まあ、それはともかく、最近ブログを書こうとしたら怪しい事が起こるんで、あまり書きたくないんですがねぇ(言い訳か?)。
と、まあ、書いていきましょうか。
徳島県吉野川市川島町宮島。
いわゆる善入寺島は、吉野川の河口から約30km付近にあり、広さが約500ha程もある、日本最大級の川中島。
東西約6km、南北約1.2km。
吉野川の第一期改修によって遊水池として全島買収される大正四年までは、約500戸・3000人余りが居住していた。
現在は農地のみが残り、建造物は無く、無住地となっている。
ちなみに、善入寺島はまとまった1つの村ではなく、川島町宮島・学島(がくしま)村児島(こじま)・市場町香美(かがみ)・八幡町粟島(あわしま)・大野(おおの)・伊月(いつき)・柿島(かきしま)村柿原(かきはら)・土成村郡(こおり)の一部で構成されていた。
島全体を粟島と称していたが、古くはこの地に「善入寺」という寺院があったことから内務省が善入寺島と命名した。
あるいは神代よりの歴史を持ち、最盛期には「八條宮」「浮島八幡宮」「戎社」「金毘羅宮」などの神社が建立されていた。
また弘法大師とのゆかりも深く、下写真にあるように、粟島渡しは空海が吉野川を渡る時は必ずここを通って行かれたとの伝承が残っている。
ちなみに、「粟島渡し」は吉野川南岸の乗り場で、北岸の方は「大野島渡し」となっています。(下写真)
この大野寺は現在、阿波市市場町山野上に移築されている。
簡単に紹介しておくと
寺伝によれば白鳳年間に天智天皇により大野島「御所が原」に創建された。開創当初は七堂伽藍十二の僧坊が軒を連ね、法門講義が盛大に行われたという。
当時は寺院数が少なかったので、当寺と同様の寺伝をもつ阿南市宝田町の隆禅寺(創建時の遺跡が残り、白鳳期の瓦が出土する)との間に、住職欠減の際は互いに住職が交流したと両寺の古記録にある。
創建百数十年、諸堂荒廃のため嵯峨天皇は再び勅願して七堂伽藍を修復し、寺門興隆のため14か寺(切幡寺=市場町 光福寺=秋月 妙憧寺<常慶寺>=篠原 宝憧寺=粟島本須賀 実相坊<輪蔵庵>=水田 智賢坊<大場の薬師庵>=日吉 良珍坊<薬師庵>=大野島 梵光寺<仏殿庵>=山野上 岡ノ坊=香美西岡平治社内 南泉坊円常寺<薬師庵>=香美田渕 賢貢坊永福寺=香美田渕春日社内 宮ノ坊善入寺=香美善入寺 真福寺<虚空蔵堂>=西香美 真如坊<観音庵>=尾開)を建立した。
以後国司守護の外護と庶民信仰で栄えたが文亀年間(1501-1504)吉野川の水禍のため山野上白坂(大日屋敷の名が残る)に移転した。天正年間(1573~92)、長宗我部の兵火で堂塔、仏像、経巻、古文書等を失ったが当時の住職龍意は豊臣秀吉の尊崇を受け、朝鮮の役の記念として「九頭竜王」「般若十六善神」「涅槃図」および陣羽織の寄進を受けた。その後蜂須賀家政は本堂、方丈、庫裏などを再建、寺領を寄進した。
享保年間(1716~36)讃岐白峯寺から転住した道鳳は吉野川の変遷のため現在地に本堂、庫裏を移築、また虚空蔵堂を西香美から田渕へ移転、改築した。
徳川時代は中本寺として寺門を栄え、年賀、藩主の葬儀には本行列で登城したという。また八幡の八幡神社、西岡の建布都神社など阿波川東二十数社の別当に任ぜられた。明治4(1871)年8月、阿波郡東郷学校を当寺に置き「教英校」と称したが翌年学制が敷かれると「山野上小学校」と改称し、明治13(1880)年まで続けられた。
明治21年(1888)田渕から寺内に移った虚空蔵堂は毎年1/13に露天、植木市が並び往時の盛大さはないが参詣者で賑わっている。
写真は現在の「大野寺」
下の写真中央は鎌倉時代のものと思われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
下は江戸時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(と思う(笑))
で、ここらのことはよく知りませんが、これには何故か
「天子将軍本國大守歴代尊霊」と刻まれてます。
裏には「先祖代々諸聖霊菩提....」と刻まれてますので、これは普通だと思いますが、表の「天子...云々」は何故???
まあ、余談ですのでここらは一旦スルーしておいて。では、やっとのことで本題の「浮島八幡宮」。
口碑では白鳳2年(673年)の創立とされている。
祭神は「天日鷲命」。
寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳には「麻植郡宮島村浮島八幡宮、当社は古くから忌部神社と申して来た所、天正中(1573―91年)に八幡と改め」云々と書かれている。
大正5年川島神社に合祀。
その頃祭日には善入島の川原に2艘の舟を出し、1艘には神輿、1艘には見物人を乗せて川を渡り、川原で祭の儀式を終え、氏子のお詣りがすむと舟を綱で曳いて帰る。当屋はこの屋台舟を曳く人達のため約100個の弁当を用意した。この弁当は握り飯に芋や大根を串刺しにしたとのことである。
そして、この善入寺島(粟島)には古来独特の風習があり、葬儀の際には墓を作らずに極楽壙(ごくらくこう)と呼ばれる穴に被葬者を投げ入れるというものです。
この風習については、阿波國最初の歴史書である「阿府志」に
極楽壙
在宮島八幡祠 北方六七歩、篠竹環生
この村古朴葬不要 浮屠(ふと)無 塚墓死者皆
投葬
于此
との記載があります。
また川島町史によれば
宮島八幡宮の鎮座した宮島は、八幡宮を尊崇するあまり神ノ島といわれ、神聖な土地として、死者はすべて八幡神社の西北400mくらいの地点にあった極楽壙と称する大穴に投葬して、お墓も寺僧もなく神代さながらの埋葬であったという。
とあり、その場所にいささかの相違があります。
ではこの「浮島八幡宮」と「極楽壙」どこにあったのか。
そうです、予想通り「次回へ続く」のです。
おお! 大野寺だ! 善入寺島だ!
返信削除大野寺の石造文化財については…親戚のおっちゃんが「市場町史」で専門に書いてましたね。
ここから西の、山野上城跡辺りにかけて、板碑や宝篋印塔がゴーロゴロあったそうですが…持ち去られたものも多くて、今では少なくなっています。
昔、善入寺に住んでいた人の多くは、北海道の開拓民として移住したそうですが、中には向こうでの生活に慣れなくて、故郷に戻ってくる人もいたとか。
実家の、斜向かいに住むおじいさん(100歳超えて、シルバーカーで町内を爆走する元気なおじいさんでした)が、まさにその帰還組だったそうで。
惜しいことに、一年くらい前に亡くなられたんですよね。
ご存命なら、今度の帰省の折にお話を伺いに行けたのに…。
その大野寺で聞いたお話
削除ええ、直接聞きましたよ。
この近辺に2〜300世帯あるS家。
治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦に平家方としても随行していた程の旧家。
「うちには天正頃の過去帳しか残ってないけど本家には源平合戦の時の過去帳もあるよ」などと平然と言い切るほど。
このS家の分家、岡山にある分家には、なんと壇ノ浦の戦いで失われたと云われる三種の神器の一つ「八咫鏡」が保存されているという。
壇ノ浦の戦いで敗れた平家に付いていたS家の一派は剣山へ、もう一派は海を渡って岡山方面に落ちて行ったという。
その岡山に落ちた一派は「八咫鏡」を持って逃げ、現在まで伝えているという。
数年前には、年代分析も行なったそうである。
その結果までは聞かなかったが「公表はしない」との結論が一族でまとまったそうだ。
だと言う事です。
宝篋印塔にもS家の姓が施主として刻まれてました。
ぐーたら先生。こんばんは。(ぺこり)
返信削除いや~。お久しぶりのブログアップですね。(笑)
何度も訪問(勝手にですが・・・)して、楽しみにしてるんですが、
この頃不定期的なご様子で・・・。
いきなり(2)になっていたので、ご指示どおり(1)から拝読させて
頂いております。
「八咫鏡」については、私もいろいろなお話を耳に入れてはいるのですが
どうも信憑性に欠けていたり、難しいものに関わる危険から、意図的に
「ぼんやり」させて関わらないようにしてきました。
わかったようで、わからんようなのが魅力的だったりしてね。
旧麻植郡川島町には強い関心がありますので、引き続き(2)を
楽しみに拝読させて頂きます。
S家の方の話はおもしろくて、過去帳に「◯◯天皇と共に死す」なんて記載を見た事がある、なんて.....
削除ああっ、これ以上書けないっっっっっ(笑)
どうもこんちには…。以前、邪馬台国の場所を尋ねた者です。今回は 敷島(磯城島) の言葉の意味についてお聞かせ頂きたいと思い書き込みしました。ネットなどでは具体的な事は何も解りませんでしたので、ここは阿波説研究者の方に聞くのがベターであろうと考えた次第です。
返信削除~島 という以上はやはり特定の形態の島を指す言葉なんじゃないかと思うのですが、ぐーたら様はどの様にお考えでしょうか?
うーん、阿波説についてはどの程度ご存知でしょうか?
削除基礎的なところは押さえておいていただいた方が説明しやすいんですけど。
磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、崇神天皇の都で、師木水垣宮であり、師木(しき)は河川敷、敷地、敷島などに用いられ、敷とは川の中、川辺、川口で土砂が堆積した場所のことですよね。
一般的な阿波説においては、周囲を水に囲まれていた「美馬郡半田町天皇」の地名が残る小高い丘を「師木水垣宮」に比定しています。
未熟者で申し訳ございません(笑)。実をいうとそういう阿波説の一般的な見解は知ってはいたのですが、ぐーたら様ならば何か独自の考えを持っているのではないかと思い、お尋ねしてみた所存です。わたくしも大概に天邪鬼な性格をしているようで、たとえ阿波説とはいえ通説化したものにたいしては疑念を抱かずにはいられないのです(苦笑)
返信削除そして敷島に対するわたくし独自の考えとしましては(通説とさほどには変わらないのですが)、ズバリ 中洲島(川中島)の事を指しているのではないかと思っているのです。
高所から中洲島を見下ろせば、ちょうど陸地の上に島が敷かれているかのように見えますよね。ゆえに (敷島) なんじゃないかと・・・。
まだ大した勉強はしておりませんが、こういう事に対する勘の良さが自分にはあるような気がしておりまして(阿波説に出会う前から徳島には何か大きな秘密があるような気がしていました)諸先生方や先輩方に意見する無礼をできれば大目にみていただければ…と思っております。
いえいえ、異説上等でございます。
削除ただワタクシとしても敷島については未だ纏まっておりませんので、詳しくはご提示できませんが。
ヒント 母神 伊賀色謎命
程度で。
話は変わりますが、ぐーたら様は 神武天皇の国見の歌 についてどの様に解釈されているでしょうか? のだせんいちチャンネル でも同じ質問をだいぶ前にしたのですが、未だ返信を頂けていませんので、ぜひご意見をお聞かせください。
削除神武天皇の国見の歌ですか?
削除「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ巡ろふ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてしやまむ」の歌でよろしいですか?
舒明天皇ではないんですね。
ええと… そちらの方ではなくて 蜻蛉のとなめ の方でお願いします。
削除遅くなりました。
削除どのように解釈と言われてもって、ところですけど。
「のだせんいちチャンネル」ではどんな質問をしてたんですか?
個人的には単純に神武天皇が弥生時代にあったとされる「大和湖」(もしくは古奈良湖)の形が菱形だったことを「蜻蛉の臀占」になぞらえたものと解釈してますが。
なにか他に論点があるのでしょうか?
ワタクシとしましては、この歌は高所から(中洲島)を見下ろした時の印象を語った歌だと考えているのですが…。河川が2股に分かれた後、再び閉じてゆく川の形がちょうどトンボが交尾している時の様な、いびつな形の輪形になっているのに気づいて歌われた物だと思っています。
返信削除中洲島をぐるりと取り囲んでいる二股に分かれた河川をトンボの細長い胴体に見立てて、2匹のトンボが交尾のために繋がった時にできるあの輪形になぞらえているのだと思っています。
『寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳』とは、誰が何の目的で作成したのでしょうか?幕府の命によって徳島藩が作成した『寛保改神社帳(寛保三年改神社帳)』とは違うものでしょうか?この記事のソースはどこからでしょうか?よろしくお願いいたします。
返信削除九年も前の記事ですよ。
返信削除記事のソース全ては覚えていませんが阿波学会研究紀要は入ってたと思います。
阿波国神社改帳と寛保改神社帳は同じだと思ってます。
返信ありがとうございました。
削除寛保三年改神社帳という通称があるのにわざわざ寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳と言うのはかなり不思議に思います。忌部神社の式内社論争でこれは考慮されなかったのでしょうか?不思議だらけですね、