2011年4月30日土曜日

椎宮八幡神社のツツジ

暖かいというか、暑いくらいの一日でした。
徳島市南佐古七番町の椎宮八幡神社のツツジがそろそろ見頃かな、ということで
行って参りました。
まあ、徳島市内の方は「あえて」椎宮八幡神社へ行こうとする方も珍しいんじゃ
ないですか?

場所はここ。

より大きな地図で 椎宮八幡神社 を表示

御祭神 品陀別命、木花咲耶姫命
応神天皇とは書かれておりません。

寛文年間(1661~73)名東郡矢三村(古八幡)より当地へ遷座と伝わる。
境内入口の大鳥居は弘化四年(1874)の銘があり、藍商たちの奉納になるもので
もと椎宮の馬場口にあったが国道拡張工事で昭和38年現在地へ移建された。
徳島県神社誌より

中腹から見た馬場口までの参道ですが、この道が国道192号線と交わる辺りに
大鳥居があったとうちの親が申しておりました。
下の地図にマークを付けてみましたが全長500メートルを超す門前町らしい
参道があったようです。
(さすがにその頃の事は知らんもんね)
この佐古の地名でありますが、古くは水際であった事より、狭い場所である
狭(さこ)から佐古となった事はご存知の通りです。
古くは以乃山(渭ノ山、猪山)と呼ばれ、山際に沿って旧跡が点在している
事もご存知とは思いますが。
余談ですが「よしこの」の「以乃山通れば石ばかり」というはやし詞は非常に
意味深ですよね。


より大きな地図で 椎宮八幡神社 を表示

そこらはさておき、神社駐車場に車を置いて表参道からではなく裏山から登って
いきますと、ここらのツツジはほぼ満開でした。
結構登りがいのある坂道ですが、花など愛でながら登っていけば苦しさなんて
苦しさなんて、苦しさなんて・・・
「く、苦しい・・・」
いやいや、そんな事はございません。
でも、表参道側の小道はまだ七分咲きぐらいでしたかね。
今度の三連休あたりが見頃じゃないですか。
さて、見るもの見たら次は・・・
じゃなくて、見るべき所は多々ございまして、わたくしめも非常に参考にさせて
いただきました「古語拾遺新註(こごしゅういしんちゅう)」の著者である
江戸時代の国学者 池辺 真榛(いけべ まおり)大先生の碑とか

徳島藩士、国学者。池辺光友の長子として生まれる。安政6年、藩主蜂須賀斉裕に
召されて江戸に行き、政道の諮詢に答えたが、他に任用を妨害され、空しく帰郷。
文久元年、南佐古町の某家に寄寓して著述に従事し、また志士と交わって国事を
談じた。
3年春、小杉榲邨とともに藩政を非議した罪で、7ヶ月余藩邸に幽閉。
9月8日、急病のため歿した。

毒殺されたなんて噂もあるようですが、ここではさておき。
境内社である「中嶋神社」
由緒を見ますと天日槍命の五世の子孫であり「菓子の祖神」となっている
田道間守命(たじまもりのみこと)が祀られております。
一般的には兵庫県豊岡市の「中嶋神社」の分霊と思うでしょうけど、この「中嶋神社」
の創立が推古天皇の御宇ならば、兵庫県豊岡市の「中嶋神社」と同時期であることと
養蚕の神ともされている事、また天日槍命からの系図を考えると・・・
今日はもういいかな。せっかくツツジ見に来たのにね。
で、最後に元社である「古宮八幡神社」の画像を。
場所はここ。徳島市矢三町高見229
行ってみるような物好きな人は少ないと思いますが、車では行けません。
駐車する場所がありません。大分手前に置いて歩くしかないです。

より大きな地図で 古宮八幡神社 を表示

樹齢千年の楠木がある、とされていますが、もちろんもうありません。
あれば県指定記念物になってます。
なぜ、ここから遷座されたかは分りません。
(というか、まだ調べてません。すんませんね)
でも、この町中の寂れた神社が「古宮八幡神社」の名の通り「本物」で
ある事は間違いありません。
実は、この神社よく知ってるんです。その昔は夏祭りの時などすっごく賑わってて
浪花節の弁士なんかも呼んでました。
今から45年くらい前までは。
何で知ってるかは内緒です(笑)

ですので、椎宮八幡神社のツツジを見に行くのなら5月の3、4、5日か7、8日
くらいがちょうどいいですよ、というお話でございました。

2011年4月23日土曜日

仮面

平成23年4月21日付けの徳島新聞にこんな記事が出ていました。
「矢野遺跡の土製仮面県指定有形文化財へ」


徳島県教委は20日、徳島市国府町矢野の矢野遺跡から見つかった国内最古級の土製仮面を県有形文化財に指定することを決めた。332件目の県指定文化財で考古資料としては17件目。
 土製仮面は1996年度の調査で出土。直径16センチほどのややいびつな円盤形で、両目と口は穴を開け、眉と鼻は粘土を帯状に張り付けて表現している。顔面全体に化粧をしたような、丸い管の先端を押し付けた文様がある。
 土製仮面はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は矢野遺跡が最西端に位置する。同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、土製仮面は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
 県教委は21日から板野町の県立埋蔵文化財総合センターで土製仮面を特別公開する。
徳島新聞Webより



と言う訳で(どういう)行って参りました、板野町の県立埋蔵文化財総合センター。
場所はここ。

より大きな地図で 県立埋蔵文化財総合センター を表示

生憎、午前中は雨模様でもあり、館内はがら空き。
別室で勾玉作成講座をやってたくらいで他に人影は無し。
ゆっくり見られていいんだけどねぇ。
早速ですがこれが「土製仮面」、下の色が違ってる部分は復元のために後から
付け足した部分。丸い管を押し付けたような跡がある部分が出土品です。

出土場所の地図は下。ちなみにワタクシの家から自転車で5分かからないくらい。


より大きな地図で 土面出土場所 を表示

ご参考までに矢野古墳近辺の古墳分布図を出しておきます。
県内の人には今さらでしょうが、凄まじい古墳の分布でしょ。
この地域に数百もの古墳が眠っています、さらにはその大半が発掘調査されていません。
埋蔵文化財総合センターの方が「ここ掘れワンワンなんですよ」と誰かが言ってたような
事をおっしゃってましたので、心の中で笑ってしまいました。

















で、徳島新聞Webにもありましたように
「土製仮面はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は矢野遺跡が最西端に位置する。」

下は出土分布図
徳島から北東方向へ分布しています。
中国、九州地方からはまだ出土していません。
無論、今後の発掘調査で発見される可能性はあります。
さらには、この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたります。
貝製仮面は5000年前の物が九州からも発見されているようですが、土製のモノは
これが最古級だそうです。
ちなみにもう少し時代が下がると上の写真のような、大分精巧な作りの仮面となります。

さらに下図の「土製仮面の使われた時期と地域の偏り」を見ると、今の状況では
四国東部から発生し近畿、中部、東北方面へと伝播していったことが明確です。
用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に
使われたと考えるのが妥当でしょう。
仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」と
ありますように入墨(文身)を表したものでしょう。

上の図はマオリ族の文身の例です、イメージとして出してみました。

で、余談にはなるんですがこの「黥面文身」神武天皇の頃にはまだあったようでして
神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが
古事記に記載されています。
比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)が大久米命(おおくめのみこと)の
黥利目(目の入墨)を見て驚き
「あめつつ ちどりましとと など黥ける利目」
(なんと、千鳥みたいな目ですね。なぜ目に入墨をいれてるの?)」
と歌いかけています。
この場合の目の入れ墨とは目の下に線を引くような形の入れ墨だと思われます。
実際にそのような仮面が出土しています。
それに対して大久米命は、
「媛女に 直に会はむと 我が黥ける利目」
(貴女に直接お会いして、(よく見極める為に)私の目は入墨を入れて(大きくして)
あるのですよ)
と返答しています。
ですので、珍しかったには違いないでしょうが、この頃まで「黥面文身」を行って
いたのは間違い無さそうです。
大久米命が歯の浮くような台詞を言ってるのはさておいて(笑)


ちょっと余談で話がまとまらなくなってきました(笑)

つまりは

矢野遺跡から出土した日本最古の「黥面文身」土製仮面。
きちんと書けていませんが、石井町の久米一族伝承。
大久米命の「黥面文身」(無論「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神)

これらを併せ、何かを想像する徳島県人は少なくない、と考える夜更けでございます。
でも、こんな発掘記事も全国紙には載らないんだよな。


2011年4月16日土曜日

命の水

それにしても原発も被災地の救援も全く進まない。誰が悪いんだ?
原発推進学者が次々懺悔 「国民に深く陳謝する」
陳謝されてもなぁ・・・謝るべき人間は別の人でしょう。
それと、復興支援については、こういう風にやれば?
南相馬の町工場、浄水器を大量受注 オマーンの取引先が支援


という訳で(どういう?)
名東郡佐那河内村「仏現山徳円寺」に行ってきました。


石楠花の寺として知られる徳円寺の境内、特に前面の断崖、峭壁(俗に壁ヶ嶽という)に自生する石楠花は、樹齢120年を越えるものも多く、数百本に及ぶ老樹や幼木をとりまぜて、開花時は実に比類稀なる壮観な景色で、浄土院寺院にふさわしい極楽浄土の景観を呈する。
寺院は嵯峨川の上流海抜700mの高さにあり、最近は村の産業と観光を兼ねた道路開発により、大川原高原=杖立峠=徳円寺=嵯峨峡のルートの中で、名勝として脚光を浴びている。開花時(5月上旬)には、特に大勢の観光客で賑わいをみせている。
この寺院は、江戸時代の後期である文政(1818~29)年間に、徳円上人が開基したことによる。上人は文化13年(1816)阿波に流下、鳴門の飛鳥阿南市伊島のそとば嶽、美馬郡高越山の天狗嶽で別修行勤業ののち、後嵯峨の地に入り壁ヶ嶽に諸仏の示現を感得した。そして、不思議の奇瑞(めでたいことの前兆としての現象)にうたれ、この地を終焉の場所と定めたといわれている。
文政7年(1824)信者が協力して寺院を建立し、仏現山徳円寺となった。

佐那河内村ホームページより

場所はここなんですが、嵯峨天一神社からまっすぐ走ってあとは看板をみつけながら
進むと着きます(うわっ、いいかげん)徳島市からだと40分ぐらいは充分かかります。
ちょっと距離は伸びますが、大川原高原へ行く道の方が走りやすいかもしれません。



より大きな地図で 徳円寺 を表示

で、石楠花(しゃくなげ)が咲いてるかなと期待してたんですが、ちょっと早すぎたようで、5月初旬から中旬ぐらいが盛りのようです。
広い駐車場に車を置いて歩いていきます。
なんか雰囲気が高越寺の駐車場からの参道に似てません?(ここだけですけど)
これが駐車場から見た風景です。「壁ケ岳」「杖立山」を望みます。
佐那河内は行きたい場所がてんこもりなんですが、まだ少ししか廻れておりません。
あそこも、あそこも、あの場所もまだなんです。
石楠花(しゃくなげ)はまだぜーんぜん咲く気配もなかったでございます。
で、徳円寺の境内へ。
開祖、徳円上人宝塔
阿弥陀堂でございます。
由来記には、徳円上人は鳴門、阿南市伊島、山川町高越山などで、遭難した人々を
弔う為の勤行衆生救済のための祈願を一心に続け人々の尊崇を集め、佐那河内嵯峨谷
奥の壁ヶ嶽に登った際に諸仏の顕現を見それに良縁を感じ当地を終焉(縁)の地と
定めた、とあります。
高越寺参道に似てるのはあえて似てる地を選んだのかな、なんて思ってしまいます。

今回のもう一つの目的がこれ、「命の水」です。
わたくしめの性格の悪さが直るように、いただきに参りました(うーむ)
下にありますように、天保年間不治の悪病が流行した際に、徳円上人が祈願水で、村民が
顔や手足を洗うと病が治った事から、命の水と名付けられたそうです。
これはぜひとも不治の悪病に罹った政界の方々に使っていただきたいものです。

一応ここは浄土宗の寺院となっておりますが、ちょっと怪しげな祠なども見受けられます。
また、巨石の前に観音菩薩、普門示現三十三体が。
普門示現って 法華経「観世音菩薩普門品第二十五」に出てくるんですよね。
仏教には疎いんでよく分らないんですが、浄土宗で法華経の普門示現を祀って
いいんですかね?
この巨石が怪しい?ここは巨石ばっかなんです。
今度は石楠花が満開の頃に来たいんですが、大体タイミングを逸してしまうんです(笑)
ま、水は汲みにくるかもしれませんが。
それとも別の何かを調べに、ってか?


古人無復洛城東        古人また洛城の東に無し
今人還対落花風        今人還(かえ)って対す落花の風
年年歳歳花相似        年年歳歳花あい似たり
歳歳年年人不同        歳歳年年人同じからず

唐詩選

2011年4月11日月曜日

さくら(おまけ)

もったいないから書くのはやめよかな、と思ってたんですが。
桜のシーズンも昨日ぐらいまでで終わったようですので書いときます(笑)
来年まで憶えてたら行ってみてください(笑笑笑)
どうです。桜のトンネルが続くこの道は。
穴場と言えば穴場ですけど、近所の人はみんな知ってます。

より大きな地図で 農業大学校 を表示

ちょっと葉桜、そして風が少しあり、花びらが舞い散り、すっごい風景でした。
一人マスクしてて全然風流じゃない。


両人対酌山花開
一杯一杯復一杯
我酔欲眠卿且去
明朝有意抱琴来

李白「山中与幽人対酌」

気分は「一杯一杯復一杯」

2011年4月9日土曜日

さくら

神山森林公園の「さくら祭」に行ってきました。
「こんな時だから、花見 陸前高田で被災者らが計画」
という、話もありますのでご容赦を。

場所はここ。

より大きな地図で 神山森林公園 を表示

公園に向かう登り坂を進んでいくと桜のトンネルのような景色が続きます。

昼前ぐらいまでは、いわゆる「花曇り」だったのですが次第に晴れてきて
気温も上がってきました。
で、そこそこの人出です。
多すぎるのも嫌ですが、あんまり少ないのも雰囲気でませんので、ちょうどいい
くらいですか。
駐車場も待たずに置けましたし。
売店がちょっと寂しいけど、出てるだけましかな。
ほぼ満開。あと1、2日でしょう。
種類によっては葉桜になってるのも大分ありました。
枝垂れ桜もビューティフルです。
公園内の巨大木蓮の木から大きな花びらがぼたぼたと。
木蓮ももう終わりです。
ね、満開でしょ。
一人だったら東龍王神社を廻ってくる予定だったのですが、なかなかうまく行きません。

でも、満開の花の下、桜の花びらが舞い落ちる中にいるのは、何か現実味が無い不思議な
感じがします。


森山直太朗氏が以前(被災前)、宮城県仙台市第三女子高等学校で「さくら」を歌った
時の動画を張っておきます。

東北地方の方々が、再びこのような卒業式が迎えられるようになる事を祈って。




ぼくらはきっと待ってる
君とまた会える日々を
桜並木のみちの上で
手を振り叫ぶよ

どんなに苦しい時も
君は笑っているから
くじけそうになりかけても
頑張れる気がしたよ
かすみゆく景色の中に
あの日の歌が聞こえる

さくら さくら 今咲きほこる
刹那に散るゆくさだめと知って
さらば友よ 旅立ちのとき
変わらないその想いを 今


今なら言えるだろうか
偽りのない言葉
輝ける君の未来を
願うほんとの言葉
移りゆく街はまるで
僕らをせかすように

さくら さくら ただ舞い落ちる
いつか生まれ変わる時を信じ
泣くな友よ 惜別のとき
飾らないあの笑顔で さあ

さくら さくら いざ舞い上がれ
とわにさんざめく光を浴びて
さらば友よ またこの場所で会おう
さくら舞い散るみちの
さくら舞い散るみちの上で

2011年4月7日木曜日

天水

いきなりですが阿波の穴吹川です。
国土交通省の一級河川水質ランキングにおいて14年連続四国一の座を保ち
四万十川をも凌駕する清流と言われています。
夏の行楽シーズンには、あまりきれいじゃないという話もありますが。
また、徳島市の水道水は市販のミネラルウォーター並の水質を保ってるそうですし
吉野川のおかげで給水制限など被った記憶もありません。
で、最近は寺社にお参りする度に、おやじっぽく水など汲んでくる訳です。
車には空のペットボトルを積んで行きます。

例えば「瑞厳寺」に行けば下の写真のように「風翔水」をいただいてくるのです。
瑞厳寺庭園に豊かな水量で流れております。眉山水系の恵みです。

場所は下の地図
COD(化学的酸素要求量)が0.1ppmという極めてきれいな水がいただけます。
最近はTOC基準が主流じゃないか?なんて言われても困りますが。


より大きな地図で 瑞厳寺 を表示

続いては佐古の椎宮神社の裏手「快神社(こころよしじんじゃ)」前の「青龍水」
今回は神社の解説はなし。
水が汲みやすいようにパイプまで置いていただいてあります。
車も止めやすいです。水量が少なめなので汲み終わるまでにちょっとかかります。
場所は下の地図。


より大きな地図で 快神社 を表示

そしてもう一つ、神山町阿野の山際から涌き出す「阿野の天然水」
水量は豊かで景色もいいとこなんですが車が止めにくい。
地図は下、マークは適当(失礼)
個人的には、ここの水「むちゃくちゃおいしい!」
コーヒーを入れたら最高。


より大きな地図で 阿野の天然水 を表示


最後に、場所がはっきりしなかったので地図は載せないけど高越山へいく途中にある
「天狗の湧水」行った時はちょっと水量が少なかったです。
その他にもいろいろ水をいただいてきた所がありますが、どこもCODは0.3ppm
を越える所はないのです。
こんな水をいただき放題でいいのでしょうか
というか
「徳島県人、特に徳島市民は水を大切にしない!」
「おいしい水を飲んでる事を自覚してない!」
親戚が神戸にいるのですが、そこへ行った時に飲んだ水道水、愕然としました。
「なんじゃこりゃ」です。
家族に上記の天然水を飲ませてみても「?」「別に」の返事です。
水道水のレベルが高いんです。
だから、有り難みさが分らない。
被災地のことを出すと、嫌みっぽくなるので言いませんが、こんな水をふんだんに
使える事に本当に感謝したいものです。

2011年4月2日土曜日

最近古代の日本人について考えた事

どうも原発事故が一向に収拾に向かわないので心配で仕方ありません。
米軍の核対処要員の3分の一を投入とかフランスの原発企業の全面的な支援を
受けなければならない状況って、危機的状況だからじゃないんですか?
誰か本当の事を言ってくださいよ。IAEAの避難勧告も拒否したようですしね。
心配は心配なんですが、それで引きこもってるのもつまらないですよね。

ところで(何が)
神社の話から始まって、古事記や日本書紀、風土記や伝承、口伝などを調べていて
最近なんとなく思う事があり、とりとめもなく書いてみようと思います。
収拾つかなくなったらごめんなさい。

仏教の伝来って言うのは、一般的には552年説と538年説があるようでして

『日本書紀』では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。

「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」においては、欽明天皇の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられた。

などとWikipediaなどにもありますし、教科書にもその線で記載されているようです。
でも実際には少人数での海外からの渡航は行われていたはずですし、何らかの形で
仏教僧も渡航してきていたはずです。

例えば西国三十三所の一番「那智山青岸渡寺」(下写真)

の由緒などを見てみますと

仁徳帝(313~399)の御代に印度より裸形上人が(釈尊入滅後882年頃)一行六人と共に熊野浦に漂着し、熊野の各地を巡歴し那智大滝に於て観世音を感得し今の堂の地に庵りを造り、其後推古帝の時に(593~629)大和より生仏と云える聖が来て、玉椿の大木に如意輪観世音彫刻し、前の観世音を胸に納められたと寺伝されている。

などとあります。
いきなり通説より二百年も遡ってしまいます。しかもインドから漂着!
インドからって信用できませんよね。普通は。
でも出雲の伝承に
「祖先は毒蛇と象の住む地より移ってきた」
という口伝があるのをご存知ですか?
無論口伝ですので検証する術は全くございません。
まあ、文章になっていたとしても同じ事ですけどね。

また、最近こんな本を買ったんですが
長宗我部元親の末弟である親房から十七代目の当主の方が書かれてます。
が、本をめくれば、
長宗我部元親系図ですが、いきなり秦始皇帝から始まっております。
本書によれば長宗我部元親は公文書等には「長宗我部宮内少輔秦元親」
(ちょうそがべくないのしょうはたのもとちか)
と書かれているそうです。
よく言われているように(こんな話をしてる人の間ではですよ)
長宗我部氏の祖先は秦氏であり、その祖先は秦始皇帝から孝武王、功満王
弓月王と続く系図にあると言うのです。
これは江戸時代の儒学者「谷秦山(たにじんざん)」著の「土佐遺語」です。
上記のような由来が書かれているようです。

『三代実録』巻五十にも
仁和三年(八八七)七月十七日戊子◆十七日戊子。左京人従五位下行采女正時原宿祢春風、賜朝臣姓。春風自言。先祖出自秦始皇十一世孫功満王也。
とあります。
さて、どう思いますか?

要は日本人と言うのはあらゆる民族の寄せ集めではないかと言う事なのです。
「そんなことはとっくに分ってる」って言う方もいらっしゃるでしょうが
実際にインドとか秦とかの固有名詞がでてくると、また感覚が違うでしょ。
また、朝鮮半島や北方の大陸、あるいはヨーロッパや西アジアからの渡航者も
いたかもしれません。秦の始皇帝は紅毛碧眼だったという説もあります。
黒潮に乗って南方からやってきたかもしれません。
いわゆる南方系のハイヌウェレ型神話が多く残っています。

なにしろ数万年前、日本と大陸は陸続きだったのですから。
「日本湖」が「日本海」となったのは最近なのです。
北からも南からも自由に出入りできます。孤島ではなかったのです。
結果、日本人はあらゆる人種の混血となったのでしょう。
だからよく言われるように
「日本人のルーツは◯◯◯だ」とか
「日本語の起源は◯◯◯語だ」とかいう論議は成り立たないのです。
へたくそな図にしてみましたが。
例えばゲルマン系の民族や言語はこういう流れになると思います。
大本となる民族や言語があってそれが変化していったと。
古ゲルマン語があって、ドイツ語、フランス語、イタリア語などに分かれて
いったのです。
それに対して日本は、
これまたへたくそな図ですが分っていただけると思います。
元となる民族や言語はなく、あらゆる人種や言語を吸収して今の形へとなって
いったのです。
だからどこにどんな人種の末裔がいたっておかしくない。
たとえユダヤ人の系統があったとしても納得できるでしょう。
ただし、よく言われる、◯◯◯人種が日本人のルーツだなどという言い方は
絶対に成立しないと思います。

あらあら、「青岸渡寺」のインド人から始まって何の結論も出ないまま
遠い所までやってきてしまいました。
テレビの「なくもんか」を見ながら書き出したんですが、終わって2時間経っても
出来上がりませんでした。

これ以上書いても、支離滅裂な文章が続くだけなので、このあたりにしておきます。
やっぱり収拾つかなくなっちゃいました。
ま、最近ちょっと頭に浮かんでた事を書き出してみたと言う事で。

それにしても今頃「大連立」ってか?