2012年11月29日木曜日

阿波市 勝命神社

ホントなら八人塚古墳のレポートを書かにゃならんのでしょうが、ちょっと置いといて。
いや、良かったですよ。
天気がもひとつだったのが玉に傷でしたけど。
でも今回書くのは違う事。
書いとかなきゃすぐに忘れてしまうんです。
もう歳なんで、物忘れが良くてよくて。
で、阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」。
「勝命」は「かつみょう」って読みます。
人名とかでは「しょうみょう」と読む場合もあるようですが、ここは「かつみょう」。
場所はここ

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まず見て下さい。どこを?

どうです、「菊」「菊」「菊」「菊」いいのかい、こんなの(笑)

いいんです。
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)なんですから。


そして、『日本書紀』の一書(あるふみ)にありますように


及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。
是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。


その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
 このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。 このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。   wikipediaより



伊奘諾尊と伊弉冉尊も祀られております。
創立年代不詳
「阿波誌」に「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とあります。

また
菊理媛神(くくりひめのかみ)は、日本の神。加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。 wikipedia

と言われておりますが、よくよく読めば、確たるものは無く

白山比咩神と同一とされるようになった経緯は不明である。白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の祭神について、伊奘諾尊・伊弉冉尊と書物で書かれていた時期もある。菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041-1111)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている。

で、扶桑明月集(大江匡房記)には
客人宮(女形)第五十代桓武天皇即位延暦元年、天降八王子麓白山。菊理比咩神也。
とありますが、白山に「天降」っただけでなんで白山比咩神なのかは書かれて無くて
「大日本神名辞書」にも
諸説一致せざるを就て考ふるに其白山比咩と称して太古よりの鎮座は菊理媛神にて...

とありますので、やはりいわれなきように思われます。
なんで、こんな事をくだくだ書いたのかといいますと、「徳島県神社誌」を眺めておりますれば、もう一説が出てくるからでございます。

この神社は文化年代に菊理社と称えていたが、天保期の文書に、菊理または九栗と記され嘉永年間より古称に復して九栗と呼ぶようになったという。「徳島県神社誌」

明治四十三年に「九栗若宮金比羅川人神社」を合併し勝命神社となります。

「九栗」が古称なのです、ここは。
名東郡の矢野、延命、尼寺付近が「植栗郷」と呼ばれ、気延山の「気延」は
「木の戸(きのべ)」ではないかと言われます。
また「菊池」姓などは「久久智」より来ている事は明らかです。
ならば「九栗」は「久久里」か。
木の神である久久能智や大気都比売の子の久久年ともつながるのでは、との妄想を
抱きつつ、ここらで体力が尽きてしまう情けないオッサンでございます。

もう一つ材料があればなぁ、もうちょっと面白く書けるのになぁ。
と思いつつ、今日はこの辺で。


あと、この見事な彫り物は文化年間に改築したときの棟梁、麻植郡児島村の大工喜市の手になるものだそうです。

2012年11月18日日曜日

とりあえず浮上 阿波町 賀茂神社

一つ終わっただけで、まだ何も解決してないんですが、とりあえず生きてる証拠にちょっとだけ書いておきましょう。
うん、今年はおかしいです。いろいろありすぎます。いや、身辺にですが。
もちろん書けませんが。
こんなのも必要な昨今です。


さて、と。

阿波市阿波町新開 賀茂神社


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祭神 瓊々杵尊(ににぎのみこと)
   意富加牟積尊(おおかむすみのみこと)
   天穂日命(あめのほひのみこと)

一般的な賀茂神社、例えば京都の上賀茂神社ならば御祭神は賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)である、ところが当神社に関しては御祭神となっていない。



由緒
もと蜂須賀公の崇敬社であった。『阿波志』に「別雷祠 朽田村に在り 旧中野村に在り 貞亨元年ここに移す 越智通玄偃月刀一枝を納む 備中水田源国重造す・・・」とあるとおり、元、中野村に鎮座していたが伊沢市の住人河野六郎太夫という者の発願により貞亨元年(1684)現在の地へ移し祀ったといわれている。
徳島県神社誌



遷宮については臨川寺の住職鉄崖和尚も協力し棟札は鉄崖の書である。
昔鳥居の前にご祭神が落雷した雷を伏せこんだといわれる緑泥片岩の岩板がある。
徳島県神社誌


この伝説については社地内に由来を記したこのような碑があり。

これがその「雷伏石」で、この裏側に雷が落ちて伏せ込まれたという井戸がある訳なんですが。

この伏せ込んだ「雷伏石」見て下さい。なんと見事な「盃状穴」を持っています。
あるいは「丹摺り石」!!!

「丹摺り石」とは「丹」、「朱丹」を精製するために使われた台石の事です。
また、「丹」は「水銀朱」の事で古代祭祀のとき赤色として化粧や葬祭時に使われました。縄文時代から弥生時代にかけて、阿波産の「丹」が全国で使われていたことは周知の事実です。

徳島新聞の「辰砂  神聖さ表す朱色の原料」より

http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/122688766452.html

ここまで書けば、何が言いたいのか分っていただけるでしょう。
ある一つの説の傍証になるという事です。
詳しく説明はしません(疲れてるから)。


「祭神怒りて大岩で伏せ込めば」

御祭神が「この岩」で伏せ込んだのです。
この「丹摺り石」で。





次、また間が空いたらごめんね〜。
体力も気力も限界に近いのよ〜。
八人塚古墳はちゃんと行きますよ〜。