2010年8月3日火曜日

石井町 轟神社

いわゆる古社ではないんですが、さびしい神社シリーズ第2弾として
(おいおい、いつシリーズ化したんだよお)
石井町浦庄の轟神社です。

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場所は地図に見える王子神社のすぐ南です。もちろん地図になんか載ってません。
ほんとはこの王子神社(いわゆる西王子神社)を含めて東王子神社、中王子神社
この三王子神社のことをたっぷり書きたい所なんですが、シリーズでありませんので
(まだ言ってるよ)今回はパス。
前回行った時はこの王子神社社殿横からの脇道を通って行きましたが。入り口に
ちゃんと案内があります。
↑これは王子神社の鳥居。実はここも結構さびしい神社なんです。


こんな道を登っていきます。でも、ほんの100〜200メートルくらいです。
苔むしていて、すっごく滑ります。


「轟神社」です。なんとも言いがたい神社です。
三好氏家臣「近藤勘右衛門正次」の居城であった「轟城」跡です。
記録には、天正十年(1582年)七月三日夜、長宗我部家臣北村閑斎、野中三郎左衛門
池田肥後守ら三千の兵が轟城を攻める。正次は援軍二千余の側面攻撃と同時に城を出
て、五十余騎で突撃。長宗我部勢は正面、側面からの攻撃により三百余名を討たれ、
撤退。この合戦を「轟の夜戦」と云う。天正十年八月、長宗我部家に攻められ落城。
とあります。

側面からの援護はあったにしても、五十余騎で正面から三千の兵に向かっていった訳です。
当時、各地で土地の首領を蹂躙していた長宗我部に対して決死の覚悟で一矢報いたものの、結局は滅びていく運命だったのです。

祠の右に見える石碑に
拡大すれば「近藤....」と彫られてる辺りまでは見えるかな?。
石碑が崩れたのか、五輪塔か何かがあったのか?
くずれた破片が何とも言えない気持ちにさせます。
そしてさらに奥へ進むと。


崖っぷちに末社?「近藤勘右衛門正次」本人のものか、家臣のものかは分りません。
ここも相当崩れています。末社?祠?は新しそうなので、もともとあった祠か何かの跡に
作られたのでしょう。
ただ、こうやって石井町を見渡せる場所に祀られています。
さびしい神社と言うより、悲しい神社です。
ただ、武士(もののふ)は戦って死ぬ事で名を残すよりなかった時の事です。

西原理恵子の「パーマネント野ばら」の台詞です。
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子供のころじいちゃんが教えてくれた
「人はなあ二回死ぬで
一回目は生きるのがやまってしまう時
二回目は人に忘れられてしまう時や」

「人の心の中におらんようになったらいよいよ最後なんや
今度こそ本当に死ぬ
二度と生きかえらん」
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「近藤勘右衛門正次」は、まだ生きているようです。
















うわあ、今回カッコいい!(←書かなきゃいいのにね)

10 件のコメント:

  1. イコピコのひとりごと2010年8月4日 5:36

    ぐーたら先生。ついにシリーズ化決定!「寂しい神社」「悲しい神社」シリーズ。>子供のころじいちゃんが教えてくれた
    「人はなあ二回死ぬで
    一回目は生きるのがやまってしまう時
    二回目は人に忘れられてしまう時や」

    「人の心の中におらんようになったらいよいよ最後なんや
    今度こそ本当に死ぬ
    二度と生きかえらん」に続き
    「近藤勘右衛門正次」は、まだ生きているようです。・・・。カッコ良過ぎ~。ちなみに私、今までぐーたら先生の文章を、誰の声で読んでいたかと云うと・・。すんません。笑福亭鶴瓶でした。(すみません。このとおり心から謝ります。)でも今回は違う!!最後の「近藤・・」からは・・田村正和。です。(え~。誰ほれ~。ほんな名前聞いたことないでよ。の声)

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  2. カッコいいなぁ・・・(*^^)v
    このあたりは、涼しくなったら(笑)ゆっくりと歩いてみたいですネ♪
    特にたくさんある古墳との関係もしっかりと見てみたいです!!
    (*^。^*)♪

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  3. 電話番のフー2010年8月4日 17:25

    こんにちは!またまたお邪魔いたしまして、胸キュンになりましたよ~(笑)

    長宗我部元親は、戦国BASARAというゲームの影響で歴女の間で人気らしいですね。心の狭い私は、何百年も前のことなのに複雑な気持ちになります(笑)
    川島の上桜城主:篠原長房が悲しく・・・素敵だと思っていたのですが、この近藤正次も悲しくそして素敵ですね。
    是非、訪問したいです。

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  4. こんにちわ、はじめまして
    「轟の夜戦」で検索して
    こちらにたどり着きました。


    <<「近藤勘右衛門正次」は、まだ生きているようです。
    はい生きています。
    といっても子孫がですが^^;
    実は私のうちは近藤正次の子孫といわれています。
    家系図だけが頼りですが・・・
    「もう轟城跡なんて山になっているんだろうな」
    とおもっていたら
    まだその遺功があるとは思いもよりませんでした。
    もしこちらの記事を見なければ
    一生ここのことは知らずに一生を過ごしたかもしれません。
    生きているうちに是非
    一度こちらの轟神社に行ってみたいと思います。
    ありがとうございました。

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  5. to イコピコのひとりごと さん
    笑福亭鶴瓶ですか。

    笑福亭鶴瓶.........

    どこで目撃されたんだろう?

    んなわけないっしょ。でも、ここだけの話私めの母校の大先輩であります。

    最後の所というか、このブログを見る時は福山雅治が
    「黒船じゃきん、阿波の夜明けは近いぜよ」
    などと言っている所を想像していただければ、「ほぼ」間違いございません。

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  6. to すえドン さん
    大分前になりますが、東王子神社から中王子神社、西王子神社から西へと回っていった事があります。
    あまりに面白くて、その後葛城神社、八坂神社、日吉神社、御霊薮など行くうちに日が暮れてしまいました。
    ほんとに我ながらバカじゃないかと思いました。
    涼しくなったら、すえドンさんも暗くなるまで回ってみてください(笑)

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  7. to 電話番のフー さん
    同感です。長宗我部元親は各地で暴虐の限りを尽くしてるのに、どうも
    かっこ良く思われすぎてますね。
    だから歴女は........なんて言ってるから相手にされないんでしょう。
    直江 兼続だとか前田慶次だとか言ってないともてないようです(笑)
    さびしい神社シリーズで続けようとも思うんですが、そのうち崩れた神社
    シリーズになってしまいそうで....
    ちょっと方向性を考えてます。

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  8. to 近藤正次の子孫 さん
    コメントありがとうございます。
    いきなり検索でひっかかったんですね。
    記事を書いたのは昨日8月3日なんですよ。ほんとうに驚きです。
    検索してお分かりでしょうが「轟の夜戦」については資料がほとんどありません。
    ここが本当に「轟城」跡なのかを確認するだけで一苦労しました。

    >もしこちらの記事を見なければ
    >一生ここのことは知らずに一生を過ごしたかもしれません。

    そう言っていただければ、記事を書いた甲斐があります。
    こちらこそありがとうございます。
    今は徳島県外でお住みなのでしょうか?
    ぜひとも一度おいで下さいませ。ご先祖様もお待ちだと思います。
    ただ、ご覧になったとおりの状況ではありますが...

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  9. サクラサク48692011年9月3日 14:49

    ぐーたらさん、こんにちは♪
    ぐーたらさんの記事を読み返しておりますので、
    私のコメントだらけになってしまうかもしれませんm(__)m

    近藤正次さんの子孫の方がぐーたらさんの記事を読まれて、
    ご先祖にお参りに行かれるなんて・・・・
    いいお話です。感動しました。

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  10. to サクラサク4869 さん
    おっと、台風で外出できなくて、こんな古いの引っ張り出してきましたね(笑)
    この記事、実はちょっと説明不足で「轟城跡」は山のすぐ下なんです。
    タイトルが「轟神社」で「轟城跡」まで書いたんで誤解されそうな内容になっててちょっと反省、書き直そうかな。

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