2015年2月7日土曜日

二つの豊玉比賣神社(下)

二つの豊玉比賣神社(上)
二つの豊玉比賣神社(中)
の続きとなります。

さて、延喜式にあるこの二つの「豊玉比賣神社」
ご存知のように、この「延喜式」社名はありますが「祭神名」は記載されておりません。
また由緒等も記載されておりません。
なので、他の資料などを元に祭神を確認していくわけです。
前に出したこの「阿波志」などを見ても和多都美豊玉比賣祠(神社)」については、三代実録に記載があるとの記述で
三代実録原文には
『三代実録』巻四十四元慶七年(八八三)十二月二日甲午 二日甲午 授阿波国従五位下和多都美豊玉比 神・白馬神並従五位上
との記載もあり
比定社は三社(雨降神社、王子和多都美神社、王子(玉子)神社)とあるものの、存在自体がはっきりしておりますが、「天石門別豊玉比賣神社」については「今廃」のみで、三代実録にも神階授与の記録がありません。

さらに言えば「阿波国(続)風土記」においてさえ「天石門別豊玉比賣神社」については
上記のように調査した担当者によって城内にあるとか、名東郡矢野村にあるとか記述が違っております。
「名東郡矢野村」云々の記載においては「杉尾と称す」の記載もあり、あるいは「八倉比賣神社」との混同とも見られる書き方となっております。
ただし、「天石門別豊玉比賣神社」=「天石門別八倉比賣神社」が絶対ありえないとは、ワタシは言いません。
後でどんな資料が発見されないとも限りませんので(笑)。
まあ、確率で言うのもおかしいんですが、個人的には99%(笑)ありえないとは思いますが。
余談でした、要は「天石門別豊玉比賣神社」の由緒などがはっきりしないということです。
そこで「二つの豊玉比賣神社(中)」で出した「名神序頌」の記載
「天石門別豊玉比賣神社本在猪山城墟穪龍王宮往古自一宮龍王峯遷之」
が重要な意味を持ってくると思われるのです。

さらには社名を見ていただきたい。
「天石門別豊玉比賣神社」
「和多都美豊玉比賣神社」
御祭神「豊玉比賣」を祀るのに、なぜ別々の神社に祀られているのか?
「祀った一族の系統が違う」?
もちろんそれも考えられます。
短絡的に考えれば「天石門別」は忌部の系統、「和多都美」は海部の系統が祀ったようにも見えます。
ならば忌部と海部の祖神は同じか?いや違うでしょう。
との疑問が出てくるはずです。
「海部」の祖神が「豊玉比賣」なのは何の問題も無いんですが、「天石門別」と冠する場合は違います。
研究者によって見解は違います。
「永井精古」は「天石門別神」が忌部の神であるため「豊玉比賣」を「天石門別神」の系譜に連なる忌部の神としております。
社名に冠する「天石門別」や「和多都美」は祭神の系譜の一部を現すのが一般的でしょう、ならば同一神社名に冠する「形容詞」違う場合は?
一つ思いつくのが「同名異神」。
あくまで説として挙げましょう。
「天石門別豊玉比賣神社」と「和多都美豊玉比賣神社」の御祭神は違う。
「和多都美豊玉比賣神社」の御祭神は神武天皇の祖母である「豊玉比賣」であるが「天石門別豊玉比賣神社」は忌部の系統である別神である、と。

出口延経「神名帳考証」
興田(奥田)吉従の説として玉造部の遠祖としての「豊玉者」である「豊玉比賣」であるとの説を現しております。


また鈴鹿連胤「神社覈録(じんじゃかくろく)」においても大山為起の「延喜神名式比保古」の記載と興田(奥田)吉従の説を併記し同様に玉造神である「天明玉命」であると記され「祭神明か也」とあります。

大山為起(おおやまためおき)は慶安4年(1651)生まれで、山崎闇斎門下であり、本居一派の興田(奥田)吉従とは時代も学派も違います。
それが同一の説に行き着いていることを軽々に見過ごしてはならないでしょう。

ともあれ、「仮に」「天明玉命」だったとしましょう。
「天明玉命」は別名
「櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)」
「天明玉命(あまのあかるたまのみこと)」
「天羽明玉命(あめのはあかるたまのみこと)」
「天豊玉命(あめのとよたまのみこと)」
「玉祖命/玉屋命(たまのやのみこと)」
「天櫛明玉命(あめのくしあかるたまのみこと)」
「羽明玉(はあかるたま)」
であり

太玉命の率いる五神(天日鷲命:阿波忌部の祖、手置帆負命:讃岐忌部の祖、彦狭知命:紀伊忌部の祖、櫛明玉命:出雲玉作の祖、天目一箇:筑紫・伊勢忌部の祖)の一柱。

伊耶那岐神の子。高魂命の孫とも伝へられ、玉作連、玉祖連の遠祖と仰がれる神。

天照大御神が天岩戸に隠れた時、八坂瓊之五百箇御統曲玉をつくり大神を慰めた。

天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱。
(玄松子の祭神記から引用させていただきました)

であり、いわゆる忌部の系譜に連なることは明らかであり、そういう意味で「天石門別」を冠してもなんら違和感がないように思えます。

以上の
「徳島城に祀られる以前は一宮で祀られていたこと」
「祭神が明らかでないこと」
「忌部神に同名神が存在し『天石門別』を冠すること」
などなど..
より「天石門別豊玉比賣神社」の御祭神は「神武天皇の祖母である『豊玉比賣』ではなく」「太玉命の系譜に連なる『天豊玉命』ではないか」との説を提起したいと思います。

 でも「天豊玉命」なら「豊玉比賣」じゃないと仰るかもしれませんが妃神であったかもしれないし、「天豊玉命」が比賣神であったかもしれません。
その辺りは検証困難なので突っ込まないでいただきたいんですが(笑)「天石門別豊玉比賣神社」の御祭神が何が何でも「神武天皇の祖母である『豊玉比賣』である」とか言わずに別の可能性も考えていただきたく、この稿を書かせていただきました。
(ここらってね、すっごく色んなトコに気を遣って書いてんのよ〜(笑))

さらに付け加えれば、この説によって城内の「天石門別豊玉比賣神社」を貶めようとか、いう気持ちは全くございません。
ただ「二つの豊玉比賣神社(上)」で書いたように

蜂須賀家の阿波国入国は天正13年(1585)。
「阿淡年表秘録」によれば城主が「龍王宮」に参拝した記録が残るのは
元禄五年 壬申六月四日 公富田八幡、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
元禄九 丙子年六月八日 公松厳寺、勢見山観音、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。

とあるのは、もしかしたら徳島城内へ一宮から勧請されたのが、この頃であったかとの推測も可能です。
蜂須賀家入国時に、あるいは「和多都美豊玉比賣神社」としてあったのが一旦廃社され、元禄に勧請されるまでの100年程の間に「和多都美」であったことが忘れられてしまったのかもしれません。
それを入国時に一時期築城した地である、一宮にあった「天石門別豊玉比賣神社」を勧請したのかも.......... 。

まあ、それにしても(笑)
『この文に依っても天石門別豊玉比賣神社は最初名西郡入田町の竜王峯に鎮座したことが了解せられる。現に名西郡入田町の建治寺の所在地は「中の竜王峯」といい、その東に「東の竜王峯」、西に「西の竜王峯」がある。いずれの峯も松林の中に小祠が祭られていて、村人の話に拠ると、天石門別豊玉比賣神社は山麓の方の八幡神社に合祀せられたという。
また佐那河内村大宮八幡神社神職井開兵部の談にも、ここは元は天石門別豊玉比賣神社鎮座の地で今は同社境内の猿田彦神社に合祀されている由である』

とありますように、一宮、入田は「天石門別豊玉比賣神社」やら「猿田彦大神社」の元社や「麻能等比古神社」はあったわ、とマジでえらい場所なんですね〜。
それが遷座された佐那河内もすっごいですけどね〜。

と妙なまとめをして終わらせていただきます(笑)
おまけ
徳島城内「天石門別豊玉比賣神社(龍王宮)」跡
龍王楠のところから

参道跡が残ってて
 排水設備のような建物の裏を通ると石段跡の様な...
   突き当たりの石垣の辺りに祠があったはず
 ハトがいました(笑)
  帰りに寄った「麺屋 六根」
 つけ麺を注文しないという「ひねくれモン」
あ〜、くどいスープ(笑)

2015年2月2日月曜日

二つの豊玉比賣神社(中)

え〜と、どこまで書いたかしら.....
もう歳とると昨日書いたことがわからなくなっちゃいま....
あ、ここはどこ? ワタシは誰?

と、読んでない方は
二つの豊玉比賣神社(上)
からどうぞ、と言っても大したこと書いてないっすけどね(笑)

さて、前回で

例えば「清玄坊神社」の由来には
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石
碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。
とありますが、蜂須賀家の阿波国入国は天正13年(1585)。
「阿淡年表秘録」によれば城主が「龍王宮」に参拝した記録が残るのは
元禄五年 壬申六月四日 公富田八幡、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
元禄九 丙子年六月八日 公松厳寺、勢見山観音、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
が初出なので、元禄五年は1692年(笑)、100年以上「龍王宮」へは参拝していないというお話。

まで書きましたが、蜂須賀公が参拝しなかった理由として考えられるのが、もう一つ。
「元禄五年まで龍王宮は徳島城内になかった」
との想定です。
その理由として、まず「阿波志」
「延喜式亦為少祠今廃」とあること、もう一つが

「名神序頌」の記載


「天石門別豊玉比賣神社本在猪山城墟穪龍王宮往古自一宮龍王峯遷之」

つまり「天石門別豊玉比賣神社は猪山城墟に本(元)在り、龍王宮と称す往古自ら一宮龍王峯の之(これ)を遷す。

「天石門別豊玉比賣神社」はもともと一宮の龍王の峯にあったのを遷座したのです。
この話については「名東郡史」に詳しく記載されており
『この文に依っても天石門別豊玉比賣神社は最初名西郡入田町の竜王峯に鎮座したことが了解せられる。現に名西郡入田町の建治寺の所在地は「中の竜王峯」といい、その東に「東の竜王峯」、西に「西の竜王峯」がある。いずれの峯も松林の中に小祠が祭られていて、村人の話に拠ると、天石門別豊玉比賣神社は山麓の方の八幡神社に合祀せられたという。
また佐那河内村大宮八幡神社神職井開兵部の談にも、ここは元は天石門別豊玉比賣神社鎮座の地で今は同社境内の猿田彦神社に合祀されている由である』



建治寺

西龍王山

西龍王山 八大龍王神社

東龍王山

東龍王山 東龍王神社

 「入田村史」には「東西竜王両社にて毎年旧六月拾弐日村民相集りて番塲の如き囃をなして雨乞の祈祷をなせり。」とあります。

「名神序頌」は、上の東西龍王山いずれか(あるいは両方)に「天石門別豊玉比賣神社」があったと言っておるのです。
そしてあるいは

ここ佐那河内の「大宮正八幡神社」鎮座まします「ここ」だったかもしれないのです。
もう一つ
山麓の方の八幡神社に合祀せられた
と、これも「名東郡史」にありますが、ご存知の通り、入田町には八幡神社はありません、一宮町には「八幡神社」は一つしかないのです。

さあて、ウィークデーなので雑に書きなぐってしまいましたが、「天石門別豊玉比賣神社」は元々徳島城内になく、現在の一宮町あるいは入田町にあったことが分かっていただけたのではないでしょうか(もしかしたら佐那河内かも)。

で、これで終わるかといえば、終わらないのです(笑)
さらなる驚愕の事実が(下)に続くのです。
(いい引きだなぁwwwww、でもさすがに明日は無理っす)

2015年2月1日日曜日

二つの豊玉比賣神社(上)

阿波国名方郡には二つの「豊玉比賣」の名を冠する延喜式式内社が鎮座しております。

一つは「天石門別豊玉比賣神社(あまのいわとわけとよたまひめじんじゃ)」
 徳島市眉山町の春日神社境内に祀られております。

一つは「和多都美豊玉比賣神社(わだつみとよたまひめじんじゃ)」
 徳島市不動西町「雨降神社」
 徳島市国府町和田「王子和多都美神社」
 名西郡石井町高原「王子(玉子)神社」
三社が論社とされております。

まず知っておいていただきたいのが、御祭神を豊玉比賣とする豊玉比賣神社(とよたまひめじんじゃ)は、全国各地に鎮座しているおりますが、豊玉比賣を冠する延喜式式内社は阿波国にしかないということです。


最初の「天石門別豊玉比賣神社(あまのいわとわけとよたまひめじんじゃ)」については徳島城のあった城山山頂にある「清玄坊神社」の由来を見ていただきましょう。

「清玄坊神社」


清玄坊の由来について
清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜わり、後
に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑とし
てこれに応じない為、公は一計を編み換地を与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通
行中後から弓で射て謀殺した。
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石
碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。
清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、父の菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたか
で、現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。
次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波郡の東西善地に落ち着き、祈祷の傍ら農業を
しながら酒巻家として今日に至っている。
その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の創始者であり初代校長でもある。
又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫である。

由来書には以上のように書かれてます。

この「清玄坊」こと「大林院素月」が生命をかけて守った城山、実は多くの
神社が祀られていた、いわゆる霊山であるのです。
山頂には神明社(伊勢神宮、後に城の鬼門の守護神として中常三島に遷座)
山麓の東寄りに諏訪社(佐古の諏訪山に遷座)
山麓西側には住吉社
南側には弁天社
南嶺西寄りには稲荷社、龍王宮
西側に竜王神社。

この龍王宮が「天石門別豊玉比賣神社」に比定されており、明治8年(1875)の徳島城取り壊しのとき、眉山の麓にある伊賀町1丁目の国瑞彦神社に合祀され、その後、徳島市眉山町の春日神社境内に遷座され現在に至っております。
上の写真の場所(石垣の上)が徳島城内「天石門別豊玉比賣神社(龍王宮)」跡地です。

 それが一旦「国瑞彦神社」に合祀され



下の写真が現在の春日神社境内に移された「天石門別豊玉比賣神社(龍王宮)」で

 下の写真が「龍王宮」で実際に使われていた手水鉢です。

ただし水戸光圀編纂の「大日本史」を見れば
「和多都美豊玉比賣神社」が「今在徳島城中」と記載されており、「阿波志」をも引き合いに出しておりますが、「阿波志」には

「和多都美豊玉比賣祠」「舊属井上郷」とあるのみで、城中にあるとは記載されておりません。
また「天石門別豊玉比賣祠」についても「今廃」とあり、所在について詳しい記載はないのです。

ただ、「阿波志」は続けて「神代紀云井上一湯津社樹枝葉扶䟽時彦火火出見尊就其樹下......」と古事記の記載そのままを挙げ「和多都美豊玉比賣祠」の説明としております。
これは「南井上村誌」でも書かせていただきましたが、「阿波志」でも「南井上村誌」でも事実の記録として扱っているのです。

阿波国式社略考においても
天石門別豊玉比売神社
徳島城内ニ龍王宮ト云アリ、是也ト赤堀氏云ヘリ。
今城郭築キ玉ハサル巳前ヨリ在シ祠ナラバ、必此處ナリ。
恐ラクハ國初ノトキ勧請セサセ玉ヒシニハ有ス歟。
尚、尋正スベシ。
今按、備後國安那郡天石門別豊玉姫神社ト云ハ、此社ト
同神ト聞エタリ。(人へんに者の字)此社ニ天石門別テフ
語アル事ハ、土佐國吾川郡天石門別安國玉主天ノ神ノ
社ハ此社ノ御父神豊玉彦命ニシテ、彦火ゝ出見尊兄火酢
芹命ノ為ニ海宮ニ吟(さまよ)ヒ玉ヒシヲ其豊玉彦ノ
赤キ直キ清キ深キ智(サトリ)以テ、遂ニ皇統ヲ本ノ
ゴトシロシメシ玉ヒシハ言幕(いわまく)モ尊キヤ
天照大御神ノ無状(アジキナキ)ヲ榲(へんがりっしんべん)
リマシ、天岩戸ニ隠リ坐シゝニ八意思兼命遠キ思ヒ計ニテ
再ビ日神天石屋戸ヲ開キ出サセ玉ヒテ長ク目出度大御代ト
成シニ同ジケレバ、天石門別安國ト云御名ハ負玉ヒシナリ。
玉主トハ、干満ノ両珠ヲ傳ヘ持玉ヒシ故ナリ。
天ノ神トハ伊弉諾ノ尊ノ御子ナレハ也。
例セバ高皇産霊尊ノ御兒少彦名ニ命ヲ山城ニテハ五條ノ天神
出雲ニテハ手間ノ天神ト云カ如シ。
サル功勲高キ豊玉彦ノ御女メナレハ此冠辞アル事ト知ラレタリ。

と「天石門別豊玉比賣神社」の説明として「徳島城内ニ龍王宮ト云アリ」と記しており、
いよいよ分からない状況となっております。
ただ、双方の説に共通するのは、豊玉比賣が彦火火出見尊と出会う古事記の部分を出し
「この部分の記載にある事象の主である豊玉比賣を祀るのがここですよ」
と言っているのですね。

続いて「和多都美豊玉比賣神社(わだつみとよたまひめじんじゃ)」についてですが
まず論社の写真より

「雨降神社」
 ちなみに、この写真は現在のものじゃありません。
現在社殿は台風による被災で撤去されています。



「王子和田津美神社」



「王子(玉子)神社」
 別名「烏の森」

ちょっと長くなりすぎてしまいました。
くどくどと何が言いたいのかといえば、なぜ「豊玉比賣神社」が二社あるのか、また徳島城内の「龍王社」はどちらなのか、どういう由来で祀られてきたのか、そこ辺りを知りたいと言いたいわけなのですよ。
そして、あわよくば定説を(少しだけ)ひっくり返してやろうかなとも(笑)

例えば「清玄坊神社」の由来には
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石
碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。
とありますが、蜂須賀家の阿波国入国は天正13年(1585)。
「阿淡年表秘録」によれば城主が「龍王宮」に参拝した記録が残るのは
元禄五年 壬申六月四日 公富田八幡、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
元禄九 丙子年六月八日 公松厳寺、勢見山観音、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
が初出なので、元禄五年は1692年(笑)、100年以上「龍王宮」へは参拝していないというお話。

すぐには書けないかもしれませんが、(中)(下)巻とお待ちくださいませ。
結構「くる」ものがありますので(笑)