2012年3月10日土曜日

お手軽古代史ブログの書き方(茨城県 静神社)

前回からちょっと間が空いてしまいましたが
「ネタはありません」
あるにはあるんですが、書いてる時間がありません。
twitterでつぶやくぐらいならできるんですが、まともに書いてると
「いつの間にか寝ています」
そこで、誰か他の人に書いてもらってワタクシはそれを読んで
喜ぶだけ、というのが一番いいのかと思いますので(笑)
誰かに書いてもらうための「お手軽古代史ブログの書き方」を
伝授いたしませう。
とにかく、お手軽に簡単にという、ワタクシのモットーを絵に描いた
ようなやり方です(笑)
まず、元ネタを探します。今回は新聞にしてみましょう。
最近の震災の特集記事ですね。
多分あちこちの新聞に掲載されてると思うんですが。

この中に、こーゆー記載がありました、と。
そこで、お手軽、その1。
Googleで検索をかけます。
「福島 養蚕 伝承」っとね。

すると「小手子姫伝説」って出て来てますよね。
覗いてみましょうか。

 小手子姫は大伴糠手(ぬかで)の娘。崇峻天皇(587~593)の妃であり 
 蜂子皇子と錦代皇女の母君。前の天皇、用明天皇は聖徳太子の父。
 崇峻天皇は聖徳太子の叔父であり、小手子姫は叔母にあたる。

などと記載されており、この「小手子姫」がこの地、福島県伊達郡川俣地区に
養蚕を伝えたそうです。
で、さらに見て行くと

静神社(しずじんじゃ)
織物の祖神  倭文神(しどりのかみ)
東国の三守護神・・・鹿島神宮・香取神宮・静神社
宮司さんにお目にかかり、伝承や由来をお聞きできました。飛鳥時代、蘇我氏との
権力抗争に敗れた物部氏の一族のある集団が、ここ常陸の国に落ち延びて来た
といわれている。その集団の中に、養蚕と機織の技術と技法を持った秦(波多)氏
の親族が居り、この地に養蚕と機織の技術を伝授したそうである。現在でも、織物
の祖神として信仰されている。


とあります。
この静神社(しずじんじゃ)は公式のホームページを見てみますと
茨城県那珂市静にありまして。
由緒では
静神社は、かって、東国の三守護神として鹿島神宮、香取神宮、静神社として崇拝されてきました。延喜式名神名帳(927年)にも、鹿島神宮などとともに、「名神大」と記され豊臣家から社領として、150石が寄進され、徳川家からも同額の朱印が付されたいます。常陸ニの宮としても古くから信仰を集め、初詣、節分祭、そして神事の「つた舞」「お笹明神」が行われる秋の大祭(11月25日~27日)は、多くの参拝客でにぎわいます。主祭神は 建葉槌命(武神) (たけはづちのみこと) 名倭文神(織物の祖神) (しどりのかみ) 相殿神は 手力雄命(たじからのみこと)高皇産霊命(たかみむすびのみこと)  思兼命(おもいかねのみこと) でもある神門の前には、昔ここが織物の里であったことを示す『常陸国風土記』の碑が建っています。
本殿には国の重要文化財に指定されている社宝の銅印が納められています。水戸藩主徳川光圀公が社殿を修造する時に本殿脇の大きな桧の根本から『静神宮印』とほられた銅印がみつかったことを大層よろこび、黒塗りの箱に納めて社宝として神社に蔵したとされています。
天保12(1841)年の火災で、徳川光圀が造営した社殿が焼失。現在の壮厳なたたずまいの本殿・拝殿は、水戸家9代藩主斉昭が再建したものです。 
常陸二宮静神社ホームページより


まず、鎮座地の茨城県「那珂」で引っかかりますよね、徳島県民は。
次に御祭神である「名倭文神(織物の祖神) (しどりのかみ)」
「倭文」ってどっかで見たよなー。
そうだ!のらねこ大師匠のブログだ!
その中に
那珂郡には阿波郷の地名も見えるが、このあたりには、少彦名神・天日鷲翔矢命の後裔で安房忌部の同族たる衣服氏族の倭文連・長幡部一族が繁衍し、静大社や鷲子山上神社などを奉斎した。
とあります。
この「天日鷲命」(あめのひわしのみこと)の系図もちょっと探してみると
後裔としての系図に「安房忌部、神麻績連、倭文連、長幡部、神宮部造」などがあり。
「斎部宿祢本系帳」にも、天日鷲翔矢命の子の天羽雷雄命の子孫として
委(倭)文宿祢、美努宿祢、大椋置始連、鳥取部連の記載があるようですので
阿波忌部、「天日鷲命」の系譜であることが改めて確認できるわけです。

さらに社名の「静」は、倭文(しづり、しどり)からの転訛とされておりまして
この倭文(しどり)をさらに調べてみますれば

「し」と「ひ」の混同:
東京方言に見られるのと同じである。必要を「しつよう」、百円を「しゃぐいん・しゃぐえん」、質屋を「ひちや」、下を「ひた」、額を「したい」、七を「ひぢ・ひち」、浸すを「したす」等と言う。
などとあります。
この伝で言えば
「しどり、しとり」は「ひどり、ひとり」から転じたものであり
「日鷲(ひとり)」を「倭文(しとり)」と訛ったと考えられます。
群馬県伊勢崎市の倭文神社も「しとりじんじゃ」と読みます。

一般的に、各地の「倭文神社」は奈良県葛城市の式内大社「葛木倭文坐天羽雷命神社」が

大元であると言われていますが、ここの御祭神は「天羽雷命」。
天日鷲翔矢命の子の天羽雷雄命のことですので
「倭文(しとり)」が「日鷲(ひとり)」つまり「天日鷲命」のことならば
息子が父親を追い抜くことなど有り得ませんので、「葛木倭文坐天羽雷命神社」が
大元であるなんて事は無くなってしまう訳です。

じゃあ、本家本元はどこなんでしょうか?

なーんて風に書いてしまえば、いっちょまえのブログの出来上がり!
いかがでしょうか、新聞とネットだけで一回分書けてしまいました。

皆様方も「なーんだこんな程度で書けるんだ」と思っていただいて
「ぐーたらごときの記事なんて『屁』みたいなもんだったんだ」と
分っていただけましたなら、おひとつ書いてみてはいかがでごさいましょうか。

8 件のコメント:

  1. 伊達郡というのが、そもそも天村雲命の別名、天五多底命から来てますからね。

    ネット万歳!

    返信削除
  2. to のらねこさん
    ほんの数年前から見ても、ネットですっごく調べやすくなってきましたね。
    ただ、怪しげな情報もゴロゴロしてますので注意しなくては。
    (こんなブログとか(笑))
    >伊達郡というのが、そもそも天村雲命の別名、天五多底命から来てますからね。
    そこらをもっと調べなくちゃと思うんですが、なかなかね。
    秦(波多)氏についても、まだ全然掘れてないですし。

    返信削除
  3. ピコちゃんマン2012年3月11日 16:42

    ぐーたら先生。こんにちは。(ぺこり)
    拙ブログへのご訪問、感謝いたします。(笑)
    だいたい、先生ものらねこ先生も、ご自身が新たに記事を更新されると・・・。
    不思議と「天からのお知らせ」みたいに、足跡を残されるので。(笑)
    ・・なるほどね!そういった方法もあったのですね。(勉強になった~)
    実はその福島の伊達郡(旧霊山町)には、何かあるに違いないと
    兼ねてから目をつけていたところなんですよ。
    大震災で環境が変わったため、ちょっと尻ごみしてしまいますが・・。
    「徳島の霊山寺」と「福島の霊山町」。
    一字違いじゃなく二字違いますが、大麻の板東も昔は桑畑が広がり、
    蚕さんを飼っていましたよ。
    まあ、伊達に歳はとっていないということで・・。(笑)

    返信削除
  4. to ピコちゃんマンさん
    のらねこ師匠は
    >伊達郡というのが、そもそも天村雲命の別名、天五多底命から来てますからね。
    とおっしゃるし、ピコちゃんマンは
    >福島の伊達郡(旧霊山町)には、何かあるに違いないと
    おっしゃるし。確かに「(旧)霊山町」ってできすぎてますよね。
    今回は聖徳太子の叔母にあたる、小手子姫のことについても言及できてませんが
    養蚕がらみで多分何か出てくると思いますので。

    返信削除
  5. ぐーたらさん、こんにちは。
    連休中も探索に走り回っておられるのでしょうか(いい陽気ですしね)。
    数日前にのらねこ先生のブログから“倭”と“大倭”と“大和”のことを考えながら淡路島を走っていたら、突如ナビに“倭文**”の大群集が!
    淡路島の中央部のいちばんオイシイところを押さえ、“国産み”の第2ステージ完了、という痕跡なのでしょうね。
    ???だった読み方の解説、ありがとうございました。

    返信削除
  6. to ALI爺さん
    すいません。今日は法事で早朝から走り回ってて、コメント遅くなりました。
    淡路島は言うまでもなく阿波路なので重要な史蹟が多く残ってますね。
    淡路島の「倭文」は「しとおり」と読むようですが、起源は同じでしょう。
    「和名抄」にある「三原郡倭文郷」のことですね。
    「徳島市 王子神社」のコメント
    http://goutara.blogspot.jp/2011/01/blog-post_03.html?showComment=1336059981508
    と一緒にして申し訳ないんですが
    http://awajishima-kuniumishinwa.jp/kuniumi/
    については見せていただきました。
    イザナギ神を祀るのは淡路のようですし、藤原不比等が淡路廃帝を擁して
    倭への帰還が結局なされなかった跡が残るのも淡路の地ですし
    重要な地であることを「ここから始まった」とか微妙に勘違いしてるような
    気がします。
    ただ自凝島などの記載についてなど、何かがあるようですので
    関連は必ずあると思います。

    返信削除
  7. ぐーたらさん
    お疲れさまの1日、でも強い阿波風が心地よかったですね。町のビル風は不快でしかありませんが、山を下り、野を吹き抜けて海に抜ける風は最高です。

    三原は「御原」だったかもしれませんね。あたりは神代喜来のようになかなかの地名がたくさん。
    阿波路に進出する頃には朝鮮半島(や中国文化)と遭遇して、言葉がどんどん変わっていった可能性もあるんじゃないでしょうか。

    淡路廃帝の物語は知りませんでした。祟り神になってしまった天皇がまだおられたのですね。

    淡路の古事記キャンペーンは拡大解釈だとしても、ただ通り過ぎるだけにしておくのは惜しいのは確かです。
    ただ、本家の徳島があまりに静かなのが歯がゆい気がして。
    それが「言あげせぬ国」の奥ゆかしさなのだとしても…。

    返信削除
  8. to ALI爺さん
    ごめんなさい、一部修正
    淡路廃帝こと淳仁天皇を擁していたのは藤原不比等じゃなくて
    藤原仲麻呂(恵美押勝)。
    率川神社に阿波神社を勧請した藤原是公は藤原仲麻呂の甥。
    藤原仲麻呂は孝謙上皇との対立の末「多分(ここ大事(笑))」
    都を古の倭に戻そうとして淳仁天皇を擁したけど事ならず
    淡路の大和大國魂神社まで帰ったところで力尽き
    淳仁天皇御陵・野辺の宮が残されたのみとなったのでは
    と勝手に考えておるのです(笑)
    どこに帰ろうとしたのかは、延喜式内社のうち
    全国でただ一社「倭」の名のつく、美馬の
    「倭大国魂神社」
    ですね。
    淡路の人もそこらを分って欲しいけどねぇ(笑)。

    返信削除