2010年10月3日日曜日

忌部神社遷座考(6)

慌ててる訳じゃないんですが、勢いで最後まで書いてしまいます。
で、前回までの記事をご覧でない方は


忌部神社遷座考(1)

忌部神社遷座考(5)



をご覧ください。
さて決着です。

こうして、繰り返される上申争いに政府もやっとその気になったのか、忌部神社の
正蹟争いを避けるため、明治十八年(1885)十一月二十五日太政大臣三条実美名で
徳島市富田浦(現、徳島市二軒屋町二丁目)に社地を選定し、明治二十五年(1892)
遷座鎮祭し、社地論争に終止符を打ちました。
下記が太政官布告の内容です。

太甲第一六九号
                    忌部神社
今般別紙ノ通リ御達ニ相成候条此段相達候事
  明治十八年十一月廿六日
                    内務卿伯爵 山形有朋
国幣中社忌部神社社地之儀明治十四年一月七日相達置候処更ニ阿波国名東郡富田浦町ヲ以テ社地ト被定候条此段相達候事
 但旧跡所在五所神社は社殿修造其儘保存スベシ
  明治十八年十一月廿一日
                    太政大臣 三条実美

なんですが、この太政官布告実際の文書が見当たりません。
わたくしめの調べ方が悪いんでしょうけど、

上が太政官布告書

これは官報、画像の十八年のだけでなく、七年頃からの分を一通り探して
回ったつもりなんですが、見当たりません。
官報には載らんのかな?いやあ、そんな事ないっしょ。不思議だなあ。

ともあれ、徳島市二軒屋町に決まったのですが、「なぜ」なんでしょうか?
国幣中社は県庁所在地に集めて管理しやすくすると言う意図はあったでしょうが。
実は、はっきりとは判りませんでした。
ただ、小杉榲邨は最初、

    全体これらの事、十二三年頃、かの
裁判所で自分が贋造せしといふ文書の糾問をう
くる時、自分がつらつらおもひましたるは、忌
部神社天日鷲命は、きこえぬ神じゃ、榲邨なか
つせば、今回の国幣中社格は棒になる、


などと、恨み言を書いたりしていましたが、遷座地決定後には

   この御塲所は、案外至極のやうなれども、
四年八月自分の建言に、山野の不浄に触れざる
一浄地を卜定の上、本社を造営官祭し、云〃の
本旨に基かれし由、ひそかに伺ひ奉りて思へば
あなかしこ神霊新たに御座すものにして十二年
の御辛抱の後、こゝに安坐し給ふといふ其所以
凡慮のはかり奉り難き、いはゆる神慮と申すべ
きのみ、一朝うらみ奉りし事を、しみじみ後悔
しました、


などと一転、富田浦(現二軒屋)への遷座を諸手を上げる形で歓迎しています。

現社地は勢見山(せいみやま)といい、およそ千八百年前、阿波の国が北は粟の国と
よばれ千波足尼(ちばのすくね)が国造であり、南は長の国と呼ばれ、韓背足尼
(からせのすくね)が長国造(ながのくにのみやつこ)であった頃、その境は、この
勢見山(せいみやま)であったといいますし、多くの古墳も残っています。

そう言う意味では、相応しいのかもしれませんが、ちょっと小杉榲邨の喜び様が
大げさすぎるように思えます。

もしかして、もしかしたら、あるいは太政大臣の上のお方(あえて書きません)から
勅が下った可能性もなきにしもあらずとは思ったりします。



そして、最大の疑問。
忌部神社の正蹟はどこなのか?
ここからは、あくまで「ぐーたら」の推測です。
山崎、貞光どちらも同等の証拠が挙がっているのが分っていただけたと思います。
「正慶年間中の忌部氏人の契約古文書」の事は一旦置いといてもいいでしょう。
もう一度書いときます、ここからは何の資料も証拠もありません。推測のみです。

位置関係も近く、山崎からは忌部遺跡が発掘されてますが個人的にはそれだけをもって
決定する事はできないように思えます。
つまり、どちらも正蹟であり、どちらも正蹟ではない。そうとしか思えないでしょう?
そんな事があるのでしょうか。
「あります」













いや、ここからの話は本当に後から消すかもしれませんよ。
ちょっと、ヤバイような気がしてきました。
正蹟は別にあり、二つの神社は元から摂社、もしくは末社であった場合です。
ならば、本宮はどこか?高越山?友内山?いいえ違います。

いやあ、本当はみんな知ってるんでしょ?というか感づいてるんでしょ?
自分一人今まで知らなかったんじゃないかなって思ってしまいます。
そのくらい、シンプルで合理的な結論だと思うんですが。





「太郎笈(たろうぎゅう)」です。
うわあ、書いちゃった、書いちゃった!
「太郎笈(たろうぎゅう)」すなわち「剣山」自体が本山であり本宮なのでしょう。
もしかしたら頂上の......(以下抹消)

「ぐーたら」一人の考えじゃ、誰も納得してくれないかもしれないので、もう一人
同様の意見の方を、ご紹介いたします。


 さて忌部神社は最初どこにまつられていたかというと
太郎山です。忌部の一族は太郎山を中心に栄えていたの
ですが、平家が屋島壇の浦の戦に敗れ剣山に逃げこんで
きます。おそらく平家の敗残部隊は忌部氏をたよって逃
げてきたのでしょう。現在剣山は安徳天皇をまつること
になっていますが、安徳天皇以前には天日鷲命をまつっ
ていたのです。
 のちの人は安徳天皇の剣をまつったところから太郎山
を剣山とかえたのです。
忌部の神は剣山の頂上から里分へとまつられる。東端山
の友内神社が中宮で更に里宮として貞光、山崎、川田な
どあちこちにまつられている。その里宮の勢力争いが山
崎と端山の争いになったのです。


忌部神社宮司 斎藤 貢






ここまで書いて、次回があるのかは不明です。
では。

9 件のコメント:

  1. お疲れ様でした♪
    たくさんの資料を教えていただき、とっても勉強になりました(●^o^●)♪
    私が思うには、忌部神社の争いはずっと後の事で、忌部を語ると時代はずっと古代に遡らないといけません。
    忌部が古代に阿波にやって来た時、吉野川から各支流へと分かれて入っていったと思います。
    古代を遺跡を巡っていると・・・剣山が・・・(*^_^*)♪
    古代祭祀遺跡は凄いものばかりです!!
    「阿波忌部」「麻植忌部」に続いて、今後は「美馬忌部」について明らかにしていかないといけないのではないでしょうか。
    なんて・・・思ってます♪
    たくさんの資料、プリントして勉強したいと思います♪
    ありがとうございました!!
    (●^o^●)♪

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  2. to すえドン さん
    いやあ、コメント遅くなってすいません。
    >忌部を語ると時代はずっと古代に遡らないといけません。
    同感です。どう調べても長曽我部氏の侵攻で、麻植近辺の継承が
    途絶えているような印象しか持てません。
    それともう一つ、西暦1100〜平家隆盛期から鎌倉辺りまででも
    何かが途絶えたような印象を受けます。
    麻植、貞光から剣山へ向かうルートに鍵がありそうです。

    でも、ほめてもらって嬉しいなあ。

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  3. 面白いですねえ。
    そのうち私のとこでも引用させてください。
    (消さないでね)
    それにしても、長曽我部の野郎はゆるしがたいですね。

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  4. to のらねこ さん
    引用はご自由にしてください。
    多分消しません(笑)
    最後の斎藤氏の文は書きはじめてから見つけたんです。
    すっごいタイミングで驚きました。
    >長曽我部の野郎はゆるしがたいですね。
    あのバカたれが来なけりゃ、こんな騒動も起こらなかったし、忌部氏の
    来歴も残ったままだったでしょうにね。

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  5. 電話番のフー2010年10月4日 11:55

    ぐーたらさん、こんにちは!
    とても面白かったです。おつかれさまでした。

    最後にこんなどんでん返しがあろうとは・・・
    でも、妙に納得してしまいました。
    とても勉強になりました。
    ありがとうございました。

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  6. to 電話番のフー さん
    面白かったと言ってもらえればうれしいですね。
    >最後にこんなどんでん返しがあろうとは・・・
    そうですね、で、ちょっと考えてみてください。
    剣山の頂上に忌部神社(天日鷲神社といいましょうか)があったとしたら....
    そして、のらねこさんが言うように神武天皇イコール天日鷲命だとしたら....
    それが、どこかの時点で隠されてしまったとしたら...
    いろんな事が、すっごいレベルで解決してしまうような気がしませんか?

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  7. 福岡県の早雲と申します。
    偶然ここに辿り着きました。
    本籍地が徳島県なのですが、一度も行ったこともないどころか少ない親族は誰も祖先について詳しく知らなかったので、とても興味深い話でした。
    曾祖父が神社を継がずに北九州に来た、とだけ軽く聞いたような気がします。
    勉強になりました、ありがとうございます。
    近々徳島県を訪れようかと思います。

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    1. 遅くなりすぎてしまいました。
      徳島へはぜひおいで下さいませ。
      水も空気もお待ちしております。

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  8. 初めまして。徳島在住のおっさんです。
    遅まきながらブログを初めから読ましていただいてます。
    ぐーたらさんの考察などが面白く、勉強になりました。
    これからも拝見さしていただきます。
    ありがとうございました。

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