2011年6月27日月曜日

亀の背に乗るのは?

こんな日にブログを更新してしまいます。
ま、フェイントとか一人時間差攻撃(誰を攻撃するんだ)と思ってください(思えるか?)
というのも石井町が面白すぎるんです。
もうネタも無いだろうと思ってても、出てくる出てくる。
で、「高人神社」です。
由緒等は「わかりません」。
素直に謝っちゃいます。徳島県神社誌にも載ってません。
場所はここ、気延山北側。

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名前からすれば大陸系、新羅、高句麗、その辺りを感じさせる名前です。
ただ、社殿は「しょぼい」(ごめんなさい)

そんで、地神塔は、なんと亀跌(きふ)とか亀跌(きてつ)といわれる亀に乗った様式。
朝鮮半島、中国、モンゴル、ベトナムにもあるようです。
日本では江戸時代に流行し、お墓だとか、石碑はあるようですけど、地神塔に乗ってるって、これは。
もちろん江戸時代に「流行った」んであって、もっと以前からあるんですよ。
言うまでもなく。
それにしても写りが悪いなあこの写真。バカだから雨の中撮ってるんですねぇ。
それと、ちゃんと調べた訳じゃないけど、どうも石井町近辺では「地神塔」だけを
お祀りするような事を行ってるみたいなのです。
石井町の方いかがですか?読んでたらコメントください。
特に利包の辺りの方いらっしゃいませんか?
元の神社が無くなったから地神塔だけ祀ってるって訳でもないようですしね。
町内の亀跌、まだありましたよ。
ここも元の神社は見当たらず、小さな祠と、この亀跌に乗った地神塔が祀られていました。
ご存知のように地神塔は阿波と讃岐の一部にしか見られない五角形の神名を刻んだ柱です。
蜂須賀家の時代に県下全域に広がったようですが、それが何故に亀跌に乗ってるのか?
考え出すと、眠れません(うそ)。
まあ、まだ月曜日でありますし、これくらいにしといて寝ちゃいましょう。

2011年6月25日土曜日

入田瓦窯跡

まあ、行ってきましたのでとりあえず書いちゃいます。
入田瓦窯跡(にゅうたがようあと)でございます。
場所はここ
気延山南側でこの前書いた「艮神社」から車で1分
でも車じゃ乗り込めないですよ。

より大きな地図で 入田瓦窯跡 を表示
で、ここも駐車にひじょ〜に困る場所です。
射撃場からは歩くとちょっとあるし(と言っても十分くらいかな)
バイクが一番いいかも(それか路上駐・・・あ、見なかった事にしてね)
ゴミの集積場から山にちょっとだけ上がりますとすぐです。
なんだかよく分らない場所です。
近づけば、このような立て看板が。
内御田窯跡群の中のひとつであり、気延山南の東斜面にある。奈良時代に屋根瓦を焼いた
窯跡で、外に須恵器も焼かれている。
18段の小さい段状の燃焼部と煙出し部分が確認されているが、燃料を燃やす焚き口部分は
残っていない。全長10m、幅1.3m、勾配45度の瓦窯様式である。
軒丸瓦と軒平瓦が出土しており、阿波国分寺跡・阿波国分尼寺跡・石井廃寺跡などで見つ
かっていることから、瓦を供給されるために作られたことが分かる。
第二次世界大戦後に偶然発見され、1968年(昭和43年)に発掘調査が行われた。
1953年(昭和28年)7月21日に徳島県指定史跡となる。

とWikipediaにございます。
無茶苦茶重要な場所でございます。


ここが窯ですね。
ところで、またしてもヘタクそな図を載せて恥を曝してしまいますが、この徳島市入田町
地名、字名が面白いんです。
見てください。「内の御田」「海先」「月の宮」「神ノ池」ってなかなかの地名でしょ。
「安都真(あずま)」なんてどうにでも邪推できそうですね(笑)
ま、それはさておき
奈良時代から平安時代初頭と案内の看板には記されておりますが、石井廃寺跡出土瓦
と同形式であるならば白鳳文化と呼ばれる頃と推測される訳です。
ちなみに「石井廃寺跡」は
場所はここ

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前に書いた「品陀真若王社跡 」のすぐ近くです。
住所は「徳島県名西郡石井町城ノ内

看板にありますように「大化の改新」すぐ後であるならば孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)あたりでございましょう。
ならば「入田瓦窯跡」の成立もその頃と言う事になりますよね。

石井廃寺は、南に緩く傾斜する段丘面上にある古代寺院である。
古くから瓦の出土などにより寺院の存在が推定されていた。
1957年(昭和32年)~1959年(昭和34年)発掘調査が行われ、東に塔、西に金堂が並ぶ
法起寺式の伽藍配置であることが分かった。
また、明瞭な遺構は確認されないものの、二つの伽藍の北に講堂、南に中門が存在した
と推定されている。
出土遺物には瓦・土師器・須恵器の他に瓦塔などがある。
瓦の文様などから奈良時代前半に建立されたと考えられる。
「阿波国造墓碑」に記された、国造家の粟氏との関連も推定される。

 国道192号から県道石井神山線を南下、県営曽我団地から南西へ約1。金堂と塔の礎石が見学できる。また、同廃寺跡からの出土遺物の一部は同町所在の童学寺に保管されている。
徳島県立埋蔵文化財総合センター オフィシャルサイトより

だそうです。
童学寺とか空海の話を書き出すと連載になっちゃうので、これはここらへんで止めといて。



あと、これは小さな声で言っときますが
すぐ近くに「曽我氏神社(そがうじじんじゃ)」がありまして、「曽我氏」(蘇我氏)を
祀っております。裏山の「曽我氏神社古墳群」からは出土品がてんこもりです。
大化の改新は宮を飛鳥から難波宮に移したんですよねぇ。
うーん、いろいろ書きたいなぁ。
まあ、ここらは「のらねこ大先生」が書いてくれるでしょう(笑)

という訳で、思わせぶりばっかりで何の考察もなく、今回も終わってしまい慚愧の念が
体を駆け回るのでした。

2011年6月24日金曜日

秘仏

もうホントにね頭打っちゃって(殴られたんじゃないよ)書くに書けず
古代史の事なんて忘れてしまいたい今日この頃です。
1週間書かないと、いろいろ書きたくなるかなと思ってたらそうでもないっす(笑)
もうちょっとお茶を濁させてね。

で、吉野川市川島町の川島城前にオープンした「空海の曼荼羅 風之櫻美術館」に
先週ですが行って参りました。
八十八箇寺の秘仏が写真で見られます。館内は広くありませんが、御本尊の写真等は
なかなかに見応えがございます。
で、今まで公開していなかった秘仏が出てきてしまった訳で、何故に今まで公開しな
かったのかと、いうところですね。
公開して指定文化財とかになっちゃうと、保存のため費用はもらえるけど、色々制約
も出てくるとか、貸し出しも受けなくちゃならないとか、うっとおしいのでなんて
理由もあるんでしょうね。
まあ、ホントに宗教的な理由で出したくなかった仏様もあるんでしょうが。
一般ピープルとしては単純に「隠すなよ、見せてくれよ」と言った所です。

では、八十八箇寺以外に秘仏は?
結構あるんじゃないでしょうか。
前から言ってますように、自慢じゃないですけど仏教関係にはひじょ〜に弱いので
何が貴重な御本尊であるかなんてよく分らないんですが、住吉島にこんなお寺が
ございまして。

より大きな地図で 本福寺 を表示
真言宗大覚寺派「本福寺」でございます。
ワタクシめの知ってる限りでは真言宗大覚寺派のお寺は徳島市内にあと一ケ寺しかない
はずなんですが。
このお寺を覗かせていただきますと、こんな立て看板がございまして。
ちょっと見にくいので、転記いたしますと。

薬師如来像と牛田九郎の墓
平安時代初期(815)吉野川下流で半農半漁の生活をしていた清右衛門と言う人がいた。
ある夜、夢の中で海辺に光っている物を見た。翌朝海辺に行き香りを放った木が流れていたのを持ち帰り大切に保存していた。幾日か過ぎて、一人の旅僧に清右衛門は快く宿を与えもてなした。旅僧はふと香り木を見ると「ただの木ではない、これで仏像を彫って差し上げよう」といって彫り始めた。これが本尊薬師如来の像であるという。明治三年庚午事変の際、徳島藩兵が美馬郡の稲田家を襲おうとするのを牛田九郎は軍監・下条勘兵衛と共に名西郡下浦まで追い、中止を説得したが失敗。二人はその場で切腹したという。

815年って、なかなかに年季が入ってますよねぇ。
弘仁6年(815)といえば嵯峨天皇(さがてんのう)の御宇、弘法大師が霊山寺で21日間
の修法を行っていた頃ですねぇ。
多分、もっと由緒が正しくないと、なんとか指定にはならないんでしょうね。
御本尊から胎内経とか出てくれば話は「ころっと」かわるでしょうけど。
でも、極めて貴重な御本尊だと思います。
まだ、拝ませていただいてませんが。
どなたか、行ってみていただけませんか?
近くの方がいいんですが、沖ノ洲とか(笑)

さて次回はもうちょっと早く書く気になれるかな。

2011年6月16日木曜日

艮(うしとら)

ふつ〜だったら週末深夜に不気味なおっさんが一人淋しくブログを書くんですが
(巷ではチャン・グンソクと呼ばれてる、はずないか。ふぅ)
この週末は書けないかもしれないので、間つなぎにテキトーな事を書いといて
しばらく、ゴマカシておこうという、これはすばらしいアイディアでしょう。

で、艮(うしとら)は艮(ごん)とも読み、易の八卦の一つ。
方角としては東北の方角となり、丑(うし)と寅(とら)の間であることから艮は
「うしとら」とも読まれる。

古くからの占いや伝承で、鬼や死者が出入りする方角として「鬼門(きもん)」と呼ばれ
よくない方角とされてきました。


で、鬼門を守るために寺社を据えたりする訳です。
平安京の鬼門除けの比叡山延暦寺や、江戸城鬼門を守る上野寛永寺などあります。
神社としては広島県の福山城鬼門を守る「艮神社」が有名なようです。

はっきりと、どこどこの鬼門を守ると分ってる寺社仏閣はいいんですが、どこを守って
るのか今となっては・・・
というのが困ってしまいます。
で、入田町内ノ御田「艮神社」
場所はここ、だけど車なんかで通ったら絶対見落とす場所です。
一瞬で通り過ぎちゃうもんね。
ちなみに、家からは充分歩いていける距離です。
より大きな地図で 艮神社 を表示

ね、えらい所でしょ。
もちろん「徳島県神社誌」には載ってません。
ですので、由緒なんかも分りません。入田町史とかには載ってるかも。
でも、まだ見てません。
お参りに行った時にはヘビーな蛇さんがいらっしゃいました。
なんか意味があるのかな。
ご本殿も慎ましいですし、ご祭神も分りませんでした。
と言う訳で、ここが鬼門であるならば、どこを守っているのか?
地図を見ると、う〜んいっぱいありすぎるじゃん。
建治寺もそうだし、東龍王神社もそうだし、地図上でもっと線を延ばしてみると
上一宮大粟神社、悲願寺辺りまでターゲットになりそうっす。
まあ、いろいろ勘ぐるのも面白いと思いますけど。

ところで『艮の金神』は、『国之常立神』(くにのとこたちのかみ)の事で在り
『天之御中主神』(あめのみなかぬしのかみ)でも在り、伊勢神宮外宮の祭神
『豊受大神』(とようけのおおかみ)のことでもあるんですが、もちろん余談です。

落ちも何にもなくて、ひじょ〜に心苦しいんですが、今回はごまかすのが目的の
記事なので(おいおい)お後もよろしくないですが、この辺で。

週末に写真が撮れたら、ちょっと書くかもしれません。
ええっ、◯◯◯って実は☆☆☆だったのぉ!びっくり仰天!!!(ウソですよぉ)
でも、この天気じゃねぇ。

2011年6月11日土曜日

石井町「薬師庵」

ご無沙汰でございます。今日も雨模様でどこにも行ってはないんですが
ちょっとは書いとこうかなとか思って書いております(意味不明)

でも、ホントはこの記事お蔵入りにしようかなと思ってたんです。理由は後で。

石井町利包(としかね)に真言宗のお寺「薬師庵」があります。
無茶苦茶分りにくい所にありますが、石井町の神宅(かんやけ)神社と白鳥神社の
間あたりです。
場所はここですが、例によって例の如く、車では行きにくい所です。

より大きな地図で 石井町利包の石風呂 を表示

さてここに何があるかと申しますと、石井町指定の文化財「石風呂跡」があるんですねぇ。
「薬師庵」自体はこんな感じです。
変なおっさんが突然バレーの練習の邪魔してごめんなさい。
阿波学会研究紀要に図面がありましたのでお借りいたします。
内部図面もありましたが「転載不可」でしたので。

で、解説はこうです。
で、これも阿波学会研究紀要からの引用ですが

薬師庵が所蔵する由来書が新旧二通ある。古い方は残片をとどめる程度で、全文の解読は
不可能である。新しい方は江戸中期ごろ、当時の庵主が古い方を転写したものと思われる。
その内容を概説すると次のとおりである。
 「天平9年(737)聖武天皇は、厄除祈願のため僧行基に命じて、四国に九十九体の薬師
如来像を造らせた。行基は石井へ来て、前山の密林の中に小屋を建て、そこで薬師如来を
念じている中、「厄難を避けんと思えば、この山の温石(おんじゃく)で石風呂を築き、
17日間入浴すれば、厄難はもとより、諸病難を除くであろうとの霊示を得た。これがこの
石風呂の由来である。」

中略

ただ、石風呂の原型は天然の岩穴などの中で、焼いた温石に水を注いで蒸気を発生させた
といわれる。
従って現在のような、石を赤土で練り固めて築造した石風呂の登場は、ずっと時代が
下がり、江戸中期以後と考えたい。

無論、実際に聖武天皇の御宇の頃作られたとしても、そのままの形で残っている筈も無く
何度も構造が変えられていった事は想像に難くありませんので、旧態のまま残っていない
からといって由緒を疑う理由にならないのは当然ですよね。
それにしても聖武天皇の頃、行基上人が作られたというんですよ。

さて、ここからが書きにくい部分。
当ブログじゃあんまりおおっぴらに書いてはないんですが、要は記紀の舞台が阿波に
あったのではないかというスタンスで書いております。
「允恭天皇神社」しかり「舎心山太龍寺縁起」しかり「品陀真若王社跡」しかり
ってとこなんですが。
その伝で大師匠の「のらねこ大先生」が
「崇神天皇は阿波国美馬郡にいた」のコメントの中でお書きになっております。

「前略 久久能智神は石井の神宅神社。大山津見神は、阿讃山脈の大山。この2点を結ぶ
線上に鹿屋野比売をる鹿江比賣神社。
この4点を結ぶエリアで吉野川沿い平野部がすっぽり収まります。
久久能智は木の神ですが、ここが入り口でこの南のほうが木の国です。
古事記では「木国」「紀国」と書かれますが、のちに「紀伊の国」と書かれ、和歌山のこととされます。
これも地名のコピーですね。

方言のところにも書いたでしょう。
阿波弁では一音を伸ばして発音すると。
「木」の国は、阿波弁では「きーの国」と発音します。
後世、その音通りに漢字を当てたのが「紀伊」です。

つまり、「木」「紀」と書いて「きぃ」と発音する地方がオリジナルの「木(紀)の国」だとわかります。」


と申しております。
「紀伊の国」が石井町のあたり?
じゃあ、例えば日本書紀にでてくる斉明天皇紀のここ
「九月有間皇子性黠陽狂云々徃牟婁温湯偽療病来讃国体勢曰纔観彼地病自蠲消云云天皇聞悦思欲徃観 
9月有間皇子は性ずるく狂ったようにふるまうことがある云々、(紀の国の)牟婁の湯に
行って偽の病の治療をしてきたように見せかけ  以下略
の部分とかは
「五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯 」
5年春正月に天皇が紀(の国)の湯に行幸された

などの記載を受けて紀州、和歌山の白浜温泉だと言われております。
この紀の国を石井町とするなら温泉は?
石風呂のことでしょうね。

上に記した「薬師庵」は聖武天皇の頃ですので時期は合いませんが、石風呂、釜風呂が
仏教伝来とともに入ってきていたのなら、斉明天皇の頃に石風呂があっても全くおかしく
ないと思うんですが。
さらに、斉明天皇紀では「牟婁温湯」となっております。
牟婁(むろ)」って「室(むろ)」が語源なんですが、ならば室の湯は石風呂じゃ
ないんですか?
大体白浜温泉があるのはもともと「牟婁郡」じゃありませんでしたしね。
石井町にあったであろう石風呂のほうが合うんじゃないかと思うんですが。
ただ、斉明天皇の頃に石風呂があったかどうかは想像するしかないですし、「紀温
と書くとき、それは石風呂(蒸し風呂)ではなく温泉の湯の事を言うのが「今では」
一般的なので、その辺りも悩む所です。

という訳で(どういう)←もう飽きたよぉ。
ひじょ〜に書きにくい記事でございまして、写真とか資料とかは準備してたんですが
やっぱ止めようかなぁ〜と思っておりました。
が、書く事がないので何となく書いた次第でございます。
結局はいいかげんと言う事ですな、はっはっはっ。

なにを笑ってんだか分らない状態でお開きとさせていただきます。

2011年6月5日日曜日

廃れてしまいました

梅雨に入りまして鬱陶しい天気が続いております。
毎年、5月から6月にかけて鬱がきつい時期なのです(自慢する事じゃないけどね)
いろいろ調べてる事も進まないし、教えてもらった所もまだ行けてないし。
あ〜やだやだ。

で、大した記事は書けません(おっ、開き直ってるね)
前回書いた「那須与一神社」の近くです。
こんな所があります。
何だと思います?
そうですね、鳥居の柱です。
笠木部分も貫も扁額もありません。
廃れてしまった神社跡です。
何神社だったかとかは、もういいじゃないですか。
隣の倉庫脇に灯籠やら地神塔跡があります。
地神塔だけは形がきちんと残ってますが。
鳥居の島木の一部(のようなもの)やら灯籠の傘やら。
こうして見ると、大分前に崩されたような気がします。
柱を裏側(北側)へ廻ってみてみると、下に割れた笠木が。
祠があった場所のようです。
でもどうしたんでしょうね。この辺りは、大きな神社は「新宮本宮両神社」ぐらいしか
ないし、◯◯社神社とかとして合祀したような形跡もないし。
道路拡張工事とかでもなさそうだし、いかにも不思議です。
上の祠跡にはいまなおお賽銭が供えられておりました。
合祀されたのならこんな形で神社跡は残さないでしょう。廃社にはしたけど、そのまま
にしておくべき理由があるんでしょうかね?
あんまり悲しいんで由緒とか調べる気にもなりません。
手を合わせるくらいしかできません。


色々考えてみたけど、いま頭がパーなので、あんまり難しい事は書けません。
このぐらいで勘弁しといてね(誰に言ってるんだ)。