オヤジ寒がりなもんでツライです(笑)
2012年4月29日付けの記事、「鳴門市大麻町 天河別神社」についての追記です。
図書館でフラフラしてたら、こんなのがありました。
以前の記事が2012年、この資料が2011年付けなんで、書いた時には気付いていなかったというお粗末さでございます。
では「天河別神社古墳群」についてもう一度簡単なレクチャーを「広報なると2005」より引用いたしますと。
天河別神社古墳群1号墳 県内最古の古墳を確認
市教育委員会では県指定史跡である天河別神社古墳群1号墳の二次発掘調査を今年7月から行った結果、墳丘墓の特徴を残す県内最古の古墳であることがわかりました。
尾根上に青石を多用し石室を築造
大津町から板野郡板野町にかけての阿讃山脈からのびる尾根には、弥生時代末期から古墳時代前期の墳丘墓や古墳が数多くみられます。天河別神社古墳群は、この地域の中央部にあたる大麻町池谷の低い尾根上に築造されています。
天河別神社古墳群1号墳は、以前の調査で存在が確認された11基の古墳のうちのひとつで、天河別神社本殿の背後にある直径約25m、高さ3.5m、幅4mの周壕(堀)をもつ円墳です。
昨年の調査の結果、石室には吉野川南岸で採取される結晶片岩(青石)が使われていることがわかりました。当時、天河別神社古墳群周辺には入り江が入り込み、この石材は吉野川南岸の地域から船で運ばれてきたと考えられます。
側壁が二重の竪穴式石室
石室は古墳の中心部に良好な状態で残っており、右の模式図のように内側の大きさは、南北に約4.9m、東西に約1.1mで高さは約1.2m。被葬者は、頭を北側に向けて埋葬されていたと考えられます。
古墳の構造は、墳丘の上半分が頂部を平坦に削りだした後、墓壙(墓穴)を堀り、平坦面から上部は盛り土を施した後に内部を被覆土で充てんしています。
墓壙の平坦面の上には石室が築かれています。石室の底(床面)の下部構造は一番下に、断面が台形状の土の「基台」があり、それを覆い隠すように粘土に小ぶりの川原石を混ぜた礫混粘土をはり付けて、「礫床」をつくっていました。その上の棺を置くため粘土棺床は約40cmと厚く、2回に分けられてはられていました。その上には、やや大きめの河原石を使った礫混粘土が積み上げられ「礫混粘土帯」ができていました。
上部構造としては、礫混粘土帯の上に結晶片岩(青石)の「板石積み」の側壁があり、側壁はやや内側に傾斜を持たせながら積み上げられ、持ち送り状に積まれていました。また、側壁の外には結晶片岩と砂岩でできた石囲いが石室を囲んでおり、二重構造になっています。石囲いに接する西側には「板石敷き遺構」が見つかりました。天井は石室上面の配石状況の高さから木のふたによって閉じられていたことが想定されます。
木棺や遺骨などはすでに腐食してしまい見つかりませんでしたが、石室内からは鉄剣と古墳時代最初期に作られたとみられる土器の破片が見つかっています。
近畿地方の竪穴式 石室の起源とする説も
これまでは平成12年に発掘調査された大麻町大谷の西山谷2号墳が県内最古の古墳であり、国内最古級であるとされてきました。しかし天河別神社1号墳は(1)西山谷2号墳では一部しか見られなかった石室側壁の二重構造が石室を全周していること(2)副葬品が少ないことなどから、さらに数十年古い3世紀後半に築かれたものであると推定されています。
また、この2例の築造年代は土器の破片などから近畿地方で見られる同様の竪穴式石室よりも古い時代であることがわかってきました。これは近畿地方の竪穴式石室の起源が現在の徳島県と香川県にあたる阿讃地域にあるとする仮説を裏付ける発見であると考えられています。
前回の記事でボクは
萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)が3世紀前半の築造と言われておりますので国内最古の地位は明け渡しております
などと書いておりましたが萩原墳墓群は古墳時代以前の築造なので「古墳」と呼ばずに墳墓群と呼ぶので県内最古の「古墳」とはならないそうです。(ふ〜ん)
でこの「天河別神社古墳群発掘調査報告書」に何が書かれているかと言いますと。
あ、スキャンが傾いちゃってごめんなさい。
これも以前に「八人塚古墳見学会報告の追記というか、萩原2号墓について」で掲出した資料と同様の朱の分析が行なわれています。
まずは分析結果を見てみましょう。
これが何を意味するのか。
「萩原2号墓」出土の水銀朱と同様に「天河別神社古墳群」2号墓および4号墓には中国貴州省産の水銀朱が使用されていました。
「萩原2号墓」は3世紀前半頃の築造、「天河別神社古墳群」は3世紀後半の築造。
これは下図年表を見ても
完全に「魏」(あるいは三国時代)と一致します。その後の「晋」の時代と被ったとしても何ら支障はありません。
魏国「文帝」の時代から「元帝」の時代まで数十年、魏国との交流を継続してきた証左だと判断できるのではないでしょうか。
「萩原2号墓」との位置関係にも注目願います。
クリックして拡大してみて下さい。
目と鼻の先というより、隣接している状態です。
もう一つ出土の「二神二獣鏡」も気になるところですが
これも最古級の出土物に属しながら、いくつかの論文を流し読み程度には読んでみましたが、出土一覧にはあってもはっきり言及した資料が見つからなく、ここらは今後の調査に期待したいと思います。
さて、中国「魏国」の時代を通じて交易を続け水銀朱の提供を受け続けていた首領の一族が「ここ」にいた事は明らかです。
それが一体「誰」であったのか?
天河別神社の御祭神は「天河別命」。奈良時代の「朝野群載」にも「天河別神」とあり、これも再度の記載となりますが
板東村と大谷村との山の奥に あまがつぶといふ高き山有り、古へ天河神社てふは是なり
後池谷村に移し祭りて松童権現といふなりとみつ、いともくすき事なる、まゝ人のあやし
といふべきことながら書記しける「朝野群載より」
とあり
「あまがつぶ」は「天円山」と書き、別名天ヶ津峰(あまがつみね)。
頂上には「天ヶ津神社」があり、「天ヶ津神社」の伝承は
祭神は天錐命(天鈿女命)である。天照大神の岩戸隠れの折、ホトを丸出しで踊り大神を引き出した女神である。やがて瓊瓊杵尊に従って天下るとき、出迎えた猿田彦命と連れだって天下った。猿田彦命は西の大麻山に祀られ、天錐命は猿田彦命と相対してこの山に鎮座されている。以来大麻山に棲む猿が峰伝いにこの山に遊びに来た。
ということであります。
さて、どのあたりに考古学と伝承との接点があるのでしょうか。
なかなか妄想のしがいがあるじゃないですかね(笑)
あ〜疲れた。
年内もう一つぐらい書きたいけど、最後の一週間、修羅場だからどうなるかワカンナイっす。
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以下はナイショのおまけ(笑)