(おいおい、いつシリーズ化したんだよお)
石井町浦庄の轟神社です。
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場所は地図に見える王子神社のすぐ南です。もちろん地図になんか載ってません。
ほんとはこの王子神社(いわゆる西王子神社)を含めて東王子神社、中王子神社
この三王子神社のことをたっぷり書きたい所なんですが、シリーズでありませんので
(まだ言ってるよ)今回はパス。
前回行った時はこの王子神社社殿横からの脇道を通って行きましたが。入り口に
ちゃんと案内があります。
↑これは王子神社の鳥居。実はここも結構さびしい神社なんです。

こんな道を登っていきます。でも、ほんの100〜200メートルくらいです。
苔むしていて、すっごく滑ります。

「轟神社」です。なんとも言いがたい神社です。
三好氏家臣「近藤勘右衛門正次」の居城であった「轟城」跡です。
記録には、天正十年(1582年)七月三日夜、長宗我部家臣北村閑斎、野中三郎左衛門
池田肥後守ら三千の兵が轟城を攻める。正次は援軍二千余の側面攻撃と同時に城を出
て、五十余騎で突撃。長宗我部勢は正面、側面からの攻撃により三百余名を討たれ、
撤退。この合戦を「轟の夜戦」と云う。天正十年八月、長宗我部家に攻められ落城。
とあります。
側面からの援護はあったにしても、五十余騎で正面から三千の兵に向かっていった訳です。
当時、各地で土地の首領を蹂躙していた長宗我部に対して決死の覚悟で一矢報いたものの、結局は滅びていく運命だったのです。
祠の右に見える石碑に
拡大すれば「近藤....」と彫られてる辺りまでは見えるかな?。
石碑が崩れたのか、五輪塔か何かがあったのか?
くずれた破片が何とも言えない気持ちにさせます。
そしてさらに奥へ進むと。

崖っぷちに末社?「近藤勘右衛門正次」本人のものか、家臣のものかは分りません。
ここも相当崩れています。末社?祠?は新しそうなので、もともとあった祠か何かの跡に
作られたのでしょう。
ただ、こうやって石井町を見渡せる場所に祀られています。
さびしい神社と言うより、悲しい神社です。ただ、武士(もののふ)は戦って死ぬ事で名を残すよりなかった時の事です。
西原理恵子の「パーマネント野ばら」の台詞です。
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子供のころじいちゃんが教えてくれた
「人はなあ二回死ぬで
一回目は生きるのがやまってしまう時
二回目は人に忘れられてしまう時や」
「人の心の中におらんようになったらいよいよ最後なんや
今度こそ本当に死ぬ
二度と生きかえらん」
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「近藤勘右衛門正次」は、まだ生きているようです。
うわあ、今回カッコいい!(←書かなきゃいいのにね)


