2012年1月28日土曜日

矢野城山神社

1月28日(土)ワタクシ、外出禁止令を受けております。
木曜日に久々、数年振りにやってしまいました、「腰」。
そうです、グキッとね。(笑)(←笑わにゃシャーない)
とは言っても、大したこと無さそうなので、トレッキングポール持って出かけようと
したら(笑)「お前はアホか」と、横山ホットブラザーズ(知らんやろな)のような
声が掛かりました。
「外出禁止!」あとはその一言のみ。あー、あそこ行こうと思ってたのにぃ。
(通称「城の王」ってとこ、さあ、どこでしょう)

しゃーないんで、撮り置きの写真と持合わせの資料で書いてます。
えと、今日は「矢野城山神社」というか「矢野城跡」でもあります。
場所はここ、(あー腰痛い)徳島県徳島市国府町西矢野。
徳島市考古資料館駐車場すぐ南の道路から入って行きます。
くれぐれも車で進入しないように、考古資料館の駐車場にでも駐車させてもらってね。
ついでに資料館でここらの史蹟地図をもらえばカンペキ。
(頼めばもらえます、わぁ、地元の人みたい)

より大きな地図で 矢野城山神社 を表示
ご覧の通りの小高い丘の上にありますが、言わずと知れた「古墳」でございます。
こんな感じで急坂を徒歩で登って行きます。
バイクも止めてね、ここらの人の迷惑になりますので(行けば分るけど)。
登って行くとこんなのがいっぱい落ちてて・・・
ここは狙っても無駄ですよ、近所の人が早いもんね。(←誰に言ってるんだ)
ごめんなさい、正面からの写真がなぜか見つからない、撮ってたはずなんだけど。
で、矢野城跡ということで
矢野城
矢野城(やのじょう)は、徳島県徳島市国府町矢野にあった日本の城。

築城年代は不明だが永禄年間(1558年-1570年)に矢野国村が築いたとされる。 
天正7年(1579年)12月、脇城下で三好康俊・武田信顕らの謀略によって、矢野国村は
三好軍と長宗我部軍との狭撃に遭い、討死した。それ以降の矢野城の経緯については
不明である。
四国八十八カ所十五番札所・国分寺の北西500m、西方から突出した標高28mの山尾根の
先端に位置する。西方の尾根続きに空掘を掘り、その堀を傾斜の比較的緩い南側へ回して
いる。
城内は東西約60m、南北約25mで、からナズ氏も整地された曲輪ではない。
所々に気延山古墳の破壊された跡などもある。

とWikipediaにございますが、城についてはこの通りです。(あー腰痛い)
で、城山神社が矢野城跡に建ってる、いや多分逆なんですがね。
この社殿は平成16年に東矢野出身のマルヨシスーパー創設者である矢野憲作氏が
私財を投じて再建したのもです。
もちろん碑文にある矢野駿河守の子孫です。
でまあ、歴史ロマンを偲ぶためということで、こんな碑も建てられておりますが

下の石碑に文句を言う筋合いじゃないけど
ホントは1552年に山口で、宣教師コメス・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した説が正しいような気がする(笑)
いや、けなしてるんじゃないですよ。(あー腰痛い)

いかん、いかん。で城山神社についてなんですが
はっきりした由緒はわかりません。(あー腰痛い)
平成16年の遷座祭のときに旧社殿の棟札が発見されております。
それが安永三年(1774年)11月。
その棟札には

(表)
  八咫鏡
  八坂瓊勾玉 若宮太明神御本社鎮座
  草薙劔

(裏)
  无上 安永三年 名西郡矢野村神主冨崎日向守藤原常夏
   宗源神道三元三妙壇氏子繁榮長久祈攸
  霊寳午ノ十一月吉祥日 矢野村氏子中

とあります。
矢野城が永禄年間(1558年-1570年)の築城ですので、それより200年後の鎮座。

同時に寛政九年(1798年)の棟札も発見されております、火災があったようです。
それには
正一位椙尾山神主藤原常夏
とあります。
ちなみに杉尾山の八倉比売神社が正一位となったのが元暦2年(1185年)。
なにかしらで、そこらを受けて正一位と付けたようですが、深読みするには材料が
足りません(笑)
けど場所が場所だけに永禄年間より以前に神社があったとしてもなーんの不思議も
ありませんがね。
ただし、ここに関しては古墳の盗掘跡も多々あり、考古学的な発見はどんなもん
でしょうか?

というわけで、なーんもひねってませんが腰が痛いんで、こんなところでございます。
さて、湿布とっかえよ。

2012年1月22日日曜日

阿波國文庫について再び

ぶるぶる、寒いですねぇ。
まあ、本当なら旧正月まで冬なんで寒いのも当たり前ですか。
で、御霊(みたま)の冬ともいいますが、冬は「増ゆ」からきておりまして
何が増えるのかと言いますと、春に萌える生命を生み出す「御霊(みたま)」が
増えるんですね。ちなみに春はその生命が「張る」んです。

さて、またもやえらい前の記事の続きなんですが
「光慶図書館」と「阿波国文庫」で全国有数の集書を誇った「阿波国文庫」
について書いてみたんですが、この「阿波国文庫」昭和25年3月13日
天皇巡幸の「直前」火災により焼失いたしました。

ワタクシめがなぜにしつこく「阿波国文庫」を追っかけてるかと言いますと
「小杉榲邨」や「池辺真榛」らがどんな資料を基に国史の研究を進めていたかを
知りたいからなのです。
また「阿波國風土記」に関する手がかりもないかとも思っております。

で、ひとつ見つけたのが
>詳細な目録カードが編成せられ、神田喜一郎・長沢規矩也・川瀬一馬など
>新々の専門学者によって書誌学的に学会に紹介せられ、稀観本は漢籍
>二百六十六部・和書三百四十部・計六百六部を数えた。

このうちの「長沢規矩也」氏の手による
「阿波國文庫焼亡貴重書目録」
長沢規矩也氏は説明するまでもなく、日本トップクラスの書誌学者。
長沢漢和と呼ばれるほどの『新撰漢和辞典』を刊行し、以後も長く漢和辞典の編纂を行い
その後も明解漢和辞典 新版(三省堂1959)や大明解漢和辞典(三省堂1960)を著した方です。
阿波國文庫の目録は光慶図書館にも残ってなく、長沢規矩也氏による目録が唯一の
手がかりとなるようです。
この「阿波國文庫焼亡貴重書目録」残っていたのが、なんと「東北大学附属図書館」
無論「東北大学附属図書館」まで資料を請求した訳ではありません(笑)
徳島県立図書館にコピーがありました。
「それ」によれば
太平洋戦争の末期、昭和二十年六月館長岡島幹雄君の英断によって貴重本六百六十三冊と目録四冊を自ら荷車を引いて八万町長谷に疎開し、さらに十月これを名東郡佐那河内村嵯峨に運搬した(この段は羊我山人著「粟之抜穂」より)

ことによって戦災を免れた貴重図書は

戦災をまぬがれたものの、天覧に供すべく陳列準備をした日に館が全焼
(「阿波國文庫焼亡貴重書目録」前書きより)

したのです。
普通に疑えば(笑)天皇御覧の準備をしていた時に火災が発生するなど考えもできません。
昭和天皇の御前に供して都合の悪い書籍があったと考えるのが妥当でしょう。
それは漢籍ではないでしょう。類書、仏書でもないでしょう。
考えられるのは「国史」。
館を燃やさねばならなかったほどの書籍があったのでしょうか?
「国史」の部より一部を掲示いたします。 

さて、これは最初のページだけですが、この貴重本六百六十三冊と目録四冊中に
天皇御覧に供せなかった「何か」があったのでしょうか。
あったとしても、「それ」は今や烏有の闇の中に消えてしまいました。
あるいは蜂須賀家東京本邸書庫に残っていた「それ」が、今まだ東京神田どこかの古書店の棚の奥に眠っているのかも。
(ギィィィィ、バタン←ドアの閉まる音)



2012年1月15日日曜日

竹取物語に関する備忘録

お正月以来、いよいよ書くことが無くなって来たのでおとぎ話でも紹介しましょうってね。
え〜と「竹取物語」って知ってますか?(笑)


昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは竹を切ってかごやざるを作って暮らしていました。
ある日のことです。いつものように竹林に行くと、光っている竹が一本ありました。切ってみると何と女の赤ん坊が入っていました。おじいさんとおばあさんには子供がなかったので「かぐや姫」と名づけて育てることにしました。それからというもの竹を切りに行く度に、おじいさんは竹の中にお金を見つけお金持ちになりました。


原文に近い形で紹介すれば

今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに 使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋あ りける。怪しがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる 人、いとうつくしうてゐたり。翁、言ふやう、「我、朝ごと夕ごとに見る竹の中におは するにて、知りぬ。子となり給ふべき人なめり。」とて、手にうち入れて、家へ持ちて 来ぬ。妻の嫗に預けて養はす。うつくしきこと限りなし。いと幼ければ籠に入れて養ふ。




成立年は明らかになっていない。原本は現存せず、写本は室町時代初期の後光厳天皇の筆と伝えられる「竹取物語断簡」が最古といわれ、完本では安土桃山時代の天正20年(1592年)の奥付を有する「武藤本」が最古といわれる。しかし、10世紀の『大和物語』、『うつほ物語』や11世紀の『栄花物語』、『狭衣物語』などに『竹取物語』への言及が見られ、また『源氏物語』「絵合」巻に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」とあることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。通説は、平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半に書かれたとする。元々、口承説話として伝えられたものが『後漢書』や『白氏文集』など漢籍の影響を受けて一旦は漢文の形で完成されたが、後に平仮名で書き改められたと考えられている。  wikipediaより

藤原不比等がモデルとなった「庫持皇子」が現れている所から「平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半」というのが妥当な線でしょう。

で、万葉集 巻十六の第三七九一歌の題詞として「竹取翁」について長歌が読まれております。(下記「題詞」参照)
[題詞]昔有老翁 号曰竹取翁也 此翁季春之月登丘遠望 忽値煮羮之九箇女子也 百嬌無儔花容無止 于時娘子等呼老翁嗤曰 叔父来乎 吹此燭火也 於是翁曰唯<々> 漸T徐行著接座上 良久娘子等皆共含咲相推譲之曰 阿誰呼此翁哉尓乃竹取翁謝之曰 非慮之外偶逢神仙 迷惑之心無敢所禁 近狎之罪希贖以歌 即作歌一首[并短歌]


で、この竹取物語にでてくる「かぐや姫」これもモデルがありまして、無論いくつも説はありますが、その一つに、垂仁天皇妃である迦具夜比売(かぐやひめ)が挙げられます。
この迦具夜比売命、大筒木垂根王の娘で垂仁妃となり袁那辨王を生んだとされますが、大筒木垂根王は開化天皇の孫、その兄弟が「讃岐垂根王」、物語の「竹取の翁」こと「さぬきの造」と妙に符合してしまうんですね。

さて、ここらの関係はややこしいんですが(間違ってたら教えてね)
開化天皇の皇后は物部氏の祖である伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。
古事記では伊迦賀色許売命と書かれますが(もう書きたいこと分った?)
この伊迦賀色許売命を祀る「いかがし」の名のつく「式内社」は全国でただ一つ
川島町の伊加加志神社だけなのです。

御祭神は
伊加賀色許売命、伊加賀色許雄命、天照大御神となっております。
写真は伊加加志神社(いつの間にか行ってるのよ)
字「大明神」に鎮座しております。
古の洪水前には川島中学校近くの「伊賀々志」の地にあったそうです。


つまり何が言いたいのかといえば
迦具夜比売(かぐやひめ)は伊迦賀色許売命のひ孫。
叔父は「讃岐垂根王」。
どこに住んでたんでしょうね?

もちろん、「竹取物語」のお話の事なんで、これでどうこう言う訳じゃないんですが
ちょっと面白いでしょ。
また、迦具夜比売(かぐやひめ)を神功皇后に比定する説もあります。
で、神功皇后の名は息長帯日売とされるが、これは諡名で、実名はカグヤヒメとの説も
紹介しておきます。
ややこしいでしょ。
神功皇后は山城国にすんでいたそうですが、阿波に山城があったりするのも余談です(笑)

ま、今回は備忘録なんでこの辺りにしておきます。
だって神功皇后とか息長氏の事を書き出したらきりがないもの。


あ、もひとつ備忘録なんで

聖徳太子の祖母、即ち用明天皇の母后は、「かぐや姫」と伝承される。
ってのも書いておきます。
聖徳太子の住んでた上宮ってどこだったんだろな。

文字ばっかりで御退屈様でした。

2012年1月9日月曜日

救世山峯薬師 法谷寺(追記)

ちょっと鼻炎がひどくて頭痛が、うっ!ガクッ!!
といいながら「えべっさん」にはキッチリお参りしてくる今日この頃でございます。
(さっきのはナンだよ)


「救世山峯薬師 法谷寺」の追記でございます。
別資料として「峯薬師如来縁起」が出てきましたので、ご紹介しておきます。

前置きとして、前回は法谷寺由緒書きの看板しか出しておりませんでしたが
この法谷寺、本来の名称は「救世山大乗院峯薬師」といい現在は法谷寺となって
おりますが、古くは遍照寺と号しておりました。
もうここらで疑いビーム百万連発でしょうねぇ。
そっすよ京都の遍照寺と同じ名称ですよ、同じ真言宗ですよ。
ま、続けますけどね。

此の度紹介する「峯薬師如来縁起」は明治四十三年時の県知事渡邊勝三郎、寺総代
山松濤恵蔵外五名が通夜堂建設のために佛堂明細帳脱漏入願を出した時のものです。
出典資料は参考として「道は阿波から始まる」の文書も引用してて、ダブルところが
多かったんで途中はしょってます。

「峯薬師如来縁起」

日霊命神陵矢野神山の対岸の以乃山山頂を毛受ケ原という。古代語では「いの」とは頭の
こと、この以乃山の東西の両端が毛受の耳原と呼ばれ、古代の大聖地だった。
聖徳太子がこの以乃山西の耳に峰薬師を建立した。「この域南北に枕し、東方へ向け開けるは、是正に浄玻璃世界に相応せる域也。
よりてこの前尾の峰を救世山と号し一山を開かん」と自ら勅語し、後に弘法大師が当地に
至り「我此地を三密修行の根本道場になす」と述べ、救世山大乗院遍照寺なる
真言宗最高位の寺を建立したのは有名な伝話である。
この救世山峰薬師の伝記にも宇佐八幡を当寺鎮守として奉じ給いとある。
上流の神山神領と同様、鮎喰川を間にして日神陵摂社となっている。
現在の加茂名豊崎八幡宮。勿論この辺り一帯はこの遍照寺の寺内の一部天石門別八倉比売
神社と一対になっていた。
昔の、この寺内奥の院が熔造皇神社で、寺内には高良大明神(武内宿禰の陵といわれる)
があり、聖徳太子殯宮といわれる末寺、常厳寺タタリ山があり、また大日孁命神陵に相対
して、同一の標高地点(現在の眉山カントリー内、八人塚古墳の上)に同じ規模の大古墳
がある。
また聖徳太子は後の世で天照大神と呼ばれる日孁命の神陵を上流より下されて、自分の
住む気延山の東峯を矢の神山としつらえ、新らしく日孁命神陵を再建、日本国鎮守として
定める。


中略


この遍照寺は往事、真言宗最高の寺。西門は鮎喰川原近く、日孁命神陵天石門別八倉比売宮
の鳥居と東西相対し、寺の鎮守に上流神山神陵の鎮守、宇佐(宇狭)大明神を下ろして
奉祀(現在豊崎八幡宮在)し、奥院が聖徳太子陵といわれたタタリ谷の常厳寺(古くは
尼寺)。現在の名東町、豊崎の八幡宮、法谷寺山頂の熔造皇神社、高良明神(武内宿禰の
塚跡)を含め、庄町(以乃津最古の町)はこの寺の寺領、東耳原の金剛光寺とともに
以乃山全体を守る由緒ある寺であった。この寺の拝殿を医王殿と称し、薬師寺で医王山の
山号を持つ寺は総てこの救世山峰薬師の末流である。

で、医王水がある訳ですね。

残念ながら、熔造皇神社、寺内の高良大明神(武内宿禰の陵)、常厳寺タタリ山などは
確認できてません。
また、これ以上の資料も見つかってません。「阿波志」等は探したんですが詳しいこと
は書いてませんでした。
「名東関係誌」は岩利氏が、あてにならないなどと書いてありますので、後回しにして
いまでも見れてません(汗!)
以上、追記ですが、最後に「この」遍照寺は、寛朝僧正の京都広沢の遍照寺建立その後の
織田信長と豊臣秀吉の宗教弾圧政策によってつぶされ、峯の薬師のみが残されたとある
そうです。

また、信用されないような資料を出してしまった。(笑)

2012年1月4日水曜日

平成24年のお年玉

元旦にご挨拶はさせていただきましたが、改めまして新年明けましておめでとうございます。
本年もヨロヨロ、じゃなくて、よろしく御願い申し上げます。
で、まだ松の内ですし、若輩者から僭越ではございますが、お年玉など差し上げようかと
ふと思いついてしまいました。
いえいえ他意はございません、何か企んでいる訳でも(少ししか)ございません。
このお年玉、そんじょそこらの玉とはモノが違う(おいおい、そんなの書いていいの?)
年末ジャンポ、初夢宝くじなんかメじゃないっすよ(笑)
え?はよ書けって?
お年玉はこれでございます。
現、板野郡上板町の一部であります、大山村は1955年3月31日市町村合併により廃村と
なりました。
仏王山 大山寺」でも書かせていただきました、かの「大山寺」がございます場所で
あります。
また板野郡上板町神宅にある日本唯一の鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)を祀る
式内社、鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)もここ大山村でございました。

で、この大山村の中心となす「大山」は一説によれば(また逃げを打つぅ)
大山住神(大山積神、大山津見神、大山祇神)のおわした故に大山と名付けられたとも
いわれます。
ではその「大山村史」に何が書かれているかと申しますと。
色々何ページも出すのもめんどくさいので、お年玉となりうる上記一ページのみ!
はい、探して下さいませ。
わたしゃ、気前がいいんで大発見はお譲りいたします(笑)
歴史に名を残しますよ、いやホントに。
というか、去年の12月初め頃からずっと出雲国風土記に張り付いてたんですが
どーも見当たりません。
神門郡の部に「大山社」というのは見つけましたが「阿波大山祇社」は見つかりません
何か別の記載方法かと思って夜な夜な眺めてたんですが、老眼をショボショボさせても
見つからない。
で、お譲りいたします。(笑)
ワタクシめは親切なんで(笑)
國學院大学デジタルライブラリの
へのリンクも張っちゃいますので、どなたか頑張って見て下さい。
発見したら、ホントにどえらいことになっちゃいますよ。

というお年玉でございます。
さて皆様良い年でありますように。

2012年1月1日日曜日

平成24年 謹賀新年

あけましておめでとうございます。
皆様方の本年のご健康とご繁栄を心よりお祈り申し上げます。
相も変わらず御来光を拝みに行きましたが、残念ながらちょっと天気がね。
8時35分でやっとこの程度でした。
ちなみにこの場所のいつもの日の出は7時13分頃なんですが。
その時間ではこんな感じでした。
で、帰る時に「大泉神社」に寄って。
御神水の「若水」をいただいて帰ります。
小さいペットボトルに少しだけね。
これでね、コーヒー淹れるつもりです。
ホントは神棚にお供えしたりするんでしょうけど。
お正月の楽しみ♡
ここ「大泉神社」は「天の真名井」に比定されると考えております。
八倉比売神社の御神撰田跡もこのように残っております。
それでは、今年一年よいお年を。