2017年11月18日土曜日

麻植の系譜:願勝寺編(8)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)
麻植の系譜:願勝寺編(6)
麻植の系譜:願勝寺編(7)

 さて「願勝寺家系譜」に戻りますが、史料としては超一級でありますが、中途、皆様方の興味を引くような記載ではありません。
(手を叩いて喜ぶ人もいますけど(笑))
 で、説明なしで申し訳ないですけど二十代まですっとばします。

十三代忍海上人


了海上人上足の弟子なり俗姓は讃州香川郡笠居の人也

父真鍋又四郎祐宗下云平家一門下共に摂州一の谷合戦に一族真鍋五郎と同時討死し其妻源家の聞を恐れて阿波に来り一子宗千代了海上人に託し其身尼となり共行方も知れされは了海比孤を養育せしめ出家を逐させけるに適知識の大徳となり忍海上人の名四方に知らる年五十三にして生母に巡り遭ひ連帰り孝養を尽し天年を終へしむ国人皆其孝を称す

承久乱の頃麻植氏の一族阿波太郎入道淨心阿波三位信成鄉に同意し上方出勢して越後國願文山に塞を構へ閔東勢に打勝と雖東海東山両道の軍破れ将卒散々となるによつて三位殿伴類八千人を引て阿波國に婦り板東に大城を構へ四国勢を催す処北条左近将監四国へ渡り板東城を取囲む

依之一端防戰に及ふと雖終不叶千騎力原にて件類悉打死し信成郷も御腹召され阿川八郎佐々木中務等各落城して残らす

或は討たれ又戦場を遁れ身を隠せしものも皆尋出され夫々断罪行はるれ共願勝寺も落人を匿ひたりとて軍兵多く入来り寺中の僧俗を厳しく捕禁しむるの処

何者の所為にや本堂より火起り時に魔風吹て庫裏方丈護摩堂観音堂土蔵納屋物置の類残り少なく一日一夜三燒亡ふ衾也ける次第也

此時忍海上人は堂中にて水印を結ひたる故にや火に焼なから五体少しの捐ひもなく黒仏の如くなつて在りしを助け出し介抱を加へけれは終本快して後三年の寿を保ち貞応二年(1223)十月八日入寂す



十四代行智上人

俗性は麻植正径の次男也
幼年より忍海上人の弟子となり徳行世に知られたる智識なれは衆諸戮力して北条家に嘆訴し漸冤罪を解いて助成銀を請受諸方に勧化し僅十年の内に堂塔伽藍故の如く成就する事を得たり
且国守小笠原長房の祈願師となつて田畠千町の寄附に預り寺門の繁栄は反つて先代に超遇す京都より定肇力作の阿弥陀仏三尊の内の一軀を買得して帰て本尊とす
故に人猶其功を賞す


十五代行念上人

京師の人なり阿波へ来つて先住の譲りを受弘安四年(1281)蒙古襲來の時は勅命を奉て夷狄退治の祈祷をなす老京師に醍醐寺に偶居し終業を遂玉ふとなり

阿波国忌部郷木綿麻山山本にて読る歌は後世歌集に残り有けるを後人立石にほり付麻植の浜村にあり其歌に云
木綿麻山岩本菅の根によりて長き夜あかす浜千鳥哉



十六代行真上人


忌部大祭主麻殖親光の内室の弟にして北条遠江守在時の末子なり
鎌倉にて始禅宗なれ共後は真言門に入りて英知の聞へあるによつて親光求めて連帰り行念上人の跡を続かしめ当院の住職と定老年にしてご醍醐天皇の勅を奉し出家なからも四国中を巡回して大名小名多く南朝の味方たらしむ
貞和の比細川阿波守和氏か為に暗殺せらる



十七代浄真上人

俗姓は小笠原にして其長安と共に世に落魄して有けるか遂に出家となり行真師弟子となり在けるか
行真横死の後は当院の住職となる細川賴春公忌部十八坊にて長時の護摩をたかしめ大般若法華等購読仰付らるゝの時浄真上人も同しく武運長久の祈祷ら命せられ
是より阿波屋形細川公の祈祷寺となる


十八代真了上人


俗姓予州阿野家の人なり阿波へ来りて浄真師の弟子となり当院に住職す


十九代俊賀上人

始め讃州善通寺の弟子なりしか所縁を以て当院の弟子成遂に当寺の院主となる
俗姓は弘法大師の同姓佐伯助通の遠孫にして其国元山の住士佐伯弥六右衛門尉吉近の二子也と



二十代觉念上人

京師人也俗姓は平氏なりと雖二条家の猶子となりて仁和寺にて剃髪し東寺の灌頂院にて灌頂し且つ蘇悉地の法を受真言宗破戒無漸の僧を取正さんと四国に渡り先阿波国願勝寺を始として其他同宗の寺を仁和寺の末寺とし宗風を正しくするの処俊賀上人の依託によつ
て当院の住職となる
于時応永二十九年(1422)の春也阿波郡山の上の城跡に前城主大野氏の菩提の為大野寺を建立して大野平次信吉を始先代の先霊ら慰む
此時此地大野平次の霊魂人民を脳すによつて新在家なる西の岡にて平次信吉の墓を神に祝ひ平治権現と号し大野寺を別当と定む
其祭り怠りなきの故か平治信吉の霊反つて其地の守りとなれは郷民共に悦にて此神を崇信す、大野平次信吉と云は此郷の旧領主也しが割彊の論より事起り隣郷の城主伊沢氏の為に殺害せられ其地を失ひたる故に其怨念の残れども左も有へし後年其討たれたる処を平治村と云其谷川筋皆平治川原と号するも此権現の霊徳を恐れて也と云伝ふ


願勝寺歴代住職墓碑

そして、願勝寺歴代住職墓碑は、当然願勝寺にありますが、歴代本家(?)麻植氏はどこに祀られているかといえば。
麻植氏系図によりますと。


定光
麻殖太郎大夫
伊豫國岩屋ニ凶賊有唐戸丸ト云フ國民擾乱ス
久米山忌部氏族久米義基此賊ノ為ニ討タル定光憤リテ壱族共ニ此賊ヲ亡シ其首ヲ得ルト雖モ賊矢ノ為ニ疵ヲ受ケ久米山ニテ死ス
父荒人悲嘆ニ堪ス発心入道シテ名清高(たこ)ト云亡子定光ノ菩提ヲ弔ハント一寺ヲ建立シテ印部山定光寺菩提院卜号
是ヨリ此寺ヲ以テ麻殖氏歴世菩提所トシ墳墓地ト定

この「印部山 定光寺 菩提院」現在の一宇に現存しております。
 看板には「高天原係一族」と記載されております。
 麻植定光の名を以って「定光寺」。
印部山定光寺菩提院」と云うことは、ここも「忌部山」なのです。
 麻植定光以降の歴代忌部神社大宮司が祀られているのです。


うーん、猫の写真が尽きてきた

続く(けど次回が最後)

2017年11月12日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(7)

建礼門院(けんれいもんいん)

長らくお待たせいたしました。(待ってないって言われたらそれまでなんですけど😓)
死んでたんじゃないかと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、いつものやつですのでご了承くださいませ。

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)
麻植の系譜:願勝寺編(6)

の続きとなりますが、今回は本題を外れて、前回書いた「安徳天皇生存説」ついて、ちょっとお遊びで書いてみました。
あくまで「願勝寺文書」「麻植氏系譜」などからの推測ですので、秋の夜長のお供として、鼻で笑って読んでみてくださいませませ。

さて、十二代了海上人の段において

帝王御后ハ麻殖正高ノ末子也世ニハ流布シ又帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ始メニハ豊前ノ国へ移ラセ玉ヒ後ニハ肥後国へ赴カセタマフ

と記載がありました。
では九州に安徳天皇伝説が残されているのかと調べれば

豊前国(ぶぜんのくに)
領域は福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉北区・小倉南区・門司区)、筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築地方の全域を中心に、大分県北部(中津市・宇佐市)にまで跨っていた。

この豊前国の安徳天皇伝承は「福岡県 隠蓑(かくれみの)」にあり

寿永四年(1185)に壇ノ浦で入水したと伝えられる安徳天皇は、平氏の公卿方に伴われて門司の田ノ浦に上陸、松ヶ江を越え長野城主を頼り、二、三ヶ月隠れておられたが、城主が亡くなったので、英彦山に向かって城を出られたという。横代を通り隠蓑(当時は城野村)まで来た時、村は名も無き庵寺の屋根葺替えの最中であった。源氏の追手が追って来るのを知った村人は同情申し上げ、有り合わせの茅や藁などの蓑を持って天皇を御隠し申し、上から藁しび等を着せかけ気付かれぬようにし、それにより天皇御一行は逃れることができたといわれている。
祭行事ではその年の年少者を安徳天皇に見立てて、藁しびをかぶせて子供の災難を除き無事成長を祈る。その際、にぎりこぶし大の安徳天皇のお姿や御靴型を収めた藁すぼを御供えし、祭りが終わると氏子たちがそれぞれに持ち帰る。
春には先帝祭と呼ばれるおこもりも行なわれている。
                                北九州市

「安徳天皇御陵・隠蓑」

肥後国(ひごのくに)領域は熊本県の伝承地は「熊本県上益城郡」

壇ノ浦より生きてこの地に逃げてこられ、十七歳で崩御されこの地に埋葬さたそうです。その後 源氏から隠す為 宇土の花園の晩免古墳に移されたそうです。

伝安徳天皇御陵 (熊本県上益城郡山都町緑川)

安徳天皇陵(晩免古墳・花園陵墓参考地)

と、以上のように願勝寺文書にある九州、福岡・熊本にも安徳天皇伝説が残されております。
「隠蓑」の伝承などは、天皇一行はこの地よりさらに逃れたとあるにもかかわらず、「安徳天皇御陵・隠蓑」と記載されている不可解さ。

前回書きました、
宮内省(当時)が定めた安徳天皇の陵墓参考地だけでも以下の五箇所。
鳥取県鳥取市国府町岡益    安徳天皇陵(宇倍野陵墓参考地)
山口県下関市豊田町地吉    安徳天皇陵(西市陵墓参考地)
高知県越知町横倉山      安徳天皇陵(越知陵墓参考地)
長崎県対馬市鴫原町久根田舎  安徳天皇陵(佐須陵墓参考地)
熊本県宇土市立岡町晩免    安徳天皇陵(花園陵墓参考地)

これだけあるということは、ふつ〜に考えれば「安徳天皇生きてるよな〜」って感じですよね。
まともに平家の再興を企ててるなら、安徳天皇逝去は伏せ、生存ならば「死んだ」って情報を流しますよね〜。
特に複数の陵墓は、源氏の捜索を分散し、再興の時間を稼ぐ意味があると思います。


帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ



あくまで「願勝寺文書」と「麻植氏系図」から安徳天皇生存説を考えた場合、安徳天皇は治承2年11月12日(1178年12月22日)の生まれ。
廿一歳の年は数えで計算すれば1198年、これは土御門天皇即位の年でありますので、一つの推測ですが、後鳥羽天皇即位(寿永2年8月20日 1183年9月8日)は神器無き新帝践祚であるため、安徳天皇が神器を持って都に変えることができたならば、天皇位はまだ奪い返せると考えていたのではないでしょうか。
なにしろ

皇子御剣ヲ麻殖内山ノ奥石立山神社ニ奉納石立神後御劔ノ宮ト称ス奉祭式朝廷ノ古式ヲ用ユ
(麻植氏系譜より)

ですのでね。
あ、ご存知とは思いますが「石立山」というのは「剣山」のことですので、念のため。

それが土御門天皇即位となれば、もうひっくり返すことは不可能。
それがため、源氏の手の届かない(と考えた)九州へ赴いたとは考えられないでしょうか。

後鳥羽天皇

土御門天皇


もう一つ、安徳天皇生存説の傍証となるのが、三野町太刀野に残される「建礼門院五輪塔」であります。



伝承「建礼門院五輪塔」の由緒
 建礼門院とは、平清盛の次女「平徳子」の称号。徳子は、承安二年(1172年)高倉天皇の中宮になり、治承二年(1178年)、後の安徳天皇を生み、寿永二年(1183年)七月の平家都落ちには幼帝安徳天皇とともに同行、元暦二年(1185年)三月、壇ノ浦(下関市)の海戦で入水、助けられて帰京の後は、吉田野津御所などを経て、大原寂光院(左京区大原早生町)に移って仏に仕え、建保元年(1213年)、十二月十三日、享年六十歳を以てその生涯を全うしたこととなっている。
 しかしながら、壇ノ浦(下関市)の源氏と平氏の海戦で、御生母建礼門院徳子とともに入水したと伝承される安徳天皇は、替え玉であって、実の安徳天皇は屋島の合戦に敗れて瀬戸内海を西走する一行から離れ、平国盛(教盛)に伴われて海上を東に向かい、香川県の引田に上陸して讃岐山脈を東に向かい三野町と琴南町の県境「大川山(1042m)」を経て三野町の馬瓶集落に下り、河内谷川沿いの川又集落を経て吉野川の北岸、ここ三野町太刀野に至り、さらに吉野川を南岸に渡り、二手に分かれて三加茂町鍛治屋敷から加茂谷をさかのぼったり、井川町の井内容を遡上したりして四国山脈に分け入り、寒峰の鞍部を通って、秘境祖谷地方の大枝名に落ち延びたといわれる。
 建礼門院徳子とて、幼帝安徳天皇を案じ、京にはいたたまれず、替え玉を残し、女官とともに安徳天皇の後を追ってここ三野町太刀野に至ったが、吉野川の洪水に渡川を阻まれているうち不幸にもご逝去、この地に葬られる。一方、安徳天皇も秘境祖谷の地において無念にも崩御され、火葬に付されたのである。
 平国盛(教盛)らは、安徳天皇の御生母建礼門院徳子が眠っておられるお近くに帝の分霊を御祀りするべくここ三野町太刀野の地に到着、近くの松尾神社を仮の御泰安所とし、後に、背後の高台にささやかな陵(みささぎ)を築造安置して、ここに安徳天皇及び御生母の御安寧するところとなったと伝承され、村民心底から厚く御霊を崇拝し今日までの八○○余年間ひそやかに、しかし、我が子を思う慈母の証として守護信奉し至ったのである。
 平成の今日、我が国の平家琵琶演奏第一人者上原まり氏も参拝されるなど平家落人伝説を思慕する大方の要望に応えるべく太刀野老人クラブのボランティアによって参道及び周辺を整備するとともに案内板及び「由緒」を建之し、以て安徳帝及び建礼門院の御平安を祈念し奉るの次第である。
                            平成十五年(2003)錦秋 三野町・三野町教育委員会

ま、ゆっくりしてくれたまえ

それと、何よりも確信に結びつくのが「建礼門院」に最後まで仕えていたとされる「阿波内侍」の存在です。

洛北大原 寂光院 建礼門院御自作阿波内侍張子の像
(戦前の絵葉書)

これまでも何度か書いてきたように、「阿波内侍」の母「紀伊局」こと藤原朝子は阿波忌部大祭主麻植正光の娘なのです。

もし、「建礼門院」が三野町太刀野まで来たとすれば、手引きをしたのは、当然「阿波内侍」の命を受けた阿波忌部一党。
ちょっと理由は書けませんが、個人的には「建礼門院」と「安徳天皇」は再会していたような気がするのです。
いや、そうだったらいいんですがねぇ。

とまあ、今回はちょっとお遊びで書いてみましたがいかがでしょうか。
次回から「願勝寺家系譜」に戻ります。


2017年10月29日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(6)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)

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ごめんなさい、固苦しい注意書きを書いてしまいましたが、関連の方々に心ない照会が入ったり、変な記事や動画が流布されるのはワタクシめのもっとも嫌うところなんで、ご理解願います。


と、言いつつ今回の記事は実は書きたくなかったんです。
前回までの系譜(一部)を見てください。

初代福明律師
朱鳥元年(686)三月十日律師遷化しよつて律師の名を後代に伝えん為め維摩寺を改めて福明寺と号す

三代大福上人
行基を阿波に招待して諸寺の本地仏を彫刻なさしめ神亀元年(724)秋当院を勅願所に定むるの朝命を蒙り

四代実厳法師
外山忌部麻植正信の三男にして大福上人の嫡弟なり聖武天皇の朝天平十三(741)辛已年八月部大祭主阿刀弗宿禰大病によつて行真上人行基菩薩彫刻の薬師仏ら祈り其応忽に霊験現はれ病気平癒し其恩謝として麻植口に於て一宇を建立し平癒山薬師院福生寺と号す

五代実念法師
伊須の里に七ヶ寺の大坊を建立し延暦二十二年(803)八月四日行年五十一歳にて寂す

七代智鑑
春秋八十二才にして天元四年(981)三月十日寂す

と年号あるいは日にちまできっちり記載されております。
以降、日本史のブラックホール南北朝期においてもなお記録は続きます。
こんな、貴重な史料があるいは興味本位にしか見られないかもしれないので、あまり書きたくなかったのです。
と言っても、結局書いてしまうんですけどねぇ。
では。


十二代了海上人

随伝上人の譲りを受け当院の主となり益寺門繁栄の処源平両家の争ひによつて諸国大乱の世とちるうちに此阿波國は平家の領地として阿波民部守護する処

平家一門衰運あたって東国所々の合戦敗軍となり遂に安徳天皇を守護し平安城を落て西海の浪に漂ひ九州にも安堵ならす

長門の守護代紀の民部大輔光季阿波民部大輔紀の成長と心を合せ讃州屋嶋に大城を築き智術を以て四国中国を打従へると雖

所詮聖運の開かさるを知て 阿波民部成良忌部大祭主麻植邦光ら頼みて 寿永二年の奉 帝王を麻殖の奥山に隠し 門脇中納言教盛郷の御子 越後守国盛の嫡男国若丸 安徳天皇と御同年の故に是を安徳天皇と称し 平家一門守護すれ共運の極めには長門国壇の浦にて入水し果玉へ

共真の安徳帝は麻植正高の末子也と世間を欺き 此阿波の奥山に無恙在 御生長の後正高の智君とし御子迄誕生有りしかと九州より御迎の使毎々に及ふによつて 御病死と偽り御出家となつて義法坊一人御供にて彼国に赴き玉ふ

此阿波の奥山に隠れ居玉ふ人々には越後守国盛郷小松少将真盛郷の御に方也年月を経て真盛郷の御子真盛入道して真盛法師と云

上京して北野に一字を建立して真盛寺と云一門の亡魂を弔ひ玉ふ阿波國にも願勝寺に阿弥陀堂を立てて平家一門の菩提とす

国盛郷の御子孫は地名によつて阿佐氏又は脇氏と号し直盛郷の御子孫は小松家なるによつて松本氏と号し後は松永氏と改め玉ふ其未々の平家此国に跡を隠すの輩数々なり

皆々阿波民部の計議によつて忌部神領の内麻植の奥山にかくれて時運の開くを待玉ふ又所縁によつて四国中其外他国に赴く族も多かりけり就中阿波郡朽田庄青蓮院は直盛郷御出家の後御住居ありし旧寺也


あーあ、出しちゃったよ。

所詮聖運の開かさるを知て 阿波民部成良忌部大祭主麻植邦光ら頼みて 寿永二年の奉 帝王を麻殖の奥山に隠し 門脇中納言教盛郷の御子 越後守国盛の嫡男国若丸 安徳天皇と御同年の故に是を安徳天皇と称し 平家一門守護すれ共運の極めには長門国壇の浦にて入水し果玉へ

「国盛」は「平 教経(たいら の のりつね)」の幼名であり、いわゆる「平教経生存説」において阿波国の祖谷に遁れた後、「国盛」と名乗った件にもよります。

平教経

「寿永二年の奉」というのは、いわゆる「寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)」のことで、寿永2年(1183年)10月に朝廷から源頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した宣旨といわれており、朝廷が源頼朝の覇を実質的に認めたもので、この報を受けた平家一門は「所詮聖運の開かさるを知て」終末への途を辿っていくのです。

この「国盛」嫡男「国若丸」が身代わりになって壇ノ浦で入水し、安徳帝は「麻植正高の末子」として「阿波の奥山」で成長し、後は病死とし出家となり「義法坊」と供にして「彼の国」に赴いたとの記載であります。
残念ながら「彼の国」がどこなのかはわかりません。

しか〜し、安徳帝替え玉説は数々あれど、ここまで詳細に仔細を記した史料が他にありましょうか?(あったらすいません(笑))



祖谷の伝承では
 讃岐屋島の合戦で敗れた平家の門脇中納言教盛の第二子従四位越後守平国盛は,手勢百余騎をもって,安徳帝を奉じ讃岐白鳥から大山を越え,三軍に分かれ一軍は安徳帝を奉じ,一軍は先頭,一軍は国盛自ら率いて追っ手の敵を防ぎつつ,重臣32人を連れて,寿永2(1183)年吉野川を遡り,旧三好郡井内谷と東祖谷の境にある寒峰の峻険を越え,東祖谷に入り,大枝岩屋に身を隠した。
 その時は12月大晦日であった。
 翌朝,名主喜多氏の宅へ行くと,元旦の酒宴を催していた名主は国盛の立ち入りを拒んだので,ついに合戦となり,喜多氏は滅ぼされた。国盛は大枝にしばらく滞在していたが,阿佐常陸守の招きにより阿佐に引き移り定住した。
 安徳帝を奉ずる人は,麻植郡より石立山へ護衛して行き,そこで暫くいたが,国盛が祖谷を平定したことを聞いて祖谷に入った。久保大宮の下に樹木が茂っている処を通るとき梢倒(しょうたおし)しにして通ったので「鉾伏せ」という。
 帝が石の上に立ち装束を着替えたので,その石を「装束石」という。谷を渡るとき,帝を手から手へ移したから,そこを「皇上の手橋」という。
 これは久保の墓層にある。これより字中上に移り暫く滞在しているとき,不思議なことに寒中蛙の啼く声を聞いたので,「朕の住むところは蛙の鳴く所なり」と仰せられた。
 そこより川下に下り栗の枝を切り,橋として渡ったので,その付近を「栗枝渡」と呼ばれるようになった。
 その後,川下の京上の平地に宮殿を造っていたが,大水のため崩壊し,再び栗枝渡に移り,間もなく崩御した。
(「日本伝説大系第十二巻」)
ということです。

実は、土佐にも安徳帝生存伝説がございまして、「横倉山自然の森博物館ニュースvol.19」によれば

安徳天皇陵墓参考地
 『平家物語』によれば、安徳天皇を率いる平家一門は、文治元(1185)年3月源平最後の合戦である長門の「壇ノ浦の戦い」に敗れ滅亡したとされるが、天皇の御遺体が行方不明であることから“天皇生存説”が持ち上がり、各地に安徳天皇潜幸伝説が残っていて、「安徳天皇陵墓参考地」(宮内庁所轄)と称されるものが全国に5ヶ所存在する。
 ここ高知県越知町に伝わる伝承では、1185年2月の屋島の「檀ノ浦の戦い」の段階で、合戦の最中に天皇の身代わりを立て長門へ向かわせ、本隊は阿波の豪族・田口成良に導かれて四国に上陸したとされている。
 天皇一行は、「かずら橋」で知られる阿波国美馬郡東祖谷山に最初の行在所を造営し後、土佐国に入った。その後四国山地を横断するように、西熊山・御在所山・稲村(稲叢)山・宮古野(都野)・越裏門・椿山・別枝都と行在所を構えながら潜幸し、最終的に横倉山に辿り着いた。
 横倉山は要害の地であり、この地方を治めていた修験道の先達・別府氏の支援もあり、ここを終焉の地とした。
横倉山の行在所跡は、陵墓(参考地)と随身たちの屋敷25軒のあった「天の高市」(“別府の都”)のほぼ中程の、天皇が京の都の平安宮を拝したと伝えられる「平安の森」と小沢を隔てたすぐ南の小高い丘陵にある。
 当初300余名いた随身たちも、横倉山に来た時は80余名にまでなり、天皇が崩御された後、天皇の陵墓を取り巻き護衛するように、天皇に随行した平家一門と随身たちの墓が築かれた。
横倉山の山中にはそれら88社があると言われ、うち77社が確認されている。
 安徳天皇は、正治2(1200)年8月8日、病のため御歳23歳で崩御され、御遺体は生前天皇が従臣たちとよく蹴鞠をして遊ばれた想い出の地“鞠ヶ奈呂”〔字名:「鞠ノ場」〕に葬られた。
陵墓は、幅約3.7㍍、111段の途中で緩く「く」の字状に折れ曲がった石段を登り詰めた所にあり、御影石(花崗岩)製の二重の玉垣が巡らされていて、全国に5ケ所ある陵墓参考地の中でも一際規模が大きく荘厳なたたずまいを見せている。
地元では「鞠ヶ奈呂陵墓参考地」(正式には「越知陵墓参考地」)と呼ばれ、以前は25㍍四の隅に“鞠掛の木”“神かけの木”が植えられていたという。
 “鞠ヶ奈呂”は、山頂部の広大で平坦な地で、すぐ西隣には、天皇が乗馬を練習されたといわれる“御馬場跡”がある。
 現在は推定樹齢数百年のアカガシの原生林に覆われ、陵墓一帯は県内唯一の宮内庁の管轄下にある。

微妙な差異と、微妙な一致が見られるようです(笑)。
あるいは、阿波出国後の後日談でしょうか?
ただし、書いておかねばならないこととしてこの安徳帝一行を先導した「田口成良」、
「平家物語」によれば、嫡子・田内教能が義経に投降したことにより成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返ったとのことであり、これが寿永4年の二月。
その五月に田口成良と教能親子は、平宗盛と共に鎌倉へ護送され、処刑されております。
あくまで「平家物語」によりますので、史実との正誤は確認し難いのですが、この通りであれば、安徳帝の先導は到底不可能であると思われます。

ちょっと話が外れてきたようですが、あと一つだけ
宮内省(当時)が定めた安徳天皇の陵墓参考地は以下の通り。
鳥取県鳥取市国府町岡益    安徳天皇陵(宇倍野陵墓参考地)
山口県下関市豊田町地吉    安徳天皇陵(西市陵墓参考地)
高知県越知町横倉山      安徳天皇陵(越知陵墓参考地)
長崎県対馬市鴫原町久根田舎  安徳天皇陵(佐須陵墓参考地)
熊本県宇土市立岡町晩免    安徳天皇陵(花園陵墓参考地)
となります。

では麻植氏系図では
寿永二年阿波民部成良長良ノ瀬ニ依テ麻殖内山ノ奥ニ丸木ノ御所ニ造リ帝王ヲ置奉リ
其後元暦元年ノ春成良ノ子田内左エ門成直源氏ニ降リ本國ニ安堵スル事ヲ得テ益帝王ヲ尊崇シ奉リケレバ共ニ源家ノ後難ヲ恐レ帝王守護ハ邦光受持トナル
帝王御后ハ麻殖正高ノ末子也世ニハ流布シ又帝王ハ甘一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ始メニハ豊前の国へ移ラセ玉ヒ後ニハ肥後国へ赴カセタマフ
供奉ニハ義法坊ナリ是九州尾形原田等御迎ヲ奉ル故ナリ
帝王崩御ノ後ハ一寺ヲ建テ神重社ト云帝王ノ御跡ヲ慕ヒ僧トナリ菩提ヲ弟ヒ奉リ平家一門ノ公卿ニハ越後守國盛小松三位直盛御両所ナリ
此御両所ノ子孫麻山ニ止リ表ハ麻殖氏ノ一族ト唱へ帝王ノ王子ハ猪内氏ト改此山奥ニ住皆麻殖氏一族氏一族ナリ
後ニ小屋平ト改國盛卿御子ハ阿佐氏ト改直盛卿御子ハ松永氏ト改北山奥ニ住皆麻殖氏一族苧山苧野原等ノ一累ナリト唱フル故源家ヨリ何障モ無ク目出度栄へ玉フ
王子御剣ハ麻殖内山ノ奥石立山神社ニ奉納シ後ニハ御劔ノ宮ト称シ神トシ奉祭其式ハ内裏古例ヲ用ヒテ退轉ナシ

阿波民部(田口)成良の子「田内左エ門成直(多分「田口教能」のこと)が源氏に加担したことで安徳天皇を守れないとし、麻植氏五十代当主「麻植邦光」に守護を任せた。
安徳天皇は21歳の時九州豊前に移り、その後肥後に移り、その共は「麻植邦光」嫡子「義法坊」であった。

祖谷の伝承、「願勝寺家系譜」「麻植氏系譜」を併せ読めば、およそこういうことでしょうか。
当然ながら上記三つの史料は齟齬なく読むことができますが、土佐の伝承はこれらとは少し違ってきます。
判断は、拙文を御読みになった方にお任せするとして、次回に続きます。

ふえ〜、今回はこんなになっちゃたよぉ

2017年10月22日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(5)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)

そろそろ盛り上げないと、苦情がきそうなんで頑張ってみます(笑)
なのですが、
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ごめんなさい、固苦しい注意書きを書いてしまいましたが、関連の方々に心ない照会が入ったり、変な記事や動画が流布されるのはワタクシめのもっとも嫌うところなんで、ご理解願います。

ではでは。


十一代隨伝






板野郡田上の人なり即ち其姓も忌部氏なるによつて德光上人後住下定む此隨伝代中板
野郡大麻の宮に神宮寺を立つ
霊山寺と改む此随伝長寿して百歳に余れるの故に世の人長寿上人と云

当今後冷泉院の勅命として永承四年仏舎利二粒を忌部八倉の両者へ奉るの大祭主麻植
正光随伝をして舎利堂を建しめ其身も感得の事有るによつて、神務を其子正光に譲り
仏門に入刺髪して実名を其儘正光法師と改忌部十八坊の貫主となり法福寺に住す。
上京の節長女麻と云を件ひ大内の官女として名を麻の前と云後は藤原通憲入道信西に
思はれ妾となる、是阿波内侍の母なり

麻植忠光も亦壮年にして父の志を嗣神務を其子為光に譲り入道しら蓮光法師と号し上
京して仏道を修行し諸国に巡り後は紀州高野山に草庵を結ひ住せしか
久寿二年乙卯二月十五日寂するの故に世の人涅槃坊と云父正光法師是を聞此菩提とし
て忌部郷麻植の地に蓮光寺を建立して其名を伝ふ
此正光蓮光共に皆随伝の門弟なり

七十七代後白川院の朝保元の乱に新院の軍破れて讃州に遷され玉ひ藤原頼長家司藤内
左衛門範景入道して蓮心法師と号讃州に来り
白峯の御墓を拝し草庵を結御菩提を弔ふ処阿野大領高遠より障るの義あつて阿波へ移
り当寺に寄宿し三ケ峯の神社に新院の御霊を神と仰き祭るの所
是亦讃州に近きの故に禍の来たれる事を恐れ麻植の宮内に至り麻植為光を頼して此社
地に新院の御霊を白人宮と称し祭るの所鎮西八郎為朝も伊豆の大嶋より遁れ来り此白
人宮を拝し永代の祭りを為光に頼み置予州へ立越え三つが浜より九州に渡り後は琉球
国に至ると云

新院の皇妃阿波の内侍は藤原入道信西の女なれども母は阿波忌部大祭主麻植正光の娘
たるに阿波内侍と云
天皇讃州白峯にて崩御の後よつて天皇の志を汲んて大に慣り法体して天円法師の弟子
となり内心には天皇の恨有悪人共を蹴殺し玉へと、天竜八部を始め日本国中の霊神に
祈りけれども表は天皇菩提の為と披露しければ当今の帝愍(びん:あわれむ)之一宇
の堂を創立して内侍尼を置奉る

其後崇徳院の神霊内裏に現はれ御身に仇をなせし人々皆恐怖し遂に悪死しければ天皇
の罪なき事顕はれ宇治禅閣忠実公の所為なりと世には云触らしけるを内侍尼聞賜ひ大
に喜ひ我禱る所の願望彼に勝たりと其堂を願勝寺と号すれ其元と四国より光物都の方
へ飛来りしより起りたる堂ちれはとて飛来山光り堂と京中の貴践名付ける故光り堂と
いふ世間に広く聞へけり
此願勝寺の名都近くしては忌憚の義も有とて内侍尼の母儀出世の地阿波国へ移し天円
師の弟子了海上人を開起として阿波上郡に一宇を立願勝寺と号すべしと内侍尼の頼に
より了海上人は即麻植正遠の二男なれは此国は本国なる故大に喜ひ一宇ら建立せんと
皈国し国中を勧化し此計義をなすと雖此事朝廷への恐れありと訪くる人も有故無拠福
明寺に来り随伝上人に談しけれは上人曰
此福明寺は其名俗なり旦つ弘法大師留錫の後は真言宗なれ其元とは三論法相兼学の寺
也今真言宗と決定せし上は兼て寺号を改めんと思ひしなり幸哉願勝の二字我心に叶へ
り且本尊弥陀の本願の勝れたるにも相応せりと夫より福明寺を改め願勝寺と号し内侍
其菩提を用ひ奉る
爾時仁安三年三月の比西行下云大德讚州三斗數し来り白峯の御墓を拝し是亦御菩提の
為松坂と云所にて草庵を営み朝夕天皇の冥福を祈りけるか内侍尼の由縁なりと阿波へ
来り此願勝寺に寄宿し数日法話の上庭前の松に題して一首の和歌を読す其歌云ふ

  いつまでも年ふる寺のさかへをは
        軒場の松の色に見すらん

内侍尼も亦讃州に来り霊夢によつて白峯の御陵を三ツ峯に移し範景入道の本意の如く
比処にても神と仰き宮殿らしつらひ願勝寺を以て別当に定む内侍尼は老年に及ひ皈洛
し玉ひ醍醐に一宇を建一言寺禅那院と号し同しく崇徳天皇の御菩提を弔ひける


有名な「阿波内侍」関連がつらつらと書かれた段となります。

建礼門院御自作阿波内侍張子の像

阿波内侍 あわのないし
?-? 平安後期-鎌倉時代の女官。
建礼門院の女房。藤原通憲(みちのり)の娘とも孫ともいわれる。壇ノ浦の戦い(1185)のあと,京都大原寂光院で女院とともにすごし,最期をみとったといわれる。大原女(おはらめ)の装束は内侍の服装をまねたものという。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus


頭に荷物を乗せて運ぶ大原女

阿波内侍
生年:生没年不詳
平安末・鎌倉初期の女性。『平家物語』に登場する建礼門院徳子の女房。『平家物語』の中でも信西(藤原通憲)と紀二位朝子の娘とするものと,信西の子藤原貞憲の娘とするものがある。信西の孫真阿弥陀仏などの説もあるが,実在は確認できない。文治1(1185)年平家滅亡後剃髪し大原寂光院に遁世の日々を送る建礼門院に,大納言佐と共に尼となって仕え,女院の最期を看取ったという。文治2年の後白河法皇の大原御幸で両院の対面の司会者的役割を果たし,信西の縁者ともされるため,『平家物語』の成立との関係,醍醐寺および安居院流唱導との関連などが指摘されている。
(櫻井陽子)
出典 朝日日本歴史人物事典

と一般的な記載はこのようでありますが、系譜を見れば「紀伊の二位」の娘であることは明白でしょう。
で、「紀伊の二位」は

上京の節長女麻と云を件ひ大内の官女として名を麻の前と云後は藤原通憲入道信西に
思はれ妾となる、是阿波内侍の母なり
      (中略)
新院の皇妃阿波の内侍は藤原入道信西の女なれども母は阿波忌部大祭主麻植正光の娘
たるに阿波内侍と云

の部分を見れば
麻植の系譜(追記)
で「阿波名勝」に記載のあった「麻植忠光」の娘ではなく「麻植正光」の娘が正しいのですね。
なお、史書に残る「紀伊の二位」は「藤原朝子」、「麻植正光」の娘は「」、官名は「麻の前」うん、そうなんですね。(笑)
麻植氏系図によれば
「女 上京して禁裏に仕え後藤信西入道の妻となり阿波の内侍を産」
とあるままです。

また、「願勝寺」の寺名の起源については、これも一般的には
由来
宝壷山・真城院「願勝寺」<真言宗・御室派>
 奈良時代に忌部五十麿(いんべいそまろ)が祖父の菩提を弔うために、阿波上郡に方壷山維摩寺(ゆいまじ)を建立しました。
 平安時代 藤原信西(しんぜい)の娘 阿波内侍(あわのないじ)が崇徳天皇に仕えてたいへんかわいがられていました。
願勝寺
たまたま 第77代 後白河天皇(崇徳天皇の弟)の御代(みよ)に、 保元の乱〈上皇と天皇の対立による戦い〉が起り、崇徳上皇側が破れ、 崇徳上皇は讃岐に流され、1164年の8月 讃岐の地に崩御されました。 46歳でした。
 阿波内侍は、これを聞いて悲嘆にくれ、仏門に入り比丘尼(びくに)となり、館(やかた)を改め寺とし、上皇のご冥福を祈りました。その寺が京都の願勝寺でした。
 はばかるところがあって、内侍尼は了海上人(りょうかいしょうにん)に託して京の願勝寺を母の生国の阿波に移し 維摩寺 改め願勝寺としました。
 これが現在の願勝寺のはじまりです。
美馬市観光情報HPより

これが違ってるということは上記を見ていただければ、わかっていただけると思います。
「天皇の罪なき事顕はれ、宇治禅閣忠実公の所為なりと世には云触らしけるを、内侍尼聞賜ひ大に喜ひ、我禱る所の願望彼に勝たりと其堂を願勝寺と号す」
その後
「兼て寺号を改めんと思ひしなり幸哉願勝の二字我心に叶へり且本尊弥陀の本願の勝れたるにも相応せりと夫より福明寺を改め願勝寺と号し内侍其菩提を用ひ奉る」
としたのが寺名の起源です。

それと、上記を読んでみれば、なんと源氏のターミネーター(笑)「鎮西八郎為朝」が立ち寄っているではありませんか。
4歳で牛車をひっくり返し(笑)、成人後の(と言っても17歳の時)身長7尺(2m10cm)、左腕が右腕よりも13cm長く、3尺5寸の太刀を提げはき5人張りの強弓を持っていたと「保元物語」に記されています。
琉球王国の正史である「中山世鑑」では為朝は琉球へ逃れ、息子が初代琉球王舜天になったとされていますが「系譜」では琉球までの道筋には「三津浜」を経由したと記載されています。(ここら、面白すぎるんですが涙を飲んでスキップ)



この件については「麻植氏系図」に四十九代「為光」の項に
「鎮西八郎為朝モ伊豆ノ大島ニ移サルモ遁レ来テ・・・」
の記載を見ることができます。

だいぶ面白くなってきましたが、長くなりすぎたので一旦切って次回へ続く。

いっぱい書いて疲れちゃったじゃねーか