2017年7月24日月曜日

備忘録:つるぎ町貞光「児宮神社」

何の脈絡もない記事ではございますが、個人的な備忘録として書いておきます。

徳島県美馬郡つるぎ町貞光「児宮(ちごのみや)神社」
創建、寿永二年(1183)
明応五年(1496) ・弘治二年 (1556) ・慶長六年(1601) ・究永廿一年(1644)の年紀が記された棟札が残る。
麻植定光により木綿麻山神社と号されたが、その後「天児宮」となり、今は「児宮(ちごのみや)神社」であるが、その経緯は不明である。
祭神は定かでないが「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」と社記に記されている。


天児屋根命(あめのこやねのみこと)
中臣連等の祖神。中臣とは、神と皇孫との間を執りもつ職能の一族。 中臣氏の子孫は藤原氏として栄えた貴族。また、大中臣氏として伊勢皇太神宮の祭主即ち大宮司を勤めた家柄でもある。
天岩屋戸神話において、天照大御神を岩屋から招き出すために太玉命とともに卜占を行い、 祝詞を奏上する役割を果たす。
『日本書紀』の一書には、中臣連の遠祖 興台産霊(こごとむすひ)の児とあり、 須佐之男命神追放の際に解除太諄辞(はらひのふとのりと)を掌る役を伝える。
                               玄松子の祭神記より
さて、この「児宮(ちごのみや)神社」ですが
忌部大神宮宮司麻植家の家賀城のあった家賀の里に鎮座しております。

正確には「兒宮」で「児」の旧字ですね。


この、「児宮神社」の社記がなんとも、驚愕の内容でして、斎藤貢氏の「阿波の忌部」に記載がございます。


転記します。

中臣之大祖天児宮社記
常社者式内之官社ニ面麻植之地名神大月次新賞式ト号ス麻植定光木綿麻山神社ト号ス天児屋根命児宮則
當社乎朝廷ニ厚ク尊敬シ賜ヒ而四國之大祭御時タン上シ官幣ニ預リ賜フ當社者木綿麻山児宮四固之大祭
トハ二月五穀祭六月十一月両度月次祭リ八月新嘗會也依而往古者年々官幣乎給布而社領モ相應ニ下シ置
佐礼志事ヲモンヅルニ神代之昔高天原ニ而天照大御神磐屋ニ隠毛里給フ御時御心勇之幣物之料ト而中臣之
大祖天児屋根命ニ寄成神業ニ麻格之二種平佐成シ賜ヒ而麻之波乎以青幣ト志格之波乎以弓白幣ト志瓊鏡
之二種ニ并テ根越之榊に掛テ奉志今諸社二奉掛留瓊鏡木綿乎懸而奉留其根元也皇孫瓊瓊杵尊筑紫二天降
里賜フ御時ヨリ天照大御神勅志給ヒ忌部大祖天太玉命中臣大祖天児屋根命ヲ左右之補佐神ト定賜フ後高
天原之祝乎以内分之御政事乎司賜フ神事乎兼而行奈波志牟阿波國ニ降良世賜フ初テ播種世志麻植定光木
綿麻山ト号ス常國ニ住居而神代之従吉例ニ天子御即位大賞会之節毎止志[本本]之衣由加物平奉里諸ノ御神事
之節ニ幣畠乎作シ事乎往古鎮座吉良川端ヨリ五拾八丁辰巳方木綿麻山ニ御鎮座有天掛留奪キ神恩平人登
志弖アニカンタヒ由来詳成事朝廷之御本録ニ委敷記

慶長八卯年七月吉日寫之

      東端山家賀村
            笠井龍藏所持

嘉永六丑年十一月吉日写之


阿波國ニ降良世賜フ
誰が?
無論「天児屋根命」ですね。
いや、ワタクシが書いたんじゃないですよ(笑)社記を写しただけなんですよ(笑)
信じられませんよね、「天児屋根命」が天降り来したのが、貞光町家賀の里であるなんてねえ。
それもまた忌部の本拠地ですよ。


さて、お手元に日本書記をお持ちの方は参照願いたい。

日本書紀 巻第二 神代下 第九段 一書 第二
高皇産靈尊因勅曰 吾則起樹天津神籬及天津磐境 當爲吾孫奉齋矣 汝天兒屋命 太玉命 宜持天津神籬 降於葦原中國 亦爲吾孫奉齋焉 乃使二神 陪從天忍穗耳尊以降之
高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、因りて勅(みことのり)して曰く、「吾、則ち天津神籬(あまつひもろき)及び天津磐境(あまついわさか)を起し樹(た)てて、當(まさ)に吾が孫の爲に齋(いわ)い奉らん。 汝(いまし)天兒屋命(あまつこやねのみこと)・太玉命(ふったまのみこと)は、宜(よろ)しく天津神籬(あまつひもろき)を持(たも)ちて、葦原中國(あしはらのなかつくに)に降りて、亦(また)吾が孫の爲に齋い奉れ」。 乃ち二神(ふたはしらのかみ)をして天忍穗耳尊(あまのおしほみみのみこと)に陪從(そ)えて降(あまくだ)らす。


高皇産靈尊は天兒屋命と太玉命に対して「吾が孫の爲に齋い奉れ」と命じております。
で、伊勢神宮の相殿神二座には天兒屋命と太玉命が並んで祀られているのです。



社記にも
皇孫瓊瓊杵尊 筑紫二天降里賜フ御時ヨリ 天照大御神勅志給ヒ 忌部大祖 天太玉命 中臣大祖天児屋根命ヲ左右之補佐神ト定賜フ
とあるではないですか。


忌部の祖の本拠地に祀られていても、何の不思議もないのです。
で、ホントはこっから掘り下げるところなんですが、今回はここらまで。
以上、備忘録として記しておきます。

2017年6月25日日曜日

麻植の系譜(追記)

あたりの追記になると思います。

「続日本紀」宝亀七年(776年)六月、藤原房前の七子である「藤原楓麻呂」が薨じたとの記事を見ることができます。




 「参議従三位大蔵卿兼摂津大夫藤原朝臣楓麻呂薨しぬ。平城朝の贈太政大臣房前の第七の子なり。」

藤原 楓麻呂(ふじわら の かえでまろ、養老7年(723年)?[1] - 宝亀7年6月13日(776年7月3日))は、奈良時代の貴族。名は楓麿または楓万呂とも表記される。藤原北家の祖である参議・藤原房前の七男。官位は従三位・参議。
wikipedia

この「藤原楓麻呂(あるいは楓麿)地位的には不遇だったようですが、あくまで藤原一党、階位を得るのが遅かっただけで、結局「従三位」まで上がってるんだから文句の言いようがないでしょうと思うのが庶民ですね(笑)。

で、この「藤原楓麻呂」を「公卿補任」で調べてみれば(下図)


なんと、「母阿波采女(うねめ)外従五位下粟直」とあるではないですか。



また、「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」
『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。
にも





下のように「楓麿」「母阿波采女(うねめ)」との記載があります。



さて、この「采女(うねめ)」と言いますのは「日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと」であり、
『日本書紀』の雄略紀に「采女の面貌端麗、形容温雅」と表現され、『百寮訓要集』には「采女は国々よりしかるべき美女を撰びて、天子に参らする女房なり。『古今集』などにも歌よみなどやさしきことども多し」と記載されております(出典wikipedia)
なぜ「しかるべき美女を撰びて」の部分だけ文字が大きくなっているのかは、ともかくとして(笑)直接天皇に仕える存在である役職の女官を母としていたわけです。

が、前出の
「母阿波采女(うねめ)外従五位下粟直」
の「粟直」の部分。
「粟直(あわのあたい)」を出自としておるのですね。
歴史学者の「角田 文衞(つのだ ぶんえい)」博士は、これらの記載と「写経所請経文」の「板野采女国造粟直若子」の記載より、楓麻呂の母「阿波采女」は「板野命婦」であろうとの見解を出しております。(下記記載参照)

「板野命婦」
生年:生没年不詳
奈良時代の女官。粟凡直国造若子とも。外従五位下。藤原房前の7男楓麻呂を出産。阿波国板野郡貢上の采女で,光明皇后の御所に仕え,写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し,造東大寺司との連絡係などを務めた。出家し,尼となった。参考文献『正倉院文書』,「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)

つまり、麻植氏系図によれば、忌部の養子であった「房前」は「粟凡直」の一族である粟若子、後年の「板野命婦」を妃として迎え、「藤原楓麻呂」を設けたということなのです。

忌部の族長から養子となったと系図に残る「房前」にその宗家ともいわれる「粟直」一族を妻と迎えさせたのは、いったい何だったのでしょうか?

時代は下り、藤原 通憲(ふじわら の みちのり)嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))

ご覧の通り「南家」の裔。
妻は藤原朝子(紀伊局) - 藤原兼永の女、後白河天皇の乳母、従二位、典侍
となっておりまして
通憲と紀伊局との間に生まれたのが「阿波内侍(あわのないし)」。
寂光院パンフレットより

ですが、その「紀伊局」について「阿波名勝(阿波名勝案内じゃないよ)」の記載には


 

ほほぉ、「麻植忠光」の娘ですとな。
もちろん、忌部神社大宮司家の「麻植忠光」ですね。
「南家」の方も北家に負けじと忌部神社大宮司家より嫁を娶った、とも見えてしまうではありませんか(異論上等www)。

まあ、掘り返せば藤原と忌部、粟凡直との関係がもっと出てくるかもしれませんが、追記として、この辺りを書いときます。

いや、ホントに最近忙しくて、これ書くのに2週間もかかってるんだから(涙)




2017年6月12日月曜日

天日桂神社(下)

天日桂神社(上)からです。

さて、ここにスタンフォード大学のサイトがあります。
http://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=733446cc5a314ddf85c59ecc10321b41

明治時代の日本の五万分の一スケールの地図が見られる貴重なサイトです。
鴨島近辺を見れば、このように明治二十九年に初回の測量が行われたことが記載されております。

そして「向麻山」はご覧のように「鴻山(こうのやま)」とあります。
無論、呼称です。古伝をみても「俗に鴻山と書く」とありました。
漢字辞書を見ると
形声文字です(氵(水)+工+鳥)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と
「握る所のある、のみ または、さしがね」の象形(「物を作る」の意味
だが、ここでは、「洪(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「圜」と同じ意味を
持つようになって)、「大きい」の意味)と「鳥」の象形から水の上や水の
近くで生活する大きな鳥「おおとり」を意味する「鴻」という漢字が
成り立ちました。 
とあるので、意味としてはあてはまります。
でも、この地図には「向麻山」に神社のマークは二つしかありません。
龍眼神社と國中神社ですね。
ここに「天日桂神社」が加わり、下図の伝承に当てはまるのなら「天日鷲命」は実在したと言ってもいいのかもしれないのではないでしょうかと思う今日この頃を過ごしております。
(さあ、なんとでも言え。ワタクシは、ここらをはっきり言わないヒキョー者なんですよぉぉぉぉぉぉぉ(笑))


で、ワタクシもちょっと勘違いしてたんですが「麻植塚」といえば、ほぼ「JR麻植塚駅」近辺を想像してしまうんですが(下地図参照)
実際はこのように「向麻山」の一部を含む範囲なのです。
なんと麻植塚駅は「麻植塚」じゃなかったんですね。
つまり「天日桂神社」と「天日桂神社」が斎く「方向」は「御陵のある」「麻植塚」に属する訳ですね。
念を押せば、この方向(笑)

「ここに天日鷲命の御陵あるや無きや」
それは、まだワタクシには分かりません。(←ヲイヲイ)
ただ

このような会が、静かに動き始めたのは事実なのです。
また、なんらかの進展があればワタクシのできる範囲でご報告したいと思っております。

(一旦)終わり。


あ、忘れ物
抜き差しならなくなったのではないでしょうか


2017年6月5日月曜日

天日桂神社(上)

「在村国学者・儒学者の阿波古代史研究についての史学的研究」

明治二年に徳島藩のもとに小杉榲邨(すぎおみ)などが中心となって
「阿波国風土記編輯御用掛」が設置され、阿波の歴史と地誌の大規模
な編纂が企てられたが、同五年の廃藩とともに廃止された。
この編輯掛には多田をふくむ多くの国学者・儒学者が出仕していた。

このメンバーを風土記編輯御用掛」と呼びました。




今分かっているメンバーは下の一覧。

風土記編輯御用掛  長久館出仕          松浦 宗作
末九月松浦氏へ同勤  士族五人御扶持
               常三島       渡辺 圓
               同         八木 正典
               御弓町       郡 一郎平
               佐古 椎宮下神職  生島 瑞穂
 南分右同惣而士族御用取扱  板野郡坂東村神職  永井 五十槻
 郷学所ヘ出ルニ付除ク    阿波郡尾開村士族  四宮 哲夫
               同郡香美村神職   浦上 美澤
               美馬郡上野村神職  二宮 香取
               三好郡盡間村神職  近藤 忠直
               麻植郡山崎村郡付卒 久富 永治郎
               名西郡諏訪村神職  多田 義高
 明治四年末七月二十三日   名東郡早渕村郡付卒 後藤 麻之丈
               勝浦郡小松島浦   八木 佳七
               那賀郡吉井村    服部 友三郎
               同郡大京原村    高石 延吉
               海部郡郡奥浦    桂  弥平
               同郡牟岐浦神職   榊  枝直
 従事セヌウチニ転      同郡同浦神職    阿部 三豊
 ジタラシキニ付除ク
                     徳島  小杉 榲郎
                 名東 新居 正氏ヲ脱セルカ
「ふるさと阿波」より

小杉榲邨氏については「小杉 榲郎」となっています。

また「阿波国書誌解説」より

松浦 宗作
仲之町(八百屋町)の人。字は長年、野口年長の門人 国学家、明治十年十月歿。年六八
著書 「土御門院御陵考註」「神輿幽考」「阿波国御風土記」

渡辺 円
徳島市助任村六百三十五番屋敷、士族渡辺六郎長男、文政二年三月二十五日生 神職
明治三十四年二月二十五日歿

生島 瑞穂
庄附近の人 矢三 八坂神社、三島神社の神職 著書「忌部神社者略」瑞穂は繁高と
同一人か。

永井 五十槻
名は精浦、精古の孫、天保七年一月十七日生、大麻比古神社神主、忌部神社主典、
桧愛宕神社社掌、大正二年四月八日歿、年八七(大森絹栄氏報)

四宮 哲夫
初名 哲之助 文政十年二月十九日生、名は利貞 金谷と号す 儒者
晩年失明す、明治二十三年二月七日歿、年六四

浦上 美澤
名は和延 天保九年九月二十三日生、近藤忠直と共に「阿波郡風土記」を遍す。
明治二十三年二月七日歿 年六四

近藤忠直
文政五年十二月二十日生、国学家 明治十二年高知県出 史誌編纂掛り
宝国小志(郡村誌)三好郡之部。井成谷、井川、池田、馬路、白地 各村誌を著す。
明治三十一年五月二十日歿。

久富永字治朗
山崎にこの姓の人なし、知る人なし(吉尾十代一氏報)年七七

多田 直清
兵部近江上浦の人「村邑見聞言上記」(名西、麻植)を著す。
明治九年十二月六日歿、義高は直清と同一人物か。

後藤 麻之丈
尚豊、明治五年二月まで編纂、名東 勝浦据任
大正三年十月九日歿、年七六

八木 佳七
名は直元、俳人、五日庵其家 日野八坂神社神職
明治十三年一月歿、年七〇

服部 友三郎
庄屋で寺子屋の師匠、明治四年里長 明治十三年一月歿
年七〇(佐々忠兵衛氏報)

高石 延吉
絶家 墓所不明(中西長水報)

桂  弥七(弥平?)
文化十一年三月十日、木岐浦若山家の三男に生まれ奥浦村桂家に入った。
明治の初 高知県安芸郡に出稼中死亡した。月日年令不明(元木喜好氏報)

この名面により編纂されようとしていた「阿波国(続)風土記」。


その最終巻のさらに最後に近い中、下図の文書が記載されておりました。

「麻植郡麻植塚村舊跡傳」




麻植塚村ト称スルハ天ノ日鷲ノ命ノ御陵アルガ故ノ名ナリ
其ノ處ハ麻植郡麻植塚村ト云
麻植塚ノ御陵アルヲ以テ知ルベシ
古老ノ傳ニハ上古御塚 神(カウ)ノ山ノ麓ニアリシガ
川水ノ為ニ潰毀セシユエ今ノ所エ移奉ルト云
.
.
麻植塚
コノ御陵ノ南ニ當ツテ麻植塚前ノ同處ト地ノ字ニ残レリ
コノ御陵ノ後ロハ一面ノ大藪ナリシヲ中古、開墾シテ
民地トナレリシ天正十九年御検地ノ御帳ニモ麻植塚前
同地トアリ
神ノ山北面麻植ノ古宮ノ地字ヲ堂床ト云此神中北五社神
ト云神体五ツアリ此宮ノ後ニヲカダマノ木ト云テ萬葉集
ニ見エタル木アリ享和年間新宮ウツスト云

そして、私たちは、ここ「向麻山(神(カウ)ノ山)の麓に一つの小さな小さな祠があることを知ることになるのです。





その小さな祠の社名は「天日桂神社」。

そして、その御祭神は「天日鷲命」「黒高大明神」であることを知るのです。


(下)に 続く。

2017年5月4日木曜日

麻植の系譜(5)END

麻植の系譜(1)
麻植の系譜(2)
麻植の系譜(3)
麻植の系譜(4)

前回、
亨保年間の編纂に係る國内神明帳を厳重に焼棄せしめ寛保三年忌部関係社を削除した國内神明帳を発表す(今世に流布する神明帳は是なり)。
と書かせていただきました。
享保(きょうほ)は、正徳の後、元文の前。1716年から1735年まででありますので、この期間に阿波国内の神名帳は「厳重に焼棄せしめ」られたと。
よって天明二年(1782)成立の「阿府志」には「麻植氏」関連の記載はなく。
 また「阿波志」は文化 12 (1815) 年の刊。
当然どこを読んでも「麻植氏」についての記載は現れてきません。
やはり、「麻植氏」は何らかの形でその名と実績がつせられてしまっているように思えます。
(ただ、前回書いた「秘羽目神社」については延喜式神名帳にはちゃんと「秘羽目」で記載されておりますので、八幡社に変えられてことは蜂須賀の指示で間違いないでしょうが「秘羽四神社」とあったというのは、ちょっと違うような気もします。)

ここに元和二年(1616年)の「麻殖先代家領記」を示し「麻植氏」がいかに阿波国に重要な位置を占めてきたかを記しておきます。

麻殖先代家領記
吾麻殖氏ハ神代天日鷲命ノ正統トシテ神日本磐命ノ朝遠
祖忌部諸神ヲ始メ比伊宇山ニ麻ヲ取荢ヲ績テ荒妙柔妙ノ服ヲ織ラシメ
又紙ヲ漉蓑笠ヲ縫ハシメ陶造シテ其術ヲ普ク諸國ニ弘通シタル勲績ヲ以テ孫子
天日和佐命比麻殖ノ縣主ト成其後麻殖郡主トナリテ縣ヲ
郡ト改メ麻殖郡領ト号シ領内ニ神田ヲ領チ初穂ヲ以テ岡山ノ如ク積備
大御祭ヲナス比地ハ東射立山石立山ノ両峯ノ間ニヲ波多伊登ノ双岸ヲ限
伊豫土佐ノ高山ヲ隔後ハ阿波ノ中川ヲ境ヒ内ナル伊宇山テハ樹々ノ精
ニ赤白ノ伊宇ヲカケ (略)


麻殖氏人集リ来リテ吾大御神ヲ斎キ祀レバ神代ヨリ皇孫ヲ守護
シ奉リシ勲績ヲ思召出サレ歴朝ノ天皇御崇敬不浅幾度トナク
奉幣ノ勅使ヲ立サセラレ神人其位階モ赤四國第一等ナレハ
四國第一ノ大宮トシ三里四方ヲ玉垣ノ内伊宇山ト称シ霊廟ノ地ナルカ故
ニ不浄ヲ禁シメ汚穢物彊内ニ入ル事ヲ許サス山分ヲ二ツニ別チ忌部射立
ノ両立ニ属シテ二郷トシ西ヲ忌部ト称シ眞正ノ誠ヲ守リ赫々ノ神威ヲ表シ
東ヲ射立ト号シテ偽ノ醜ヲ払ヒ蕩々ノ霊跡ヲ示ス山ナキ処ヲ里分トシテ
二ツニ別チ川島ノ郷ニハ御祓ノ氏人ヲ居エ末代不易ノ冥福ヲ祈黒島ノ郷
ニハ信仰ノ侘族ヲ住セシメテ本社常守ノ幸徳ヲ感セシム共ニ(略)

・・・・安堵シ比ノ内ヲ別当社人楽人ニ迄是分與シテ如斯祭式
如在ノ禮敬ナシヌル処豈圖ランヤ天文二十一年八月三好氏細川家ヲ亡シ自
カラ阿波屋形ト號シ忠良ノ徒ヲ誅シ又神社仏閣ヲ破却シ焼尽ス比時神田
供免迄横領スルニヨツテ吾一門ノ輩トモ敵封不叶讃岐國丹生ノ
山中ニ身ヲ退ケルノ世ヲ忍ヒ潜居セショリ只今ノ如ク衰敗ノ極ニ至リ神明ノ
加護モナク天道ノ衰憐モナキ澆季ノ秋ニ逼リヌレトモ日月末タ地ニ墜チ子ハ遥々頼
シク思ヒ侍リテ子々孫々ノ形見トシ斯ノ系譜ラ寫シ留置者ナリ若又後裔興ラントスルノ
時比記録ヲ見テ麻殖一郡ハ及ハストモ忌部祖神御神霊在麻殖内山ノ兵火ノ障リナキ
是耳神ニ祈ルナリ
上古社領拾五萬貫モ武家ノ世ニ改マテ四千貫トナリ共後千五百貫ニ減少ナリ
無念ニ月日ヲ患ヒテ過参リ一党ヲ保ツ事ノミ修徳新ノ如シ

元和二丙辰春弥生三日 麻殖景光書

玉垣の内外の固めをかたくしていう内山を守れ氏人
故郷のいう内山の志けるには比ここになげける涙なるらん

そして「麻植」の名はもう一度消されてしまいます。
平成の市町村合併の大波の中、消えてしまいました、今度こそ本当に。
新市名についての住民投票は行われたものの。

市名の由来
はがき、封書、FAX、メールにより、2002年(平成14年)7月1日(月)から8月5日(月)にかけて実施された新市名称募集に対し、2396通(うち有効2284通)の応募があった。その結果896種類の名称が集まり、一位の麻植市と二位の吉野川市に絞り込んだ上で第七回合併協議会で協議し、吉野川市の名称が決まった。
wikipedia

麻植郡合併協議会より
投票結果のように「麻植市」と「おえ市」で408票、「吉野川市」の205票の2倍近い得票数がありながら結果は「吉野川市」となってしまいました。
済んでしまった結果に異を唱えても詮無いことでありますので、今更蒸し返すこともありませんが、当時の議事録を読んでおりますと、ほとんどの委員が「麻植」の由来を全く知らなかったということに愕然といたしました。
建国に大きな役割を果たした「麻植」の名は永久に失われてしまったのです。
「吉野川」の名を使っておかないと、どこかに先に使われたら困る、とかの理由の為に。
まあ、それだけでもないようですけどね。


議事録(部分)を見てみますと、

最初には

との認識は示したものの


委員会としては「吉野川市」を推すとし


との歴史を鑑みての意見も出ておりましたが

の意見の後

との意見を以って結論は出された模様です。

こうやって「忌部」の名が冠せられる遥か以前より連綿と続いてきた、あるいは二千年に垂(なんなん)とする「麻植」の名は、今度こそ完全に途絶えてしまったのです。
もう二度と復活はしないでしょう。
まあ、今更言ってもしゃーないですけどね・・・

もうちょっと書き足りないこともありますが、上の文を書いたら何だか気が抜けてしまったので、一旦ENDとさせていただきます。
機会があれば追記の形で出させていただきます。

こんな気分(笑)