続いては「飛鳥資料館」など詣でて、いや見学してまいります。
「亀石」のレプリカなども鎮座ましましております。
非常にいい資料館なんですが中の写真とかは出せませんので(というか撮れなかった)。
まあ、せっかく飛鳥に来たんですから、ここで「倭京問題」でも持ち出しておきましょう。
「倭京」という聞きなれない言葉は「日本書紀」中に7回程出現しています。
「天智天皇」と「天武天皇」の部分です。
壬申の乱のあたりですね。
1.白雉四年「孝徳紀」
是歳(ことし)、太子(ひつぎのみこ 天智。中大兄皇子)奏請(まう)して曰(もう)さく
「冀(ねが)はくは倭京に遷(うつ)らむ」とまうす。天皇(孝徳)、許したまはず。
2.天智六年(667年)
八月(はつき)に皇太子(ひつぎのみこ 天智。中大兄)、倭京に幸(いでま)す。
3.天武元年(672年)五月
或いは人有りて奏して曰さく「近江京(あふみのみやこ)より倭京に至るまでに
處處に候(うかみ)を置けり。亦菟道(うぢ)の守橋者(はしもり)に命せて
皇太弟(まうけのきみ 天武。大海人皇子)の宮(みや)の舎人(とねり)の
私粮(わたくしのくらひもの)運ぶ事を遮(た)へしむ」とまうす。
4.天武元年(672年)六月
(大友皇子が)穂積臣百足(ほずみのおみももたり)弟五百枝(おとといほえ)
物部首日向(もののべのおびとひむか)を以て、倭京に遣す。
5.6.天武元年(672年)七月
是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂(うみつみちのいくさのきみのおみあへまろ)等
倭京の将軍大伴連吹負の近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分(くば)りて
置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣して、千余騎(ちあまりのうまいくさ)を率(ゐ)て
急(すみやかに)に倭京に馳せしむ。
7.天武元年(672年)九月
(天武は)庚子(かのえねのひ 12日)に、倭京に詣(いた)りて
嶋宮に御(おはしま)す。
(しまのみや 一般的には明日香村島の庄にあった離宮と言われる)
変だと思いませんか?
「倭京」とはいったいどこなんでしょうか?
藤原京以前に「京」はなかったはずなんですが。
飛鳥は「飛鳥宮」であくまで天皇の座す「宮」であり官僚や住民を含む「○○京」ではないんですね。
むろん「倭京」を「やまとのみやこ」と読んで「大和」のあったので「倭京」だと解釈する向きも
分からなくはないですが、単に「やまとのみやこ」じゃどこだか不明ですよね。
現に天武元年五月の段で「近江京より倭京に至るまでに」とあるので、「近江京」はその名を
書かれ、「倭京」が「やまとのみやこ」ではおかしいですね。
また、「日本書紀」中に「倭京」の言葉が出てくるのは白雉四年(653年)年以降ですが
「孝徳紀」に「倭京」を定めた旨の記載はありません。
そして天武元年以後、日本書紀に記載が現れないのもおかしなところです。
「日本書紀」の編纂は養老四年(720年)であり、「大和の京」である平城京で作られています。
平城京は「倭京」なんて呼ばれてませんよね。
それがなんで「倭京」って書かれなくてはならないんでしょうか。
つまり「倭京」は「大和」にはなかったのです。
では、「倭京」はどこか?
誰も信じないので詳しくは書きませんが(笑)
いや違う、まだまとまってないんです。
が、最初の元号である「大化」の次の元号「白雉(はくち)」と同じ呼び方の地がそうではないかと
考えてます。
そこには「倭」の名を持つ神社があり、後に築かれた城は四国一の要害であります。
(あ、いかん四国って書いちゃった)
ここまで書けば、じゃあ「壬申の乱」はどこだったんだなんて話につながっていきますので
今日は(京は)このあたりで。
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