2010年10月1日金曜日

忌部神社遷座考(5)

前回も文字ばっかりでつまんなかったと思いますが、書いてる方はひーひー言ってます。
画像を出しまくる方がよっぽど楽ですもんね。
で、前回までの記事をご覧でない方は

忌部神社遷座考(1)


をご覧ください。

えーと、前回での明治七年(1874)十二月二十二日山崎忌部神社は国幣中社と決定され
たときの教部省の通知文を載せときます。
では、前回の続きから
明治十年(1877)貞光村は内務大臣に願書を提出します。

この願書によれば、貞光は旧麻植郡の一部であり、そこに忌部社を祭祀していたが、
長曽我部の兵乱に焼かれ、蜂須賀氏入国以来は旧に復せば神領を回復せねばならない
ので、内分に信仰は差し支えないとされていた。
ところが、宝暦四年(1754)に神主村雲左近が堂々と信仰し、参詣人も多くなったので、藩はこれを禁じ村雲父子を追放した。

これは 忌部神社遷座考(2)で書いた通りの事ですね。

明治七年国は忌部の正蹟を調査に徳島県へ来て、貞光村へは忌部の来歴を書き出すように
言われ、提出したが調査にも来ず、山崎村に忌部社は決定されました。
村民は残念この上なく、再調査願いたいとの主旨であった。

明治十年(1877)西端山村民代表谷浅三郎等は上京して内務省に陳情したが、係官小杉榲邨は了承しませんでした。するはずもありません。

ところが当時阿波国を管理していた高知県は国の照会に対して次の意見書を出します。

山崎村の徴証
1 延喜式には麻植郡に鎮座するとあり。
2 式内社であって本社祭神に縁ある旧社が村中にある
3 正慶年間中の忌部氏人の契約古文書は確かな証拠である
貞光村の徴証
1 永禄の棟札を証拠とする
2 麻植氏系図、三好康長の願文、忌部市のあったこと

これらを勘案して、貞光村の願書は建白書と見なして左右の指令はしないのがよいとした。
つまりは、放置せよとのことですね。無視されてしまいます。
阿波藩の頃より、こんなのばっかり、国や政府のやる事はこれだから(ぶつぶつ)

このあたり、双方の徴証が大量に出ています。
今残っている資料を見ると小杉榲邨の分も含めて山崎村の徴証の方が多いのですが
>延喜式には麻植郡に鎮座するとあり
についても反証が挙げられ、貞光にも麻植氏が麻植因幡守として忌部大宮司を勤めて
いたとか、麻植郡忌部郷が美馬郡に入っていた事を示す古文書などが示されています。


さて、明治十三年(1880)四月十六日、小杉榲邨は東京裁判所から出頭命令を受けます。
忌部神社正蹟決定までの経緯を聞かれ、これに書面をもって答えた後の九月四日
小杉榲邨は再度東京裁判所に呼び出されます。
この時は貞光村代表として折目栄も同席していました。

小杉榲邨は東京裁判所の加藤恒判事より
「木屋平村三木貞太郎が自首書を県に提出して、当裁判所に回送されている」
旨、言い渡されます。
「自首書」とはタダゴトではないですよね。
内容はなんと

「正慶元年(1332)十一月氏人十三名の契約書は贋造であった」との事でした。

つまり、三木貞太郎氏の自首書によれば、山崎村を忌部の正蹟とする最も有力な証拠で
ある正慶の古文書が贋物であるといい、忌部正蹟は貞光村であると先祖から言い伝えら
れているという事であったのです。

青天の霹靂とはまさにこの事、小杉榲邨の心中慮るに余りあります。
が、この自首書、本物であったのか、本当に贋造であったのかは判りません。
小杉榲邨によれば、忌部の大事の時にしか開けてはならないとして伝えられてきた
文書で、櫃に大切に仕舞われていた物を、祖父立ち会いのもとで開けたとのこと
だそうです。

小杉榲邨はこれに対し、更に意見書を提出したが採用されません。
最も重要であると思われていた「正慶年間中の忌部氏人の契約古文書」が贋造で
あるならば、後の反証は貞光村の言い分と、どっこいどっこいのように思われます。
>本社祭神に縁ある旧社が村中にある
とか
>延喜式には麻植郡に鎮座するとあり
とか、如何様にも反論できそうですね。

一方、国は三木貞太郎氏の証言の事もあるので同年十月十日に再調査を行う事としました。
高知県に対し麻植郡・美馬郡境界につき照会を行い、明治十二年十月に、高知県の答申を
もとに内務省地理課は、忌部郷は、美馬郡半田村より東の穴吹村に至る間を比定し、山崎
村鎮座の忌部神社を否定した。

明治十三年(1880)四月内務省の井上真優等は徳島県へ調査に来て、徳島県大書記官
酒井明等とともに調査の結果、美馬郡西端山吉良名が地形上大社の古跡と思われると
発表、徳島県令北垣国道も同意見であった。

同六月、井上真優は帰京して政府へ復命し、貞光村御所平が忌部の旧跡であるとした。
更に三木家文書については、古筆了仲、了悦が忌部契約状は偽物と鑑定した。
と共に、貞光村の古文書は真跡であるとした。

かくて、明治十四年(1881)一月七日忌部神社は貞光村西端山吉良名の五所平神社に決定された。御霊代は十一月十四日式部寮から護送され、一時県庁へ奉安し、十二月十九日
五所平杉尾神社へ鎮座された。

このようになったので、山崎村でも黙っていられず、明治十四年三月四日戸井栄作・松村
虎平を総代として、郡役所を経て県へ追願したが県は三月二十二日郡役所を通じて差戻した。
更に三月十八日再び県へ出願したが、県は三月二十五日付で、徳島県知事酒井明は詮議に及び難しと申し渡された。
もう決まっちゃったので、いまさら何を言ってもだめだよ〜、って事ですね。

さて、ここいらで資料をちょっと出しておきます。
後年(明治三十六年)小杉榲邨がこの事件の事を回顧した記事「阿波國麻殖郡忌部神社
所在に就いて」を載せてある雑誌「歴史地理」です。
前後編に渉る長文の記事ですが、この中で小杉榲邨、怒り狂っております。

「その頃美馬郡の請願者上京したり、又其美馬郡の方は、讃岐田村神社の權宮司
細矢庸雄といふ人がかひこまれて、自分の奉仕はよそにして、始終阿波美馬郡貞光に
出張して、種々の計畧をめぐらして、前にいふ十一二年の美馬郡の材料は、この細矢
がくりこんだ」
また、明治十三年(1880)四月内務省から調査に来てますが、「地元以外の物がちょっと
来て短期間調査して何が判る」みたいな事も書いてます。

また、文で書くのは憚られますので、画像で載せておきますが

などと書いたりもしております。
ま、読んでみてください。

ついでに、画像は無いんですが、貞光村から出された反証の文書として
美馬郡半田町大泉六郎氏が家蔵していた「忌部之記録」というのがあったそうです。
いわゆる「大泉文書」っていうものらしいんですが。現物とか画像とかは
見つかりませんでした。
この本は明治15年に同氏の祖父で元半田戸長であった大泉徹吉氏が筆写せられた
もので、生ズキ110枚のものであるそうです。
ズキって里芋の茎ですよね?それを干したかどうかして、紙状にしたんでしょうかね?
まあ、そこに数々の反論が記載されてるんですが、反論の内容は別にして(別でいいこと
はないんですが)こんな文も載ってました。

「殊ニ新居正道ハ徒前神職ト云ヒ方今史誌編輯係村属ノ不肖身分小杉榲邨ニ徒党シ
姦謀ヲ企巧シ奉歎天朝程ノ小人故狐猩ニ魂ヲ奪ワレシヤ」

子供のケンカかい!
どっちもどっち、バカバカしいったらありゃしない。

あきれた所で、今回くらいで終わらせようと思ってたのですが、後一回で決着まで
もう一回でおまけ部分まで書こうと思ってます。
面白くても面白くなくても、ここまで書いたんだから、結論までは行きますぜ。
では次回で。








6 件のコメント:

  1. 電話番のフー2010年10月2日 9:52

    ぐーたらさん、おはようございます。
    そしておつかれさまです!!
    楽しく読ませていただいてます。
    私は何の根拠もなく山崎忌部神社派だったのですが、
    今回の記事を読ませてもらって「何~?」という感じです。
    次回も頑張ってください!!

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  2. to 電話番のフー さん
    資料を全部掲載できないのが、残念です。
    見れば見るほどどっちもどっちと言う感じです。
    もうちょっとなので、頑張ってみます(笑)

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  3. なんか、今のネットの掲示板の罵り合い見てるみたいですね。

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  4. to のらねこ さん
    >なんか、今のネットの掲示板の罵り合い見てるみたいですね。
    そうですねえ、なんかよく見かけますねえ(笑)
    これが、神職、官憲、政治家まで巻き込んでなんですから......

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  5. 忌部氏を調べていて、こちらへ迷い込みました。
    普通じゃないデスネ。ぐーたら超越の調査ぶり。
    忌部神社遷座考(6)が楽しみ……

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  6. to もんじゃ さん
    ほほう、迷い込まれましたか。
    もっと迷っていただきましょう(笑)
    左のリンクにある

    すえドンのフォト日記
    すえドン♪の四方山話
    空と風

    は覗きましたか?世間の常識から迷う事うけあいますよ。
    (変な意味に取らないでね)
    ちなみに(6)と「おまけ」はもう書いてますので、これも左の
    アーカイブからどうぞ。
    ところで、連休明けのこんな時間に見てるなんて、学生の方ですか?

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