2017年5月4日木曜日

麻植の系譜(5)END

麻植の系譜(1)
麻植の系譜(2)
麻植の系譜(3)
麻植の系譜(4)

前回、
亨保年間の編纂に係る國内神明帳を厳重に焼棄せしめ寛保三年忌部関係社を削除した國内神明帳を発表す(今世に流布する神明帳は是なり)。
と書かせていただきました。
享保(きょうほ)は、正徳の後、元文の前。1716年から1735年まででありますので、この期間に阿波国内の神名帳は「厳重に焼棄せしめ」られたと。
よって天明二年(1782)成立の「阿府志」には「麻植氏」関連の記載はなく。
 また「阿波志」は文化 12 (1815) 年の刊。
当然どこを読んでも「麻植氏」についての記載は現れてきません。
やはり、「麻植氏」は何らかの形でその名と実績がつせられてしまっているように思えます。
(ただ、前回書いた「秘羽目神社」については延喜式神名帳にはちゃんと「秘羽目」で記載されておりますので、八幡社に変えられてことは蜂須賀の指示で間違いないでしょうが「秘羽四神社」とあったというのは、ちょっと違うような気もします。)

ここに元和二年(1616年)の「麻殖先代家領記」を示し「麻植氏」がいかに阿波国に重要な位置を占めてきたかを記しておきます。

麻殖先代家領記
吾麻殖氏ハ神代天日鷲命ノ正統トシテ神日本磐命ノ朝遠
祖忌部諸神ヲ始メ比伊宇山ニ麻ヲ取荢ヲ績テ荒妙柔妙ノ服ヲ織ラシメ
又紙ヲ漉蓑笠ヲ縫ハシメ陶造シテ其術ヲ普ク諸國ニ弘通シタル勲績ヲ以テ孫子
天日和佐命比麻殖ノ縣主ト成其後麻殖郡主トナリテ縣ヲ
郡ト改メ麻殖郡領ト号シ領内ニ神田ヲ領チ初穂ヲ以テ岡山ノ如ク積備
大御祭ヲナス比地ハ東射立山石立山ノ両峯ノ間ニヲ波多伊登ノ双岸ヲ限
伊豫土佐ノ高山ヲ隔後ハ阿波ノ中川ヲ境ヒ内ナル伊宇山テハ樹々ノ精
ニ赤白ノ伊宇ヲカケ (略)


麻殖氏人集リ来リテ吾大御神ヲ斎キ祀レバ神代ヨリ皇孫ヲ守護
シ奉リシ勲績ヲ思召出サレ歴朝ノ天皇御崇敬不浅幾度トナク
奉幣ノ勅使ヲ立サセラレ神人其位階モ赤四國第一等ナレハ
四國第一ノ大宮トシ三里四方ヲ玉垣ノ内伊宇山ト称シ霊廟ノ地ナルカ故
ニ不浄ヲ禁シメ汚穢物彊内ニ入ル事ヲ許サス山分ヲ二ツニ別チ忌部射立
ノ両立ニ属シテ二郷トシ西ヲ忌部ト称シ眞正ノ誠ヲ守リ赫々ノ神威ヲ表シ
東ヲ射立ト号シテ偽ノ醜ヲ払ヒ蕩々ノ霊跡ヲ示ス山ナキ処ヲ里分トシテ
二ツニ別チ川島ノ郷ニハ御祓ノ氏人ヲ居エ末代不易ノ冥福ヲ祈黒島ノ郷
ニハ信仰ノ侘族ヲ住セシメテ本社常守ノ幸徳ヲ感セシム共ニ(略)

・・・・安堵シ比ノ内ヲ別当社人楽人ニ迄是分與シテ如斯祭式
如在ノ禮敬ナシヌル処豈圖ランヤ天文二十一年八月三好氏細川家ヲ亡シ自
カラ阿波屋形ト號シ忠良ノ徒ヲ誅シ又神社仏閣ヲ破却シ焼尽ス比時神田
供免迄横領スルニヨツテ吾一門ノ輩トモ敵封不叶讃岐國丹生ノ
山中ニ身ヲ退ケルノ世ヲ忍ヒ潜居セショリ只今ノ如ク衰敗ノ極ニ至リ神明ノ
加護モナク天道ノ衰憐モナキ澆季ノ秋ニ逼リヌレトモ日月末タ地ニ墜チ子ハ遥々頼
シク思ヒ侍リテ子々孫々ノ形見トシ斯ノ系譜ラ寫シ留置者ナリ若又後裔興ラントスルノ
時比記録ヲ見テ麻殖一郡ハ及ハストモ忌部祖神御神霊在麻殖内山ノ兵火ノ障リナキ
是耳神ニ祈ルナリ
上古社領拾五萬貫モ武家ノ世ニ改マテ四千貫トナリ共後千五百貫ニ減少ナリ
無念ニ月日ヲ患ヒテ過参リ一党ヲ保ツ事ノミ修徳新ノ如シ

元和二丙辰春弥生三日 麻殖景光書

玉垣の内外の固めをかたくしていう内山を守れ氏人
故郷のいう内山の志けるには比ここになげける涙なるらん

そして「麻植」の名はもう一度消されてしまいます。
平成の市町村合併の大波の中、消えてしまいました、今度こそ本当に。
新市名についての住民投票は行われたものの。

市名の由来
はがき、封書、FAX、メールにより、2002年(平成14年)7月1日(月)から8月5日(月)にかけて実施された新市名称募集に対し、2396通(うち有効2284通)の応募があった。その結果896種類の名称が集まり、一位の麻植市と二位の吉野川市に絞り込んだ上で第七回合併協議会で協議し、吉野川市の名称が決まった。
wikipedia

麻植郡合併協議会より
投票結果のように「麻植市」と「おえ市」で408票、「吉野川市」の205票の2倍近い得票数がありながら結果は「吉野川市」となってしまいました。
済んでしまった結果に異を唱えても詮無いことでありますので、今更蒸し返すこともありませんが、当時の議事録を読んでおりますと、ほとんどの委員が「麻植」の由来を全く知らなかったということに愕然といたしました。
建国に大きな役割を果たした「麻植」の名は永久に失われてしまったのです。
「吉野川」の名を使っておかないと、どこかに先に使われたら困る、とかの理由の為に。
まあ、それだけでもないようですけどね。


議事録(部分)を見てみますと、

最初には

との認識は示したものの


委員会としては「吉野川市」を推すとし


との歴史を鑑みての意見も出ておりましたが

の意見の後

との意見を以って結論は出された模様です。

こうやって「忌部」の名が冠せられる遥か以前より連綿と続いてきた、あるいは二千年に垂(なんなん)とする「麻植」の名は、今度こそ完全に途絶えてしまったのです。
もう二度と復活はしないでしょう。
まあ、今更言ってもしゃーないですけどね・・・

もうちょっと書き足りないこともありますが、上の文を書いたら何だか気が抜けてしまったので、一旦ENDとさせていただきます。
機会があれば追記の形で出させていただきます。

こんな気分(笑)

2017年4月2日日曜日

麻植の系譜(4)

麻植の系譜(1)
麻植の系譜(2)
麻植の系譜(3)
の続きです。
では、麻植氏系譜より何点か気になる点をピックアップしてみますと。
  十四  麻富命  崇神天皇朝勅命ヲ奉諸国神社江荒妙ノ服ヲ織神服トシ別奉ル 

弐二
長麻殖大連
 清寧天皇朝即位二年辛西十一月始メテ大嘗會行ハルニ依
 テ由岐須木ニ用ユル麻布ヲ古例ニ任シ粟國忌部ヨリ献ル可ト
 勅命ヲ奉蒙ケレバ定例トナリ又此功ニヨッテ大連トナル

このように系譜によれば崇神天皇朝より天皇祭祀に関わり、清寧天皇朝には荒妙献上が「定例」となったとまで記されておりますが、これほどの氏族が、現在ほとんど知られていないのはなぜなのでしょうか?
その一端を「阿波麻植郡忌部郷考」(下記資料)に見ることができます。
資料は孫引きで原本が手元にないんですが、斎藤氏の著作なんで大丈夫でしょう。

阿波麻植郡忌部郷考
(前略)
蜂須賀氏の封を阿波に受くる。
三好長曽我部氏割拠の遺を承け、土地租税皆旧に初る。
故に古昔大社の地と難も、一旦混没に帰すれば従って共有を私するは亦怪むに足らざるなり然るに朝廷幕府より之を捜索するに及び、式内大社たるを以て、再び崇敬を表し或は神領を復するの虜なき能はす。
是に於て務めて共跡を混し、復攻索し難きを欲し一切忌部社及び麻殖氏の事に係り隠蔽して之を記さず。

國内神明帳焼棄
亨保年間の編纂に係る國内神明帳を厳重に焼棄せしめ寛保三年忌部関係社を削除した國内神明帳を発表す(今世に流布する神明帳は是なり)。

うーん、亨保年間の阿波国の神名帳は焚書されたと言うのですねぇ・・・
「忌部神社遷座考(2)」でも書いたように、社地が特定されてしまえば三里四方とも言われた広大な忌部大神宮の社地をそのまま変換しなくちゃならないんで、徳島藩としては税収大幅減のインパクトを防ぐため「復攻索し難きを欲し一切忌部社及び麻殖氏の事に係り隠蔽して之を記さず」を貫く以外に方法が無かったんでしょうね。
その隠蔽の例として、例えば川島町の鎮守八幡神社

學島村児嶋旧村杜八幡神社祭神誉田別天皇秘羽四神外一座

現在の由緒書は
もとは秘羽目神社という。現在の社地の南側に鎮座していたが、天正年間、武士の起こした戦さにより火をかけられ神宝・社記などすっかり社殿とともに焼失した。その後、現在の位置に式内日羽女(ひわめ)神社として再建した。ところが蜂須賀氏が阿波藩(徳島県)の領主となり、式内日羽女神社の社号はさしつかえがあるとされ、なまえを変えるよう申し渡された。その結果誉田別命を合祀して、鎮守八幡神社と改称したのであると伝えられている。
以下略
となっておりますが
學島村児嶋旧村杜八幡神社祭神誉田別天皇秘羽四神外一座
當社は式内小社秘羽四神社にて天正年間兵◯に羅り神宝社記等悉皆焼失す。
式内秘羽四神社と崇敬致居處蜂須賀侯入國の后秘羽四の社号指支に付八幡宮と改称すべき旨被申渡依って神殿へ應神天皇 を合祭す。

「秘羽四(ひわし)」の「四」の字を縦にして「目」と書き「秘羽目(ひわめ)」としていたけど、それでも藩はダメだって言って社名を変えさせたってことですね。
いや、なんとも。

また例えば
浮島八幡宮も同様に

浮島八幡宮
宮島村鎮座祭神天日鷲命(今は川島神社に合祀) 神社名細帳に八幡神社は式内社日羽女神社と崇敬致居候処蜂須賀候入国の後日羽女の社号指支に付八幡宮と改称すべき旨被申渡依て全神殿に応神天皇を合祭し鎮守八幡神社と称し奉る。
とあり、ここも改ざんされたことが示唆されております。




浮島八幡宮についてはいろいろあるんですが、よろしければ
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(2)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(3)END
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(訂正と追記)
などをご覧ください。

で、今回で一旦ENDにするつもりだったのですが、泣きのもう一回で次回でいっぺん切ります。(笑)
続く
ワタシはどこに行くのでしょうか?

2017年3月26日日曜日

麻植の系譜(3)

麻植の系譜(1)
麻植の系譜(2)
の続きっす。
今回は、くだくだ書かずに麻植氏系譜の翻刻を載せてみるっす。
だから、今回は解説もないんで、つまんないっすよぉぉぉ(笑)

で、最近この資料を配った皆様。
ちゃんと資料を読みましたかぁぁぁぁ(笑)
さて、と。
ご注意
誤字脱字見落とし、勘違い等々画像と文字の差異は大袈裟に指摘しないこと。
また文の区切り位置は画面構成上てきとーに変えてある場合がありますが、やたらと指摘しないこと。
文献の信憑性も未調査ですが、複数の研究者が同内容での現存を確認しております。


     麻殖氏系譜

神代遠祖
高皇産霊命 
天太玉命 
拷機千々萬姫命 
天櫛明玉命 
天底立命
手置帆底負命
彦狭知命
乙羽白麻
天忍日命
天手力男命



天日鷲命
大麻彦命 
天白羽鳥命
天羽槌命
天乙羽鳥命 
天弓削彦命
大麻主命 
大麻姫命 
千加比姫命
伊宇津主命
訶多々主命
伊宇佐主命
伊宇佐別命
伊宇佐貫命
伊宇機姫命
伊宇鷹命
麻織姫命
大日加佐命
日和佐命
外麻命
幡多命
宇和命
伊與彦命   伊與國造ト成
小千彦命


久味彦命
宇惠彦命 
   麻殖主ト成
十一
伊宇山彦命
伊宇長姫命
伊宇麻姫命
十二
武麻殖命
麻内別命
十三
賑麻殖命
十四
麻富命       崇神天皇朝勅命ヲ奉諸国神社江荒妙ノ服ヲ織
          神服トシ別奉ル 
十五
由布主大祢
十六
由布山主大祢
十七
伊加鉾宿祢     一云麻鉾宿祢 
伊麻比古
十八
楯鉾宿祢
阿布目連
麻田子
十九
三垣麻吕
稲鹿目
猪鹿目
伊良古姬
湯勝宿祢
  允恭天皇朝姓氏ヲ定ムル時熱湯ヲ探リテ功名在
  忌部神社大祭主トナル


弐一
湯別宿祢
弐二
長麻殖大連
 清寧天皇朝即位二年辛西十一月始メテ大賞會行ハルニ依
 テ由岐須木ニ用ユル麻布ヲ古例ニ任シ粟國忌部ヨリ献ル可ト
 勅命ヲ奉蒙ケレバ定例トナリ又此功ニヨッテ大連トナル
弐三
千波大連
弐四
小角麻呂
倉玉姫
弐五
湯立麻呂   欽明天皇朝仏法渡来ヲ忌嫌イ物部大臣(大連尾與)ヲススメ退ケラレ用明天皇
       朝厩戸皇子ヨリ忌部領採地ヲ削ラル
弐六
湯麻宿祢
千穂根
弐七
岩木宿祢
由木姫
弐八
千麻呂
弐九
清足大連    斎明天皇朝七年新羅ヨリ百済ヲ攻取援兵ノ将トナル歸朝シテ錦冠赤衣ヲ
        賜リ忌部氏人長四位上大祭主トナル
三十
麻殖連
三十一
玉垣宿祢    忌部社ニ八重ノ玉垣ヲックル故ニ伊年部玉垣ノ宿称ト云錦冠赤
        衣ヲ賜リ忌部氏人ノ長大祭主トナル又時忌部旧領ヲ復スル事ヲ得タリ




玉垣姬
小麻足姬
        中臣不比登妻麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トスル房前公也
三十二
玉淵
布刀姫
布刀淵
      天智天皇朝玉淵ヲ大錦上トシ息部大祭主トス天武天皇朝再同郡明定トシテ
      伊勢王大綿下「不明」来リテ阿波十郡ヲ復古シテ十三郡ト定メ麻殖上郡
      阿波上郡ヲ合シテ美馬郡トス麻内山ハ神領ナル故麻殖中郡トシテ之ヲ別
      朱鳥元年康成三月天日鷲神社修理造営ヲ加フル時天笠ヨリ法道仙人ノ母
      摩耶夫人菩提ノ為ニ鋳玉フ門浮標金ノ観世音ヲ将来シテ仏母摩耶山忉利
      天上寺ヲ建立シ玉フトキ比金像ヨリ光明ヲ放チ通ニ南海ヲ照ス法道上人
      先談路山ニ登リ摩耶山ヲ建立シ夫ヨリ阿波ニ来リ伊宇山ヲ具テ比山ハ仏
      母前世出生ノ地ナリト云テ一宇ヲ建立シ伊宇摩山仏母寺ト号ス
      天武天皇朝役小角大和ノ吉野蔵王権現ヲ高越山ニウツス
三十三
阿刀淵宿称
伊良淵連
   聖武天皇ノ御宇行日至等勅命ヲ以テ伊宇摩山仏母寺ヲ神宮寺ト改メ備像ヲ彫刻
   シテ本尊トシ僧ヲ別当ト唱エ神職ニ加エ法福寺ト云社僧行眞ニ寺ヲ建テ共従弟
   ヲ置大社ノ西ニ建ルヲ西福寺ト云大社ノ東ニ建ルヲ東福寺ト云天平十三年辛巳
   八月阿刀淵九死一生ノ大病行真上人行基等彫刻メ薬師仏ヲ祈リ病頓平癒シケレ
   ハ厚ク三宝ニ帰依シ一字ヲ麻川ノ停ニ建立シテ平癒山福生院ト号比寺ヲ以テ我
   麻殖氏歴世祈願ノ本寺トス神護景雲二年成申三月麻殖下郡ノ人民私願ニ依テ種
   野山内伊周ノ里ニ宮社太敷立天ノ日鷲ノ社ヲ造営ス又法福寺ヨリ別當ヲ附與ス
   外山ノ法福寺ト云

今日はここらへんで勘弁しといたろか。
さ、お風呂入って寝ようかな。

あ、これじゃ収まりつかないんで、も一回だけ続く。


2017年3月20日月曜日

麻植の系譜(2)

ヤバイんじゃないかなと思いつつ書いております(笑)

麻植の系譜(1)の続きとなります。
その前にちょっとだけ麻植氏についてのレクチャーを。

阿波国麻殖郡より起こる。阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。一族には、麻殖持光がいる。
wikipedia

また麻植については

忌部社麻楮ノ密書に日く
夫レ神事ニ麻ヲ懸クルコトハ敬ノ表示ニシテ阿波國忌部遠祖天日鷲命ノ殖エ給フ今其地ヲ呼ンデ麻殖郡ト云フ忌部ハイミべニシテ敬ヲイタシ我神明ノ本主一身ノ主宰ヲ育イテ神ヲ祭リ神ニ祈リテ過ヲ善ニ遷スヲ要トス故ニ神事ニ之ヲ懸ク往古神代ノ時ニ高皇産霊奪ノ忌部天太玉命ヲ使シテ弱肩ニ太手◯ヲ被テ大物主神ヲ祭ラシム是即敬ナリ凡中臣忌部ハ氏ニ非ス工夫ノ名ナリ後世ニ其徳アルモノナキガ故ニ氏トス中臣ハ中心ヲ富シ養ヒ守リテ本末ヲ傾ケズ中執リ持チテ誠ノ至ヲ霊シ(是ヲ内清浄ト云フ) 忌部ハ外ヲ防ギ護リテ敬ノ極ヲ霊ス(是ヲ外清浄ト云フ)故ニ本朝ニ中臣忌部ノ工夫ヲ学ブハ専務トス依之神事ニ之ヲ懸ク慎而怠ルコト勿レ
より来ているというのが分かりやすいでしょうか。

で、ここが鴨島町の麻植氏発祥の地。
個人の方の畑の中を通らなくちゃいけないので、場所は明記いたしません。
ここは麻植氏を祀る「麻植神社」



で、ここが忌部の大宮司としての麻植氏が滅んだ終焉の地、貞光町端山の家賀城(けがじょう)跡へ行く途中の石碑
ここが家賀城(けがじょう)跡

麻植氏は阿波忌部の正統といわれ、代々忌部神社の大宮司をつとめ、美馬郡一帯に大きな勢力を持っていた。天文22年(1553)、勝瑞城主細川持隆は家臣三好義賢に殺されが、忌部神社は細川氏の祈願所でもあった。忌部の大宮司で内山城主であった麻植忌部守持光は持隆の信任も厚く、名前に「持」の一字を与えられたほどであった。そこで兵を集めて義賢を討とうとしたが、義賢は岩倉城主三好康俊に命じて内山城を攻撃した。城兵は地の利によってよく戦ったが、数日後には城は落城した。持光は阿波郡や讃岐に逃れたが丹生で戦死した、この戦いを内山合戦といい、長年続いた麻植氏の神権政治は滅んだ。
ベイシー写真館 阿波城郭探偵団様より転用

で、前回の

小麻足姫
中臣不比登の妻 麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トス是房前也
この部分について、阿波国の一部、某宗派の伝承としてこの件が伝わっていたらしいのです。
某宗派、研究発表会の記事が下にあるのですが、ちょっと・・
いや、非常に公表が憚られる内容ではないかと思いますので、残念ながらベタベタの修正を施した状態で最初のページのみ出してみますが、いやぁ。

内容についても申し訳ございませんが、抜粋でお願いします。

四国の阿波国、徳島県・・・

中略

十五分間の短い時間ですので、まず、主張したいことを三点、お話します。つぎに順次、資料に従って説明をしてゆきます。第一点、日蓮聖人のルーツは、今回の研究発表大会で二番目の発表にありますように、阿波忌部族であります。

中略

四国の阿波へ、更に千葉県の安房国へというのが日蓮聖人のルーツであろうと思います。

中略

忌部族の麻植氏のところ、資料二の三頁目、麻植氏系譜。初代に天太玉命、二代、三代、四代目に天日鷲命、ずーっと、神様の代から、数えていきまして、途中の神様の名前は省きまして、第三十一代の所をご覧になって下さい。第三十一代、玉垣宿祢が第三十一代の、麻植氏の当主です。その、玉垣宿祢の所に、玉垣姫、これたぶん奥さんじゃないかと思います。それから、小麻足姫、これは娘さんです、小麻足姫、その下の注記に、こう書いてあります。「中臣不比等の妻」と。「麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トスル、房前公也」、と書いてあります。非常に、私はこれ見た時に、びっくりしました。
「中臣不比等」と書いてありますが、藤原鎌足は、亡くなる直前に藤原の姓を朝廷から賜ります。鎌足が元気であった時は中臣です。ですから、中臣不比等の次男として、忌部族の族長クラスの男の子を、中臣氏の子として育てたいということを、鎌足は決意したのであろうと思います。
ですから、資料一のほうでは、房前は、北家の祖であって、母親は右大臣某氏、白鳳十一年生まれ、これは普通の歴史家が信じていることです。実は、阿波に伝わる伝承の大事な伝承の一つです。
房前は、実は、中臣の子ではなく、阿波忌部の族長の子供であります。
そして、その小麻足姫と中臣不比等の間には、子供がありませんでしたが、小麻足姫という阿波の女性が・・・

以下略

この講演録の内容については説明いたしません。
が、少なくともこの宗派の一部の人と二軒屋町忌部神社、元宮司「斎藤貢」氏は知っていたということなのです。

え〜っ、まだ書くのぉ

続く(次回で最後)
なんか、3回で終わらないような気がするのはワタクシだけでしょうか?

2017年3月19日日曜日

麻植の系譜(1)

やっぱ、書かないでおこうかな、と思いつつ、某所で紹介してしまいましたので、こちらにも書いておきます。
いや、麻植氏についてなんですけどね。

麻植氏(おえし)は日本の武家の姓のひとつ。徳島県に特に多い。

忌部氏流 - 阿波国麻殖郡より起こる。阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。一族には、麻殖持光がいる。→麻殖氏

清和源氏柿原氏流 - 阿波国阿波郡柿原村より起こる。一族には上楼の役にて活躍した柿原義長がいる。 → 麻植氏 (柿原氏)

桓武平氏流 - 1186年平康頼が阿波国麻殖保の保司として麻植郡に領地を拝領したことに始まるとする。 → 麻植氏 (平氏)

清和源氏足利氏流 - 清和天皇-(略)-足利泰氏-足利氏継-足利兼氏-山田従四位下阿波守重氏-山田民部大輔俊氏-麻植重時-右京大進氏重-志摩守親氏-同氏重-同氏直-同頼利-隠岐守泰俊-志摩守氏義-同重俊-重長(重俊の弟)-成義-成経(成義の弟)-成政-重義(成政の弟)
例によってwikipediaより

なんですが、今回は
忌部氏流 - 阿波国麻殖郡より起こる。阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。一族には、麻殖持光がいる。→麻殖氏
のお話です。
実際、麻植氏についてはあまり知られておらず、歴代「忌部大神宮」の大祭主を司っていたことも知らない方が多いのではないかと思います。
そこで出てくるのが「麻植氏系譜」。
初っ端から腰が抜けそうな記載の連続ですが、この「麻植氏系譜」。


下にありますように、徳島市二軒屋町鎮座の忌部神社、元宮司「斎藤貢」氏の著書によれば、かの小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)博士も見ていない貴重文献であるのです。





この文献によって四国一宮としての忌部大神宮の祭祀を歴々司った「麻植氏」の深部の一端をうかがうことができるのです。


まず、注目したいのが下図、弐三代目に現れる「千波足連」つまりは「千波足尼(ちはのすくね)」。
まとめ:大宜都比売命の裔(2)」で、書かせていただきました、粟國國造であり、「粟凡直(あわのおおしのあたい)」の祖である「千波足尼(ちはのすくね)」の名がここに登場いたします。
これは
前置その5「大宜都比売命は海を渡ったか?」』で書きました「粟凡直」と「忌部」の一族が何らかの形で手を組んだ証左ではないかと考えております。

さて(笑)今回特に目玉として見ていただきたいのが、この部分。



小麻足姫
中臣不比登の妻 麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トス是房前也

衝撃の記載ですね。

藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。wikipedia

藤原不比等

左が「房前(ふささき)」だけど、よく分からないっす


「不比登」は「不比等」のこと「房前(ふささき)」は言わずと知れた「藤原不比等」の二男。
藤原の系図に名は出ていませんが、あるいは「女」のいずれかであったのか?

この藤原北家の始祖「房前」、中臣不比等の妻、つまり天智天皇より藤原姓を賜る前に、麻貫玉取の子を養嗣、つまり養子とした。これが房前であると書いてあるのです。

もしかしたら抜けられない道に入ったのかも(笑)

そして、この件に関しては、なんと阿波では以前から知られていたという話があるのです。

続く(けど2、3回だよ)

2017年1月29日日曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(15)END


まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
まとめ:大宜都比売命の裔(6)
まとめ:大宜都比売命の裔(7)
まとめ:大宜都比売命の裔(8)
まとめ:大宜都比売命の裔(9)
まとめ:大宜都比売命の裔(10)
まとめ:大宜都比売命の裔(11)
まとめ:大宜都比売命の裔(12)
まとめ:大宜都比売命の裔(13)
まとめ:大宜都比売命の裔(14)

さて、最終回です(涙)。
ではここで「鹿児島県神社庁」のサイトより
肝属郡肝付町鎮座の「西宮神社」のご紹介を。


創建年代不詳。旧記によれば、摂津国西宮大神の示現と云う。古棟札に、大宝二年十一月五日文武天皇の勅旨親直卿の御造立とある。
古棟札に、大宝二年十一月五日文武天皇の勅旨親直卿の御造立とある。

大宝2年は西暦でいう702年、摂津国西宮大神の示現とあるは、摂津「三嶋鴨神社」に相違なく、ここに「事代主神(ことしろぬしのかみ)」に並び「阿波咩命(あわのめのみこと)」も祀られていることより「大宜都比売命」は

阿波  →  摂津  →  安房  →  伊豆、関東

と移動したことが想定できるでしょう。

「事代主神(ことしろぬしのかみ)」の経路は一筋縄ではいかなく

阿波(八重地(勝浦))→  摂津  →  安房  →  関東
阿波(香美)→  摂津  →  安房  →  伊豆

この項とは趣旨が違いますので、詳しくは次のテーマ以降となりましょうが、簡単に書いておけば、
伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)

主祭神の伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)は、三嶋神の后神とされる。『続日本後紀』の記述を基にすると、三嶋神の正后が阿波咩命(神津島の阿波命神社祭神)、後后が伊古奈比咩命神社にあたるとされる。また、『伊豆国神階帳』に見える「一品当きさの宮」や『三宅記』に三嶋神の后として見える「天地今宮后」もまた、伊古奈比咩命に比定される。後述のように、夫神の三嶋神には歴史的に事代主命説・大山祇命説があるため、伊古奈比咩命にも三嶋溝樴姫(事代主命妃)説・大山祇命妃説があった。これらに対して伊古奈比咩命神社社誌では、記紀神話との比較はせず「伊古奈比咩命」という独立の神格を見ている。神名の由来は明らかでないが、『日本三代実録』に見える遠江国の伊古奈神(所在不明)との関連が指摘される。 wikipediaより

この「伊古奈比咩命神社」発行の「道守(ちもり)」によれば
「伊豆大社御神威略記」部分の記載には
 事代主神と伊古奈比咩命の神名が記載され

 さらには「伊豆」の語源として

「伊豆国の伊豆は假字にて、巌 字書に巌清浄 神の義にて實は此大神の御名より出でたる國號なり。
とあるのを見ますれば、阿波国鎮座の「事代主神社」二社を連想いたします。


もう少し、マシな文章は書けんのかね

延喜式式内社 阿波國勝浦郡 事代主神社 
創祀年代不詳。
式内 事代主神社は、全国で阿波の二社のみであり、それ以外で事代主命の名が冠されるのは、奈良の鴨都波八重事代主命神社だけだ。
鴨都波八重事代主命神社の社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建したそうである。
空と風(式内社(事代主神社)生夷神社 勝浦郡勝浦町)」より引用

こちらが「八重地」にある式内 事代主神社
ちなみに
明治初年時点で、全域が阿波徳島藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている村は以下の通り。(43村3浦)
渋野村、本庄村、宮井村、飯谷村、沼江村、中角村、森村、鶴敷地村、星谷村、久国村、棚野村、中山村、横瀬村、与川内村、坂本村、黄檗村、福川村、藤川村、傍示村、瀬津村、福原村、野尻村、久保村、樫原村、田野々村、市宇村、八重地村、大谷村、方上村、西須賀村、大松村、論田浦、大原浦[2]、鶴岡新田、江田村、田浦村、新居見村、日開野村、中田村、中郷村、小松島浦、金磯新田村、田野村、芝生村、八多村、前原村


そして
阿波市市場町伊月字宮ノ本鎮座「延喜式式内社 事代主神社」
御祭神 事代主命 大國主命
「阿波志」に「事代主祠、延喜式亦小祠と孚す伊月村に在り事代明神と称す」とあり、「増補古城記」の伊月城の項に「当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲国事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依姫斎御座す。 御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」と記している。 徳島県神社誌より
ぐーたら気延日記「阿波市市場町 事代主神社」より


こちらが「齋(いつき)」つまりは「巌(いつ)」の事代主神社。
無論、式内社。
ここまで言わずとも、すべてに「阿波咩命」が並び祀られていることより、三嶋神の
由緒を想定することができると思うのです。

このようにして「阿波咩命」こと「大宜都比売命」は名を変えても、あるいは名を忘れられても、事代主命の本后として全国で祀られているのです。
ただし、何度も書いたように「事代主命」は一人ではありませんので「ある時期」の事代主命の本后としてだということに注意願います。

そして、その本家本元の末裔は
      この山頂にも
      ここや
      ここにも
      祀られ
生きている・・・


まとめ:大宜都比売命の裔(15)END



おまけ