2013年3月6日水曜日

淳仁天皇 淡路陵(じゅんにんてんのう あわじのみささぎ)

ちょっと徳島県外が続いておりますが、個人的には関連してる先にしか行ってるつもりはありません(笑)
で、今回は、淳仁天皇 淡路陵(じゅんにんてんのう あわじのみささぎ)です。
場所はここ

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本当なら「西淡三原インター」で降りて、31号線を南に10分くらいで着くはずなんでしょうが、ケチ臭く「淡路島南インター」で降りたもんで、余分に20分位かかってしまいました。

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。 wikipediaより


代数:第47代
■天皇名:淳仁天皇(じゅんにんてんのう)
■御 父:舎人親王
■御 母:大夫人山背
■御陵名:淡路陵(あわじのみささぎ)
■陵 形:山形
■所在地:兵庫県南あわじ市賀集
宮内庁ホームページより



760年の光明天皇薨去後、孝謙天皇と弓削の道鏡と関係に、危機感を感じた藤原仲麻呂は、淳仁天皇を通じて、二人の関係を告発する。孝謙天皇はやむおえず出家し高野上皇となったが、ほとんど院政に近いかたちで実権を握っていた。
藤原仲麻呂の新羅出兵の近づいた天平宝字8年(764年9月11日)、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱は起きる。激戦の内に、高野上皇(孝謙天皇)から仲麻呂は逆臣としてみなされ、一転して仲麻呂軍は反乱軍となった。漢氏(あやし)、秦氏(はたし)らは、みな高野上皇(孝謙天皇)の側についた。藤原仲麻呂は、宇治から近江を通り、東国へ逃れようと琵琶湖へ出たが、遂に追い詰められ湖上で妻子4人と一味徒党34人が捕らえられ、湖畔で斬られた。
淳仁天皇は、仲麻呂の率いる軍勢もなく、衣服もはきものもそこそこに、母と3、4人の家来を連れて逃れようとしたが捕まって、淡路流配の身となった。翌年の天平神護元年(765年)10月、「幽憤に勝(た)えず、垣根を越えて逃げたが、明日、院中に薨(みまか)りぬ」と記されている。死因不明。
薨年33才。

「続日本紀」には「天平神護元年十月庚辰、淡路公、幽慎ニタエズ垣ヲコエテ逃グ。守佐伯宿禰助、接高屋連 並木等、兵ヲ率イテコレヲサエギル。公、還リテ明日院中に於テ甍ズ」とある。


この淳仁天皇陵より南に数百mのところに、母親である「当麻山背(たぎまのやましろ)」の墓がある。
 先の淳仁天皇陵もそうだけど、ここも訪れる人もなく、とにかく静かに佇んでいるだけでした。

両方ともご覧の通り、古墳に陵墓が作られております。
無論、誰の古墳であったかは不明ですが、系統の一族であったであろう事は想像に難くありません。

また、藤原仲麻呂は藤原不比等の孫、率川神社に阿波神社を勧請した藤原是公は藤原仲麻呂の甥。仏教に傾倒する孝謙天皇に対して感じていたのは、道鏡に対する政治的危機感だけではなかったでしょう。
あるいは藤原是公は737年の藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂ら、いわゆる藤原四兄弟の天然痘による死に何かを感じていたのかもしれません。

暗殺の疑いが濃い淳仁天皇は、怨霊としてやがて、皇室を悩ますが故に、宝亀3年(772年)に、光仁天皇は僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めました。

うーん、書きたい事の十分の一も書けてませんが、話は「大和大國魂神社」に移りますが、少し間が空いてしまうかもしれません。




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