2016年5月17日火曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(2)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
より続きます。

では、「阿波女社宮主祖系」画像が出せないので、内容を転記してみます。
縦横逆になるのは勘弁してください


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阿波女神社 宮主祖系

若室神     葦稲葉神ナルベシ 今若宮是シ
天磐門主神
健豊神
健忍方神
多久理彦神
八倉主神
宇賀主神
畠多神    千波足尼ナルベシ

佐人
賀由彦
於志翁
屋那男
岩肩彦
豊長彦
里利夫
與理彦
田茂理
豊茂理
豊成
兼諸
絰宗
忠成
忠宗
宗長
宗信
宗國
宗廣
宗堅
宗親
宗昌
宗時
宗行
宗成
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以上となっております。
知ってる人にとっては、いきなりインパクト強い内容だと思います(笑)


確認しておきたい点は3点と前回も書きました。

1. 古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼(ちはのすくね)が国造を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司った。
2. 神祖より三十四世國造家宗成に至って小笠原長宗に横奪せられ長宗が一宮氏を冒して祭官に任せられたこと。
3. 「阿波女社宮主祖系」と題されている、祭官たりし國造家三十四代世の人名を記した書が一宮神社に伝わっていること。

項目1の「応神天皇の御代に千波足尼(ちはのすくね)が国造を拝命し」
先代旧事本紀の国造本紀部分を確認いたしませう。
出典は国史体系より

粟國造。
軽島豊明御世。高皇産霊尊九世孫千波足尼定賜國造。

とあり、軽島豊明御世で応神天皇13年の時であります。
これがいつ頃かを特定いたしましょう。
日本書紀の応神天皇紀は、好太王碑文や三国史記と比べて120年遡っていることは有名です。
例えば「百済本紀」阿辛王(あしんおう:「しん」は、くさがんむりに「辛」)の記載は

腆支王 或云直支 梁書名映 阿辛之元子 阿辛在位第三年 立爲太子 六年 出質於倭國 十四年 王薨 王仲弟訓解攝政 以待太子還國
(倭国に人質だった王子(腆支王)は阿辛王の死により、帰国することになった)
の記載があり

日本書紀の
十六年春二月 王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁 莫不通達 所謂王仁者 是書首等之始祖也 ◎是歳 百濟阿花王薨 天皇召直支王謂之曰 汝返於國以嗣位 仍且賜東韓之地而遣之 【東韓者 甘羅城・高難城・爾林城是也】

の部分に相対します。
これから見れば応神天皇16年は阿辛王の亡くなった年、西暦では405年に当たることが確認できるのです。
つまり、千波足尼(ちはのすくね)が国造を拝命したのは応神天皇13年なので、西暦では402年ということになります。

阿波女神社 宮主祖系では
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若室神     葦稲葉神ナルベシ 今若宮是シ
天磐門主神
健豊神
健忍方神
多久理彦神
八倉主神
宇賀主神
畠多神    千波足尼ナルベシ
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ですので、暫定的に天皇在位を計算する場合、よくあるように平均在位20年で計算してみると葦稲葉神こと若室神の存在時期は西暦260年頃、阿波女神は西暦240年頃となってしまいます。
そっか、西暦240年頃かぁ(笑)
ってのは、一旦横に置いておきます。

文字ばっかりなんで、ちょっと休憩

そして次葉を確認すると、これがショック。
小笠原長宗からはいいとしても、その前に「前系略之」
 ホントなら「古」一宮氏や「上山城」に籠って社を守った「田口氏」や一宮領から長講堂領に伝領されたときの「山科氏」あるいは1146年当時の宮司「河人成高」らの名が連ねられるべきが略されているんです。
下の写真は、そこら(笑)のことも書かれてる(らしい。まだ、ちゃんと読んでないwww)柚宮八幡宮所蔵(勧善寺)大般若経奥書写。

で、あります(何がwww)。
つまりは推定で西暦900年頃から1300年頃までの系譜がごっそりと抜けているってことなのです。
そこらがどこまで突き詰められるかは、どなたかに任せて(笑)、次回に続くのです。

追記
「河人氏」「田口氏」「桜間氏」はどうも蘇我一族らしい、なんて書いたらM氏は喜ぶでしょうか(笑)

4 件のコメント:

  1. うーーーむ、難しいです。
    勉強不足を痛感しました。

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    1. すんません、難しいと思わせたらワタクシの文章力の至らなさでございます。
      機会があれば別途ご説明を...

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  2. 田口 教能(たぐち の のりよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・豪族。粟田教能、左衛門尉教良とも。内舎人の任にある田口の者の意で田内教能(でんない のりよし)とも。また、田内は本来は内舎人の任にある粟田の者が正しく、同国の在庁官人であった粟田氏出身とする説もある。(Wikiより)

    田口(粟田)・桜間・鳥坂・天石門別八倉神社... 大宜都比売と粟凡直に繋がりそうですね。

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    1. ここらと、○○○氏の辺りがひじょーに面白いんですが、残念ながら「今回の」記事としては脇道ですので、ちょっと割愛ね(笑)
      また、ゆっくりやりましょうね♡

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