懺悔の部屋もはや3つめになってしまいました。
こんな罪深い私は許されるのでしょうか。
だめだそうです。
以前8月に石井町 轟神社について書かせてもらったんですが
そのとき、近藤正次の子孫の方からコメントをいただきまして
ご自身のブログにコメントリンクを張ってくれてたんですが
「見てませんでした」
あああああぁぁぁぁぁぁぁ、最低のおやじです。
罪滅ぼしに、このブログを見てくださっている皆さんにプレゼントを......
できないので、もいちどご紹介をさせていただきます。
以前紹介したのが、石井町の轟城
三好氏家臣「近藤勘右衛門正次」の居城です。
そこで、コメントをいただきました。
>こんにちわ、はじめまして
>「轟の夜戦」で検索して
>こちらにたどり着きました。
><<「近藤勘右衛門正次」は、まだ生きているようです。
>行方不明だった家系図を無事発見しました(;・∀・)はい生きています。
>といっても子孫がですが^^;
>実は私のうちは近藤正次の子孫といわれています。
>家系図だけが頼りですが・・・
>「もう轟城跡なんて山になっているんだろうな」
>とおもっていたら
>まだその遺功があるとは思いもよりませんでした。
>もしこちらの記事を見なければ
>一生ここのことは知らずに一生を過ごしたかもしれません。
>生きているうちに是非
>一度こちらの轟神社に行ってみたいと思います。
>ありがとうございました。
とのご丁寧なコメントをいただき、今となってリンクをたどりますと。
田舎のお茶屋の日記っていうブログです。
御当主なんと22歳、おじさん、それかける何倍じゃないっすか。
またブログがチャラい。(うそうそうそ、嘘、嘘ですよ、冗談ですよ)
記事の中で家系図のことなんて書いてます。
>行方不明だった家系図を無事発見しました(;・∀・)
おいおい、いきなりですか。
>藤原正則の次男
>その後三好氏につかえ
>色々勲功を重ねていき
>今の徳島県
>阿波の国に轟城というお城をもらいます(∩´∀`)∩ワーイ
>ちなみに
>その息子の一人に内蔵助正重
>のちに
>内蔵助正宗という改めた一子がいましたとさ。
という事だそうです。
そして「轟の夜戦」に突入。
>ちなみに
>この孫太郎正行という人は
>「さすがσ(゚∀゚ )オレの先祖」というべきなのか・・・・・・・
>孫太郎正行
>「押忍!おら孫太郎正行!何か突撃してきたくなったぞ!」
>敵3000人もいるのに
>そこで50人で突撃したりするちょっと無鉄砲な人らしいそうです。
>ちなみにその戦いは
>「轟の夜戦」という戦いだそうです(*´・ω・)(・ω・`*)
>ちょっと
>前田慶次みたいですね=w=;)
だ、そうです。
詳しくは本文
をご覧ください。
通信販売とかネット販売してるかは、ブログじゃちょっと判んなかったんですが
ご存知の方はぜひぜひ応援してあげてください。
でも、店の名前も出したり、ブランド名とか付けてもっと売りましょうよ。
「轟轟茶(ゴーゴーティー)」とか。
(センスねえな)
轟城趾へ行きかけたのですが、道が狭くて怖いので、ひきかえしてしまいました 残念です
返信削除to ひろ さん
返信削除はじめまして、ですよね?
あの辺りは、まだ大丈夫ですよ。
対向はできませんけど(笑)
ただ駐車する所に困るんですよね。
軽4に乗ってるんですが、この前なんて木の枝で屋根を擦ってしまいました。
どんな所を走ってるんでしょうね。
なかなかパソコンでメールが打てず、味も素っ気もないコメントをしてごめんなさい。私の母方の祖先が正次サマだったと母から聞いていて、ずっと城のある場所が知りたかったので、写真を見て感激しました!やはり 昔に亡くなった祖母の実家の近くでした。でも祠等の状態を見て、悲しくなってしまいました・・ でもいつか勇気を出して行ってみようかな・・歴女なので、ぐーたらさんのブログ興味津々です がんばってください!
返信削除to ひろ さん
返信削除わーい、歴女だ歴女だ(ごめんなさい。こんな性格なんです)
>祠等の状態を見て、悲しくなってしまいました
でもね、雑草は生えてないし、ゴミも落ちてないし誰かが手入れを
されてるような感じでしたよ。
ぜひ、行ってみてください。
国道192号線の石井町「割烹ふじもと」のあたりから南へ入って
八坂神社の鳥居をくぐっていく道の方が行きやすいかも。
(国道からの入り口がわかりにくのが難点ですけど)
もしよかったら「田舎のお茶屋の日記」のブログにも何かコメント
してあげてください。
きっと喜んでくれると思いますよ(♡)
またコメントください、オバカな返事をさせてもらいますので(笑)
いろいろと、詳しく教えて下さってありがとうございました 感謝です!^^ また遊びにきます^^
返信削除師匠、ご無沙汰しております。如何お過ごしでしょうか。
返信削除轟神社へようやく(2/4)お参りすることができました。これも、師匠のブログのお蔭ですm(u_u)m
ただ、少し気になったことがあります。この地には轟神社の案内やら社標はありますが、城趾の表示は一切ありません。轟神社の向かって右に建つ青石の碑には「轟城主 近藤豊後守藤原正次?」とあり、一族の方が祖先をお祀りしたのは間違いないようです。その子孫の方たちが城跡であればそのことも明示するのでは・・・と考えました。城郭放浪記を見ますと、轟城は下浦駅北東にあったとして(『徳島県の中世城郭』を基に考えてますね。)城址の石碑2基の写真を挙げています。教育委員会が全て正しいとは限りませんが、子孫の方々もそのように捉えてるのでしょう。轟神社から北北西に650mの地に轟城はあったようです、轟神社は奥津城の地であったと考えられます。ただ、三角点からの眺望は素晴らしく轟城の出城(砦)があったことは充分に想像できますが・・・
ごぶさてしております。
削除なんということでしょう。闇に葬ろうと思っていた記事を(笑)
仰る通りで轟城は平城であったようで、下浦駅北東が正しく、線路沿いに城跡の碑も残っています。
西方600mの津毛塁に片の丸城が出城としてあった様ですが、轟神社は物見場所であったかもしれませんが城跡ではない様です。
また、改めて懺悔します.....(涙)