2011年11月6日日曜日

もうひとつの土御門上皇伝説

天気は悪いし、徳島マラソンやってて移動はしにくいし(いや、文句は無いんですよ)
この歳になると天気で体調がすぐ変わってくるし(涙)
昼食はちょっとお出かけでもしてみましょう。
と、やってきたのが島田町「タクト」前にあるカフェ「kurasu」
よく前を通るんで気になってました。
入ってみると雑貨店と一緒になったカフェレストラン
数種類あるランチメニューからデミグラスソースの「オムライスセット」を
注文します。実はオムライス好きなんです。
サラダとスープがついて700円。量は女性向きかな、あまり多くありません。
でも、ワタクシには充分。
嫁さんは「ハンバーグランチ」この時既に手を付けてたので写真は省略。
と、いうわけでおいしくいただきました。
ではまた。

ん?タイトルの「もうひとつの土御門上皇伝説」は、って?
そんなの書いてたかな?

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年12月2日(1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日
(1231年11月6日))は鎌倉時代の第83代天皇
(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日)。
諱は為仁(ためひと)。
後鳥羽天皇の第一皇子。母は、久我通親(源通親)の養女(実は法勝寺執行法印能円の女)
承明門院・源在子。

承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので
処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいる
のは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。
鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの
厚遇振りを見せている。  wikipediaより

要は承久の乱を起こした父、後鳥羽上皇に殉じて自ら土佐、阿波へ配流されたお方です。
なので阿波には上皇の跡を残す場所が多くございます。

鳴門市 阿波神社内には「土御門天皇火葬塚」
阿波市土成町には「土御門上皇行宮跡」

同じく阿波市土成町に「土御門上皇 終焉の地」
土成ポータルサイト「土御門上皇 終焉の地」にあります)

阿波市土成町 蓮生寺内 敬王塚
阿波市吉野町 若宮神社内 王墓(方形墳)

そして阿波市吉野町西条の「姥塚」が土御門天皇妃といわれており
阿波市土成町 山皇子神社は土御門天皇皇子を祀ってあるとされております。

ちなみの、ちなみに(これ書くと違う方向へいっちゃうからヤダなんだけど)
三好市東祖谷の「栗枝渡八幡神社」内に「安徳天皇」の御火葬場として栗枝渡ノ御火葬場
が残っております。

そこらはさておき、今回はここ石井町の「御瀧神社」。
前にもなんやかやで、ちょろっと書いたりしておりましたが。
御祭神は素戔男尊(すさのおのみこと)
尼寺古墳群の真上に鎮座しております。
すぐ裏は「古墳」「古墳」「古墳」古の尼木城(海城)跡ではないか?という場所です。

ここに一つの伝承がありました。見っけました。
土御門上皇が火葬に附されたとき、そのお骨を狙って追われ、お骨は御付の者が背負い
ここまでやってきたが力尽きてこの神社のある木の株の根元に埋葬し追っ手には遂に
渡さなかった。
というものです。

その木の株の場所は

西へ向いて少々階段を上ると左側に地神社がある、その横を南に行き自然石の石段を
西に一間位上がると東向きに板碑や刻まれた石塔がある。
この南側に朽ちた木の株がある。
御代若君の墓として残っている。

 さあ、どうしましょう。
ここが地神社。
「その横を南に行き自然石の石段を西に一間位上がると東向きに板碑や刻まれた石塔がある」んですか。
はい、行ってきました。
でもね、見て下さい。地神社の土台、きれいに仕替えてますよね。
「場所が変わってるぅぅぅ」
大分うろついてみたんですが、夕方の五時過ぎになってしまいました。
いられませんよ、怖くて。
でも、ここらは一時、相当歩き回った自信はあります。
けど板碑は見たこと無いんだなあ。崩れた五輪塔らしきモノは見かけましたが。
日を改めてもう一度行ってみますけど、この伝承では、なぜ上皇の遺骨を持って
逃げなければならなかったのか、追っ手は何者なのか、どこへ逃げようとしていた
のか、全く分りません。

またしても、ちなみに
寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御であるそうです。
出家したその月に崩御ですか、う〜ん。

という訳でおいしいランチでしたとのお話です(アホ)。