ああっ、帰らないで!
というわけで、前の記事の続きをお待ちの御奇特な方もいらっしゃいますかもしれませんが
ここは、もう少々お待ちいただけますでしょうか。
ちょっと忙しくてバテバテなのと、書こうと思ってる事が案外底深くて書ききれません。
(浅くしか書いてない?承知しておりますです)
で、ちょっとお目汚しにこんな記事を。
「そうだ、葉っぱを売ろう」
映画化もされますこのお話は。あ、まちがっちゃった。
ワタクシがそんな話をするわけないじゃないですか(そんなこともないけどね)
今回は、入田町の広報誌「しょうじゅ」より。
入田町の歴史
前略
また、山林が全面積の70%を占めているにもかかわらず、この地区の林業には、何ら見るべきものもない。そのなかにあって、いま県内随一を誇っているのが、苗木・植木・盆栽などの生産販売である。これを育て上げたのが、海先の人、森本喜三郎(1805〜1909)である。
喜三郎は、文政三年(1820)山野に自生する古木・花木を掘出して、徳島市街の町家に売り歩いて好評を博した。これに自信を得て、さらに播種・挿木・接木の方法を研究し、これを公開して植木生産の指導に努めた。また、一方では従来の行商のほかに大御和神社・丈六寺・立江寺・地蔵寺・安楽寺などの市において、販売する事をすすめ、販路の拡張に努めた。大正元年(1912)には三十五万本を生産し、その収入は二万円に達したという。
当時の入田村の歳入が七三五八円余りであったことをみれば、いかにその生産が莫大なものであったかを知ることができよう。喜三郎は明治四十二年(1909)七月八日、百四歳の高齢をもって世を去った。海先に建っている記念碑は、いまも苗木・植木・盆栽の生産の繁栄を静かに見おろしている。
後略
へ〜、村の歳入7358円の時期に植木を売って、その3倍弱の2万円の収入。
横石さんもびっくり!
じゃないでしょうか。(写真はちょっとお借りしました)
いまでも植木市はやってますね。ちょっと個人では入って行きにくいですが。
値札がついてないんで、そうゆー交渉の好きな方はいいんじゃないですか。
では、本日はこれにて。
では、ちょっと淋しいんで入田村名の起源など。
埴土郷は入田より上山(神山)までの総称なりと神領の埴生女屋神と村名の関係趣味あり
埴土郷につきて按ずるに垂仁天皇御宇殉死の禁ありて野見の宿禰の言を御嘉納あらせられ
皇紀三十二年皇后後の崩御あらせらるるや出雲國土部壱百人を喚し上せ自ら土部等を領し
埴を取りて人馬及種々の物の形を作り以て生人に易へんと請う天皇大いに喜び給い
厚く野見の宿禰の功を賞給いて陶地を給い土部の職に任じ給ひしによりて本性を改めて
土部の臣とす
是より土部の連代々天皇の喪葬の事を掌り又太古は其職一定して此地の一部に住するものは即ち土師の民なるべく此等の子孫の繁殖せしを以て郷名を埴土(土師と通ず)の郷と命名せしなるべく後世に至るも製陶の業を以て専職とせる者の居住せしなるべし。
本県原始時代の製陶所は左の四箇所のみと
名方郡埴土郷=入田村に推定す
名方郡土師郷=天神、芝原、高原、第十、高畠等(菅原清公の領土たり三地方)
麻植郡土器谷
美馬郡曾江山(陶の山)
入田村史より
完全に、普通に、「地元の話」なんですね。
返信削除すごいや、入田村史。
ちなみに野見の宿禰は当麻(大麻?)の蹴速と、垂仁天皇の前で相撲をとって勝った人物で、「蹴速」に蹴り勝って蹴速を蹴り殺した人物(蹴り技の名人ですね)です。
昔の相撲は、空手のようなものだったと言われる所以です。
to のらねこ さん
返信削除そーなんです。
読み方によっては
>是より土部の連代々天皇の喪葬の事を掌り
「『ボクたち』代々天皇の喪葬の仕事をやってきたんだよ」って
言ってるような感じです。
>昔の相撲は、空手のようなものだったと言われる所以です。
今じゃ「蹴たぐり」もあんまりみられませんよね。
またまた目が覚めました(笑)♪
返信削除恐るべし「入田村史」!!
文化の森の図書館に行ったら読めるでしょうか??
興味津々です(●^o^●)♪
to すえドン さん
返信削除ご遠方ですので、画像をアップ致します。
ごらんくださいませませ。
ぐーたら先生。こんばんは。(ぺこり)
返信削除御奇特な・・・って、ひょっとして。(笑)
郷土にはいろんな偉人がいらっしゃる。
みんなが安心して「食べられる」ようにするのが、
偉い人ですよね。
是非、政治家の皆さんにお願いしたいと思います。
待ってますよ。いつまでも・・・。
to イコピコちゃん
返信削除うふ、ホントに「食べられる」のが一番ですよね。
退陣が決まって自画自賛してる方もいらっしゃいますがねぇ。
次の方はどうでしょうか。
さて、選ばれなかった身ではございますが、龍については頑張ってみますので
期待せずまっててね。