気分は山頭火です。
「調べても調べても闇の中」
何日、資料片手にして寝てしまった事か。
ほんっっっとに、この度ばかりは書くのを止めようかと思ったテーマでございますが
それにも増して、見つけた「こいつ」を出しておきたいという気持ちで書き出しまし
たが、どうも「ぐーたら」の手に余りそうな雰囲気です。
が、「たかが、そこらのおっさんのブログ」と開き直ってみましょうか。
何回で終わるか見当もつきませんが(案外2、3回で終わったりして)
お付き合いいただければ幸い至極でございます。
前置きが長くなりました。
タイトルは仰々しくも「忌部神社遷座考」などとぶち上げてしまいます。
ではでは。
徳島市二軒屋町二丁目四八に鎮座ましましておられます
「忌部神社」でございます。
主祭神 天日鷲命
こんな関係のブログをご覧の皆様方はすでにご存知とは思いますが
(今日は文章が硬いなあ)
「天日鷲命」は阿波の忌部の祖でありますが日本書紀の一書(あるふみ)と
先代旧事本紀にのみ登場し古事記には出てきません。
まずは神社の由緒書きから見てみましょうか。
太古天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙製麻紡織の諸業
を創始され特に天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時
白和幣(しろにぎて)をつくり神々と共に祈祷(いの)られ天の岩戸開きに
大きな功績を挙げられた。
その子孫は忌部と称して国家祭祀の礼典を掌どり
神武天皇の御代阿波国に下りこの郷土を開拓し代々朝廷に荒妙御衣(あらたえみそ)を貢上した。
それは大嘗祭(天皇即位の大礼)の用に供された。
麻植郡の名も麻を植える事から起きたものである。
このように天日鷲命を奉祭する忌部神社は忌部族すなわち徳島県民の
祖神を祭り古来阿波の国総鎮守の神社として朝野尊崇篤く延喜の制には
官幣大社に列せられ、且つ名神祭の班幣に預かり(名神大社)西国随一の
格式の大社として、四国一宮とも称せられた。
文治元年源義経八島合戦のみぎり太刀一振を奉納、那須与一は弓矢を
奉納、更に文治三年源頼朝御供料として田畑一千町歩を寄進したしたこ
とが伝えられている。
当社は中世以降兵火にかかり久しくその社地が不明であったが明治四年
国幣中社に列せられ、明治七年その所在地を麻植郡山崎村とされたが、
同十四年美馬郡西端山村に遷祀、さらに明治十八年徳島市の金刀比羅神社
へ仮御遷座、同二十年現在地に新社殿成り奉遷鎮祭し奉った。
昭和二十年、戦災のため社殿をはじめ主要建物をほとんど焼失し、現在
の本殿は昭和二十八年拝殿は昭和四十三年に復興されたものである。
今回は出典など必要がある箇所以外は、あえて書きません。
あっちこっちからの引用で、書いてる本人も訳が分からなくなっております。
そして、「徳島県神社誌」からの引用です。
忌部遠祖天日鷲命、太古穀麻を植えて紡績の業を創始し、皇祖天照大神の功臣の内に
列せられた。
後世、其の神徳を称えて麻植神と称し奉り、子孫は忌部と称えて国家祭司の礼典を掌った。
神武天皇の御世、阿波国に遣わされて郷土を開拓し、苗裔長く此国に留って践祚大嘗祭の
御贄を奉仕するを例とした。
「日本書紀」神代巻天岩門の段に「粟国忌部遠祖天日鷲所作木綿云々」、更に「古語拾遺」
に「天日鷲命阿波国忌部祖也…
天日鷲命之孫造木綿及麻並織布 仍令天富命率日鷲命之孫求肥饒地遣阿波国殖穀麻種
其裔今在彼国 当大嘗之年 貢木綿麻布及種々物 所以郡名為麻植之縁也」と詳述されている。
延喜の制、名神大社に列した。
「延喜式」神名帳には「阿波国忌部神社名神大月次 新嘗 或号麻植神或天鷲命」とみえる。
また、「続日本紀」に「仁明天皇嘉祥二年(八四九)阿波国天日鷲神に従五位下を授奉る」とある。
その後「三代実録」によると、清和天皇貞観元年(八五九)従五位上、陽成天皇元慶二年(八七八)正五位下、
同七年(八八三)従四位下と、それぞれ昇位を重ねている。
当社は中世兵火に罹りて久しく旧社地不明であったが、明治四年五月国幣中社仰せ
出されて以来、その社地をめぐって論争があった。
政府は明治七年麻植郡山崎村天日鷲社を該社と決定、鎮祭したが、その後異論あり、
同十四年美馬郡西端山村に遷祀。更に同十八年現社地に隣接する郷社金刀比羅神社に
仮御遷座、同二十五年五月新社殿竣成と同時に奉遷鎮斎し奉った。
大正十一年の皇太子御参拝等徳島県を代表する社であったが昭和二十年七月戦災のため社殿焼失。
同四十三年五月社殿復興。同五十五年授与所造営。現在神社本庁別表神社となっている。
なお、美馬郡貞光町西端山字吉良に鎮座する
五所神社(天日鷲命をまつる忌部神社の旧地)を摂社としている。
今回書きたいのは
当社は中世兵火に罹りて久しく旧社地不明であったが、明治四年五月国幣中社仰せ
出されて以来、その社地をめぐって論争があった。
この部分なんですね。
簡単に書けば
1815年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足しました。
その際、式内社である忌部神社が、神祇官所管の国幣中社にされることとなったの
ですが、正式には所在が不明です。
そこで、忌部神社の比定が急務となったわけです。
このとき小杉榲邨の考証により、1874年(明治7)麻植郡山崎村(吉野川市山川町)
の忌部神社が、式内社と判断されました。
これに対し、美馬郡西端山(つるぎ町貞光)の五所神社を、古代の式内社である忌部神社に比定する見解が出され、
激しい争いとなりました。
美馬郡内にある阿波忌部の伝承などが挙げられた後、小杉の考証は却下され、1881年(明治14)、五所神社が忌部神社と決定されました。
こうして比定地論争が白熱し上申書の提出合戦の呈をなしてきたことから、明治18年
には政府の意向により二軒屋町の現在地に社地が定められ、1887年(明治20)に遷座祭を行って国幣中社忌部神社が新設されました。
五所神社は新しい忌部神社の摂社となりました。
県史について詳しい方ならば、「もう議論は出尽くしたじゃないか」
とおっしゃるでしょう。
議論は尽くしても真実は出てきてません。
なぜ、比定地論争が起こったのか?
山崎、貞光どちらが本当なのか?
なぜ現在の場所に遷座されたのか?
判らない事だらけです。
それにもまして「面白い」事だらけです。
「真実は細部に宿る」と言うじゃないですか。
この、いわゆる「忌部公事」重箱の隅の隅までつついたとき何が出てくるのか?
私にも判りません(あ、いいかげん)
行ける所まで入ってみますが.......
では次回からはまず、享保の末頃(1735)から追っかけてみたいと思います。
300年にも垂んと(なんなんと)する忌部の正蹟争いです。
(そうなんです、まだ前置きなんです、先が思いやられます)
いやあ、ぶちあげてしまいました。
(心の中でやめときゃいいのにと誰かが叫んでます。とほほ
ついでに「アドベンちゃ〜」などと、たむケン風にも叫んでます)
楽しみにしています。
返信削除と、こんな軽いコメントですみません!
私は種穂忌部神社へ行ったときに、このことを知りました。
長宗我部に攻められわからなくなったとか?何とか?
「それって本当?」と思ったまま、何もしておりません(悔)
それと、弊社ブログへのリンク、ありがとうございました。
これは県史に残る内容になりそうですね。
返信削除わくわく。
to 電話番のフー さん
返信削除長宗我部氏があっちこっちの寺社を壊しまくってから判らなくなったようですね。
種穂忌部神社も壊されたとありました。
だから長宗我部氏は嫌いです。
桂浜に行った時も若宮神社は「あえて」素通りしてきました。(おこちゃまです)
で、今回は明治の忌部公事をつっついてみます。
って言ってますが..........
書いてるうちに腰砕けの内容になってしまったらごめんなさい。
あ、ブログへのリンク勝手にさせてもらってすいません。
お願いしようと思って忘れてました(汗)
to のらねこ さん
返信削除>これは県史に残る内容になりそうですね。
ならない、ならない。
また、そんなことを言ってプレッシャーをかけようとしてるぅ。
書き始めてからも全然まとまらないんで、頭をかかえてます。
のらねこさんみたいに視野が広くないので、こんな長期間の話は
難行です。
ぐーたら先生。おはようございます。(ぺこり)
返信削除「忌部神社」と「よあけ」。よあけの中華そばが食べたい!
っていうか、画像がみたい!その画像を見ながら金ちゃんヌードルで我慢するし・・・。
って書いたら、ブログアップしてくれるだろうなぁ。多分。
ぐーたら先生は、けっしてメタボじゃないから。。(笑)
to イコピコのひとりごと さん
返信削除だからメタボじゃない、メタボじゃないって言ってるし........
メタボじゃないし、イコピコさんいじめるし.......
代替りして味がだいぶ変わってるし......(これホント)
名東軒は30年ぶりに食べたら味が変わってなくて涙が出ました(これホント)
忌部神社?二軒屋のでしょ。ブログの写真じゃダメ?
眉山から回って行ったんで正面鳥居の写真は今ないけど、よければまた撮ってきます。「よあけ」もね。
ついでに食べてこようかな、へっへっへっ。
ぐーたら先生。もうこんまい時の記憶っちゅうたらね、
返信削除特に味は、忘れられんのです。味も変われば、
味覚も変わる。だいたい、美味いもん食い過ぎですな!
もう言わんけんど。。。。メ。。。めっそうも無い。(笑)
「徳島県神社誌」には
返信削除「神武天皇の御世、阿波国に遣わされて郷土を開拓し・・・」とあるのですか・・・。
古い「徳島県史」にも「忌部氏が阿波へ拓殖したというのは、中央の忌部氏が徳島県へ田荘をもうけ、部曲をつくったことを意味すると解せられる」とあります。
そうではなくて「阿波忌部」が「中央忌部」になったのです。
最近、1ヶ月ほどで3回も、木屋平の「三木家」の三木氏と話をする機会がありました。
「阿波忌部」の凄さをあらためて知りました。
「阿波忌部」と書きましたが、正確には「麻植忌部」です。
「美馬忌部」もあります。「阿波忌部」といっても、またいろんな「忌部」がいるのです。
また、全国には「阿波忌部」のほかに「讃岐忌部」「紀伊忌部」「出雲忌部」「筑紫忌部」「伊勢忌部」「安房忌部」「勝浦忌部」「越前忌部」・・・がいます。
「中央忌部」となったのが「阿波忌部」。
正蹟争いも、争うように仕掛けられたようですネ。
奥が深いです。
(*^。^*)♪
to すえドン さん
返信削除すえドンさんからそう来るのが一番怖かったんです。
>正蹟争いも、争うように仕掛けられたようですネ。
そこんところを詳しくやってみたいのですが.......
的外れだったらすぐ引っ込めますので。