2011年7月30日土曜日

快気祝い

ご無沙汰しております、ぐーたらと申します。
って言わなきゃみんな忘れてるでしょ。そうですボクですよ。
え?知らない?
まあ、いいっすけどね。
いろいろございましたが、一段落いたしましたので、またもや愚にもつかないブログなど
ぼちぼち書いていこうかなと目論んでおります。
ちょっと間が空いてしまいましたので、快気祝いと言うことで今回のお題は二つ。
まずは四国八十八ヶ所第三番札所「金泉寺」でございます。
場所はここ。

より大きな地図で 金泉寺 を表示

金泉寺(こんせんじ)は、徳島県板野郡板野町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第三番札所。亀光山(きこうざん)釈迦院(しゃかいん)と号する。本尊は釈迦如来で、脇侍に薬師如来・阿弥陀如来を安置する。wikipediaより

さらには
寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み、金光明寺と称したという。弘仁年間(810年 - 824年)に、空海(弘法大師)が訪れた際に、水不足解消のため井戸を掘り、黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたという。
亀山法皇(天皇在位1259~1274)の信仰が厚く、京都の三十三間堂をまねた堂を建立、千躯の千手観音を祀った。また、背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めた。また、『源平盛衰記』には、元暦2年(1185年)に源義経が屋島に向かう途中本寺に立ち寄ったとの記載がある。
1582年(天正10年)には長宗我部元親による兵火にて大師堂以外の大半の建物を焼失たが、建物はその後再建され現在に至る。境内からは奈良時代の瓦が出土しており、創建は寺伝のとおり奈良時代にさかのぼると推定される。 wikipediaより

で、境内については
金泉寺仁王門
金泉寺御印
山門(仁王門)
本堂
大師堂:2008年11月改築。
観音堂
護摩堂:格天井に花鳥画が描かれている。
閻魔堂
鐘楼
慈母観音
黄金井の井戸:この井戸に自分の顔が映れば長寿であると伝えられている。
弁慶の力石:力試しに弁慶が持ち上げて見せたと伝えられている。
満願弁財天

などなどと記載してありますが、なんでこれを書かないのか?
というのが下の写真
これは何でございましょうか?近くに寄ってみますと
なんと「長慶天皇御陵」とございます。
「長慶天皇」については在位・非在位すら疑われている天皇で、宮内庁は、昭和19年に
なって、京都嵯峨の慶寿院跡を「長慶天皇御陵墓」と決定しております。
また「長慶天皇御陵」と言われる場所については全国に20箇所ほどもあるそうですので
当然ここも疑われてしかるべきではありますが。
今、写真がないんですが「金泉寺」からほんの200mほどの場所にある「亀山神社」
勘のいい人はお気づきでしょうが、この裏山の「阿王塚」が99代「亀山天皇」の御陵
と呼ばれており、「金泉寺」の裏山にも古墳がありそこが実際の御陵ではないかと言わ
れていることを付記しておきます。
「金泉寺」裏山の古墳からは相当数の出土品があり、詳しい資料が今手元にないんですが
またまた書きのような資料の記載にはやはり長慶天皇御陵のようだとあります。

下の写真にある石が「御陵石」で菊花の紋章が刻まれており
「南朝長慶帝寛成尊太上天皇御陵」
光永五年三月十九日崩御御寿五十三才
と刻まれております。

ワタクシめが見ておりました限り全てのお遍路さんはここを無視しておりました。

さて、もう一つのお題は
下の写真
道ばたにある小さな祠のようですね。
場所はここ

より大きな地図で 白鳥神社 を表示

先に書いた「金泉寺」から車なら1分ほどの場所ですが普通は「金泉寺」に詣でるにして
もここらは通らないのかな?
通るにしても一瞬で見逃してしまう場所ではあります。
近づいてみると案内の看板があります。
転記するのがめんどくさいので写真のまま読んでください。
ぜひクリックし拡大して読んでください。
そうなんですここは「白鳥神社」なんです!
それも「日本武尊」を祀る!!
というか全部読んでと書きながら、読んでもらうのは最後の2行だけでいいでしょう。
大川郡松原はご存知の通り讃岐の「白鳥神社」がある場所ですね。
大川郡松原に飛来の途中って「通説」にはそんな解釈は一切ないにも関わらず
この書きっぷり。
すっごい前に「白鳥神社へ行ってきました」でも書きましたが
個人的には石井の「白鳥宮」は「白鳥陵」だと思ってますので、個人的な解釈で言えば
倭尊命が崩御された後、殯宮(もがりのみや)であったと考える讃岐の「白鳥神社」から
石井町の「白鳥宮(陵)」へ移る際この地を経由して行った跡に違いないと思います。

それにしても看板の説明書き、最後から2行めまでは見事に「通説」をそのまんま
記載してるという「見事」さ。
この神社を建立された方、立派!
ですねえ。
というわけで、とりあえず復帰いたしますが「ぐーたら」なのは変わりませんので
ご安心?を。

2011年7月21日木曜日

ちょっとお休みします

というほど、頻繁に更新してる訳じゃないんですが、娘が入院、手術と言うことに
なりましたので、落ち着くまで更新が止まります。
「ひょっとして」楽しみにしていただいている方がいらっしゃいましたなら、少々
お時間をいただきたく願います。
コメント等にはできるだけお返事させていただきたいとは思いますが、返事が返っ
てこなくても無視してる訳じゃありませんので(ホントか?)。

2011年7月17日日曜日

剣山へ行ってきました2011

昨年は7月18日にしかいけなかった剣山、今年は7月17日にいくことが出来ました。
なんとか台風も上陸する前でラッキー(死語)でありました。
とはいうものの、天気はまあ良かったんですが、頂上の視程があまりよくはなく
こんな感じです。
次郎笈方面を見ても頂上辺りが・・・
一の森方面も風向きによってはこの程度見えます、って感じです。
剱神社(宝蔵石神社) 御神体の宝蔵石です。
今回はくだくだとは書きませんが、7月17日は京都祇園祭の山鉾巡航と同じ日で
あるとか、安徳天皇が剣山まで逃れてきたのは、阿波忌部を頼ってきたのだとか
阿波には建礼門院の墓まであるとか、「かごめ かごめ かごの中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀が 滑った 後ろの正面 だーれ」の「かごめ歌」は剣山の別名
「鶴亀山(つるぎさん)」からきているとか・・・
いかん、いかん、くだくだくだくだと、ねぇ。
あ、ここでご宝剣加持をお受けしましたよ。

剱山本宮神社とは,安徳天皇が剱山山頂の宝蔵石に三種の神器(鏡・剱・玉)のうち
剱を納めたことに由来する。
そのため,古くからこの神社には「ご宝剱加持」という儀式が伝承されている。
ご宝剣加持の剱は古太刀のようであるが,一般には公開されていない神社の宝剣である。
神官がこの剱で人々の首や肩などを軽く押さえることで,運気が向上し,どんな願いも
叶うというのだ。


ご宝剣加持次第
①加持を受ける人は頭をかるくさげる。
②神官が呪文を唱え,榊でお祓いをする。
③「オー」という神官のかけ声で,加持を受ける人の首や肩などにご宝剣を軽くあてる。
④加持を受けた人は,二礼二拍手一礼で下がる

ちなみに、本当はこの宝蔵石の下には・・・
もういいって。

ご宝剣加持の様子です。
そして神輿渡御です。
おや、神輿を担いでる中に、見たことのある顔が。
これは。ミスター議員宿舎氏(ヤバいかな?)ではございませんか。
禊でもされたのでしょうか?
さすがに声はかかりませんでしたが(笑)
餅投げなどもあったようですが、今回は娘と来ておりましたので早めに立ち去る
ことといたしました。
後は前回悪天候でいただけなかった御神水をいただいて帰るのです。
手が切れそうな、冷たさの御神水でした。
本日頂上付近の気温は20度前後、降りてきてみると33度!と表示されておりました。

2011年7月16日土曜日

オフナトはん(5)END

努力はしました、けど結局まとまりませんでした。
あ、これは最後に書こうと思ってた・・・
最初から繰り言ですぅ。

「オフナトはん」書いてきましたが、全県下に渡り存在し、道祖神であり塞の神
であり、ふなと神(岐神)であり衝立船戸の神であります。
またあるところでは狸とされてますし、もうなにがなんやらでございます。

でもいくつか分ったこともあります。
下の写真がオフナトはん(1)で出した神山の「おかまご」の写真です。
いわゆる古代祭祀に使われていたであろう磐座の様式のままと思われます。
中の丸石は玉、魂を表す、現在の神社でいうところの御神体でしょう。

市内某所にあるお社(祠)ですが古い祠が壊れ、新しい祠が作られてますが
元の御神体に当たる丸石が入らずに置かれています。
さて、では上の写真、神山の「おかまご」丸石が1個から300個まであると
書きましたが、その数に意味はあるのでしょうか?
御神体が300個もあるのでしょうか?
では御神体って何なのでしょうか?
あくまで個人的な考えではありますが、一つの丸石で祀られる御神体は一柱の神様
のことではないかと思われます。
どうしてそう思うのか?
下の写真は気延山某所にある荒神社裏の磐境ですが、今回「オフナトはん」を調べていて
これも「おかまご」ではないかと気付いたのです。
見ましたよね、サ◯◯◯クさん。
そしてその中には、全く同じ布袋様?の像が納められております。
いつの時か、神仏習合の影響を受け納められたのではないかと思いますが
言いたいのは、丸石一つは一柱の神様であると言うことです。
布袋様?の前は丸石か違う形の神像が納められていたのでしょう。
そして、ここにも同じような形で祀られています。
徳島市不動町にある天佐自能和気(あまのさじのわけ)神社です。
御祭神は神皇産霊尊、高皇産霊尊、日子刺肩別尊、意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命

とされております、とんでもない神社ですが、その本殿裏にある末社がこれです。
これも、「おかまご」から石の祠となり丸石が神像となり布袋様?が祀られていると
考えられます。
もう一度書きます
磐座から石の祠となり木造の神社となりました、納められていた御神体は丸石から
何らかの石の神像となったものもあり、丸石のまま本殿に納められている神社も
多いと思われます、そして目に見えるところにあった丸石は石像となり、神仏習合
の影響を経て布袋様や大黒様の像を祀られるようになった。

布袋様?らしき像を祀ってある写真をもう一つ。
大黒様?を祀ってある写真も載せておきます。
意味は先ほど書いたように丸石からの変遷だと思います。
思うって書いたけど自信はちょっとだけあります。
じゃあ、神山の「おかまご」300柱の神様って?
もちろん日本には八百万の神様がいらっしゃいますので300柱の神様が一所に
いたって何の不思議もないでしょうが、それだけで説明はつきませんよね。
そして、共通する特徴、十二人の子どもがいる、手足の神様である。
全てについて、ある推測は出来ますが、あくまで想像の域は超えません。
なので、書くには苦しいのです。

で、オフナトはん(3)で書かなかったもう一つの特徴。
それは「塩分はいけないという」に続いて「なぜならばご神体は蛭(ひる)だから」。
との記載がありました。
御神体が蛭(ひる)の神様?
考えられませんよね、ただ「蛭」の文字がつく神様は多分ご存知でしょう。
神山には「その」神様の眷属ないし有縁の神々とされる「一族」が住んでいた・・・
というのは、ワタクシめの勝手な想像でございます。

最後に、この記事(1)を書き出してからすぐ近所でこんなのを見つけてしまいました
というか、前からあるのは知ってましたが、思いが及んでませんでした。
崩れかけてはいますが立派な「おかまご」です。
うちから歩いて1分、塞の神として分かれ道を守っていただいております。
導かれたというか、「はよ書け」と急かされたに相違ないでしょう。
にしては、何の結論も出てませんがね(笑)
その他の疑問については、また機会があれば書いてみます。
特に十二人の子どもについては、もうちょっと書きたいんです。


2011年7月13日水曜日

オフナトはん(4)

だいぶ「オフナトはん」が出揃ってきました。
前回までに出たような所をマップに記してみましたがいかがでしょうか。

もちろんシルシをつけた場所はいいかげんです(うわぁ、そんなこと言ってるよ)
それと実際にはもっと多くの「オフナトはん」が存在するのですが、書ききれてません。
また、「オフナトはん」と呼ばれていない「オフナトはん」があることも確かです。
シルシをつけた所に規則性は見られません。
多分、県下全域に鎮座しているからでしょう。
ただ、書いておきたいのは、神山町に集中して存在しているのと、もう一箇所
(旧)上那賀町に大量に鎮座ましましていることです。
上那賀町史より引用します。

おふなたさん
岐神(ふなどのかみ)と言い、船戸神・来名戸神などとよばれている。伊弉諾尊が
黄泉国から逃避の後、禊祓のとき投げ捨てた杖から化生した女の神様という。
足腰が不自由で一二人の子があり、田畑のすみ・石垣・大木の根元・庭先など、家から
近くで祀るのに便利な場所にオカマ(石づくりの小屋)、丸い小石を積む、など型の
ないのが普通である。川俣、蔭原正雄宅と水崎・光永武利宅にあるものは祠で祀っている。
祀る方法は正月に、オシメ・節木(雑木で直径3㎝・長さ7㎝の丸木二個を半割にし、
一本箸状の木をはさみ一荷とす)おせち料理を若葉に載せ、踊り魚(生きた魚)ととも
に黙って祀る。灯明は点灯後すぐ消す。この祀る日・場所・祀る方法は人、部落によって
異なっているが、黙って祀ることはどこも同じである。田ノ久保・臼ヶ谷部落には各戸で
祀っておりほとんどの部落にあることから上那賀町内に訳100神はあろうが忘れかけら
れた神様である。

こんなところ(?)に100神(柱)いらっしゃいました。
あと、こんな本にも形跡がございました。
中公文庫「阿波の狸の話」
202ページからの徳島市の部に
◯オフナタさん
 住吉島にある祠。俗に狸を祭ってあるという。この狸には十二人の子がある。
この神に供えてある物を食べると十二人の子が出来るという。

と、ありまして狸と混同されておりますが、当然「オフナトはん」ですね。
この祠、住吉島(福島)を相当探したんですが見つかりませんでした。


さらには「阿波の狸の話」には載ってませんが、徳島市の南佐古7番町・椎宮神社境内
に「お船戸大明神」がお祀りされております。
戦災までは佐古町矢三口の大麻街道の田宮川畔に鎮座していたが 戦災で住居を失い
今は 「祠銀座」に移転。若宮はお船戸さんの 13人の子供の一人である。
とのことです。
一応、上の立て看板の説明にありますように狸の祠とされておりますが
どう見ても「オフナトはん」でしょう。
看板にはありませんが「若宮大明神」が「お船戸大明神」の13人の子どもの
一人であるというのは穿ってますよね。

さて、ネタは出揃ったですかね。
あと、もう一回くらいでまとまるかな?ってところで今晩はおやすみなさい。

2011年7月11日月曜日

オフナトはん(3)

前回で県内の「オフナトはん」を書きかけたんですが、続きを書く前に神山の
「オフナトはん」の特徴を挙げておきます。

ふなと神を祀る家 961戸(調査時の町内全戸数2933戸)
石を祀るふなと神は全ふなと神に対して 57%
おかまごは645祠で全祠の85%

丸石の祀られ方
一個だけを祀る祠  122祠
二個だけ       85祠
三個         46祠
最多数は300個

ふなと神のご利益
手足の神様で、痛み、病気を治し丈夫にする。
縁の薄い女が詣る。旅の平安を守る。

ふなとの神の禁忌
この神は十二(三)人の子沢山であるから供え物の時は無言で参拝して帰る。
豆の入ったご飯をまつること。
塩分はいけないという。

祭りには、綿と綿着を箸にはさんで祀る。別に紙衣(かみこ)、即ち紙製の衣服を
人形に切って供えている。

さて、この辺りを念頭に置いて続けていきましょう。
知ってる人は知ってるけど、特徴の一つはあえて書いてません。

上勝町八重地
御神体は自然石、大晦日の祭りには薪二本とめしをワカバに入れて祀る。
祭りに行くときは一切無言、ものをいうと子どもが知り供え物が親神様にあたらぬという。
中略
足腰の病気にご利益があり、岐の神で祓見の国から来る邪神を防ぐ役割を持つと信じている。

上勝町傍示
家の近くに自然石を御神体として祀り、家の内神と同じに行事する。
足の病気にご利益があり、治るとお礼に小さいわら草履を供える。

勝浦町生比奈
この部落にもおふなたさんが多く分布し、とくに今山家のものは前記の例とほとんど
同じように祀られている。

えーい、全部が全部書けないので、地名と重要な説明だけピックアップします。

鷲敷町百合

鷲敷町和食

木沢村坂州広瀬

木頭村和無田
和無田ではおふなどさんをキンリュウさんともいう。

木頭村出原
オフナドさんの祠は家の鬼門に祀られている。年の夜に薪一把をそえて祀る。
片足の神といわれている。

木頭村西宇
この神は足が一本の片足の神である。

相生町吉野
この部落にはオフナトさんが、ほとんど毎戸の祠に祀られ多数の分布をみる。
手足の神様と信仰される。

日和佐町田井
田井部落には船戸神社が三社奉祀され、いずれも木の祠に納められる。

立江町櫛淵大谷
ほとんどの部落に祀られており、昔は小さなワラ草履が祀られ、人や牛、馬の安全が
祈願された。

北灘町折野
船戸神社として某家の屋敷神に奉祀。

国府町早渕
祭りには船戸大明神と染め抜いた幟が立つ。石像は無く石の小祠である。
十二人の子どもがある。
(ワタクシ註)
ここも探したけど見つからないんですぅ。

鴨島町敷地

鴨島町飯尾
工藤家の屋敷神はオフナトサンと呼ばれ、自然石の男根に擬して祀って有名である。

川島町学
青石のおかまごである。

山川町旗見

山川町宮北
十三人の子を産んだ神である。

山川町楠根地
白人神社の近くに自然石でまつる。安産の神として信仰厚い。

美郷村樫平

美郷村別枝

佐那河内村府能

美馬町西宗重
昔は年三回神官が来て拝んでいたが、今は秋祭り十月十八日の前々日に勤番さんが
拝みにきている。

美馬町中山地
「ご先祖」と呼び氏神の祭日(十月十五日)に供え物をして祀る。

徳島市一宮

鳴門市中島田

石井町桜間

長生町本庄
先祖神を岐神の銘の小石殿で祀る

徳島市不動町
吉野川堤防下

うわああああ、文字ばっかり!
まだ続くんですが(そのぐらいあるのよ)
あまりに文字だらけなので、
石井町利包の「おかまご」の中に祠が入ってる写真を一枚だけ。
「オフナトはん」と呼ばれてるかは分りませんが、立派な(?)「オフナトはん」
でしょう。
もうちょっと辛抱して付き合ってね。
特に若いお嬢さん(自称はダメ!)

2011年7月8日金曜日

オフナトはん(2)

では、猫さんも疑問に思ってらしたように「オフナトはん」って何なのでしょうか?
「オフナトはん」つまり「ふなと神(岐神)」のことですが、記録(?)として現れ
るのがまず古事記です。
伊邪那伎大神が黄泉の国に伊邪那美命を尋ねていき、あまりの変わり様に逃げ帰りま
すが、逃げ延びた後、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓(みそぎ)したときに
投げ捨てた杖がから生まれたのが衝立船戸の神でございます。

原文では


是以伊邪那伎大神詔 吾者到於伊那志許米上志許米岐(いなしこめしこめき)
【此九字以音】穢國而在祁理【此二字以音】故吾者爲御身之禊而 
到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】
原而 禊祓也 故於投棄御杖所成神名 衝立船戸神


是を以ちて伊邪那伎の大神、「吾は伊那志許米志許米岐【此九字以音】
穢(きたな)き國に到りて在り祁理(けり)【此二字以音】 
故、吾は御身(みみ)の禊(みそぎ)爲(せ)ん」と詔りて、竺紫の日向の橘の
小門(おど)の阿波岐(あはき)【此三字以音】原に到り坐して、禊祓(みそぎ)しき。
故、投げ棄(う)つる御杖に成れる神の名は衝立船戸(つきたつふなと)の神。

の部分になります。

日本書紀においては泉津平坂(よもつひらさか)で投げた杖が岐神となります。

愛也吾妹、言如此者。吾則当産日将千五百頭。因曰。自此莫過。即投其杖。
是謂岐神也。又投其帯。是謂長道磐神。又投其衣。是謂煩神。又投其褌。
是謂開齧神。又投其履。是謂道敷神。

のところです。

「フナト」は道の辻を意味し、船戸神は悪霊が入り込むのを防ぐ神として祀られます。
道祖神、塞の神も同様の役割だそうです。
混同されておりますが、その話は後にいたしまして。

「オフナトはん」実は県内各地にあるのですが、まずは神山町の「オフナトはん」の
特徴である「おかまご」と丸石についてですが。
見方にもよるとは思いますが、どう見ても「磐座(いわくら)」でしょう。
神社の形となる以前の古代の祭祀跡にしか見えませんがいかがでしょうか?
そして丸石は、当然「玉」であり「魂」ですよね。

「おかまご」内に石を一箇だけ祀る形
親石の周りに子石をいくつか祀る
多数の丸石をとりまぜ中の一箇が御神体
等の形式があるようです。
どれにしても何かの「神」を丸石として祀ったのです。

ちょっとだけ脇道にそれますと、このような形を残した神社も少しだけ残っています。
例えば、佐那河内の六社神社
ちょっと見にくいですかね。
六つの祠の前に丸石が1つ乃至2つ祀られております。
「おかまご」の形を残した、或は「おかまご(磐座)」から少し神社の形へ進んだ
形態でしょう。

話は神山町の「オフナトはん」に戻ります。
この辺り「ふなと神考」からの引用です。

先に少しだけ書きましたが、「ふなと神」は「道の辻の神」でもあり「道祖神」でも
あり「塞の神」でもあり「船止神」でもあるのです。
神名も「くなどの神」「ちまたの神」「みちのかみ」「どうろく神」「たむけの神」
「さいのかみ」などなど多彩です。
神山の「オフナトはん」に限れば「道の辻の神」か「塞の神」の色合いが濃いのでは
ないでしょうか。
前回書いた船盡比売神社の「おかまご」に関しては「塞の神」だと思われます。
神山町の入口に配し、悪しき物の進入を防いでいるように見えます。
船盡比売神社なので本当なら「船止神」であるのでしょうが、どこかで混同されている
のでしょう。入田町に船盡彦神社があるようですので(まだ行ってないけど)そちらと
カンチガイされたと思ってます。(ここら辺自信無し)

ここら辺りの事を考える前に県内各地の「オフナトはん」について引用してみます。
そうなんです、県内各地にあるんです。

神山町広野
某家の庭の石垣の中に「おかまご」を作って川原の丸石を御神体として祀り、祭り方は
家の内神と同じように祭る。正月にはオシメを飾る。手足の神としての信仰が厚い。

石井町高川原
この地域では「船止神(フナト)」と書く。ふなとの地名あり、昔はここへ船が着いて
いたので、渡しの神といわれている。小石殿の中に川原の丸い石二ヶお奉祀する。子供
を十三人生むとオフナタさんがおじぎをするといわれる。
同地、久米川家のご先祖と、オフナタさんが並んで祀られる。祭りには幟が立ち、この日
小豆めしを供える。

(ワタクシ註)
高川原のオフナタさんをだいぶ探し廻ったんですが、みつけられていません。

石井町利包(としかね)
部落の道の辻に旧セメント製のホコラに祀る。正月十六日、十一月十六日の二回に祭り
がある。子供が知らないようにかくれておまいりをする。

(ワタクシ註)
利包(としかね)の「オフナトはん」は、たぶんこれです。
祠の中が見えにくいんですが、まんま「道祖神」様です。
となれば、男女和合の神様でもありますので、子供にはかくれてお参りしなきゃなら
ないですよねぇ。

ちょっとボリュームが少なめで読み応えがあまりございませんが、体力無くて最近
バテ気味なんで、今回はここらへんにさせてくださいませ。
まだ何回か続きますので、おつきあいくださいませませ。
驚天動地の結論は「待ってません」。

あ、もういいやって人はストップかけてね(笑)

2011年7月5日火曜日

オフナトはん(1)

地震がありましたねえ、震源地和歌山県で徳島は震度3。
いやあ、こわいですねえ。
でも、そんなのに関係なく、密かに書いてまいります(うーん)

あ、先に言っときますけど、今回からの記事はあんまし面白くないっすよ。
写真もあんまりないし。
もっと、写真とか図版とか用意してと思ってたんですけど、ちゃんと集めてたら
1年くらい書けないので「もういいや」なんて思って書いてますので
「ごめんなさい」

「オフナトはん」をご存知ですか?
多分、「この形態」で祀られているのは徳島県でしかないであろうという神様です。
神山町史、その他モロモロから資料を引っ張ってきてますので、またしても出典を
いちいち書かないという卑怯な手に出ますが、ご容赦を。

県内では「オフナトはん」「オフナタハン」「オフナッツァン」などと呼ばれ祀られ
ております。
とにかくも、どういう物か見ていただきましょう。
一番典型的な神山の「オフナトはん」です。
「おかまご」と呼ばれる石の祠に丸石が祀られております。
この丸石は1個から300個まで、ほとんどが1個か2個のようです。
で、神山の「おかまご」なんですが、ワタクシめが撮った写真はこれしか
ないのです。あちこちで見かけたような「気」がしたんですが、結局これ
しかないという事でございます。
で、仕方ないので、こんなのを。
 

で、一番目立つのが、入田方面から神山町に入るところ「船盡比売神社」
の脇にあります。
これ、どうも巨大「おかまご」じゃないんでしょうか。
ちょっと様式が違うような気もしますが。
で書かせていただいております。
神山町の「オフナトはん」については神山町史にも詳しく出ておりまして
昭和49年の調査では神山町内になんと767祠の「オフナトはん」が
祀られているそうです。
これまたパクリの分布図を載せておきますが、異様なまでの数の「オフナトはん」が
祀られている事が分っていただけるでしょう。

この神様、一般的にはいわゆる「ふなと神(岐神)」のことであるそうですが
一概に決めつけられないのが面白い所です。

さて、出だしは軽くこの程度にしておきまして(ずっと軽くかもしんない)
次回からもう少し深みに潜航していければいいなあ、と考えながら
本日はここまでの講釈とさせていただきます。