2017年6月5日月曜日

天日桂神社(上)

「在村国学者・儒学者の阿波古代史研究についての史学的研究」

明治二年に徳島藩のもとに小杉榲邨(すぎおみ)などが中心となって
「阿波国風土記編輯御用掛」が設置され、阿波の歴史と地誌の大規模
な編纂が企てられたが、同五年の廃藩とともに廃止された。
この編輯掛には多田をふくむ多くの国学者・儒学者が出仕していた。

このメンバーを風土記編輯御用掛」と呼びました。




今分かっているメンバーは下の一覧。

風土記編輯御用掛  長久館出仕          松浦 宗作
末九月松浦氏へ同勤  士族五人御扶持
               常三島       渡辺 圓
               同         八木 正典
               御弓町       郡 一郎平
               佐古 椎宮下神職  生島 瑞穂
 南分右同惣而士族御用取扱  板野郡坂東村神職  永井 五十槻
 郷学所ヘ出ルニ付除ク    阿波郡尾開村士族  四宮 哲夫
               同郡香美村神職   浦上 美澤
               美馬郡上野村神職  二宮 香取
               三好郡盡間村神職  近藤 忠直
               麻植郡山崎村郡付卒 久富 永治郎
               名西郡諏訪村神職  多田 義高
 明治四年末七月二十三日   名東郡早渕村郡付卒 後藤 麻之丈
               勝浦郡小松島浦   八木 佳七
               那賀郡吉井村    服部 友三郎
               同郡大京原村    高石 延吉
               海部郡郡奥浦    桂  弥平
               同郡牟岐浦神職   榊  枝直
 従事セヌウチニ転      同郡同浦神職    阿部 三豊
 ジタラシキニ付除ク
                     徳島  小杉 榲郎
                 名東 新居 正氏ヲ脱セルカ
「ふるさと阿波」より

小杉榲邨氏については「小杉 榲郎」となっています。

また「阿波国書誌解説」より

松浦 宗作
仲之町(八百屋町)の人。字は長年、野口年長の門人 国学家、明治十年十月歿。年六八
著書 「土御門院御陵考註」「神輿幽考」「阿波国御風土記」

渡辺 円
徳島市助任村六百三十五番屋敷、士族渡辺六郎長男、文政二年三月二十五日生 神職
明治三十四年二月二十五日歿

生島 瑞穂
庄附近の人 矢三 八坂神社、三島神社の神職 著書「忌部神社者略」瑞穂は繁高と
同一人か。

永井 五十槻
名は精浦、精古の孫、天保七年一月十七日生、大麻比古神社神主、忌部神社主典、
桧愛宕神社社掌、大正二年四月八日歿、年八七(大森絹栄氏報)

四宮 哲夫
初名 哲之助 文政十年二月十九日生、名は利貞 金谷と号す 儒者
晩年失明す、明治二十三年二月七日歿、年六四

浦上 美澤
名は和延 天保九年九月二十三日生、近藤忠直と共に「阿波郡風土記」を遍す。
明治二十三年二月七日歿 年六四

近藤忠直
文政五年十二月二十日生、国学家 明治十二年高知県出 史誌編纂掛り
宝国小志(郡村誌)三好郡之部。井成谷、井川、池田、馬路、白地 各村誌を著す。
明治三十一年五月二十日歿。

久富永字治朗
山崎にこの姓の人なし、知る人なし(吉尾十代一氏報)年七七

多田 直清
兵部近江上浦の人「村邑見聞言上記」(名西、麻植)を著す。
明治九年十二月六日歿、義高は直清と同一人物か。

後藤 麻之丈
尚豊、明治五年二月まで編纂、名東 勝浦据任
大正三年十月九日歿、年七六

八木 佳七
名は直元、俳人、五日庵其家 日野八坂神社神職
明治十三年一月歿、年七〇

服部 友三郎
庄屋で寺子屋の師匠、明治四年里長 明治十三年一月歿
年七〇(佐々忠兵衛氏報)

高石 延吉
絶家 墓所不明(中西長水報)

桂  弥七(弥平?)
文化十一年三月十日、木岐浦若山家の三男に生まれ奥浦村桂家に入った。
明治の初 高知県安芸郡に出稼中死亡した。月日年令不明(元木喜好氏報)

この名面により編纂されようとしていた「阿波国(続)風土記」。


その最終巻のさらに最後に近い中、下図の文書が記載されておりました。

「麻植郡麻植塚村舊跡傳」




麻植塚村ト称スルハ天ノ日鷲ノ命ノ御陵アルガ故ノ名ナリ
其ノ處ハ麻植郡麻植塚村ト云
麻植塚ノ御陵アルヲ以テ知ルベシ
古老ノ傳ニハ上古御塚 神(カウ)ノ山ノ麓ニアリシガ
川水ノ為ニ潰毀セシユエ今ノ所エ移奉ルト云
.
.
麻植塚
コノ御陵ノ南ニ當ツテ麻植塚前ノ同處ト地ノ字ニ残レリ
コノ御陵ノ後ロハ一面ノ大藪ナリシヲ中古、開墾シテ
民地トナレリシ天正十九年御検地ノ御帳ニモ麻植塚前
同地トアリ
神ノ山北面麻植ノ古宮ノ地字ヲ堂床ト云此神中北五社神
ト云神体五ツアリ此宮ノ後ニヲカダマノ木ト云テ萬葉集
ニ見エタル木アリ享和年間新宮ウツスト云

そして、私たちは、ここ「向麻山(神(カウ)ノ山)の麓に一つの小さな小さな祠があることを知ることになるのです。





その小さな祠の社名は「天日桂神社」。

そして、その御祭神は「天日鷲命」「黒高大明神」であることを知るのです。


(下)に 続く。

8 件のコメント:

  1. きよっさん。2017年6月6日 16:56

    あ~あ、阿波国続風土記のデータ欲しいなあ~。あ~あ。
    どこかに落ちてないかなあ~。あ~あ。(ぐーたら氏のいる方角を遠い目で見ながらつぶやく独り言です。)

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    1. だ〜か〜ら〜パソコンあるのかって聞いたのにぃ〜。
      準備するから、ちょっと待っててくさい、あ〜くさ(笑)

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  2. きよっさん。2017年6月7日 8:51

    ☆^v(*^∇')乂('∇^*)v^☆ヤッタネ!!
    アザース。楽しみにしておきます。(*^0゚)v ィエーイ☆彡

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  3. 師匠、いつも色々と・くどくどとすいませんm(u_u)m 最後の写真ですが・・・僕が現地で視た時には「天日鷲命若宮 黒高大明神」と読めたんですけど?黒高大明神についての師匠の見解についてご教示お願いします。何代目かの天日鷲命の後裔にでもいらっしゃったら一人納得するんですが(笑)

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    1. いくつか、考え方があると思うんですが
      1.天日鷲命の幼名
      2.天日鷲命の後裔(ただし、嫡出ではない)
      3.忌部のトーテムとしての種類(あるいは階位)
      ここから見える先のどこかが、何代目かの天日鷲命の御陵であると想定した場合、幼少時の天日鷲命が祖先を祀った場所である、と考えます。
      いわゆる要拝所です。
      なので、個人的には「1.天日鷲命の幼名」です。

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    2. 返信ありがとうございます。なるほど、説得力ありますねぇ。「若宮」というのは見えませんでしたか?御子だとしたら、師匠の仰る通り1.で間違いないかと考えます。
      師匠には、御陵の場所も想定済なんではないですか(笑)
      m(u_u)m

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    3. 「若宮」はありましたかねえ?
      まあ、あってもなくても上の考え方に変わりはないですけど(笑
      御陵の場所は想定してますけど、掘るわけにいかないですしネ。

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  4. そうですね、了解いたしました(^_^)ゞ

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