2010年9月20日月曜日

忌部神社遷座考(2)

えー、すえドンさんのチェックにおびえながら「その2」を書き進めます(笑)
享保年間の頃からの「忌部公事」の話からなんですが
この辺りは極力、さらさらっと流していきたいと思います。(先が長そうですので)
ただ、この辺りにも、ひじょーに重要なポイントがあります。
そして、あんまり詳しい説明を入れられなかったんですが、吉田神道、土御門家
白川家など朝廷や神祇家に直結するところに興味深いものがあります。
これ、もしかして(失礼な言い方をすれば)そこらの小説より面白いとおもいます。



事件は享保の末頃(1735)山崎忌部神社神主麻生家三十五代社常(たかつね)(勝太夫)
の時に始まります。
山崎忌部神社はそのころでも式内社として昔から世に知られていましたが長曽我部氏の寺社
の破壊により由緒が判らなくなった事もあり、阿波藩へ上申して、正式に忌部神社として認
めてもらいたく、山崎村惣代の人々と相談していたが、当時の川田村多那保神社神主早雲民部は
多那保神社が式内社忌部神社であると主張し、この争いは六カ年にも及びました。

藩もこの事情を知っていたにもかかわらず、この争いを無視し、一カ年が過ぎます。

正式な忌部神社として藩が認めれば、広大な社地を返還せざるを得なくなり、年貢収入が
ガタ減りになってしまうからなんですね。
今の税金徴収と同じ考え方です。

で、早雲民部は藩の家老長谷川近江の頭入(かしらいり)(藩士に納税する百姓)で主人と
従者の関係であったので当時藩の当職、山田職部は当然、早雲に加担する方向で動こうとします。

そこで村雲勝太夫(村雲社常)は密かに京都へ行き、朝廷へ願い出る方が有利と思って
元文五年(1740)十一月密かに上京しました。
そうです、この密かにというところが問題ですね。

この時神社の官領はは吉田家であったので、同家へ願い出た所、阿波国の副申がなくては
採用はできないと云われ、困っていた所、土御門家の雑掌(雑事を扱う役人)某に言うと
「土御門家へ入門して官服の免許を受けたその後、同家から官領の所へ願い出れば式社に
指定されるであろう」と、言われたので、元文五年(1740)十一月十五日、名を雅楽(うた)
と改め、土御門家へ入門しました。

ちなみに吉田神道(よしだしんとう)とは、室町時代京都吉田神社の神官吉田兼倶によって
大成された神道の一流派で、唯一神道、宗源神道とも言うそうです。
江戸期には神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたそうで勝太夫が願い出る
には適当だったのですが....
また、土御門家については、村上源氏、安倍氏、藤原北家と三家あるようですが、この時
京都梅小路にいた安倍氏が該当するようです。

そして勝太夫は京都に滞在して阿波藩の副申を待っていましたが、この村雲勝太夫の動きを
多那保神社主の早雲民部へ誰かが知らせたようです。

早雲は当然驚きます。このままでは山崎が認定されてしまう。
で、早雲は村雲勝太夫が関所破りを行って上京したと藩に訴えました。
藩は村雲勝太夫を帰国させ神職を剥奪し海部へ追放します(寛保元年二月四日)

早雲民部は山崎忌部神社外摂社、末社の神職を藩から命ぜられます。

このとき山崎村村民は協議して、村雲勝太夫の次男竹次郎に跡目を継げるよう藩に願い出
ましたが、藩は、竹次郎はまだ六歳なので十五歳になれば神主とするがそれまでは
早雲民部に神職をさせることと決定しました。
いわゆる先送りですね、六歳だろうが何だろうが跡目を継ぐのに関係ないような気がしますが。

村民は藩命に従い、檀那寺金勝寺へ預けられ、母は出里である阿波郡岩津の岩津家へ引き取られます。

村雲勝太夫が追放されて八年後の寛延二年(1749)十月二十五日頃、村雲勝太夫は密かに海部の
配所を抜け出て山崎村へ帰ります。
無論、竹次郎のことが心配だったのですね。
十一月一日海部の配所へ帰る前に忌部神社へ立ち寄ろうとしますが、その事を石本某が
知ることとなり早雲民部へ密告します。
早雲民部は息子の早雲式部を連れ拝殿で参拝をしている村雲勝太夫に暴行を加えます。
で、村雲勝太夫はこの暴行が原因で死亡するんです。

翌年(寛延三年(1750))竹次郎が十五歳となったので山崎村民は竹次郎相続の願書を
藩へ提出しましたが何の回答もなく、一年後再度願書を提出したがこれにも回答はあり
ませんでした。
先送りの効果が発揮されてます。

この頃(宝暦年中(1751~))場所は貞光村。
忌部神社の神主村雲左近が忌部神社の本宮は貞光であるとする確証となるべき神宝を
持って再びこの問題を持ち出していました。
ところが藩はこれに対して、密かに信仰してもよいが正式には公認しないと裁定しました。
山崎村の争議が関係してるかどうかは判りませんが、関係してたと見るのが妥当でしょう。
それで、本営を造営し、鳥居に弘仁五年(814)中、空海執筆の額を掲げたところ近国は
もちろん遠国まで評判となり、多数の参拝者が貞光へ入り込んで来ました。
それで藩は村雲神主と子の伊織を逮捕、入獄の上阿淡両国を父子共追放され、忌部正統の
証拠となるべき品々を没収され問題の額面は打ち砕いて川原で焼き捨てられました。
その時のご神宝は
忌部神社御神体
御鏡 御神号裏にあり
御棟札壱枚 元享元年辛酉十一月廿三日
大檀那北条相模守平朝臣高時公
右は社殿炎上の節祖先(村雲左近)宮内少輔広重と云者身命を投打炎の中より取除き末社
東山権現の社に隠し置たる者環御す
御長刀 天ノ一箇命の御作也
天日鷲命に御来臨の節御愛用の打物也。社殿炎上より百八十余年経て石塚中より出現す
御鏡 弐面 此度出現 日鷲命御子 櫛岩間戸命 豊岩間戸命 二神の御神体也
鬼面 壱面 櫛岩間戸命 御作也
其の外 小財宝数多くあるといえども記さず
宝暦四年(1754)戌◯十一月

御長刀 天ノ一箇命の御作也とありますね。
百八十余年経て石塚中より出現す、とあるので例の長曽我部氏の時失ったか、隠して
いたのが出てきたということでしょう。
この際、本物の天ノ一箇命の御作かどうかは関係ないんです。
そう伝えられる御物が出てきたという事が一つのキーになると思いますが、
この件はまた後で。


話は戻って、竹次郎は十五歳より山崎村民の子供等の手習いの教師となって神職相続の
認可を待っていましたが、五年経っても藩からの達しはありませんでした。

宝暦四年(1754)竹次郎は成人し、寺と藩の許しを得て京都へ出向く事とした。
早雲民部が未だ神職についている事と、父親が土御門家にいた事に倣ったのかもしれま
せんね。
当然早雲民部は大いに喜びますよね。竹次郎がいなくなれば己の旧悪が露呈する事も
無いですから。
氏子の家に出かけ釜祓や屋祈祷を行うようになります。
最初は村民只の一人も承諾しなかったが、早雲民部しか神事を行えないというのであれ
ば、ということで受け入れる家が増え始め百戸ほども受け入れるようになります。
そして早雲民部は、元の川田村多那保「権現」の社を京都白川家の許しを得て種穂忌部神社
と改め、自らも早雲より中川と氏を改めた。

白川家は、皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元
単に伯家ともいいます。
当時の勢力は吉田神道に圧されてました。


また、山崎忌部神社に残っていた神鏡を種穂忌部神社に持ち帰り、仮にと置いてあった
御霊代をも種穂忌部神社の神殿に納め、あろうことか山崎忌部神社に火をつけ焼いて
しまうという暴挙に出る。

山崎村の氏子たちは怒り早雲民部改め中川民部の神職剥奪と竹次郎の復職を願い出るが
藩は忌部社はすでに種穂と定まったこととして、取り合わなかった。

山崎村民は神の祟りがあるだろうと噂したが、豈図らんや気が触れる者が多数出、村内を
走り回る姿が見られた。

ここ、非常に象徴的ですね。

宝暦四年(1754)竹次郎は名を麻生織之進と改めていた。
天明三年(1783)中川民部が神事を行うたびに、奇妙な事が起こるので、村民氏子一同が
藩に訴えたがこの時も何の達しも無かった。
翌年(天明四年)再度の追願に藩は、中川民部の神主の職はそのままにするが中川民部には
身を慎むよう訓告を与えるとしたが、村民は納得しなかった。

この後に竹次郎こと麻生織之進が一時帰村した時に村民が訴えた事などを話したが、麻生
織之進は既に京都で仕官しているので、との回答であった。
ただ、中川民部が神職を退けば連絡を請うとの事であった。
その時には戻ろうと思ってたんでしょう。
天明四年(1782)の飢饉、天明六年(1784)の洪水が起こり、これは祟りであるとの噂
でしたが、天明の飢饉は全国的なものだったので、祟りとは関係ないんでしょうが、村民
はそんな事、知る由もないですよね。
この頃、神職が中川民部から息子の中川式部に変わっていたが、怪事は度々起こり、山崎
村民は毎年出訴を続けていたが、藩は取り合わず村民は寛政七年(1795)箱訴(藩主への
直訴)に及んだ。
この時藩の神社係、妹尾勘佐衛門が来村し、村民からの顛末書の提出により事実を確認
したが、その後1年経っても裁可無く、箱訴を行った惣代六名が投獄されたのみでした。
獄中で死者も出たようです。

そして、寛政十三年(1801)郡奉行の稲田武七郎、手代の三木名七が惣代と面談し、中川
式部を神主と認めれば山崎村忌部神社を旧態造営し朝廷へも奏上する旨の調停案を示しま
したが惣代らは当然納得しませんよね。
当事者が当職に付いたままですものね。
郡奉行は引き下がります。

その後、郡奉行より中川式部廃職の申し付けがあり、忌部公事は一応の解決を見る。
後、文政九年(1826)二宮佐渡が山崎村の神主として迎えられた。
先の郡奉行、稲田武七郎は一年毎に隣村の神職を雇い、祭祀を行うようにとの、達しを
出していたが、その通りに行われていたかは不明である。

こんな所ですが、大体合ってるでしょ?
小さいところは勘弁してもらって、流れはこんな感じかなと思うんですが
違ってたら指摘してください。
すぐに、ごめんなさいって言います、懺悔でもなんでもします(うわぁ、弱気)

でも、考えるに当時の藩は、いわゆる民事に介入しない事で寺社勢力を奪おうとしている
事が見え見えですね。
で、致命的なミスが無ければ次回に進みます。

10 件のコメント:

  1. 素晴らしいです\(^o^)/
    続きを楽しみにしております♪
    山崎忌部神社は旧山瀬、種穂忌部神社は旧川田、合併して頭をとって山川町となりましたが、その頃の争いが目に見えないのですが、何か引きずっているような山川町の特徴が・・・。
    麻植郡・・・吉野川市はまとまりが・・・
    勉強になりました(●^o^●)♪

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  2. こんなに詳しく読んだのは初めてです。
    おっしゃるように小説さながらですね。
    現代小説の材料にも使えそうです。

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  3. 電話番のフー2010年9月21日 16:56

    なるほどーーと、唸りながら読ませていただきました。
    とても勉強になります。次回が楽しみです♪

    でも・・・
    きれいごとかもしれませんが・・・・
    神職に就いている方同士でこんな争いがあるのは、
    悲しいことです。

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  4. to すえドン さん
    いやあ、ありがとうございます。これで今晩は眠れそうです(笑)
    >続きを楽しみにしております♪
    やはり、眠れないかもしれません(笑)
    町村の関係って見えないところでいろいろありますよね。
    経緯を知らないと、とんでもない事になるような場合が多々ありそうで
    それが往古からとなると、誰も知らないのに争ってるなんてことになっちゃいますね。
    最近の中◯との事件だって......
    いやいや、ヤバいかな。

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  5. to のらねこ さん
    持ってる資料は全部出しますので、一本小説を書いてくださいませ。
    ミリオンセラーになって印税ががっぽり入ったら、その時はよろしく(笑)

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  6. to 電話番のフー さん
    書いてる人間も唸ってます(笑)意味が違うって?
    以降に書く明治期の話もそうですが、すえドンさんも言うように藩や政府に
    仕組まれた感はあるように思います。
    またしばらく唸りますのでお付き合いください。

    (小さな声で)ここだけの話ですが、最後の最後に◯△◇●.................
    ああっ、みんなが聞き耳立ててるぅ

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  7. 先生、(純粋に)質問です。

    >早雲民部は弟の早雲式部を連れ
    >この頃、神職が中川民部から息子の中川式部に変わっていたが

    式部は民部の弟なんですか?息子なんですか?
    同名なんですか?

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  8. to のらねこ さん
    失礼しました、息子です。
    やっぱ、間違いが....
    もう一度見直します(とほほ)

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  9. 実は、父方の祖母が中川なんですよ。
    うちも早雲の血を引いて・・・、ウソで~す。
    徳島に中川なんて掃いて捨てるほどいますからね。

    しかし、「なかがわ」とは「ながかわ」と同じで、漢字で書くと「中川」「長川」と全然違うように見えますが、つまり「長」「那珂」「那賀」の「川」なんです。

    早雲家が「なか」「なが」を名乗ったことに興味があります。

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  10. to のらねこ さん
    >早雲家が「なか」「なが」を名乗ったことに興味があります。
    そうですね、早雲を捨てる理由と中川に変える理由が分かりません。
    ここにも、何かがあったと見るべきでしょう。
    ところで、おいしいラーメン喰いたいですね。

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