2013年5月5日日曜日

豊受皇太神御鎮座本記

一応、人前で説明はさせていただいたのですが3分くらい喋って、資料を配って終わりという、顰蹙ものの説明だったので、もうちょっとだけ説明しておきます。

聞く所によると、伊勢には伊勢神宮という大きな神社があるそうでして(笑)



伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。神社本庁の本宗(ほんそう)とされ、正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)である。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも言う。

伊勢神宮には、太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。内宮と外宮は離れているため、観光で内宮のみ参拝の人が多いが、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しいとされている。


主祭神は以下の2柱。
皇大神宮:内宮(ないくう)
天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ) - 一般には天照大御神として知られる
豊受大神宮:外宮(げくう)
豊受大御神 (とようけのおおみかみ)
以上 wikipediaより

内宮は垂仁天皇期に祀られ、外宮は雄略天皇の御宇に今の場所に祀られたとの伝承が起源となっております。
外宮の祭祀を代々司ってきたのが度会(わたらい)氏で、度会氏に伝えられてきたのが度会神道、一般的に言われる伊勢神道であります。
その伊勢神道(度会神道)の根本経典として伝わるのが「神道五部書(しんとうごうぶしょ)」。
鎌倉時代に度会行忠ら外宮祀官が、伊勢神宮に伝わる古伝を加味しつつ執筆したものとされており、奥付には奈良時代以前の記載であるとの記述があるそうですが、確認はできておりません。一般的には14世紀頃の成立であるようです。

この「神道五部書」はその名の通り5つの経典の総称でありまして

『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
『倭姫命世記』
の五書からなっております。
今回、ご紹介するのは、そのうちの『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)でありまして、外宮である「豊受大神宮」鎮座に関する由来を記したものです。


伊勢神宮公式サイトには


豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祭り申し上げる豊受大神宮は、内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも申し上げます。
雄略(ゆうりゃく)天皇は、夢の中で天照大御神のお教えをお受けになられ、豊受大御神を丹波(たんば)の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えされました。今からおよそ1500年の昔のことです。
 豊受大御神は御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌、つまり神々にたてまつる食物をつかさどられています。このことから衣食住、ひろく産業の守護神としてあがめられています。
 内宮と同じく、正宮と呼ばれますように、建物やお祭りはほとんど内宮と同様ですが、両宮は決して並列されるものではなく、あくまで内宮が神宮の中心なのです。



との説明が記載されています。
御鎮座の時期は、ボクが喋ったのとは大分違っていて、どうも勘違いしてたようです、ごめんなさい。
ま、それはそれとして『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみますれば
見ていただきたいのは赤線の部分。

天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也

これだけで、詳しい説明は不要かなとも思いますが...
阿波國に座す二社が皇祖皇統の正統なる末裔であると記してあるのです。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者、あるいは......
(ここを書かないから常々『ずるい』って言われるんだなぁ)

内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だったのです。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの本紀を記したのでしょう。

ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指しまして、天照大神を祭神とするのは皇大神宮(内宮)で、穀物神である豊受大神を祭神とする豊受大神宮(外宮)の本紀として、この記述があるのは、非常に疑問です。
あと、神皇産霊神、云々の話もでてましたよね
この辺りは今後の課題となるでしょう(だれか調べてよ〜)。

が、通常世間に出る事の無い「御本記」に、ここまではっきりと国名、郡名を出して、その起源を主張するには、並々ならぬ事情があったことと推測されます。

「道は阿波より始まる」にも伊勢神宮は「阿波王子神社」を遷座したものだなんて書いてありましたしね。一つの裏付けにはなるでしょう。

ってトコですかね。
いかがなもんでしょうか?

10 件のコメント:

  1. ぱちぱちぱち!!
    ぐーたらさん、すごい。
    王子神社がお伊勢って仮説初めて聴きました。
    「道阿波」読まないといけないですね。

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    1. ありがとうございます。
      記憶で書いたんで(汗)

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  2. ぐうたらさん、はじめまして、岸本と申します。

    「道は阿波より始まる」に伊勢神宮が「阿波王子神社」を遷座したものだと書いてあったとありますが、第何巻の何ページに載っているのでしょうか? その内容を気づかなかったものですから。

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    1. 第3巻の176ページの
      阿波皇子神社を基に建立された伊勢皇大神宮.....
      の所を書いたつもりだったんですが、ひょっとしたら違うトコ?
      阿波皇子を王子って書き間違えてるし(反省)

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    2. お礼が遅れて申し訳ありません。情報をありがとうございます。
      確かに最後の最後に載っていますね。

      阿波皇子神社はちなみにどこにあった神社なのですか? 質問ばかりですみません。(^^ゞ

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    3. 残念ながら、ボクには分っていません。
      徳島に「皇子」とつく神社は無かった筈なんですが(これも記憶定かでないですけど)
      候補として考えているのが、ノーマルには八万町の「王子神社」、御陵もありますしね。
      批判を承知で書けば、市場町「奈良街道」沿いの「若宮皇大神宮」。
      もうひとつ、或は伊勢の「粟皇子(あわみこ)神社」の事を言ってるのかな?
      などと考えたり。

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  3. 保田兵治郎氏の論文に
    "板野郡吉野町字五条にも古代より忌部族の本流と称する高志家があって伊勢神宮の本家であると
    云伝え伊勢の御祓いを受けなかった一族が在する。又上板町熊庄神社とその氏子には、京家と称する、玉田・和田・梅田・前田・前須賀・の五氏は(本文には六氏と記載)熊野源氏即ち南朝系の
    元祖で古来三種の神器を伝承し公家又は京家と呼んで明治初年に朝貢したと伝えられている。"
    と書かれてありました。高志家と京家の方々に言伝えられている話が聞けると面白い事が分かるかも知れませんね。

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    1. ありがとうございます、面白いですねぇ。
      伊勢神宮の本家ですか。
      >伊勢の御祓いを受けなかった
      ってところがキてますよね(笑)
      度会氏以前の忌部の系統であれば、凄いですよね。
      だれか、この二家のこと、ご存知の方おりませんかね。
      興味津々です。

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  4. こんばんは

    これは度会氏の出自を語ったもので、自分たちが忌部であることを語って
    いるものですね。宝賀寿男氏は度会氏が天日鷲命や天村雲命を祖としているのは
    後世の作文とし、丹波直の一族(海直)の一族としています。

    面白いのは荒木田氏も天村雲命を祖する系譜にしていますから、
    両者は同族と見なされます。
    恐らく荒木田氏は、度会氏の系譜を横取りしたのではないかと。
    中臣氏は、物部氏の支流という説があります。

    阿波の天村雲神社からして、宝賀寿男氏は少し勘ぐりすぎではないかと
    思うんですが。

    内宮の大切な祭祀には、荒木田氏より宇治土公氏の方が重要であったり
    します。

    宇治土公氏は三輪氏の裔です。伊勢は伊勢津彦命が元々は支配していましたから
    元々は、出雲の大名持命系の人々が内宮を大切に祀っていたと考えられます。

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    1. すいません、非常に遅くなってしまいました。
      >度会氏が天日鷲命や天村雲命を祖としているのは後世の作文とし
      それはどこかで読んだ憶えがあります。
      宝賀寿男氏だったかどうかは不明ですが、自らが忌部だと「権威付け」しているとの説でした。
      伊勢は忌部氏の形跡が多いところなので、仰っている、三輪氏との軋轢や権力闘争が想像できて、何か嬉しく(不謹慎か)なってきますね。

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