忘れておりました。
なんでも、本体よりおまけの方がうれしいのが普通ですよね。
あとで、おまけが「つまんねー」なんて言われても知りません。
前回までの記事をご覧でない方は
忌部神社遷座考(1)
忌部神社遷座考(5)
忌部神社遷座考(6)
をご覧ください。おまけは、出せなかった資料とか文章を出しときます。
実は今回ちょっと手を広げすぎて、何がなんだか分らなくなってしまいました。
(家ではいつも訳の分からないおっさんと言われてますが、それはさておき)
まず、伯家神道(白川神道)が面白い!
天皇の祭祀を明治まで800年間司ってきたと言われます。
「御鏡御拝」の行法とか「十種神宝御法(とくさのかんだからごほう)」とか
天皇に伝えるべき行法が残されているそうです。
戦時中、伯家の門人が終戦まで軍に幽閉されていたという話もあるそうです。
太政官布告関係は何かと面白く、これも調べだすとキリがなさそうです。
ひとつだけ画像を出しておきますと
国幣中社に下賜される費用の内訳です。
神官1年分の月給として1056円とありますよね。年収でしょう。
明治8年の平均的な月収が1円70銭という数字もあるそうです。
わざわざ高松の宮司が出張って来るはずだと思いませんか。
ちょっと断念してしまいました。
阿波学会研究紀要にも下記文書が発表されていて、この辺りもヒントになるかな?
なんて思ってたんですが。
せっかくですので、ちょっと引用しておきます。
種野山荘 本荘は麻植郡木屋平村,美郷村川田山などのいわゆる麻植郡の山分一帯の地を
占め,剣山(1955.9メートル)の高峻な山間にある広大な地域を占めている。
単に種野山ともいい,また麻殖山ともいった。
三木氏などの阿波忌部氏の神孫が居住し,歴代大嘗祭に荒妙貢進の由緒ある家柄が居住
するところで正元2年(1260年)正月11日の文書,
宛行 柿平四郎大夫守貞領所
右件領所,東にかすりたに,きたハすくたに,下はたけせをかきりて,せんれいのことくあてたふところ也
一□しかの山のひきちの事,西のハ大くほのをさかうて,ひきちをさかうへき物也
自今以後不可有他人妨状如件
正元二年正月十一日 正意在判
この文書を筆頭に実に四十五篇の古文書[19]は,名の研究,名の産業経済,南北争乱に
おける南朝尊奉,阿波忌部氏人の「惣」による横の連絡,大嘗祭荒妙進貢等貴重な文献
である。ことに嘉暦2年3月8日の「□□阿波国種野山在家員数同御年貢御公事」には
種野山の名の数があげられ,大浦名・河井名・三ツ木名・カシ原名・上別司名・下別司名・
東山名・気多名などの名があり,今も地名として残り,その地域が想像せられる。
また、古墳関係からも手をつけようとしてみたんですが、これがまた強烈なんで
覗いた程度で手がつけられませんでした。
これも資料としてはいろいろあるんですが、上と同様に「阿波学会研究紀要」の
資料を一部引用します。
忌部氏は前記の如く、この地方の機織集団の在地首長であり、このような在地首長の
支配する部民は、首長の命ぜられる徭役労働に従事させられた。この地方に残る大古墳
もこれらの部民の徭役によって築造されたものである。
それ故にこそ、この大古墳が出来たのである。阿波忌部は6世紀初頭から農具の鉄器化
に伴ってU字型のクワ、スキが曲刃の鉄鎌となり、それが普及し始めると、乾田経営が
拡まり、さらに吉野川流域の土壌的環境に恵まれ農業の発展を契機に、この地域に群集墳
の成立を見るようになった。たとえば段の塚穴を中心とするその周辺、山崎の忌部山古墳
などがそれである。
この古墳の築造者こそ忌部部族のものであろう。
忌部氏は古事記には「五伴緒」、日本書紀には「五部神」として現われる。物部や
忌部は古代豪族である。それにくらべて佐伯部は志田淳一氏の説によると「佐伯部とは
声を発する呪術を行なう集団である」と佐伯部の性格について述べられている。
したがって、この地方の古墳は佐伯部集団の古墳と見るより、忌部集団の古墳と見るのが
妥当性が強いと考えるものである。
あとは、実際に行ってみた所ですかね。
ブログには書きませんでしたが、これを調べだしてから、剣山、山崎の忌部神社
高越山、その他いろいろ行ってみました。
山崎の忌部神社です。
ここは、裏山の辺りもかなり回ってみたんですが、さすがに土地勘がないんで
よく解りませんでした。(情けない)
高越大権現です。
神仏習合と修験道の関係も面白そうなんですが....
高越神社です。よく言われるようにさびれてました。
これがねえ、二軒屋の忌部神社の裏山で見かけた、石組みだか、単なる崖の一部だか
分んない場所です。
明らかな石組みもいっぱいありました。
と、言う訳で脈絡も無くいろいろ出してしまいましたが、集めるだけ集めて
内容もろくに見ていないのが、まだ山積みになっていて、散らかし放題なので
嫁さんに怒られてしまいました。
片付けが済むまでは、肩身が狭いのです。







