2011年3月6日日曜日

允恭天皇神社

何の検証も考証も全くできてない状態ですが、とにかく報告いたします。

大麻津間若子宿禰(おあさづまわくごすくね)一般的には
雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)と呼ばれる
明治期の阿波名勝案内にも記載のある(原典未確認)
允恭天皇を全国で唯一社のみお祀りしていたといわれる允恭天皇神社でございます。

場所は鳴門市大津町大代で「大代」は「大城」のことだそうです。

より大きな地図で 允恭天皇神社 を表示

「道は阿波より始まる」には勝福寺西側の小高い岡に鳥居のみ残されているとの
記述がありましたが、確かに鳥居はあります。
そして、石段を上ると
神殿と忠霊塔があるじゃないですか。えっ?
近づけば「天皇神社」「護穀神社」とあります。
場所はここに間違いないはず。念のため丘の周辺を相当時間をかけて歩き回って
みましたが、どう考えても「ここ」のはず。
で、失礼ながら神殿内を覗くと。
「天皇(大津賀)神社修繕」とあり、昭和五十六年十一月吉日だそうです。
うーん、変だなぁ。
で、さらに
縁起?がありましたが、御祭神は土御門院天皇とあります。
でも、地元の人には非常に失礼で申し訳ないのですが、この由緒書き、由緒になってない。
クリックし、拡大して読んでみてください。土御門院天皇の説明のみで、この神社の
由緒というべき事柄が全く書かれていない。あまつさえ、最後には阿波神社の由緒が
書かれているという。なんですかこれは?
だって、土御門院天皇ならば阿波神社横に土御門天皇火葬塚があり、祀られるならば
そちらだと思うんですが。
下は阿波神社。
土御門天皇火葬塚
位置関係は近いので、土御門天皇をお祀りしてもおかしくはないんですが
やっぱり変だと思います。
言いたくないけど言ってしまいます。
「社名、御祭神が変えられている」
「あえて」なのか由緒が分らなくなっているのか?
そこらはなんとも言えません。
が、ここは「允恭天皇神社」であると、ワタクシは確信しております。
(違ってたら誰か言ってね)

また、傍証として允恭天皇が崩御されたとき新羅より弔問の使者が来たとの記載を
どこかで見て(ちょっと怪しいけど)
先に「小宰相局の墓」で書きかけた「新羅神社」(しんらじんじゃ)と関係あり
そうなので調べようかなと思ってたんですが、まだ手を付けられてません。
写真は2枚とも「新羅神社」

なので、こんな状態で書くのも気が引けたのですけど、耳元で書け書けとささやく
お方がおりましたので今回書いてみました。
また、もう少し詳しい事が分れば、都度、書いていきますので今回はこの程度で
ご容赦を。



13 件のコメント:

  1. さっそく、ありがとうございます。
    地図を見ると、大津賀神社というのがもう一社、南に方に見えますね。
    気になります。
    古墳のあった場所が小学校のあたりといいますが、痕跡はなかったですか?
    自分で行けって?
    はい、そのうち行ってきます。

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  2. 米田共おきなじゃ。2011年3月7日 9:09

    ぐーたら先生。おはようございます。じゃ。(ぺこりじゃ)
    最近、行方を眩ませておるとおもえば、鳴門界隈に出没しておられるご様子じゃな。
    それでは爺がヒントを与えるとしよう。
    そもそも大城(大代・おおしろ)という地名は、部族をあらわしとるんじゃ。「しろ(白・代・城)・しら(新羅)」じゃ。
    沖縄に大城姓が多く見受けられるが、部族を表しておる。

    大津は、じつは「乙(おつ・おーつ)」。そう。甲・乙・丙の乙じゃ。
    乙姫さまは大津の姫になるわけじゃな。
    この場所はまちがいない。貴殿の指摘されとる19代?允恭天皇のご陵なのじゃ。
    阿波の歴史は不思議だらけじゃな。阿波ごと封印されとるような被害妄想にもふけるのは、どうもワシだけじゃなさそうでのう。ふぁ・はっ・はっ。
    ワシか?米田の共爺じゃ。
    鳴門の話しにナルト(しょうもない)、時々じゃまするので勘弁じゃ。(別に荒らしじゃないよってのう。友情出演じゃ)

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  3. to のらねこ さん
    急いで書いたので、説明もナーンにも無しの、ぐだぐだの文章に
    なってしまいました(涙)
    これじゃ、知らない人には全然分りませんよね。(反省)
    大津賀神社は「気付きませんでした」(はい、すいません)
    でも、上の写真を撮ってる時は「大津賀」→「大塚」でやっぱり
    陵(みささぎ)なのかなぁ、なんて考えてはいたんですが。
    下のなんとかさんの言によればちょっと違うようですね(笑)
    ところで、例によって、この辺りも道がむちゃくちゃ狭いので注意
    してくださいませ。

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  4. to 米田共おきなじゃ。 さん
    うわっ!Yahooから、こんなところまで米田共おきな様が攻めてこられるとは。
    >最近、行方を眩ませておるとおもえば
    行方を眩ませているつもりではございませんが、巷ではそういう風にいわれる
    様でございます。
    にしても、おきな様に「まちがいない」とのお墨付きをいただき、安堵して
    おります。
    てっきり、新手のいやがらせで、次は街宣カーで押し寄せられたらどうしよう
    かと一瞬心配してしまいました。
    で、この神社に付いては、由緒を失ってしまったか、のらねこ先生の言にある
    大津賀神社と混同してしまったように思えます。ここの場合については隠し
    ているのではなく、忘れ去ったのではないでしょうか。
    ただ、明治以降に本殿が無くなってしまったのは、何らかの意図を感じて
    しまいます。
    今後とも「ほどほどに」おいで下さいませ(笑)

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  5. 私は、ヤマトの国に生まれ育ったわけですが、実は鳴門の血も引いているんですよ。

    ひいおばあちゃんの旦那が、鳴門の鈴木さんといいます。
    別れてこちらに出戻りました。
    鳴門の鈴木って野郎は、とんでもない男だったんでしょうな。

    そういうわけで、鳴門の秘密も他人ごとではないんですね。

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  6. 面白いなあ、まずいなあ。
    来週の四国突入計画が揺るがされるなあ。
    嫁さん同道の”純観光旅行”と釘を刺されているので、
    徳島某所方面へは残念ながら迂回出来ないけれど、
    この土御門火葬塚/阿波神社は高松自動車道を間違えて下りれば、
    リカバリーでの通り道になるなあ。
    崇道天皇陵の参拝だけは許可が下りているので、
    それと混ぜてしまえばごまかせるかなあ...

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  7. to のらねこ さん
    これこれ、鳴門の鈴木さんを皆悪者にしちゃいけないんでは。
    まあ、鳴門に鈴木さんの知り合いはいませんので、いいんですけどね(笑)

    それを言い出せば、うちんくだって、ひいじいさんの頃は市場だったようで
    なにやら、ドロドロした話があったように聞いております。
    ですので、行ってみたい所はあっても、市場方面は足が向きにくいのです。

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  8. to 猫の兄弟 さん

    そっすねぇ。鳴門インターで「あっ降りてしまった」って叫んで

    次の板野インターまで「しゃあないなあ、下道で次のインターまで」

    などと呟きながら走れば県道12号線沿いに阿波神社がよく目に付く
    
場所にございます(笑)
    
意図は丸見えでしょうが。

    
さらには一番札所の「霊山寺」延喜式名神大社の「大麻比古神社」も
    
ございますが、そこまでは奥様の辛抱は持ちますまい。

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  9. グータラさん、脚本まで有難うございます。
    元々、板野ICからは徳島自動車道の藍住ICへと
    乗り換える積りだったので、
    一つ手前なら何とか誤魔化しは効きそうです。
    道すがら「一番札所」の勢いに気づいた振りして
    折角だからと霊山寺も、これも何とかなる??
    しかし大麻比古は方向も何も、無理があります。
    でも、寺へ入ると長いからなあ(汗汗汗)

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  10. to 猫の兄弟 さん
    失礼しました。板野インターで乗るんじゃなくて藍住インターでしたね。
    カンチガイです。
    大麻比古神社は霊山寺から車ならほんの数分です(うわあ、そそのかしてるよ)
    よころで、阿波神社はちょっと特殊な神社でして、一応、御祭神は土御門天皇となっておりますが知る人の間では「空位」の神社とされております。
    数々の御陵を廻られた猫さんなら分ると思いますが、お参りしてみれば明らかで、社殿の立派な造りに比して、これほど寒々とした神社も珍しいのではないかと思います。
    戦時中に何らかの意図を持って築造され、空位のまま今に至っているようです。ま、ご参考までに。

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  11. 米田共おきな。2011年3月11日 8:31

    ぐーたら先生。おはようございます。じゃ。(ぺこり・・よいしょ)
    ふ~む。「山田」という地名は、いつも謎解きの中にでてきよるのう。
    大体、この天皇は、気の毒な方なのじゃ。
    そもそも、「大麻津間若子宿禰」の「宿禰」からもご理解頂けるかとおもうが、差別を受ける理由があったのじゃろうのう。
    実は、すぐ西の山は「馬越」。「若子」はもともと「まこ」もしくは「もこ」と読んだはずじゃ。云いたいのは、馬越=若子だということじゃ。
    父は「木満致」じゃった。だから新羅から人がきたんじゃのう。いずれにしても、ここらは「伊都國」じゃったでのう。伊都が「板」に変わり、板西・板東となごりをのこすのみじゃ。いずれにしても、ふる~いとちなんじゃのう。(笑)

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  12. その昔…参道の中間付近に大きな塚が在ったそうです。

    今でも、そこを掘ると大きな岩倉があるそうです。

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    1. それはすごい証言ですね。
      誰か掘ってみないんですかね(笑)

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