2013年1月25日金曜日

倭大國魂神社と郷社八幡神社

うわぁ、書きたくない神社だなぁ(なら、書くなよって?)
ここ書いたらミーハーだと思われちゃうじゃない。(なら、止めとけよって?)
でも、前回の記事がえらいことになってしまいましたので、一旦流れを変えまして(変えるなよって?いやいや、一息つきましょう)なーんの考証もなく、神社の紹介などして気分一新といきませんか。
でも、この神社で気分一新されるのか?

倭大國魂神社
祭神 大國玉命 大己貴命(倭大國玉神大國敷神社の二座ならんかの説あり)
由緒 往古より式内神社と申傅且古城主小笠原氏より社領銀拾貫目年々寄付せられたりと口碑に傅ふ。  重清村史より

場所はここ

より大きな地図で 倭大國魂神社 を表示

重清西小学校の北側。八幡神社から登って行きます。
例によって例の如く「オヤジ殺し」の石段が。
といっても、大した事はなく、45分もあれば登れます。
ウソウソ、すぐですよ(笑)
そして、ちょっと壮麗でない(笑)社殿。
もちろん社殿の造りで判断しちゃダメなんですがね。
そして、よく噂になる神紋。
いまさら言う事も無いんですが「メノラー」じゃありません。
なんでも、そんなのに結びつける人がいるんで書いときますけど(ちなみに、そんなの大好きなんですけどね(笑))
メノラーっていうのはこんなの。
「7本立燭台」の事でろうそく立てそれぞれの先7箇所と幹部分の継ぎ目3箇所をセフィロトといい、枝部分の区切りみたいなのがパスといって22個あります。
カバラの教義に従って作られたものですので、こうでなければメノラーじゃありません。

この神紋は「丸に三ツ柏」です。
セフィロトもパスもありません。
「丸に三ツ柏」がメノラーなら恵比寿様のお腹についている紋、「柏」紋なんですが、これもメノラーか?

そこらはさておき(笑)

この辺り、郡里、岩倉、重清の三町古墳の密集地域でもあり、古墳様式から見て一つのブロックを構成していた事は間違いなく、その特異性より「阿波三国説」がささやかれる場所の中心となっております。
阿波国は国造(くにのみやつこ)が置かれていた頃「粟国」と「長国」に分かれていたといわれておりますが(粟国は蒸し返さないよ、今は(笑))その粟国の上流には「美馬国」があったのではないかと言う説です。
その根拠として、古墳の造りが特異である事、例えば石室の天井が持送り式、穹隆式に築かれていること、奥壁に石棚があることが挙げられています。
大杉氏に言わせれば「忌部国」だぁ〜って叫ぶんでしょうけど。
四国内にはこの地域と類似する様式を持つ古墳は無いんですが、面白い事に、和歌山県海草郡の岩橋千塚が酷似しているということです。
多分、海部(あまべ)じゃないこの近辺の古墳が、和歌山と酷似している。
どーゆーことなんでしょうね。
あ、この「阿波三国説」支持するセンセーは少ないようですので、ご注意を(笑)
御参拝後下って(もう終わりかよ)、折角ですので八幡神社にも(ヲイヲイ)お参りしておきましょう(コラコラ)。
それにしても、こおお重清西小学校、いい場所にありますなぁ。
小学生はそんなこと絶対思わんでしょうけどね(笑)
郷社八幡神社
御祭神 誉田別命、息長足姫命(神功皇后)、姫大神
ありゃ、息長足姫命(神功皇后)が祀られておりますね、やっぱ海部か?
あら、こちらの社殿の方が立派ではありませんか(笑)
それに、ほら、立派な庚申塔、でかいんだ、これが。
郷社ですし、地元の人はこちらの方に親密感があるんでしょうかね。
地神塔もちょっとワイルドに(古いよね)。
五角形じゃなく自然石そのままに刻んだような感じですね。

それで、個人的に見つけて嬉しかったのが、これ。
由緒に奉祀神官二宮左近将監とありました。
文政九年(1826)山崎忌部神社の神主となった二宮佐渡系列の墓ですよね。
今の宮司さんも二宮さんじゃなかったでしょうか?

と、名残は尽きないところですが、時間も大分立ちました。
そろそろ帰ろうではありませんか。

あっ!八幡古墳群見るの忘れた!!
重清城跡も!
今朝、何食べたかも!
あ〜、ボクは誰、今何歳?
ややこしいことは聞かないでね(笑)


15 件のコメント:

  1. この丘は凄い場所ですよネ!!
    昔・・・倭大国魂神社などは知らず・・・
    古墳のたくさんある丘として・・・ウロウロしていました(^O^)♪
    猿田彦大明神の碑は迫力です!!
    二宮家の碑は・・・見落としていました・・・。
    ( ̄▽ ̄)・・・♪

    返信削除
    返信
    1. いやいや、ここだけでなく、この近辺どこも凄いですよね。
      郡里廃寺跡だけでも、もうちょっとどうにかしたら、すっごい名所になると思うんですがね。
      (パチンコ店、どうにかならない....んでしょうね)
      個人的に二宮家の碑は見つかって、すっごく嬉しかったです。

      削除
  2. 今年の初詣は、ここと、この南の伊射奈美神社に参りました。
    町内で、あと天照大御神と須佐之男命に参るつもりがまだ行けてません。
    今日は、初めて「岡上神社」へ参ってきました。まだ行ってなかったんかい、とは言わないように。

    ここが寂れているのは「土人之を知らず」の典型ですね。
    この数件隣に同級生の家がありまして、今石井町の小学校で教師をしてます。もう教頭くらいかな?
    いずれ仲間に引き込みたいと企んでいます。

    パチンコ屋さんは景気がいいですからね。よほどのことがない限りどいてくれないでしょう。
    廃寺跡が史跡公園となり、道路の向かいに道の駅ができ、間にパチンコ屋というすごいロケーションになります。
    道の駅は観光の拠点にもしたいと言っていましたが、なんなら私が町内の神社を写真付きで解説するコーナーを作ってあげてもいいんですが、依頼は来そうにありませんね。

    返信削除
    返信
    1. 板野町の住民ですが、最近になって地元の遺跡が朱の生産地とか、馬の埴輪とか、各地の遺跡と交流があったことが発掘から分かってきていることを知りましたが、板野町犬伏にも古墳があり古墳の天井板が民家の入り口の石橋になっている事を知りました。その家の母屋を建てた関係で事情を聴くと、段の塚穴と同じくらいの規模があり背面の楕円形の大きな石などは庭石となって見ることができます。他にも古井戸の周りの青石もそうで、棚石に使われていた青石などは畑の梅の木の下に無造作に置かれています。

      削除
    2. ご心配なく、ボクが一番廻ってませんから(笑)
      言えば、皆が「え〜っ、あそこ行ってないのぉ!!!」と非難轟々でしょう(笑)

      それにしても廃寺跡の前に道の駅とは号泣もんですね。
      百歩、千歩譲って、そのお陰で史跡公園として整備されたとしても、またオバカな説明がされるんでしょうね。
      あ、公園になったら、管理人候補ですのでぜひ呼んで下さい。
      掃除しまっせ。
      道の駅の売店で売り子やってもいいなぁ。

      削除
    3. 匿名さんへ。
      >段の塚穴と同じくらいの規模があり
      かぁ〜っ、なんちゅうかねぇ。
      言葉もないですねぇ。
      >棚石に使われていた青石などは畑の梅の木の下に無造作に置かれています。
      贅沢な庭石ですねぇ(苦笑)
      ちゃんと残していればねぇ。
      棚石形式の古墳でしょ。
      かぁ〜っっっっっ(笑)
      こりゃ段の塚穴クラスの古墳が同じ目にあってたとしたら、ああああああ。
      貧血で倒れそうです。

      削除
  3. ぐーたらさん、こんにちは。
    小笠原氏の城があったのは存じませんでした。
    土成の長房の墓と伝わる哀れな石碑くらいかと、がっかりしていたのですが。
    今度お参りにいきたいと思います。

    また、地図を眺めていたら香川との県境に「大瀧寺」とあります。
    ご本尊が「西照大権現」(どなた?)
    奥の院は「熊野十二社大権現」
    あらら、またまたおもしろいものを教えていただきました。

    ありがとうございます。

    返信削除
    返信
    1. >小笠原氏の城があったのは存じませんでした。
      ボクも知りませんでした(笑)

      「西照大権現」は月読尊が本地垂迹の説により権現として祀られたものです。
      明治初期の神仏分離令により大瀧寺と西照神社とに分かれたそうです。
      ほ〜ら、ほら、怪しいでしょう。

      西照神社由緒書
      当大滝山は阿讃の国境海抜九四五メートルの高陵七尾七谷を有する全国稀なる霊地なるにより神代時代より神の発祥地として有名なり仰も鎮護の西照神社の祭神は天照大神の御弟月読尊(つきよみのみこと)にましまして この大神の御功(いさお)は天祖の大神の勅(みこと)を以て大海のはらまた夜見の国を主宰(つかさど)り蒼生人(あおひとぐさ)の九厄十厄をやらい退け夜毎に白露をふらし五穀草木を潤し海上安全を守護し神威厳かなれば古来より登山参拝者今にたえず山号も中古の頃まで田寸(たき)山神社と称し延喜式神名帖による日本国内三千一百三十二社阿波国五十社の内の神社なりしが幕政時代の変革により各神社は各々寺院或は別当の専有奉仕となり山号を大滝獄と改め社名を西照権現と改称され明治維新に至り同三年太宰官布告により神仏混合分離の政令によりて同六年社名を西照神社、社格は郷社に列せられ日本壱社崇敬社となりたり然して中昔藩政時代阿州猪ノ尻の城主稲田家信仰篤く現脇町字大谷奥部落を当社の地領として石高九石八斗余を寄附せられ また讃州高松の藩主松平家の祈願所なるにより営繕費として石高五十石を寄附されたり なお委(くわ)しきは爰(ここ)に記行にいとまあらず神恩を見て尊信存仰と云々

      削除
  4. うわ~、すごい言葉がザックザク。
    まいったなあ。これで2週間くらい黙らされそう…。

    神の発祥地? 
    月読~夜見、五穀草木に海上安全、田寸に滝…
    で最後に「詳しくは書けないので黙ってありがたいと思え」(?)とは。

    月読神は壱岐氏が長崎の壱岐島で祀っていた航海の神だと、京都の松尾大社近くの月読神社にお詣りしたときに書いてありました。
    西照という名前にも関係するのかな。神功皇后との関係も含め、気になるところです。

    返信削除
  5. 西照神社なんて初耳だ~と驚いていたら、のらねこさんがなんと5年も前にチェックされていました。
    http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/31267387.html
    おそれいりました。

    ところで八幡様のことで、助けてください。
    友人が神功皇后に興味を持っているというので、「そんなもん、徳島におられたに決まってますがな」と言っちゃったものの、さて…。
    ここが本拠地だった(可能性の高い)というところをご存じでしたら、ぜひ教えてください。
    高木氏の本から「雨降神社」(和多都美豊玉比売神社として)、もしかして神山の「宇佐八幡宮」かと思っていますが。
    よろしくお願いします!

    返信削除
    返信
    1. うーん、本拠地は難しいですね。
      関連のある場所はいくつかありますけど。
      ボクが調べたとこだけで言えば
      例えば
      「産八幡神社」
      http://goutara.blogspot.jp/2010/02/blog-post_07.html
      例えば
      「石井の天皇さん」
      http://goutara.blogspot.jp/2010/02/blog-post_14.html

      気になるのは吉野町の「一條神社」
      御祭神が誉田別尊、足仲彦命、気長足媛命と家族でセットになって祀られております。
      息長(海人)の系なので、石井から上板、板野近辺の川沿いと思います。
      そうでなければ、応神町が応神町となった意味がない。
      その意味では「雨降神社」も候補ですね。
      もうちょっと探してみますけど。

      削除
  6. 「奥壁に石棚」香川県高松市新田町の「久本古墳」にも立派な石棚がありましたよ。

    返信削除
    返信
    1. 情報ありがとうございます。
      調べてみます。

      削除
  7. 地元です八幡さんの神主さんは大野さんでした。
    50年前 ( =^ω^) 鳥居から二件目

    返信削除
    返信
    1. ありがとうございます。
      この記事を書いてから、一度お伺いしてます(=^・^=)

      削除