2021年12月5日日曜日

「ヤマトタケル」って誰?(7)

「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)
「ヤマトタケル」って誰?(3)
「ヤマトタケル」って誰?(4)
「ヤマトタケル」って誰?(5)
「ヤマトタケル」って誰?(6)

倭姫命
倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「倭姫命」、『古事記』では「倭比売命」と表記される。

第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命。垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされ(現在の伊勢神宮)、斎宮の伝説上の起源とされる人物である。
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第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。

後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に草薙剣を与えている。伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女と位置づけられ、これが制度化されて後の斎宮となった。
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さて、この「倭姫命」に関する伝承が、かの「上一宮大粟神社」にあることをご存知でしょうか。

大宜都比売命は、伊勢国丹生の郷より阿波国に来られ、国土を経営し、この地一帯に粟を蒔き広めたという。
その時、大宜都比売命とともに降臨したのが下の八柱の神である。
これが「上一宮大粟神社」の「正統記」に記されております。

その八柱の神々の中に「倭姫命」はいた。
阿波國において「倭姫命」を祀る神社は。
まず、徳島市国府町にあったとされる「伊勢姨ノ宮(いせおばのみや)」

古地図にその存在が記されている。


「伊勢姨ノ宮」から一山越したところには「甥」にあたる「倭健命」を祀る「白鳥宮」。



神山側においては「倭姫命」を祀るのは「白桃 妙見神社(上角八幡神社に合祀)」。ここが斎宮だとのことです。



「甥」の「倭健命」を祀るのは「出雲神社」こと「城山神社」

下の地図が国府町の「倭姫命」と「倭健命」の関係図。星印がそれ。

これが、神山の「倭姫命」と「倭健命」の配置。

どちらもほぼ東西に位置し片方は丘の上、片方は平地にあるのも同じ。

ここで重要なのは神山「上一宮大粟神社」に「大宜都比売命」が降臨した際に伴神として「倭姫命」と「倭健命」がいたと言うことと、「正統記」においては「伊勢」から赴いたということ。
説明では「伊勢」は「伊勢神宮」のある伊勢だとのこと。

さて、ここで恐縮ではありますが、この件について師匠の弁を引用させていただきたい。
誰かって?これは知ってる人は知ってます。なので、あえて名前は出しません。

伊勢国は、神武朝に天日別命が平定した国、と伊勢国風土記逸文にある。
国號は、そのとき従わなかった土地の首長であった伊勢津彦の名に因むという。
これは逆だろうと私は思う。(逸文には他の国號由来もあり不確かな伝承といえる)
古事記を見ればわかるように、この時代は、地名や人名に関して「その名が起こったあとに、それ以前の出来事や人名に当てはめて伝承する」法則がある。
例えば、古事記では、長髄彦を「登美の那賀須泥毘古」「登美毘古」と記すが、この「登美」は長髄彦が死に「長」邑が平定されたあと、平定に貢献した金鵄に因んで名付けられた邑の別名である。
天日別命に追われて土地を引き渡した首長を、国號を伊勢としたあとで「かつてその地を治めていた人物」という意味で伊勢津彦と呼んだのだろう。
この天日別命は天日鷲命のことという説があるが、別人とも言われる。天日別命は、式内社伊勢国桑名郡中臣神社の御祭神であり、中臣と忌部が結びつかないというわけである。
しかし、私が昔指摘したように、金鵄の活躍で平定され故「ナカ」邑に「トビ(トミ)」邑の別称が生まれ、これが「ナカトミ」の名の起こりである。
ナカトミの名の生みの親が「金鵄」=「賀茂建角身命」=「天日鷲命」であるから、伊勢国の「ナカトミ神」が天日別命であることは原初のナカトミ由来を証明するようなものである。
ただし、天日「別」であるから、この人物は天日鷲命の子か孫世代だろう。
こののちに伊勢国から分離して「伊賀国」が生まれた。
この国號は、その地を治めていた「吾娥津媛命(アガツヒメ)」の名に由来する。
第一音の「ア」「イ」異音同義法則がここにもあり、「アガツヒメ」が「伊賀津姫(イガツヒメ)」と発音されたことによる。
この吾娥津媛命は、猿田彦大神の娘である。
伊賀国に式内社阿波神社(御祭神猿田彦神)が鎮座するのは、吾娥津媛命をはじめとする後裔一族が奉斎したと見るべきである。
猿田彦は、天日鷲命の子「大麻比古」であり「八重事代主命」であるから、吾娥津媛は神武天皇皇后伊須気余理比売と同世代である。
天日別命が天日鷲命の子であれば、事代主命と同世代、孫であれば、神武天皇と同世代になる。
つまり、天富命が房総を開拓をし阿波(後に安房国)を築いた。
事代主命と天津羽羽命の後衛が伊豆諸島と伊豆半島の一部を開拓をし賀茂邑(後に伊豆国)を築いた。
同じ流れで、天日別命や事代主命の後裔が伊勢・伊賀国を築いたと見える。
大宜都比売神は八重事代主神の后神であられるから、伊賀津姫は大宜都比売神の娘である可能性すらあり、後裔が祖神を祀るのが神道の原理であることから見ても、大宜都比売神が「伊勢から神山に降臨した」という伝承は、それが事実だとしても「故郷への神の里帰り」である。

と、「伊勢」から「神山」への降臨について、こうおっしゃっております。
完璧な「理」であります。
で、ワタクシはさらに言いたい。もっと幼稚な理屈でありますが。

「倭姫命」が伴神であるならば「伊勢神宮」はいつ造ったの?

「倭姫命世記」によれば、「倭姫命」は垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったのであらせられましょう。


ならば、古事記に記される「大宜都比売命」と神山に降臨できるわけがないでしょう。

どやぁ、完璧な屁理屈でしょう。

これは、神学上の「大宜都比売命」と「上一宮大粟神社 正統記」に記される「大宜都比売命」は異なった神であらせられるという「踏み絵」なのですよ。

そう考えるならば、「この件」について一つの節を提示することはできます。
が、本題から離れてしまいますので、これは別考といたします。
(ヒントだけ書いておくと「倭国大乱」「三国史記」「天照大神」)

支離滅裂な文章ですが、これいわば私信ですのでご容赦ください。
(こうやって敵を増やすんだよな)

話を戻して(笑)二行で書けば。

神山には「倭健命」が「大宜都比売命」とともに降臨したという伝承が残っている。
さらには「倭姫命」も随行していた。

という記事でございました。
続く

2 件のコメント:

  1. 師匠!待ちわびました。昨日、木沢の倭武3社に少し触れました。倭姫命は1人ではないのでしょうか?まぁ、倭・武も倭・姫も普通名詞っぽいですもんね。このテーマも長編となってきました、続きをひたすら待っております。

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    1. 伊勢神宮に天照大神を祀った倭姫命と「上一宮大粟神社 正統記」に記される倭姫命は同一だと考えています。
      理由はまた別の機会にね。

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