2018年9月17日月曜日

倭の神坐す地(8)

長らく間が空いてしまいました。
皆様方、こう言いたいのでしょうが押さえてくださいませ。



倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
の続きです。
長らく間が空いてしまいましたので、少々前回の復習を



都佐国造
志賀ノ高穴穂ノ朝ノ御代。長ノ阿比古ノ同祖三島ノ溝杭ノ命ノ九世ノ孫小立ノ足尼定テ賜フ國造
粟國造
軽島豊明御世。高皇産霊尊九世ノ孫千波足尼定賜フ國造。
長國造
志賀ノ高穴穂朝ノ御世。観松彦色止命ノ九世孫韓背足尼ヲ定賜フ國造。

つまり

三島溝杭 ーーー  都佐国造 小立の足尼(九世孫)
          長の阿比古(同祖)
観松彦色止命 ーー 長國造 韓背足尼(九世孫)

このことより、三島溝杭耳の名は「観松彦色止」で、長ノ阿比古の名は「韓背足尼」との結論となっているわけです。
さらに、論を進めれば初代の波多國造は「天韓襲命(あめのからそのみこと)」であるのですが


※乙巳の変によって国郡制が定められる前には、現在の高知県西部に『波多国』が存在していた。しかし、律令制が布かれると、波多国は都佐国と合併されて土佐国とされた。

太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年によれば「天韓襲命(あめのからそのみこと)」は事代主の末裔(下画像はwikipediaより)であるので

これも含めて考えれば

長阿比古=三島溝杭の後裔=韓背足尼=長公=積羽八重事代主命の後裔
三島溝杭耳=観松彦色止
天韓襲命=観松彦色止の後裔=事代主の後裔

ムチャややこしいですけど、よーく見てください。
上記より三島溝杭と韓背足尼の祖神の事代主神(観松彦色止)とは同神ということになりませんか?
つまりは

三島溝杭=観松彦色止=事代主神

なのではないでしょうか。
何度も言ってたように「ある時期の」事代主神ですよ。
(注)これは一説であり確定した論ではありません。いわゆる「異論上等」であります(笑)

写真は、徳島県佐那河内村御間都比古色止命を祀る、御間都比古神社(みまつひこじんじゃ)

ちなみに


上図、全国の「溝杭」姓の分布を調査したところ徳島県が最も多いという結果が出ておりますが、これは意味深でしょう。

では、「もし仮に」、三島溝杭が「観松彦色止」であり「事代主神」であったならば、どういうことになるのでしょうか?

まず「三島」はよく言われるように「三島」一族のこと。新撰姓氏集でも、三島氏は確認できます。
「溝杭」は、よく「溝 (池や川) をつくる者」といわれますが、個人的には違うと思います。

つまり「三島溝杭耳」を言い表すならば「三島」一族の「溝杭」
1.三島溝杭(三嶋溝咋)は「鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)」であり、「玉櫛媛」の父であります。
2.「玉櫛媛」は大物主神の妃であり、神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母であります。

ただし、事代主神は三島溝杭命の娘の玉串姫を八尋鰐に化身して娶り、その子が神武天皇の妻である「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)であるので事代主神と三島溝杭が同神であってはおかしいはずなのです。

これについて考えられることとして、注意すべきは「三島溝杭耳」なのか「三島溝杭」なのか?
「耳」は族長の意味でありますので、この呼称が着くと付かないとでは意味が違うように思えます。
また、「三島溝杭」についても個人を表すのではなく、役職を表すように思えます。
そうでなければ「三島溝杭耳」と呼ばれる理由がないでしょう。
ちなみに「ミミ」のつく神名

古代史俯瞰 by tokyoblogより引用させていただきました。

つまりは、「三島溝杭」は一族、「三島溝杭耳」は首長であると言いたいのです。
これも一つの考え方としてね(笑)
では「三島」とは何なのでしょうか?

タイトルの「倭の神坐す地」から少々離れてしまった感がありますが、ここからが正念場、今が胸突き八丁だと自覚しております。
ちょっと短くて申し訳ありませんが、次回はそうお待たせしないつもりです。


続く


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