2012年7月19日木曜日

狐の帰る國(追記)

すいません。
記事じゃなくて、お詫びなんですが、「狐の帰る國」のコメント欄で例の子守唄の
ページをスキャンしてpicasaにアップしたと書きましたら、picasaへのアクセスが
ちょっとえらい事になっておりまして、一応、著作権等も気になりますので
大事にならないうちに画像の公開を中止します。
すいません。
どうしてもと言う方がいらっしゃれば、個人的に画像は送らせてもらいますが
それも、私的利用の範疇でと言うお願いの上で。

で、これだけでは申し訳ないので、もうちょっとだけご紹介を。
ボクのブログでも前にちょっとだけ書きましたが

上板町の大山寺(たいさんじ)
には国指定の重要文化財である経筒があり、この経筒には次の文句が刻まれている。


大治元年才次丙午十月十二日甲辰日閻浮提日本国阿州於大山寺如法経書写供養畢願頌
僧西範為結縁法界六道三有受苦者也


以上の文面からすると、ただ供養を行ったとのみで、何の事でもないのであるが
山頂部にある奥院・黒岩権現参道入口に在った石碑に刻まれていた文を併せると
、明確にその年代が解かれるのである。


西範僧都六百年忌追福也
大治元年才次丙午十月十二日




大山寺には大治元年(1126)と彫銘された経筒が保管されている。

写真と右の文はは上板町HPからのパクリ

大治元年は1126年。
そのとき西範僧都六百年忌が行なわれていたということで、西範僧都が亡くなられたのが
526年
仏教伝来はそれ以前って事になりますよね。
まあ、年代はともかくとして(いいんかい!)「それ」が阿波の地だったことが
どういうことなのか、考えていただきたいと思っちゃいます。


44 件のコメント:

  1. きよっさん2012年7月20日 0:01

    それが「阿波」であるということは聖徳太子も蘇我氏も中大兄皇子も大海人皇子も繋がってきますよね。阿波で。
    あれ?ちがう?(笑)
    だって法谷寺、曽我氏神社、葛城神社、滝寺も残ってますもんね!
    あれ?やっぱり観点がズレてる?(笑)

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    1. 葛城神社ももうちょっと調べたい所なんですが、資料に乏しいんです。
      まだ書ける所までいってないです(涙)

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  2. ほらあ! だからキョーエイでお買い物を、じゃなくて本を注文しましょう。
    てきぱきとすぐに送っていただけます。から、つい『道は阿波より始まる』をもう1セット頼んでしまいました。ほら読んでみい、と人にすぐあげられるように…。

    内容は地名の説明が多く(仕事中にガマンできずちらちら拾い読みした範囲で)政治的なお話はあまりないので土地勘のない人にはちょっと退屈かもしれませんね。
    私も聖徳太子が阿波ゆかりの人なのか気になってなりません。

    ともあれ、ぐーたらさんやのらねこさんのブログにはまった人には必携、でしょう。
    京屋社会福祉事業団 Tel: 088-665-9015
    決してまわし者ではございませんが。

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    1. to ALI爺さん
      在庫僅少って聞きましたんでねぇ。
      それとここ数日で注文が押し寄せてるんじゃないですか(笑)
      京屋の担当者さん大忙しですね(笑)

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    2. それと「大嘗祭」は買われましたか(笑)
      1万円だそうですが、重量は十分見合うと思います(笑笑笑)
      あ、ボクはこれも買ってないですけど。

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    3. 『大嘗祭』という本もキョーエイさんからですか?
      1万円なあ…。内容は見合うのでしょうか。
      で、代わりというわけではありませんが、アマゾンで見つけた『大嘗(おおにえ)の祭り』なんていう本を注文してみました(岡田荘司・著)。
      「真床覆衾」の実像、その「秘儀」を解明~というのに惹かれて。

      “匿名”さんとの議論は、一歩徳島を出たときに雨あられと浴びなくてはならない質問に応じるトレーニングとして勉強になります。
      想定Q&Aとして続けていただきたいものです。

      どこかの古墳か神社から「○○天皇陵」とか「△△宮」とでも記された証拠品が出てこないことには、ねえ。
      『狐の帰る國』も、奈良はおかしい という指摘ではあっても、徳島 だという決定的な物的証拠は示されていないようで。
      淡海の海は「玄界灘・響灘に面する海域」だと唱える九州説もあります。物語に出てくる地名が揃っているし、金印が見つかっただけに、強気。

      いっぽう、のらねこさんが「沙沙那美」の位置を推定するのに『古事記』仲哀天皇の条をあげて、以下を指摘されていますね(2010年2月12日)。

      神功皇后が三韓征伐から倭に戻るときに起きた2皇子の反乱を、将軍・武振熊命の働きで平定。両軍は「山代」で戦い、「逢坂」へ追い詰めて海辺の「沙沙那美」で反乱軍は壊滅、皇子たちは海に逃げて死ぬという段。

       故逃退逢坂對立亦戰 尓追迫敗於沙沙那美悉斬其軍 
       於是其忍熊王與伊佐比宿禰 共被追迫乘船浮海歌曰
       伊奢阿藝 布流玖麻賀
       伊多弖淤波受波 迩本杼理能
       阿布美能宇美迩 迦豆岐勢那和
       即入海共死也

      山代→逢坂→淡海 を 京都→大阪→滋賀→海で水死 とするのは難しいのではないでしょうか。
      たとえば吉野川上流域(山代)→ 中流域から阿讃山脈を越えて(逢坂)瀬戸内へ → 讃岐の海岸から海(淡海)と考えればスムーズ。この辺りの海岸線には 青海(五色台の西)や小海 の地名が点在しています。

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    4. 日本書紀も合わせて読む(拾い読みだけれど)と、住江→宇治→逢坂(京阪電鉄京津線上栄駅付近)で壊滅的打撃→膳所(京阪電鉄石山線膳所駅付近)で殲滅→瀬田の渡り付近で水没、後日宇治川で死体発見
      沙沙那美は近江国滋賀郡付近と注釈にある。枕詞と思い込んでいたのだが、意味はあるのだね。

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    5. ここで
      いざ我君(あぎ) 振熊が 痛手負はずは  
      にほどりの 「淡海の海」に潜(かづ)きせなわ
      海に入り、共に死にき。

      とありますよね。
      「淡海の海」が琵琶湖でない事は納得いただけたと思ってますので
      「住江」は大坂ではなく「山代」は宇治ではないのが分っていただけると思います。

      御歌にしても
      志那陀由布、佐佐那美遲袁 須久須久登、和賀伊麻勢婆夜
      しなだゆふ 佐佐那美路 を すくすくと 我が行ませばや

      なので、まともに読めば枕詞に見えるはずがないでしょう。

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    6. 『大嘗祭』も京屋さんです。
      重量は十分過ぎるくらい見合います(笑)
      でも、置き場所に困りますよ。

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    7. 逢坂は地図で見ると、JR京都駅→JR山科駅→JR大津駅から少しバックしたあたり。国道1号だと京都駅から13Km地点。
      ただしこの逢坂は、平安時代の考証によるから、天武天皇の時代よりももっともっと前だと、どこだという確証はないと思われる。
      宇治からなぜ逢坂へ移動したかについて考えると、神宮皇后の時代には山城の国は平城山の北側からせいぜい宇治あたりまでが人がいるところ。それより北は、巨大な湖があったり原野だったりと、釧路湿原(実は行った事がないのだが)のような感じだった。開発されるのは聖徳太子の盟友秦河勝あたりからじゃないのかな?
      で、当時の東国へのルートは宇治から瀬田、鈴鹿・・尾張(なんか壬申の乱を書いているみたい)

      古い時代のことを考える時には、GoogleMapじゃなくて、その当時の地形地勢も合わせて考えるのだが、これをやりだすとわからないことばかり。

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    8. ホントに人の書く事を読まない人ですね。

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    9. 私が言いたかったのは、

       さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな(平忠度)

       さざなみの 滋賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 舟まちかねつ(柿本人麻呂)

      など

      削除
    10. この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 都奴賀 の蟹
      横去らふ いづくに到る 
      伊知遅志麻 美志麻に着き
      みほどりの 潜き息づき 
      しなだゆふ 佐佐那美路 を すくすくと 我が行ませばや
      木幡の道に 遇はしし嬢子 
      後ろでは 小楯ろかも
      歯並は 椎菱(しひひし)なす 
      櫟井(いちひゐ)の 丸邇坂(わにさ)の土(に)を 
      初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ
      終土(しはに)は 丹黒(にぐろ)ぎ故 
      三栗の 其の中つ土を 頭突く 真日には当てず 
      眉がき 濃にかき垂れ 遇はしし女 
      かもがと 我が見し児ら 
      かくもがと 吾が見し児に 
      うたたけだに 向かひ居るかも い添ひ居るかも

      これと
      さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな(平忠度)
      を比べるんですか?
      驚きです。

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    11. ぐーたらさん、こんにちは。
      まあ置き場所はあるんですが、ちょっと懐具合が。
      こっちはしばらく無くならないでしょうから、しばらくガマンします。
      匿名さんとの丁々発止でしばらく楽しめそうだし(失礼)。

      確かに、逢坂山のことを忘れていました。
      徳島~香川間に逢坂山は見当たりませんが大坂峠は2ヶ所あって、それぞれたいへんな山道です。
      大坂は一般名詞かな。

      万葉集では志賀は海岸になるようですね。九州の方々が根拠にされているように。
      いくつかのうち、2つ:

      志賀の海人の塩焼く煙風をいたみ立ちは上らず山にたなびく(之加乃白水郎之 燒塩煙 風乎疾 立者不上 山尓軽引)1246
      志賀の海人の塩焼き衣なれぬれど恋といふものは忘れかねつも(志賀乃白水郎之 塩焼衣 雖穢 戀云物者 忘金津毛)2622

      また、ちょっと長いですが、近江之海が出てくるこんなうたもあります:

      近江の海 泊り八十あり 八十島の 島の崎々あり立てる 花橘を 末枝に もち引き懸け 中つ枝に 斑鳩懸け 下枝に 比米を懸け 汝が母を 取らくを知らに 汝が父を 取らくを知らに いそばひ居るよ 斑鳩と比米と
      (近江之海 泊八十有 八十嶋之 嶋之埼邪伎 安利立有 花橘乎 末枝尓 毛知引懸 仲枝尓 伊加流我懸 下枝尓 此米乎懸 己之母乎 取久乎不知 己之父乎 取久乎思良尓 伊蘇婆比座与 伊可流我等此米登)3239

      さらに脱線しますが、「白水郎」と書いて「あま」と読むことについて、タケミカヅチの別名ともされる「磯良(しら)」の水郎(あま)のことではないかという説があり、私はそれが好きです。

      おもしろいなあ。
      こんなに万葉集をまじめに読んでいるのは初めてです。
      小林秀雄は、本居宣長の古事記は本居宣長流に読んだのであって、その通りだかどうだか分からないと言っていました。万葉集や古事記の時代考証は、やはり掘り出し物の考古学に待つしかないかな。
      それまではそれぞれが自説に基づいて楽しむことでしょうか。

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    12. to ALI爺さん
      万葉集は面白いですね。
      文学的にも歴史的にも面白いです。
      解釈もその分難しいですけど。
      仙覚抄も一緒に読むとさらに、ですね。

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    13. 「仙覚抄」、知りませんでした。
      ちょっと手が回りそうにありません。
      老後の楽しみがどんどん増えて、ちょっとプレッシャーになったりして。

      ネットで少し探してみると

      橘の島にし をれば川遠み さらさずぬひし わが下衣(1315)

      この橘の島は一般に明日香の橘、島が石舞台古墳の下あたりというそうですが、仙覚さんは伊予の宇摩郡土居町(現・四国中央市)だとしているとか。
      四国に視線がいっていた、というだけでも嬉しいことです。

      それにしても四国中央市とはトホホな名前。
      麻植郡とか津名郡とか、貴重な名前が消されていくのも惜しいかぎりです。

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    14. 「仙覚抄」は凄いですよ。
      のらねこさんもどっかで書いてたけど。
      「梵語ニハ以阿字為発語詞 和語ニハ以伊字為発語詞也」
      とあります。
      つまり「伊」が「阿」と同義である「場合がある」のです。
      ケースバイケースではありましょうが、万葉集であるとか古社祭神で当てはまる場合があるようなのです。
      そう見れば「伊和大神」などは・・・
      以下略(笑)

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    15. あ、それと阿波(古)風土記の逸文が引用されている事でも有名です。
      それにしても、ここらの古典で読まなきゃいけないのがありすぎます。
      確かに一生読めないかもしれませんが。
      太平記、源平盛衰記あたりからなら取っ付きやすいでしょう。

      麻植郡が亡くなった時は(誤字じゃないよ)愕然としました。

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    16. ぐーたらさん、こんばんは。
      手元に届いた『大嘗の祭り』の帯には“真床覆衾(まどこおふすま)”の実像~その「秘儀」を解明する! とあったのでドキドキでした。
      ところが(まだざっと速読しただけですが)折口信夫が言った「秘儀」なんてないのだ!という内容のようで、いささか拍子抜け~。ほとんど文書にもとづく推測の連続です。
      国学院大学の先生なのに、というか、だから、というか。
      じっくり読みたいとは思いますが、ただひとつ分かったのは、天皇ご自身はなにをなさったを一切口外されていない、という一点。
      それこそ「秘儀」ではないですかねえ。

      やっぱりがんばって古典に取り組まなくてはなりませんか。
      太平記どころか、ほとんど覚えていない夏目漱石から読み直さないといけないかも。
      まいったなぁ。

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    17. 頑張って下さいませ。
      大学の先生はどうも通説一辺倒で面白みはないですよね。
      かといって、よく文庫ででてるなんとかさん(笑)などは
      タイトルと見出しで驚かそうとしてるし。
      それも、なんだかなぁって感じですね。

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  3. 西範僧都六百年忌を記念して石碑が建てられたってことじゃないですか?
    享保11丙午年とか、の気がします。江戸時代の石造物の年記銘の解読にさえ苦労しているのです。

    昨日まで出てた例の地図ですが、あれってどの時代の阿波の地形が元になっているのでしょうか?

    更なる疑問、古代阿波って、明治時代のことでしょうか?

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  4. to 匿名さん
    だから西範僧都六百年忌が執り行われたのが大治元年でしょ。
    ここに書いてるのを信用すれば。
    遡って西範僧都歿が526年ですよってことで、なにか不都合がありますかね?
    享保と大治を間違いますかね?
    石造物の状態は気候や地形、材質、設置状態によって大きく左右されますよね。
    一概に江戸時代だからとか、奈良時代だからとかは言えないんじゃないでしょうか。
    それを言い出せば昭和の墓石で刻字が読めないのはいくらでもあるでしょう。
    鎌倉時代の板碑でも平気で字が読めるのは結構あったと思いますよ。
    江戸時代と比較するのであればね。
    近くで言えば興禅寺の六地蔵板碑も鎌倉時代だったはず。
    地図については著者坂東氏が大正生まれなんで、幼少の記憶とか祖父母の伝承を元に書けば
    明治期だと思われるような地図ができるのは当然だと思いますが。

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  5. ついでに言えば「法谷寺」も昭和六十三年に創建1400年祭をやっておりますよね。
    だから創基が588年。
    これも信用しないんでしょうね。

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    1. 興禅寺の六地蔵板碑は天正12年(1584年)、翌13年には長宗我部が豊臣軍の攻勢により阿波から駆逐され蜂須賀の入部となります。

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    2. 失礼しました、大分新しかったですね。

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    3. 例の絵図のタイトルって、「近つ淡海」ではなかったかな?(いまごろなんじゃ、間違ってたらごめん)

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    4. 近つ淡海とは畿内に一番近い大きな淡水湖--琵琶湖のことね、だから近江の国。遠い淡海はというと、今の浜名湖。で、とおいおうみのくに--遠江ね。
      浜名湖は現代では海と繋がって、汽水湖になっています。ある時、地震か津波か知らないけれど切れて海と繋がった、だから今切。

      阿波で今切は、今の春日町付近で、江戸時代以前には今切村があった。現代では今切の地名は吉野川の古川橋を渡ったあたりになっているけれど。

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    5. to 匿名さん
      あ〜、ここらから説明するのめんどくさいんだけど一つだけ。

      『万葉集』巻二、百五十三番

      鯨魚取、淡海乃海乎、奥放而榜来[舟エ]邊附而、榜来船 奥津加伊、痛勿波祢曽、邊津加伊、痛莫波祢曽、若草乃嬬之念鳥立

      「淡海乃海」には「クジラ」捕りの船が行きかってるんですかね。
      どの万葉集の解説をみたらそこらきちんと説明してくれるんでしょうか。
      「鯨」は他の魚の事なんですかね。

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    6. もひとつ
      大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

      大和国のどこから海原と鴎が見えるんですか?
      辺りから疑問を持ち始めてるんですよ。
      ここらの話を書いてる人たちは。
      淡海の字を見ただけで琵琶湖っていうのが短絡過ぎませんか。
      実際の本の内容を見て言ってますか。

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  6. 近つ明日香(飛鳥)は大阪府の東端の太子町付近です。このあたりには聖徳太子をはじめ、推古や孝徳や小野妹子の墓があり、さしずめ王家の谷の印象があります。明日香に比定した地名も見受けられると読んだ記憶があります。ついでながら、平安時代の河内源氏もこのあたりの石川が発祥の地。

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  7. 「いさなとり」は海とか浜とかの枕詞です。さしあたっては、枕詞言葉に引きずられると歌にならないと思います。

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  8. ふーん
    宇陀(うだ)の 高城(たかき)に鴫罠(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし 鯨 障(さや)る

    これもそうなんだ。

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  9. もひとつ

    磯の崎こぎたみ行けば 淡海の海 八十の湊にたづさわに鳴く

    解説書を見れば「磯の崎を漕いで廻ってゆくと」とありますが
    まさか川をさかのぼっての意味だなんて言いませんよね。
    どっかの「海の」「磯を」「濃いで廻って」いくと「淡海の海」
    にでるんですよね。

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  10. また、「海とか浜とかの枕詞」とのことですが
    「鯨魚取り 海辺をさして・・・」と鳥取県(か?)岩見でも妹と別れるとき
    「鯨魚取り海辺・・・」は讃岐ですが
    いくつかある「鯨」が出てくる歌は海に関連のある歌で「琵琶湖」などの
    川、湖には遣われていないと思いますが、いかがでしょうか。
    まさか万葉人は「琵琶湖」を海だと見ていたなんて、バカにしたような事は
    言わないでしょうね。

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  11. 修正
    いくつかある「鯨」が「枕詞」として出てくる歌は

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  12. 倭姫命世記も出しときますね。この本を信用しないと言うのは勝手ですが。
    倭姫命の出発点「淡海浦」について「其レヨリ西ノ海中ニ、七個ノ嶋アリ、其レヨリ南、塩淡ク甘カリキ」とあります。
    「淡海浦の西には嶋が七個あり、南も海で、塩の甘い所がある」
    これは琵琶湖ですか?

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  13. 話題を変えて、
    本日は「うすだけ」に再トライしました。見事西明寺に到達できて十数体の板碑を確認できました。最近に無住になったような雰囲気で、山奥のひっそりとしたお寺って感じが良かったです。
    帰り、入田金治の駄賃に観正寺に寄ったところ慶長二年と彫られた墓石があり、元和もあったような、「ほんまかいな」という疑念が去りません。近くなもんで、ひまな時間があればひとっぱしり調査願えればと思ったしだいです。
    夕刻には、助手に六自蔵板碑と国分寺北西田んぼの中の板碑を見せました。もっとも、田んぼの中は、刈り入れが終わらないと進入しにくいです。あそこの祠はなにか謂れはあるのでしょうか?

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    1. to 匿名さん
      >話題を変えて
      ってそれは自分のホームページかブログでやって下さい。
      ここはボクが個人的にやってるブログですので。

      「田んぼの中の板碑」ですか「あそこの祠」ですか?
      板碑か祠かよく分らないんですが?
      考古資料館からちょっと北に行った所にある板碑は弁慶が気延山山頂から投げたって
      伝説のある板碑でしょ。

      で、答えはやっぱり帰ってこないんですね。

      削除
  14. 教えてくだされ。
    私の手元の万葉集に「ささなみ」は「楽浪」と漢字が当てられています。29-33、ただし31は「左散難弥」。楽浪郡は歴史の時間に習ったことがあります。中国によって朝鮮に置かれた郡。
    奈良時代の政治家に、淡海公(藤原不比等の諡号)、淡海三船(御船王)がいます。なんで淡海?
    淡路は国生みのときから淡道。なんで。

    私のHP? ま、そのうち

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    1. 前半は質問なのかどうか不明なので無視。
      藤原不比等の諡号は「文忠公」、「淡海公」は国公。
      淡海は琵琶湖ではなく鳴門から小豆島近辺の事。「淡海乃海」との記載に注意。
      藤原不比等は志度、淡路に深く関係があるのはご存知の通り。
      淡海三船は近江の國の人だから。ただし、賜姓が行われたのは751年。
      万葉集「淡海」の記載のある歌の成立期と最大100年の差がある。
      個々の歌の成立時期は、ご自身で調べて下さい。
      淡路は「淡海」もしくは「阿波」に通じる道だから。
      >私のHP? ま、そのうち
      自らは何も語らないということですね。

      削除
  15. こんにちは、ぐーたらさん、初めまして。
    以前からちょくちょく覗いていましたが、コメントは初めてです。
    よろしくお願い致します(ぺこり)

    物凄く引き込まれてしまった「狐の帰る國」
    早速電話で京屋さんに注文しました。1000円でした。
    京都旅行から帰ったら本を買いに行き、読んでみます。
    皆様が「怖い」とおっしゃられている意味とは何ぞや?と興味津々です。
    阿波の謎は私にはまったく歯が立たないのですが、のらねこさんとかぐーたらさんの記事で推測していると、やはり何かあると思ってしまいます。
    神様?からのメッセージのようなものは受け取ってますが・・・はてさて私とどんな関係が?とコレも謎です。この本で少し紐解ければいいなと思います。

    面白い情報(怖い情報?)を有難うございました。^^

    返信削除
    返信
    1. coomi様
      はじめまして、こちらこそよろしくお願いします。
      ボクが怖いと思ってるのは

      モシコヤヤコガ ヒメゴナラ
      オンバヒガサデ ニギタエキセテ
      テナデアシナデ カワイガリ

      の部分です。
      本にも書いてありましたが、「カワイガル」というのは
      可愛がるの意味以外に「痛めつける」の意味もありますよね。
      そう見れば、「手撫で、足撫で、可愛がり」というのは
      ちょっと怖くないですか?

      削除
    2. ぐーたらさん、コメントのお返事有難うございます。
      素直に読めば


      オオゲツヒメは寝たと イイヨリヒコに言え
      その代わりにタケヨリワケとエヒメを添わせよう
      ヤヤコができれば
      姫ならば撫でるように可愛がり、金襴緞子で島の豪族に嫁入りさせて暮らしが充分であるようにしてやろう(良い意味で島流し?)
      殿ならば唐国とトヨヒワケ(九州北部)を分け(戦って)
      子供千人つくり繁栄させ国造り
      立派な殿の御殿を建てさせよう(出雲?)
      さすりゃさすがのオオゲツも目を覚ますだろう
      ほら起きた これ本当


      こんな風に読めましたが、隠語もあるだろうし・・・
      オオゲツヒメは稲荷神とウケモチとトヨウケと同一だと思うのですが。
      空海様は四国に橋が架かれば狐が帰ると残されていますね。
      オオゲツヒメは黒潮に乗ってやって来られた姫神様だそうですし、国産みの段では伊予の二名島でしょっぱなから登場されてますね。

      本州はからっぽだったのなら、オオゲツヒメ(狐?)が渡って五穀豊穣の種を蒔く、礎を作るという役目があったのかな?

      まだ本が手元にないのでただの妄想です。すみません。^^;;

      テナガヅチ・アシナガヅチという神名も関連しているかも。
      それは諏訪大社の前身、元神様らしいですよ。

      この子守歌、神々様の名が散りばめられている(隠されている)のが面白いところだと感じました。

      「可愛がる」という意味が反対の意味なら・・・怖いですね~ ^^;;;

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    3. なるほど、鋭い解釈ですね。
      ボクも解釈で悩んでる所がいっぱいあります(笑)
      特に
      「セマノトノゴニ ソワセヨウ」
      もしこれが「狭野(さのの)」の事を「セマノ」と読んでいるのなら
      「狭野の殿御」幼名を狭野命(さののみこと)と言ったのは、「神武天皇」。
      まさかねぇ〜。

      できたややこが彦ならば
      大倭「豊秋津」島、「とよのあきつ」の韓国別けて
      太い柱(高木)に桧葺(ひわだぶき)の御殿で寝かせよう。
      (高木の桧皮葺の神社...これは書けんなぁ)

      どちらにしても本州である大倭豊秋津島を支配せよと言っているような、いないような(笑)

      そうしたら大宜都比売が目を覚ますのです。
      目を覚ましてどうなるのか?
      それは「まだ」分りません。

      あくまでワタクシの解釈ですよ。

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