2016年5月24日火曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(3)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
の続きです。

で、神山の伝承から言えば

大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。
wikipedia

馬に乗って神山の丹生山までやってきて、ここに乗ってきた馬が石になったという「お馬石」があります。


  馬を降りて辿り着いたところが「天辺丸(てんぺんまる)」
「天辺丸(てんぺんまる)」は微妙に押しかけて欲しくないんで、よければ探してください(笑)
ちなみに、伊勢国丹生の郷(現三重県多気郡多気町丹生)からとあったので、和名類聚抄を探してみましたが...
多気郡 に丹生郷は見つかりませんでしたので、もしあるのならば、ご存知の方は教えてくださいませ。
もしかしたら、もっと小さい村程度の地名かもしれませんね(棒)。
ちなみのちなみに「天辺丸(てんぺんまる)」近辺から西方向を眺めたときに見えるのが左側の山から丹生山、高根山、東宮山(正面の山)、焼山寺山(正面尖った東宮山のすぐ右)となります。

 なんか、前回のネコの写真が妙にウケてたので
ちょーしコイてワンコの写真で一休み

では、もう一度縁起をご覧いただいて


上一宮大粟神社 御縁起
鎮座地 名西郡神山町神領字西上角三三〇
又の御名
御祭神 大宜都比売命 又の御名 天石門別八倉比売命、大粟比売命
御例祭 歳旦祭(一月一日)
例大祭(一月十日) 祈年祭(四月十一日)
新嘗祭(十二月十一日)
一、 古事記によると大宜都比売命は粟国(阿波)を開かれた祖神で五穀養蚕の神として古代から農耕を守り生命の糧を恵み続けられています
一、 神亀五年(七二八)聖武天皇御勅願所となり 元暦二年(一一八五)御祭神に位階正一位を給い 以来正一宮大明神として広く崇敬されてきました
一、 旧事記によると当社の古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼が国造を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司りましたが時の祭官一宮宗成に代って歴応四年(一三四一)阿波守護の小笠原長宗が祭官となり後に一宮大宮司となり その子成宗の代に一宮町に当社の分霊を勧請して一宮神社を創建しました 蜂須賀家政は当社に二度も参拝し 代々の 藩主も深く尊崇していました
一、 今に残る江戸時代の十四枚の棟札(最古寛文十三年)からも社名が 一宮明神 田ノ口大明神 大粟上一宮大明神 上一宮大明神などと 変った事がわかります 明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改めら れたが 明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大 粟神社に確定されました
撰 宮司 阿部千二
     氏子会
     大粟山保勝会

ここの赤字の部分
埴生女屋神社と改めら れたが 明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大 粟神社に確定されました
一時期「埴生女屋神社」とされたのは、多分ですが、慶応4年から明治元年頃までの神仏分離令と明治政府による社格制度により、相応の位階を持つ神社に対し調査が行われたからではないでしょうか。
阿波国においては三代実録にあるように「埴生女屋神社」が階位を与えられていることから「埴土郷(はにごう)」に存在するが故に「上一宮大粟神社」を「埴生女屋神社」としたのかもしれません。
しかし
阿波国に「埴生女屋神社」と比定される神社は別に存在いたします。
小松島市中田町に鎮座いたします「建島女祖命神社(たつしまめおやのみことじんじゃ)」。ここは、滋賀県高島市新旭町饗庭に鎮座する、木津荘の惣社である波爾布神社(はにふじんじゃ)が天平13年に御祭神である「波爾山比賣命(はにやまひめのみこと)」を勧請したことは有名な話になってきています(早くからボクが書いてたことは誰も褒めてくれないけど.....)。
まあ、カッコ内のはなしは置いといて、
聖武天皇の御宇、井出左大臣橘諸兄公が当社を尊崇して、天平13年3月神輿一基、神供田二町歩を寄進した。今も栗屋田(御厨屋)の小字名が残っている。醍醐天皇の元弘年間に至るまで、高島郡北部の大社として隆盛を極めた。
事より、近畿圏内では「波爾山比賣命」といえば、この神社を指していたそうです。
一応、由緒書きを出させてもらいます。
これこれ、ここの部分に阿波国勝浦郡建島女祖命神社奉勧請之實とあるでしょ。

また美馬市には式内社「波爾移麻比禰神社 」も存在するという豪華な布陣(笑)
そこら(どこら?)を併せ鑑みるに(笑)「波爾山比賣命」は阿波の国神(くにつかみ)であったと言ってもいいのでは?

に、しても「上一宮大粟神社」の氏子は明治25年「上一宮大粟神社」は「埴生女屋神社」ではない、社名を戻してくれとの嘆願に至ります。
「御神号改正願」です。

これも出せない史料で申し訳ございません。
氏子一同連名での「御神号改正願」を県に対して提出し明治28年、願は了承され、改めて「上一宮大粟神社」と復称したわけであります。
その際に、疎明史料として「上一宮大粟神社古伝書」「粟國開主神跡考」等々、驚愕の史料が提示されたのです。

続く(笑)


6 件のコメント:

  1. そういえば井川町の馬岡新田神社も波爾移麻比称神社でしたね。

    忙しい仕事の傍、この膨大な資料に取り掛かってるというのに
    こんな写真どこから仕入れて来るんでしょうかこのお方は。
    この山が焼山寺か、などと大真面目に没入して読んでると
    虚を突かれてか激しく笑ってしまいました。
    拾い物なんて言いながら、これ飼い犬じゃないでしょうね。
    何だかやりそうです。

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    1. そうです、井川町の馬岡新田神社も波爾移麻比称ですけど、式内社でなかったので今回は書きませんでした。
      で、
      うちの飼い犬はこんなに可愛くありません(笑)

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  2. この犬より可愛くない犬って、と、逆に興味が湧きます。
    それにしても何枚持ってるんですか足の短いねこの写真(^O^)。

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    1. ストックしてあるんです。
      こんな時に使おうと思って(笑)

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  3. 先日は御講義頂き又資料まで頂戴し誠にありがとうございました m(u_u)m 昨日、丹生神社を調べておりましたら、(三重県多気郡多気町丹生3999 丹生神社 式内社飯高九座の一つ)というのを見つけました。5月に丹生都比売から丹生川上など巡りましたが此処は近くまで行ってたのにお参りできてないなぁ!あれっ!この地名何処かで・・・そうです!ぐーたら先生の大宜都比売命の記事に出ていたのです。再読しました、多気郡に丹生がないと書いておられましたが、その右の飯高郡丹生がその土地です!多気町丹生は幕末時点では飯高郡丹生村だったそうです!報告終わります(^^ゞ

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    1. ありがとうございます。
      記事の参考にさせていただきます。

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