしても懺悔しなければなりません。
懺悔の部屋もはや3つめになってしまいました。
こんな罪深い私は許されるのでしょうか。



だめだそうです。


以前8月に石井町 轟神社について書かせてもらったんですが
そのとき、近藤正次の子孫の方からコメントをいただきまして
ご自身のブログにコメントリンクを張ってくれてたんですが
「見てませんでした」
あああああぁぁぁぁぁぁぁ、最低のおやじです。
罪滅ぼしに、このブログを見てくださっている皆さんにプレゼントを......
できないので、もいちどご紹介をさせていただきます。


以前紹介したのが、石井町の轟城
三好氏家臣「近藤勘右衛門正次」の居城です。
そこで、コメントをいただきました。



>こんにちわ、はじめまして
>「轟の夜戦」で検索して
>こちらにたどり着きました。

><<「近藤勘右衛門正次」は、まだ生きているようです。
>行方不明だった家系図を無事発見しました(;・∀・)はい生きています。
>といっても子孫がですが^^;
>実は私のうちは近藤正次の子孫といわれています。
>家系図だけが頼りですが・・・
>「もう轟城跡なんて山になっているんだろうな」
>とおもっていたら
>まだその遺功があるとは思いもよりませんでした。
>もしこちらの記事を見なければ
>一生ここのことは知らずに一生を過ごしたかもしれません。
>生きているうちに是非
>一度こちらの轟神社に行ってみたいと思います。
>ありがとうございました。


とのご丁寧なコメントをいただき、今となってリンクをたどりますと。
田舎のお茶屋の日記っていうブログです。
御当主なんと22歳、おじさん、それかける何倍じゃないっすか。
またブログがチャラい。(うそうそうそ、嘘、嘘ですよ、冗談ですよ)

記事の中で家系図のことなんて書いてます。
>行方不明だった家系図を無事発見しました(;・∀・)
おいおい、いきなりですか。


でも、出てきたんだから、よかったっすね。





>藤原正則の次男
>近藤孫太郎正次は
>その後三好氏につかえ
>色々勲功を重ねていき
>今の徳島県
>阿波の国に轟城というお城をもらいます(∩´∀`)∩ワーイ
>ちなみに
>その息子の一人に内蔵助正重
>のちに
>内蔵助正宗という改めた一子がいましたとさ。


という事だそうです。
そして「轟の夜戦」に突入。



>ちなみに
>この孫太郎正行という人は
>「さすがσ(゚∀゚ )オレの先祖」というべきなのか・・・・・・・

孫太郎正行
「押忍!おら孫太郎正行!何か突撃してきたくなったぞ!」
>敵3000人もいるのに
>そこで50人で突撃したりするちょっと無鉄砲な人らしいそうです。
>ちなみにその戦いは
>「轟の夜戦」という戦いだそうです(*´・ω・)(・ω・`*)
>ちょっと
>前田慶次みたいですね=w=;)

だ、そうです。
詳しくは本文
をご覧ください。
通信販売とかネット販売してるかは、ブログじゃちょっと判んなかったんですが
ご存知の方はぜひぜひ応援してあげてください。
でも、店の名前も出したり、ブランド名とか付けてもっと売りましょうよ。
「轟轟茶(ゴーゴーティー)」とか。
(センスねえな)