え〜と「竹取物語」って知ってますか?(笑)
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは竹を切ってかごやざるを作って暮らしていました。
ある日のことです。いつものように竹林に行くと、光っている竹が一本ありました。切ってみると何と女の赤ん坊が入っていました。おじいさんとおばあさんには子供がなかったので「かぐや姫」と名づけて育てることにしました。それからというもの竹を切りに行く度に、おじいさんは竹の中にお金を見つけお金持ちになりました。
原文に近い形で紹介すれば
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに 使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋あ りける。怪しがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる 人、いとうつくしうてゐたり。翁、言ふやう、「我、朝ごと夕ごとに見る竹の中におは するにて、知りぬ。子となり給ふべき人なめり。」とて、手にうち入れて、家へ持ちて 来ぬ。妻の嫗に預けて養はす。うつくしきこと限りなし。いと幼ければ籠に入れて養ふ。
成立年は明らかになっていない。原本は現存せず、写本は室町時代初期の後光厳天皇の筆と伝えられる「竹取物語断簡」が最古といわれ、完本では安土桃山時代の天正20年(1592年)の奥付を有する「武藤本」が最古といわれる。しかし、10世紀の『大和物語』、『うつほ物語』や11世紀の『栄花物語』、『狭衣物語』などに『竹取物語』への言及が見られ、また『源氏物語』「絵合」巻に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」とあることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。通説は、平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半に書かれたとする。元々、口承説話として伝えられたものが『後漢書』や『白氏文集』など漢籍の影響を受けて一旦は漢文の形で完成されたが、後に平仮名で書き改められたと考えられている。 wikipediaより
藤原不比等がモデルとなった「庫持皇子」が現れている所から「平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半」というのが妥当な線でしょう。
で、万葉集 巻十六の第三七九一歌の題詞として「竹取翁」について長歌が読まれております。(下記「題詞」参照)
[題詞]昔有老翁 号曰竹取翁也 此翁季春之月登丘遠望 忽値煮羮之九箇女子也 百嬌無儔花容無止 于時娘子等呼老翁嗤曰 叔父来乎 吹此燭火也 於是翁曰唯<々> 漸T徐行著接座上 良久娘子等皆共含咲相推譲之曰 阿誰呼此翁哉尓乃竹取翁謝之曰 非慮之外偶逢神仙 迷惑之心無敢所禁 近狎之罪希贖以歌 即作歌一首[并短歌]
で、この竹取物語にでてくる「かぐや姫」これもモデルがありまして、無論いくつも説はありますが、その一つに、垂仁天皇妃である迦具夜比売(かぐやひめ)が挙げられます。
この迦具夜比売命、大筒木垂根王の娘で垂仁妃となり袁那辨王を生んだとされますが、大筒木垂根王は開化天皇の孫、その兄弟が「讃岐垂根王」、物語の「竹取の翁」こと「さぬきの造」と妙に符合してしまうんですね。
さて、ここらの関係はややこしいんですが(間違ってたら教えてね)
開化天皇の皇后は物部氏の祖である伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。
古事記では伊迦賀色許売命と書かれますが(もう書きたいこと分った?)
この伊迦賀色許売命を祀る「いかがし」の名のつく「式内社」は全国でただ一つ
川島町の伊加加志神社だけなのです。
御祭神は
伊加賀色許売命、伊加賀色許雄命、天照大御神となっております。
写真は伊加加志神社(いつの間にか行ってるのよ)
字「大明神」に鎮座しております。
古の洪水前には川島中学校近くの「伊賀々志」の地にあったそうです。
つまり何が言いたいのかといえば
迦具夜比売(かぐやひめ)は伊迦賀色許売命のひ孫。
叔父は「讃岐垂根王」。
どこに住んでたんでしょうね?
もちろん、「竹取物語」のお話の事なんで、これでどうこう言う訳じゃないんですが
ちょっと面白いでしょ。
また、迦具夜比売(かぐやひめ)を神功皇后に比定する説もあります。
で、神功皇后の名は息長帯日売とされるが、これは諡名で、実名はカグヤヒメとの説も
紹介しておきます。
ややこしいでしょ。
神功皇后は山城国にすんでいたそうですが、阿波に山城があったりするのも余談です(笑)
ま、今回は備忘録なんでこの辺りにしておきます。
だって神功皇后とか息長氏の事を書き出したらきりがないもの。
あ、もひとつ備忘録なんで
聖徳太子の祖母、即ち用明天皇の母后は、「かぐや姫」と伝承される。
ってのも書いておきます。
聖徳太子の住んでた上宮ってどこだったんだろな。
文字ばっかりで御退屈様でした。
ぐーたらさん、こんばんは!
返信削除今日は偶然にも伊加加志神社に参拝したところなんです。( ̄▽ ̄)(ニヤリ…)
まさかこんなエピソードがあったとは驚きです!
今日は伊加加志神社の場所がわからず、西にある八幡神社で地元のおばあちゃんに「伊加加志神社って知りませんか?」と聞いたが最後、20分くらい世間話に付き合わされ、なぜか長楽寺までの案内を3回ほど聞いたあと、結局知らないとの事でお礼も早々に済ませやっと自力で辿り着きました。
結果、長楽寺の横にあったんですけどね…。
そんなこんなで色んな阿波の魅力?に取り憑かれ当分、阿波の神社巡りは止められそうにありません。
それではまた。
どーでもいい話を長文ですいませんでした。m(_ _)m
to きよっさん
返信削除今回のは自分ではちょっと物足りない感じです。
大筒木垂根王から始めて奈良の讃岐神社についても書きたかったし。
(奈良の讃岐神社を竹取物語の舞台にしてることについてね(笑))
また伊迦賀色許売(いかがしこめ)の命の父親は、穂積の臣等の祖先、内色許男(うつしひこ)の命
で、伊迦賀色許売命は孝元天皇の后となったことも書きたかったのですね。
ここは伊賀々志の地で伊加加志一族が住んでいて、孝元天皇の后がおいでませることが
どういうことなのか、簡単ですよね(笑)
ぐ、ぐーたらさん、こんばんは。
返信削除アタマノナカガパニックデス!
ぐーたらさんが一休さんに無理難題のとんちをけしかける足利義満に見えてきました…。(笑)
とにかく阿波に欠史八代天皇が存在していたということ、穂積の臣の一族が川島町に存在していると言うことで簡単と言われた謎掛けの解答として勘弁してくれませんかね。(苦笑)
ギブアップ…。(´Д` )
to きよっさん
返信削除(ΦωΦ)ふふふ・・・・
(意味なし)
ぐーたらさん、こんにちは。
返信削除かぐや姫の話からでも、ぐーたらさんにかかればこうなるんですね。
大筒木垂根の王のおばあちゃんが「竹野比売」っていうのは、何も関係ないのでショか。
「竹」だけですけれども・・・(早口言葉みたい(笑))
to サクラサク4869さん
返信削除ま、要は「伊加加志神社」の事を書きたかったんですね(笑)
「開化天皇の孫に「讃岐垂根王」って人がいてその姪の「迦具夜比売命」って人が、垂仁天皇の后になってる 」
ってのも知ってたので引っ付けてはみましたが。
>大筒木垂根の王のおばあちゃんが「竹野比売」っていうのは、何も関係ないのでショか。
あるかもしれませんね。
物語なんで、どうにでも意味を持たせられますので、何かの意図があるのかも。
ご無沙汰してます。さて、私は『竹取物語』の竹取翁と記紀神話の塩土老翁(塩椎神)とは同一人物だと推定しております。その根拠として第一に挙げるのは、『日本書紀』神代巻第十段一書第一に「老翁、即ち嚢の中の玄櫛を取りて地に投げしかば、五百箇竹林に化成りぬ。因りて其の竹を取りて、大目麁籠を作りて、火火出見尊を籠の中に内れまつりて、海に投る。」とあり、塩土老翁は、たしかに竹を取っているのです。豊玉姫のもとへ花婿候補者として、彦火火出見尊(山幸彦)を送り込ませる場面です。その記事では、竹かごの舟になっていますが、『古事記』では、无間勝間之小船となっています。「勝間」とは阿波弁で櫛のことですから、隙間のない櫛状の船とは、竹イカダのような船でありましょう。塩土老翁は、なぜ、大切な賓客を自分の船で案内せず、わざわざ粗末な舟を作って、単独で豊玉姫のもとへ向かわせたのか? その時の老翁の想念を私が読み取ったところでは、「今までの五回の縁談をあの子が蹴ったのは、私がお見合い相手を連れていったからであり、政略結婚まっぴらごめん、と拒絶されてしまったのだ。だから、今回は、偶然の出会いを演出してみよう。それで自由恋愛に発展してくれたら、もうけものだ。もう、諦めかけていた世継ぎの誕生が望めるかもしれない。私も、もう歳だから、これが最後のチャンスになるかもしれない」こんな感じです。塩土老翁は、どうやら、豊玉姫の祖父に当たる人物のようです。世継ぎとなる男子がいなくて、男のひ孫の誕生を待ち望んでいるのです。豊玉姫がかぐや姫のモデルで、『竹取物語』の舞台は、徳島市国府町の井戸寺なんだと、私は言いたいのです。記紀には、五人の貴公子の話などは、一切書かれておりません。そんな話は、省略されているんですよ。「五回お見合いして、五回とも破談になりました」などと書けば、豊玉姫の不名誉になり、豊玉姫をあきらめて、別の女性と結婚し、有力氏族の始祖となっている五人の貴公子に対しても失礼でしょう。国史に綴るべき話ではないから割愛された。その割愛された説話が、紆余曲折の末、いろいろと脚色を加えられた上で『竹取物語』として世に出た、というのが私の考えです。おそらく、漢文で記された原典が紀元前の阿波に存在していたと思います。執筆者は、塩土老翁ご本人だったもしれません。それを平安時代初期に(当時としては)当世風にリメイクしたものが大好評を得た。それが現存の『竹取物語』だと思うのです。五人の貴公子の名前なんか、デタラメな創作です。物語に真実味を帯びさせるために近年の有名な物故者を想起させるような名前を勝手に使っています。「この貴公子のモデルは藤原不比等か?」などと言っている人は、そのリメイク者の思う壺にはまっています。(本当は、藤原不比等ではなくて、藤原家の始祖、天児屋根命が豊玉姫に求婚して、振られたことがあったのかもしれませんよ)「かぐや姫」という名前にしても、当時としてはよくある女名前を(仮名)として掲げただけのような気がします。本名を出したら差し障りがあるから、「少女A」としておこうか、というようなものです。奈良県内某所でリメイク版が作られたものと思いますが、奈良が『竹取物語』の本当の舞台だったわけではないのです。
返信削除話が少し脇道にそれるのですが、「お月見」という風習、女の子をできるだけ早く大人の女にするための古代中国の方術が起源になっているのではないかと思うのです。満月の夜には女の子に月光浴をさせ、月見団子などの甘いおやつを食べさせると早く初潮を迎えることができる、というような怪しげな方術が「お月見」の起源ではないかと思うのです。中国でも中秋に月餅を食べる風習がありますが、中国の月餅は、アヒル卵黄の塩漬とか、ハスの実の餡、松の実、南瓜の種、西瓜の種、胡麻などが入っており、かなり薬膳っぽい感じがします。そういう方術が方士徐福によって日本に伝えられ、やがて、その本来の方術的意義は忘れられ、単なる風流風雅の催しといての「お月見」が残った。つまり、かぐや姫は、月の者が迎えに来るのを縁側に出て待っていたのではなくて、早く月の物(月経)を迎えられるように縁側に出て、月光浴をしていた、というのが真相だと思うのです。だから、かぐや姫は、まだ初潮を迎える前の年齢で、五人の貴公子からの求婚を受けていたことになります。
方士徐福の和名が少彦名命で、そのお抱え主であったと思われる斉王田建が塩土老翁=竹取翁の正体です。今年五月に鳴門の塩釜神社と別当斎田寺に参拝した時に確信しました。田建の七代前の先祖、田和が製塩業と塩の専売で富豪となり、太公望呂尚に始まる斉の王位を簒奪した。以来、製塩業を家業とする王族なのです。司馬遷『史記』では、幽閉中に死亡と書かれている田建ですが、それは偽装死というものです。
やたらと忙しくてお返事遅くなりまして、申し訳ありません。
削除この度も興味深い説をいただきありがとうございます。
なかなか長文で読み切っていないので、迂闊に感想も書けず申し訳ありません。
確と読んでから、書かせていただきたく思います。
ただ一つ私見を申し上げれば少彦名命は天日鷲命だと考えております。