麻植の系譜(2)
麻植の系譜(3)
の続きです。
では、麻植氏系譜より何点か気になる点をピックアップしてみますと。
十四 麻富命 崇神天皇朝勅命ヲ奉諸国神社江荒妙ノ服ヲ織神服トシ別奉ル
弐二
長麻殖大連
清寧天皇朝即位二年辛西十一月始メテ大嘗會行ハルニ依
テ由岐須木ニ用ユル麻布ヲ古例ニ任シ粟國忌部ヨリ献ル可ト
勅命ヲ奉蒙ケレバ定例トナリ又此功ニヨッテ大連トナル
このように系譜によれば崇神天皇朝より天皇祭祀に関わり、清寧天皇朝には荒妙献上が「定例」となったとまで記されておりますが、これほどの氏族が、現在ほとんど知られていないのはなぜなのでしょうか?
その一端を「阿波麻植郡忌部郷考」(下記資料)に見ることができます。
資料は孫引きで原本が手元にないんですが、斎藤氏の著作なんで大丈夫でしょう。
阿波麻植郡忌部郷考
(前略)
蜂須賀氏の封を阿波に受くる。
三好長曽我部氏割拠の遺を承け、土地租税皆旧に初る。
故に古昔大社の地と難も、一旦混没に帰すれば従って共有を私するは亦怪むに足らざるなり然るに朝廷幕府より之を捜索するに及び、式内大社たるを以て、再び崇敬を表し或は神領を復するの虜なき能はす。
是に於て務めて共跡を混し、復攻索し難きを欲し一切忌部社及び麻殖氏の事に係り隠蔽して之を記さず。
國内神明帳焼棄
亨保年間の編纂に係る國内神明帳を厳重に焼棄せしめ寛保三年忌部関係社を削除した國内神明帳を発表す(今世に流布する神明帳は是なり)。
うーん、亨保年間の阿波国の神名帳は焚書されたと言うのですねぇ・・・
「忌部神社遷座考(2)」でも書いたように、社地が特定されてしまえば三里四方とも言われた広大な忌部大神宮の社地をそのまま変換しなくちゃならないんで、徳島藩としては税収大幅減のインパクトを防ぐため「復攻索し難きを欲し一切忌部社及び麻殖氏の事に係り隠蔽して之を記さず」を貫く以外に方法が無かったんでしょうね。
その隠蔽の例として、例えば川島町の鎮守八幡神社
學島村児嶋旧村杜八幡神社祭神誉田別天皇秘羽四神外一座
現在の由緒書は
もとは秘羽目神社という。現在の社地の南側に鎮座していたが、天正年間、武士の起こした戦さにより火をかけられ神宝・社記などすっかり社殿とともに焼失した。その後、現在の位置に式内日羽女(ひわめ)神社として再建した。ところが蜂須賀氏が阿波藩(徳島県)の領主となり、式内日羽女神社の社号はさしつかえがあるとされ、なまえを変えるよう申し渡された。その結果誉田別命を合祀して、鎮守八幡神社と改称したのであると伝えられている。
以下略
となっておりますが
學島村児嶋旧村杜八幡神社祭神誉田別天皇秘羽四神外一座
當社は式内小社秘羽四神社にて天正年間兵◯に羅り神宝社記等悉皆焼失す。
式内秘羽四神社と崇敬致居處蜂須賀侯入國の后秘羽四の社号指支に付八幡宮と改称すべき旨被申渡依って神殿へ應神天皇 を合祭す。
「秘羽四(ひわし)」の「四」の字を縦にして「目」と書き「秘羽目(ひわめ)」としていたけど、それでも藩はダメだって言って社名を変えさせたってことですね。
いや、なんとも。
當社は式内小社秘羽四神社にて天正年間兵◯に羅り神宝社記等悉皆焼失す。
式内秘羽四神社と崇敬致居處蜂須賀侯入國の后秘羽四の社号指支に付八幡宮と改称すべき旨被申渡依って神殿へ應神天皇 を合祭す。
「秘羽四(ひわし)」の「四」の字を縦にして「目」と書き「秘羽目(ひわめ)」としていたけど、それでも藩はダメだって言って社名を変えさせたってことですね。
いや、なんとも。
また例えば
浮島八幡宮も同様に
浮島八幡宮
宮島村鎮座祭神天日鷲命(今は川島神社に合祀) 神社名細帳に八幡神社は式内社日羽女神社と崇敬致居候処蜂須賀候入国の後日羽女の社号指支に付八幡宮と改称すべき旨被申渡依て全神殿に応神天皇を合祭し鎮守八幡神社と称し奉る。
とあり、ここも改ざんされたことが示唆されております。
浮島八幡宮についてはいろいろあるんですが、よろしければ
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(2)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(3)END
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(訂正と追記)
などをご覧ください。
で、今回で一旦ENDにするつもりだったのですが、泣きのもう一回で次回でいっぺん切ります。(笑)
続く
ワタシはどこに行くのでしょうか?