2012年3月17日土曜日

石井町国実 武市神社

ホンットに疲れてるんだよぉ。
じゃあブログなんて書いてないでとっとと寝りゃあいいんでしょうが
なんか書かないといけないような気がして、これは強迫神経症なんで
しょうかね。それとも誰かの呪いがかかってるんでしょうか(笑)
(あぁ、きっとそうだ、そうに違いない)
ホントなら(こればっか)もう一箇所廻ってから書くべきなんですが
いつまで経っても行けそうにないんで、いいかげん書いちゃいます。
石井町国実(くにざね)の「武市神社(武市大明神)」
場所はここ。

より大きな地図で 武市大明神 を表示

徳島県神社誌には載ってないので「石が語る阿波」より引用いたしますと

石井町国実の水田のまん中に、ぽつんと十坪くらいの敷地に「武市大明神」という
石造の小さい社殿がある。
武市神社ともよばれ、毎年十月二十二日の秋祭りには、付近の神社以上の盛大な祭典が
催されるが、その日は、社殿の主の武市常三の命日供養といわれている。
常三は美濃川辺城主六万石右京亮(うきょうのすけ)通栄の二男として生まれた。
十五歳にして濃州表の合戦にでて以来、数々の合戦に参加し、蜂須賀家政の供をして
阿波に入り家老格として、徳島の築城に林道感とともにさい配をふるった。
居宅をたてるため家来の桑村八蔵に城裏の助任川を泳がせ、小島を下検分して屋敷を
建て、武家屋敷としたが、そこを常三の名をとって「常三島」と呼ぶようになった。


中略


この武市家は孝霊天皇の末葉といわれ(現在も家系図が現存している)その子孫が
国実の屋敷跡に社殿を建て、武市一族の氏神としてまつった。


まあ「常三島」までは分ります。
ただ、家来に助任川を泳がせるなよ、なんては思いますがね。
「この武市家は孝霊天皇の末葉といわれ(現在も家系図が現存している)」
はどうでしょうか。
家系図なんて、今も昔も怪しげなものの筆頭ですからね。
この、「徳島城築城した人」って書き方、なんだかなぁって感じですね(笑)

なんですが、ここにありました由緒を見てみますと

武市大明神由緒
抑々武市本家ノ祖ヲ経ルニ伊豫ノ國越智族ノ流レニ而
河野四郎通信十一代ノ孫彦六ノ小千通生ノ嫡男ナリ
初而関東ノ足利持氏ノ横暴弾圧為出兵シテ濃洲ニ
留ル武市右京亮小補ノ通高ハ河辺城主六萬石ニ有シ
嫡男右京亮通祐其ノ嫡男右京亮通栄ノ三男に武市常三
有リ其ノ母方ハ神洲諏訪大膳大夫頼方ノ娘常三ハ天正
十二年丹波ニ而一萬石給ル常三病身ニ而禄を返上ス
御腰物信國ヲ賜フ天正十三年五月蜂須賀家政公ノ
重臣トシテ阿波ノ國ニ入国三千五百石給ル渭城(徳
島城)築城後天正十九年十月禄ノ二千五百石ヲ返上
シ千石拝領嫡男ノ十左衛門忠方ト共ニ常三ハ阿波
領内名方郡内浦庄國実ニ隠居今ノ常三島ハ
常三拝領ノ地ナリ室ハ栗山備前守政久ノ娘ナリ
文禄二年巳年十月二十二日 冥界ス

以下略

ふむ、伊豫國河野家の末裔ですな。
河野家は饒速日(にぎはやひ)命の後裔であると言われる越智族の流れです。
それならば孝霊天皇の末葉であってもいいかな、なんて思ってしまいますね。
というのは、越智氏の祖とされる彦狭島命(ひこさしまのみこと)は
何を隠そう(誰がじゃ)孝霊天皇の皇子なんですね。
河野氏については阿波の方じゃあまり有名じゃないかもしれませんが愛媛の
方では超名家でありまして、伊藤博文も河野氏出身であるそうです。

で、さらには武市姓でありますが「武市」は「武知」と同根でありますことから
同じ石井町内の武知神社との関係が伺える....か.....な.......
とか書こうかなと思ってたんですが時間がない。
尻切れトンボの記事で申し訳ない。

ホントに年度末にかかわらず、なんでか忙しいんだよぉぉぉぉぉぉ。
ボクは仕事が嫌いなんだよぉぉぉぉぉ。(←笑ってやってよ)


というわけで「常三島」は「武市常三」から来てますよってことです。(フン)

54 件のコメント:

  1. ヤバイ!  呪いがバレてしまった!!
    えぇい、さらに呪ってやるぅ~
    「あなたはもっと書きたくな~る 書きたくな~る」

    オレも年度末で忙しいですが、頑張って読みますから♪(読むだけかよっ)
    仕方ないなぁ、常三島の由来を周りに言いふらすってコトで手を打ちましょうw

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  2. きよっさん ( ̄▽ ̄)2012年3月17日 9:47

    どうも。お仕事と旗当番お疲れさまです。m(_ _)m

    私的には曽我氏神社の武知神社と今回の武市常三(武市大明神)は直接は繋がらないと思いますねぇ。(←根拠ないので自信ないっすけど!笑)
    曽我氏⇒蘇我氏は渡来系氏族でありますし。ただ源流が欠史八代の系譜である孝霊天皇の武市氏、蘇我氏派生の武知氏が同根であること、同町に祀られていることを考えたら面白いですよね。

    今日は雨で予定が流れたので散策してきまーす!

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  3. ピコちゃんマン2012年3月17日 11:05

    ぐーたら先生。こんばんは。(ぺこり)
    曽我、武市、武知と徳島県に多い氏族の名が繋がりましたね。
    話しは変わるんですけど、小・中学時代、頭脳も優秀、絵を描かせたら抜群の
    同級生の消息が判明したので、ご紹介しておきます。
    曽我康司氏(現在は米国製薬会社勤務)です。
    Koji Soga Art Gallery というご自身のブログを開設されておられます。
    http://kojisoga.home.mindspring.com/japanese/

    彼があまりに絵を描くのが上手過ぎて、絵を断念、音楽に進路をとったものの・・・。
    人生思ったようには・・描けませんでしたね。
    ああ。人生模様。とほほ。(笑)

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  4. to たろさん
    知らんかったぁぁぁ。
    やっぱ呪われてたのかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!(笑)
    夜な夜な耳元で「書けぇ、書けぇ」とささやく声がするのは。
    は、ともかく書くことの断片はけっこうあるのよ。
    でもまとめる時間と書く時間がないだけ。
    ちっとずつでも書きますんで、またコメよろ。

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  5. to きよっさん
    どもです、その節はお世話になりました。
    書くのが遅くなりまして(*⌒∇⌒*)テヘ♪
    とは言いつつも、突っ込み足りなくて申し訳ない。
    確かに武市神社と武知神社は直接は繋がらないんでしょうね。
    考証不足っす。(~ヘ~;)ウーン
    こっから、さらに蘇我氏、孝霊天皇へと遡りたかったんですが(ノ△・。)
    また資料探してみますんで、ヨロ!

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  6. to ピコちゃんマン
    同級生にも武市はけっこうおりましたし、県知事も武市でしたよね。
    石井町国実のあたりは一族が固まってて武市の宝庫(?)みたいです。
    で、曽我さんですか。
    ページ拝見しましたが、凄いですねぇ。
    でも平穏なのが一番ですよ。
    ボクも一時佐野先生の教室で油絵書いてたんですが
    続きませんね(笑)。

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  7. はじめまして。
    調べものをしていたらここにたどり着きました。
    見た事ある景色(近所)が写ってる(笑)
    よくこんなマイナーなものを見つけましたね。

    確かに10/22には一族で今でもお祭りをしていますが、村の神社の祭より派手ではありませんよ。

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  8. to タケイチさん
    ども、はじめまして。
    よくぞこんなマイナーなブログへ(笑)
    個人的には「武市常三」はマイナーじゃいけないって思ってます。
    以前うちの奥さんが石井で勤めてて、あそこらは武市さんが多いって
    言ってましたし(笑)。
    でも一族でのお祭りがきちんと行われてる事が素晴らしいですね。
    もし、孝霊天皇からの家系図があるなら一度拝見させて下さい。
    (↑あつまかしい)

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  9. こんにちは

    家系図ですが
    「孝霊天皇第三皇子伊豫皇彦狭島命後胤
     伊豫国守護河野四郎通信裔胄」

    から始まるから、孝霊天皇から河野通信までの間の経緯は分かりません。
    愛媛の河野一族の家系図をさかのぼって、越智一族を経由して調べたらむりやり繋がるようになってるんじゃないかな。
    徳島に来る前は岐阜の川辺町にいたので、そこの武市一族の家系図もそんな感じと思います。

    勉強不足ですが、武知さんとは縁はないと思います。

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  10. to タケイチさん
    貴重な資料ありがとうございます。
    こういうのは中々表に出てこないので、非常に有り難いです。
    いきなり◯◯天皇末裔とか後胤とかはよく見かける記述ですね。
    確かに間が飛びすぎてて、なんだかなぁって感じですが(ごめんなさい超失礼ですね)
    ただ口伝とか伝承でそう言われていた事が残って書かれたのなら
    それは尊重すべき記述だと思います。
    後世になるに従って、あちこちの◯◯家との縁があり、系図も
    ややこしくなって行った事は想像に難くありません。
    >徳島に来る前は岐阜の川辺町にいたので
    それはどこかの資料で見かけていましたが、それ以上の記載が
    見つからなかったので、そのままです(笑)
    武知さんと縁がないのは後から指摘されました(涙)
    たぶんそうです。
    でもご近所ですよね(笑)

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  11. ふたたびこんにちは。

    河野氏が越智氏と無理矢理つなげるために家系図を創作したかもしれませんね。
    そんな記事を以前、何かで見かけたように思います。


    岐阜の武市一族とは15年くらい前に対面したと聞いてます。
    岐阜側の人が常三の子孫は石井町にいると突き止めたみたいで、連絡があったと年寄りたちに聞きました。
    私はその時大学生で県外にいたので、後日談で聞きました。
    400年ぶりに子孫対面ってシーンに立ち会えず、悔しい思いをしました。
    そんなこともあるんですね〜。

    一度私も岐阜に訪ねてみたいと思いつつ、未だに行けていません。

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  12. to タケイチさん
    いやぁ、面白いですねぇ(これも失礼!)
    以前に石井の轟神社の事を書いた時に九州の「近藤勘右衛門正次」の子孫の方から
    コメントをいただいた事があります。
    http://goutara.blogspot.jp/2010/08/blog-post.html
    その後徳島在住の子孫の方からのコメントもいただいたりして、なかなか鳥肌立ちました。
    http://goutara.blogspot.jp/2010/09/blog-post_08.html

    これはいい機会です、ぜひぜひ岐阜に行ってあげて下さい。
    こんなの偶然じゃないですよ。

    それにしても石井は凄いなぁ(笑)

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  13. 突然に失礼いたします。私は、高松市在住の北島と申します。(48歳会社員です)

    実は、徳島在住の昨年叔父がなくなり、河野家のゆかりと思われる、
    折敷三文字の家紋がついた甲冑を譲りうけたのがきっかけで、河野家のことを調べているうち、
    こちらのブログに行き当たりました。
    また、嫁の実家が石井町なので毎月近くに行ってましたが、石井にこんな史跡があるとは驚きです。
    貴重な情報をありがとうございました!

    石井町つながりでも奇遇ですが、さらに驚きなのが、
    問題の甲冑の家紋(折敷三文字で三の字が毛筆書体)と
    武市大明神の由緒書にある家紋がそっくりだったからです。
    甲冑の制作年が江戸中期頃なので、これまでは河野家諸流の稲葉家の関係と思っていましたが、
    出所が徳島なので、武市家の関係の可能性が大きくなってきました。

    ぜひ、ご子孫の方とコンタクトを取り、お話を伺ってみたいと強く思っています。
    現地に行って地元の方に聞けばよいのでしょうか?(もしくはご存じでしょうか)

    また、ブログを拝見したところ県内各地を調査されているようなので、
    もしや、「河野家」あるいは「折敷三文字」につながる情報をお持ちでしたら、
    ぜひご教示いただければ幸いです。

    何卒、よろしくお願いいたします。

    返信削除
  14. to キタジマさん
    これは、これは、どうもはじめまして。
    奥様の実家が石井ならば武市家の可能性が高くなると思います。
    河野家ならば、鴨島の方が多いようですので。
    で、残念ながら、ワタクシ石井町の武市氏に知り合いがおりませんので
    なんともなんですが、上のGoogleMapの石井自動車学校から北方面
    武市神社近辺は「武市氏」の密集地域ですので、もしお時間が
    許すようであれば、神社近辺でお聞きいただくのが一番早いのでは
    と思いますが。
    上でコメントをいただいている「タケイチ」さんがもう一度
    連絡いただけるのがありがたいのですが。
    それと河野家についてですが、鴨島の「河野」に知り合いが
    あることはあるのですが、それがいわゆる伊予の河野氏の
    系列であるかどうか、まだ聞いた事が無いですので。
    あまり、お役に立てなさそうですので、せめてということで
    もう一度呼びかけの記事を書いてみます。
    それで、何かも反応があればいいんですが。

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    1. 早速にレスありがとうございました。
      ホントですね、上の記事のタケイチさんとはちょっと違いでニアミスだったようで・・・。
      わかりました、来週末に石井に行き武市大明神の近くで伺ってみます。

      鴨島の河野さんの呼びかけていただくとのこと、お手数をおかけし恐縮です。
      ちなみに鴨島の河野さんは、伊予の河野氏の系列にほぼまちがいないかと思われます。
      もし家系図を引き継いでおられたら素晴らしいのですが・・。

      ちなみに、鴨島の山奥の「樋山地」に河野家の先祖碑があり、伊予河野の系列がわかります。
      また、同町の「西麻植八幡神社」があり、その敷地内に「河野大明神」というのもあります。
      (実はつい先日行って来たところなんです・・)

      ではでは。

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  15. こんにちは、タケイチです。
    香川の方が訪ねてこられていたと聞こえてきたので、もしやと思いプログを見ると・・・。
    ビックリです。

    謎は解決したのでしょうか?

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  16. to タケイチさん
    情報早いですね。
    さすが一族ネットワーク。
    あとのコメントをどうぞって、もう見たでしょ(笑)

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  17. そういえば、徳島大学付属図書館のデータベースで阿波藩家臣団の系譜史料を自由に見られます。
    他家の系譜も見られるので、検索すると結構楽しめますよ。
    ただ、くずし字が読めない私にとって、ほとんど暗号に近いですけど(笑)

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    1. タケイチさま

      たびたび失礼します。
      実はこのデータ、私も最近知って調べていたところです。
      蜂須賀家には、かなりの「河野家」の子孫が士官していたようですね。

      「折敷三文字」の家紋を使用している家を調べたところでは、
      河野、武市をはじめ、有岡、陶山、宮本、木村、広田の各家が該当していました。

      私も古文書はちんぷんかんぷんです・・・(笑)

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    2. そうなんですよ。春日局が結婚してた稲葉家も同じ家紋ですよね。みんなたどり着くとこは河野家なんだと思いますよ。子孫は末広がりにいっぱいいるから、面白いですよね。

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  18. はじめまして、岐阜県に住むマサといいます。
    たまたま先祖のことで 色々検索していたら ここに辿り着きました。
    私の母が旧姓武市で、何年か前に 徳島の方へ 祖母や母の兄弟そして川辺町の武市の先祖が建てたとしてる金昌寺の住職達が行ってきたという話を聞いてました。
    まぁ 私は外孫なので詳しく知らないのですが 川辺町の方の家系図は 江戸か明治か
    それくらいに 火事があり家系図も燃えてしまったとのことです。

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    1. お返事遅くなりまして申し訳ありません。
      ご先祖の事って言うのは気になるもんですね。
      それにしても川辺町の家系図が燃えてしまったというのはいかにも惜しいですね。
      岐阜に移った経緯とかも分れば面白いんでしょうが。
      また、機会があれば徳島へもおいでて下さい。

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  19. このコメントを初めてみました。武市大明神が二つあるんですね。写真の場所のすぐ南に武市という姓ばかりの集落があります。そして、その真ん中にその神社はあります。昔から鳥居さんがあり、昔ながらの神舎です。その神社はよくわかりませんが60年以上前から毎年、その集落の人が集まって祭祀を行っています。そして、そのいわれは殆ど同じだと聞いています。いつ頃、写真の神社はできたのでしょうね。60年前にはブロックの囲み、建物もなかったと、近くの80代の人に聞いたことがあります。しかし、いろいろな歴史的ないわれなどに興味を持つ人というのは多いようですね。
    PS 投稿するのが難しいのでうんざり。方法がよくわかりません。

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  20. いろいろ興味深いことが書かれていて、楽しく読ませていただきました。実際に、二つの武市大明神を見ましたが、南の集落にある大明神は古くて江戸時代からあるみたいですね。上記の写真の大明神は近くの人に聞くと、すぐ近くの家の老人が五十年くらい前に自費で建てたと言っていました。
    何となく、何かおかしいと思いました。それに写真の大明神に武市常三の墓があったことも。近くの人に聞くと、武市常三の墓は徳島市の寺町にあると言っていたからです。それで、暇だったし、興味本意でその寺に行ってみました。確かに、そこに常三、子、孫の墓がありました。見て驚いたことは、墓に彫られた家紋です。上記の写真の大明神にあった家紋と違っていました。聞くと、[子持ち角切り三]
    という家紋でした。この家紋は南の集落に住む武市の家紋のようです。これってどういうことなんでしょうか。知っている人はいたら教えてほしいと思います。

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    1. 寺町の武市家墓所はまだご参拝はしておりませんが、武市家の家紋は伊予河野氏の折敷三文字ですので、上写真の家紋で間違いないと思いますよ。
      子持ち云々ということなので枠線の有無だけの違いなんでしょうか?

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    2. ありがとうございました。私も少し興味をもって考えただけなので、何が本当なのかわかりません。つまり、結論から言えば、上記の写真の大明神は同じ愛媛県から来た武市姓であっても、武市常三とは関係がないグループの武市だということでしょうか。





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    3. 匿名 (そのⅠ)      令和元年12月
      年末に、この日記を見るのが楽しみです。でも、内容に変化が無いのが残念です。関係者の皆さんは少し、興味が無くなったのかな。また、一年間、聞いたり、思ったことを書いてみたいと思います。よろしくお願いします。失礼な表現があったときはごめんなさい。
      では、
      もう一つある「ぐーたら○○日記(重箱の隅)~おーい、石井の武市さーん~ 」の2017年12月23日「タケイチ」さんの見解を見ました。きれいにまとまっていますね。何か歴史の専門家的な意見で、学芸員の方か、歴史の先生のような職業の方でしょうね、たぶん。「本家の方が建てられました」と書いてありますが、念のため、もう一度、近くを通った時に、近く方に聞くと、やはり、長老が建てたという返事でしたよ。それに、北の大明神の元敷地は今の敷地の6割か7割だったようで、長老が持ち主に交渉してわけてもらい、今の面積になったようですよ。二つ目は同じ意見です。北の大明神に武市常三の墓はないと思います。でも、長老が武市常三の墓と石碑を立てているので、後々には本当のことのように語られるようになるかもしれませんね。歴史はそういうう風に作られる一面もあるので。元本家の家があったところは、現在二枚の畑になっていましたが、元二枚の畑についてもいつ二枚の畑に分けたのかはわからないようです。宅地というのは昔はよく固めてから家を建てたといいます。畑にするのは本当に大変だったでしょうね。持ち主は南の集落の方で、少し前、一つは同じ南の集落の方に売ったと聞きました。そして、本家の方は貧乏して家や田畑をなくし、江戸時代にどこかへ行ってしまったと聞きました。俗に言う「夜逃げ」という状況のようですね。「本家」という言葉が出ていましたが、大明神の小屋を建てた長老が次のようにも言っていたそうです。南と北の武市は同じ伊予の越智一族ではあるが、違うと。それで家紋が違ったわけですね。ここで言う「本家」というのは北の数軒の武市での「本家」ということのようですね。南の武市は含んでいないと言うことらしいですよ。その本家争いを北の武市の数軒の中でしてしまい、少しばらばら状態のようだとも聞きました。
      また、近くに行ったとき、こんな意見も聞きましたよ。戦国時代くらいかな、伊予の国から東の方で戦がたくさんあり、その戦で手柄をたてたいと思う人たち(武市 河野姓)がやってきて、その内の何割かがさらに東へ移動し、名古屋岐阜周辺で戦いに参加をして手柄をたてて、蜂須賀の家来として徳島へ帰ってきた。それが「常三」。その常三が隠居の地として選んだのが、この地。ここには徳島にとどまった同郷の人がいたので、この地に来たのではないかというもので、すこし、嘘か本当かわからないけど、納得してしまいました。夢があって面白いと思いました。まったく素人の自分で、部外者ですが、このような思ったことが書けるこの「・・・・日記」はいいですね。

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    4. (そのⅡ)      令和2年1月初旬
      「2017年12月23日『タケイチ』」さんの見解(1~3)について。
       本当にきれいにまとまっていますね。何か歴史の専門家的な意見で、学芸員の方か、歴史の先生のような職業の方でしょうね、そして北の武市に関係する人かな、たぶん。書いてあった内容を昨年何度か、近くを通った時、近くの人にさりげなく聞いてみました。自分の勝手な見解ですが、パート2としてまとめてみました。その1とダブっているところはすいません、怒らないでください。
      1について、記入されていた内容は下のようなもの。
       「南の集落も同族です。分家した時にに本家と区別するため、家紋の枠線を二重にしたと聞いています。その分家から分家を繰り返して、南の集落になっています。本家から分家した家、分家から分家した家もありますのでザッと10軒以上近所に集住しています。祭礼は同じ日に北のグループも南のグループもしています。その他にも、分家する時に家紋を変えている家もあります。岐阜の武市さんもたくさん分家がありますので、岐阜本家は本家であることを示すために折敷を○で囲った家紋です。」という文章。
      どうもおかしいです。「分家した時にに本家と区別するため、家紋の枠線を二重にしたと聞いています」というのは。常三の墓石についている家紋は南の集落と同じです。きいてみると、長老はいろいろ調べて武市のルーツを調べたと聞きましたが、個人的見解が多いのではないでしょうか。石井町も少し関わっているようですが、石井町は南の「武市」の話はあんまり聞いていないようですね。南の人は無くなった長老が勝手にやっており、いつの間にか教育委員会の石碑まで建っていると言っていました。南の一軒に家系図や家の図面など嘘か本当かあると聞きました。そして、そこの家系図などが北の武市の誰かに貸したと言っていました。約90年くらい前に。亡くなった長老も生前、南の武市と北の武市は違うとよく言っていたそうです。北の武市(3軒)も同郷の越智一族だと思いますが、四国で留まったグループではないでしょうか。だから、長老の奥さんが言っていたと聞きましたが、無くなってしまったけど、古いお墓が多くあったようですね。常三の関係なら、蜂須賀が徳島に来てからのものになると思いますよ。常三の子孫は南の集落ではないかなと想像します。常三の子孫は南の武市ではないですかね。
      岐阜の本家の話も出ていたので、岐阜に知人がいるので、行く機会があれば、川辺町に行ってみたいと思いました。

      削除
    5. その3
      2について 記入されていた内容は下のようなもの。
      「 北の大明神は本家の方が建てられましたが、もちろん昭和の話です。すぐ近くに本家の墓地がありますが、常三のお墓はありません。寺町にあると聞いています。大明神は厳密には墓ではないと思います。いつの間にか墓と書いてありますが・・・。 文政5年の記録には大明神はすでにあったことが古文書に残っています。本家の敷地内にあったのかもしれません。今、北の大明神がある広い畑2枚分が本家の屋敷跡です。その時代どんな建物だったのか、または祠だったのか、どのような祭礼をしていたのかは私は知りません。祭祀の時期もどうやら江戸時代と違うようで、時代に合わせてやり方や時期は変えています。」
      これも、おかしいような気がします。
      「本家の方が建てられました」と書いてありますが、念のため、もう一度、近くを通った時に、近く方に聞くと、やはり、長老が昭和五十年頃建てたという返事でした。しかし、建っているところは元々土を正方形に盛ったところで、目立った物はなかったということでした。写真に写っている物(灯籠、常三と書いた偽の墓、まわりを囲んだブロックなど)は本来無かったようですね。それに、北の大明神の元敷地は今の敷地の6割くらいだったようで、長老が持ち主(南の集落の武市)に交渉してわけてもらい、今の面積になったようですよ。このことは長老の奥さんも知っていたし、売った側も覚えていたらしいので間違いないと思います。
       また、この文章の中に「本家」という言葉がありますが、本当に本家ですか。近くに人で本家だと思っている人は少ないのではないでしょうか。それに石井町教育委員会が設置した由緒などを書いた石、本当によく調べたのでしょうか。調査に来ていないという返事。長老の話だけ聞いて終わったのではないでしょうか。南の数軒ある武市という家にも聞きに行った方がよかったと思います。
      「文政5年の記録には大明神はすでにあったことが古文書に残っています。」という文章がありますが、南の集落の中心にある武市大明神には鳥居や灯籠(二つセットの灯籠がなぜか一つしかありません)があり、作られたのは文政○○年とか寛政○○と掘られていますね。江戸時代から会った大明神は南の集落にある方ではないかな。祭りの時に出す、藍で染めた幕も古い木綿で、北の新しい幕とは全く違いますね。そして、幕に書かれている内容も古い内容ですね。一度、お祭りの時に来て見たらいいと思いますよ。
      また、北の大明神がある広い畑2枚分が本家の屋敷跡というのも本当ですか。二つの畑の高さがすこしですが、違っていますね。どちらかの畑を高くしたのか、低くしたのかよくわかりませんが、宅地というのは昔はよく固めてから家を建てたといいます。畑にするのは本当に大変だったでしょうね。持ち主は先ほども書きましたが、南の集落の方で、少し前、一つは同じ南の集落の方に売ったと聞きました。そして、本家の方は貧乏して家や田畑をなくし、江戸時代にどこかへ行ってしまったと聞きました。昔の言葉を使うなら、「夜逃げ」状態だったらしいです。
       また、近くに行ったとき、こんな意見も聞きましたよ。90年くらい前、前の集落の一軒に、昔から伝わる家系図とか家の配置図のような物があり、北の集落の一軒の家が見せてほしいと言ってきて、持って帰ったといっていました。持ち主はその時写し取られた可能性はあると言っていたようです。最後に、こんな面白い話も聞きましたので、書いてみたいと思います。
       戦国時代くらいかな、伊予の国から東の方で戦がたくさんあり、その戦で手柄をたてたいと思う人たち(武市 河野姓)がやってきて、その内の何割かがさらに東へ移動し、名古屋岐阜周辺で戦いに参加をして手柄をたてて、蜂須賀の家来として徳島へ帰ってきた。それが「常三」。その常三が隠居の地として選んだのが、この地。ここには徳島にとどまっていた同郷の人(北の集落の3軒の関係者)がいたので、この地に来たのではないかというもので、すこし、嘘か本当かわからないけど、納得してしまいました。夢があって面白いと思いました。まったく素人の自分で、部外者ですが、このような思ったことが書けるこの「・・・・日記」はいいですね。
      一年に一度 ~ ぐーたら気延日記 (重箱の隅)~ を年末に覗くのが楽しみです。思ったことを書いても、歴史そのものが本当かどうかわからない物なので、気が楽でいいです。

      削除
    6. その4
      最後に、少しいやなことを聞きました。それは北の大明神に教育委員会の石碑ができたくらいから、北の方で不幸なことが起こったというのです。長老の家も若い人から順になくなっていき、今は長老の奥さんだけ、(時々娘さんがきているようですが、)また近くの家では里帰りしていた人が自宅の庭に止めてあった車の中でなくなっていて、警察が来て大騒ぎになったと聞きました。常三が勝手にどこが本家とか子孫とかわからないのに決めるなといっているのかな。

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    7. その5
      忘れていました。年末に寿量寺の近くを通ったので、久しぶりに寄ってみました。武市常三の墓地に「太田家累代墓」と書かれた墓石がありました。これはどうなっているのかな。常三が太田家に婿養子に入ったのかな。でも、家紋は南の武市の家紋がついていたけど・・・・。

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    8. ぐーたら様
      ご無沙汰しています。
      以前書き込みをしました何にでも興味を持って書きまくる匿名です。久しぶりに見ましたが、誰も書いていないので少し寂しい気持ちになりましたが、一年に一度この時期に聞いたこと、見たことなどを書いて楽しんでいる者として、今回もいろいろ想像し、思い出しながら、頑張って書いてみたいと思います。
       一つ目は徳島新聞に武市常三について書かれた記事がありました。読んでみて本当によくわかりました。書いた人は徳島城博物館の根津寿夫という方です。わかったことは次の通りです。
      ① 美濃国 河辺郷の領主の三男    ②戦国大名 斎藤道三に仕え十五歳で初陣
      ③ 豊臣秀吉が丹波国で一万石を与え大名に取り立てようとした。
      まとめとして、常三の人柄は、無欲で律儀な歴戦の勇者ということでした。いいですね~。
      常三は本当に素晴らしい。こんな人物だから、みんな言いたいのでしょうね。自分は常三の子孫だと。わかります、その気持ち。

       二つ目は北の武市大明神の灯籠(現在はどうしてかわかりませんが、解体してあります。)の紋がおかしいのです。どうおかしいのかというと、その紋が南の武市の紋と同じだと言うことです。前回、南の大明神の灯籠が一つ行方不明と書きましたが、どうやらその無くなった灯籠ではないかと言うことです。長老が持って行ったという噂もありました。

       三つ目は南の集落で10月に行われる武市大明神祭の時に出して使われる紺色の幕に書かれている文字です。 「文政十一・・・・八月二十日」「板野郡中原村 越智姓 武市・・・」「阿波常三島 小千姓 武市・・・」よくわかりません。そばを通ったとき、ちょっと見ただけなので。興味のある人は調べてみてください。そして、何かわかったら、この日記に書いてほしいです。

      最後に、残念なことですが、長老の家で一人生活していた奥さんも、現在、介護施設に入っていると聞きました。子ども達が交互に家に来て掃除をし、奥さんが戻ってこれるようきれいにしているようです。

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  21. 大阪の武市2021年2月7日 11:18

    ぐーたら様、始めまして。大阪の武市と申すものです。「武市大明神」について興味深く読ませていただきました。私の先祖は徳島の新居村というところから大阪に移り住んできました。家紋も「折敷に三文字」なのですが三の字がゴシック体のようで、同じ大きさの長方形三つなんです。石井の武市家の皆様とは異なる一族だと思いますが、いつの日か武市大明神を訪れてみたいと思っています。はやく新型コロナウイルスが収束しますように。

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    1. 初めまして。
      新居村なら昭和27年に新居町になってますので、それ以前でしょうか。
      折敷三文字については、よ〜さくさんが下でコメントしていただいてます。
      ぜひとも一度おいでくださいませ。
      日程が合えばご案内いたします。

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    2. 大阪の武市2021年2月7日 21:30

      ぐーたら様。温かい言葉を下さりありがとうございます。うちの宗派も大阪では比較的少ない真言宗であるというのもあって、いつか徳島を訪れてみたいと思ってきました。新型コロナウイルスが収まるよう祈る日々です。

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  22. 大阪の武市さん、横から失礼します。その家紋なら、1つ前の匿名さんのコメントにある「板野郡中原村 越智姓 武市・・・」「阿波常三島 小千姓 武市・・・」の紋のようですね・・・ただし、分家は三の字体を変えていったと河野氏を調査した論文にありました。

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    1. 回答ありがとございました(^^)。

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    2. 大阪の武市2021年2月7日 21:40

      よ~さく様。コメントありがとうございます。先祖は「名東郡北新居村」から分家して今の土地に来ました。その際に家紋を変えた可能性もあるのですね。色々と調べていきたいと思います。

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  23. 久しぶり。暇だったので、覗いてみました。さびしいですね。想像力豊かな人はいないのかな。期待していたのに。

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  24. 川辺町の武市と申します。ここに書かれている400年ぶりの子孫対面は川辺町の武市家の菩提寺で行われ、当時の記事が町報に残されています。自分自身は徳島に行ったことがないこともあり、コロナ感染が一段落したいま、訪問してみたいと思っているところです。

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    1. 貴重な情報ありがとうございます。
      ぜひ一度お越し下さい。

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    2. ぐーたら様 さっそくのご返信ありがとうございます。訪問の計画を立てたいと思います。具体的になりましたらまた書き込みさせていただきますね。どうぞ宜しくお願い致します。

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    3. 大阪の武市2022年9月14日 23:32

      川辺町の武市様、こんにちは。「広報かわべ No.257 1990年12月号」
      https://www.kawabe-gifu.jp/wp-content/uploads/2015/09/199012_257.pdf
      の記事を読ませていただきました。情報ありがとうございました。

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  25. 大阪の武市2022年8月3日 19:10

    皆さん、こんにちは。久しぶりにGoogleMapを見ていたら、武市大明神前の道がストリートビューに加わっていました。しかも、大勢の方が見学なさっているのです。近くには観光バスらしきものも止まっています。ちょっと驚きました。
    https://goo.gl/maps/6E9sHJWNQtMgibMk9

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    1. 見ました見ました。
      えらいことになってますね。
      ただ、Ishii kanko bus って見えるので地元の方ですかね。
      あるいは 法事とか だったのかも 。

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    2. 大阪の武市2022年8月4日 8:10

      こんにちは、バスのフロントガラスに団体名がありました。「石井町ふる里の歴史を学ぶ会」の皆様のようです。石井は地元の歴史に関心がある方が多いようですね。

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    3. あ、ホントですね。

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    4. 今日は、久しぶりにこのサイトを開いてみました。少し前、聞いたのですが、徳島県で三好長慶の研究をしていて、ドラマ化を進めているという泉さんという方がきて、南にある江戸時代初期に造られたと思う武市大明神を参拝したと聞きました。どうしてきたのか聞いたところ、南の集落に知り合いがいて、武市大明神がもう一つあることを知りきたそうです。その知人の家はこの辺りで多分一番古い家で、家系図など古い資料があるらしいです。泉さんは北の武市という長老から南の集落に北より古い武市大明神があることを教えてもらっていなかったと言っていました。存在に少し驚いていたそうです。長老はどうして教えなかったのでしょうね。少し前、石井町の有線テレビで武市常三について、根津さんという人が「ふるさとの歴史を、、、」という会に講師として呼ばれ話をしていました。泉さんの知人は一度、根津さんに会って、家にある資料を見てほしいと言っていました。泉さんは三好長慶のドラマ化で忙しいらしいです。最後に、岐阜の方の話の中で徳島に一度来たいと書いてありましたが、きた時は南の集落の武市大明神を見たらいいと思います。北の大明神よりかは、重みがあると思いますよ。そして、南の集落で一番古い武市さんという家に行くのもいいかもしれません。ひょっとしたら、古い資料などを見せてくれるかもしれません。ぐーたらさんも一緒に行けばいいかもしれませんね。ただし、連絡をして、会ってもいいと言ってくれたらね。

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  26. 大阪の武市2022年9月23日 19:38

    ぐーたらさん、皆さんこんにちは。武市大明神にお詣りしてきました。
    灯篭は地震で倒壊したのでしょうか、パーツごとに置いてありました。
    本体側面には太田忠介(何某)と読めました。忠介の下の文字は風化が進んでいて読めなかったです。
    「徳島藩士譜」によると、太田忠介(助)信昆さんは、「太田彦兵衛養子となり後武市常三信昆名跡相続仰せつけられる」とありました。
    代々太田忠介(何某)さんは、4名いらっしゃるようなので、このなかのどなたかが奉納なさったものでしょうか。
    また、南の住宅街にある、鳥居のある神社と西にある石の祠も訪れました。
    徳島駅から鉄道で下浦駅に降り立ち、台風の接近を気にしながらの訪問で、私の計画が悪く、滞在時間はそれぞれ数分でした。また時間を作って訪問したいと思います。
    「石が語る阿波」誌のP257に掲載されている写真の祠は、西にある祠のほうがイメージが近いと感じていたため、この祠が「石が語る阿波」誌に記載されている「武市神社」ではないかと一人勝手に感じていました。「ぽつんと十坪くらいの敷地」との記載もその理由のひとつです。写真の背景の山の形と実際の風景とを比べてみたかったのですが、台風の接近で遠方は全く見えず、でした。以上は私の勝手な想像なのでスルーしてください。
    以上、乱文乱筆すみませんでした。

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  27. 大阪の武市さん、行動力がありますね。。すばらしい。灯籠が解体されていたのは聞いた話では、亡くなった長老に、この灯籠は南の集落にある武市大明神の灯籠と違うのかな、と南の集落の武市さんが言った途端、解体したらしいですよ。灯籠の傘の部分にある紋が長老の集落(3軒)家紋ではなく、南の集落の武市の家紋ですもんね。
    ところで、もったいなかったですね。時間があれば、南の集落の武市大明神を見てほしかったですね。南の大明神の鳥居には江戸時代の文政◯◯と言う文字が彫られていますよ。
    自分も乗りかかった船で、岐阜に友人がいるので、川辺町へ行ってみようかなと少し思ってきました。

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  28. 大阪の武市さん、教えてください。文章の中に、「石が語る阿波」というのがあるのですが、どのような本ですか。その中に「武市神社」という言葉が載っているのですか。初めて知りました。大阪の武市さんはいろいろ詳しいのですね。歴史を研究しているのですか。
    聞いた話ですが、参考になればと思い書いてみました。南の武市大明神の近くには他に三つの大明神があるようです。名前は、中村大明神、田村大明神、船戸大明神と言うようです。もし興味があれば、調べてみてください。

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    1. 大阪の武市です「石が語る阿波」は1956年に徳島新聞社が出版した書籍で徳島新聞に読み物として掲載された記事をまとめたもののようです。様々な「石」にまつわる物語が掲載されておりその記事の一つが「徳島城を築いた武市常三」であり、「武市大明神」の写真が掲載されているのです。新聞社が出した本だけあって、精度よく取材されていると思います。写真の背景と現場を見比べようと思ったのですが台風で天候が悪く断念して帰ってきました。

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  29. 大阪の武市さん、ありがとうございました。

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  30. 大阪の武市さんが言っていた南の集落の西にある野神さんをみてきました。確かにいい感じの野神さんですね。鳥居には大正11年と彫られていました。聞くと、この野神さんにも当家がローテーションで決まっていて、毎年幟が上がるようです。
    さて、ついでに久しぶりに南の集落の中心にある武市大明神を見てきましたが、22日がお祭りみたいで幟が立てられていました。幟には大きな字で「武市大明神と」書かれていました。興味のある人は22日の午前中に神事が行われ、済むとすぐかたずけると聞きましたので、見に行くのもいいかもしれませんね。

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