前回の記事だけじゃ何が言いたいのか分らなかったでしょうが(一部の人以外は)
もうちっと詳しく書いていきます。
まずは
「観松彦伊呂止命五世孫十挨命が隠岐国造となり九世孫韓背足尼命が長(現在阿波国南方那賀川流域を中心とする所)の国造となり祖先の観松彦神社を奉祀した」
そして隠岐には「海部郡」があります、尼奇(あまき)村があります。
加茂があります。
神社は由緒まで詳しく調べられておりませんが、ざっと見ただけでも
天佐志比古命神社
由良比女神社
賀茂那備神社(これは隠岐の島町加茂に鎮座)
神名として
大國玉明神
賀茂奈比明神
など引っかかるところが多々あります。
ここで資料として1667年(寛文7年)に著された隠岐の地誌である「隠州視聴合紀(いんしゅうしちょうがっき)」を出しておきます。
序文に、「寛文7年に隠岐島を実地踏査した折に、土地の老人や古社寺から聞き書きした」とあるように、地勢の概要、人口、名勝・旧跡・神社仏閣の現状・故事・儀礼などを紀行文風に綴っている。wikipedia
神名帳は「賀茂那備神社」から始まります。
要は阿波とよく似ているということが言いたいのです。
でも「隠岐」じゃなければ、こんなことは書かなかったんです。
古事記によれば大八島は次の順番で産まれました。
一に 淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
二番目に 伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
三番目が 隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
四番目が筑紫島(つくしのしま):九州
五番目が伊伎島(いきのしま):壱岐島
六番目 津島(つしま):対馬
七番目 佐度島(さどのしま):佐渡島
最後に大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州
三番目が「隠岐」。
一番目と二番目から考えると、えらく離れております。
故に「隠伎之三子島」は「隠岐」ではないと言う説が出て来たりしております。
が、ここで浮かんで来てしまったのが
「国産みは長国の遠征の歴史ではないのか?」
阿波の那賀郡である長国(ながのくに)から隠岐まで版図を広げた歴史が
古事記ではないのか?
地図に書けばこうなります。
笑いますか?
古代国産みと言っている時代にこんな大航海ができるはずないですか?
明治以前にも阿波の伊島から韓国沿岸まで平気で漁に行っていたことはご存知ですか?
もう一つ資料を出しましょう。
隠岐の創成伝説を伝える口述聞き取り書「伊未自由来記」(いみじゆらいき)
いわゆる「古史古伝(こしこでん)」と呼ばれる、あまりにも記紀等と異なる内容である為、一般的に偽書だとされるジャンルの文書です。
伊未自由来記
一、木の葉比等。隠岐の国に初めて住み着いた人間は木の葉比等であった。後の
世に木の葉爺・木の葉婆・箕爺・箕婆などといった人も、この木の葉比等の族で
あった。この人は下に獣皮の着物を着て、上に木の葉を塩水に漬けたものを乾か
して着て、木や川柳の皮で綴ったものを着ていたから出来た名前である。髪を切
らないし、髪も延びたままで、目だけくるくるして恐ろしい姿でったが人柄は良
かった。
中略
これら木の葉比等は、西方千里加羅斯呂 から来たというが、また韓之除羅国か
ら来たともいう。
二、海人(阿麻と云う)。顔から全身入れ墨した物凄い風体で、この人間が、木
の葉比等に次いで来た時、木の葉比等は大いに驚き恐れて、部落人が集合して彼
らに立ち向かったが、海人も甚だ温和で、漁が上手であったので、遂に雑居する
ようになったが、年月と共に出雲から相次いで来住し、後には木の葉比等とは海
人がつけた名称だという。海人の於佐神は於母島の東後、奈岐の浦にいた。この
頃隠岐は小之凝呂島と称えた。それは小さな島の集まりであったからである。こ
の大島を於母の島、南の小島三島を三つ子の島、東の島を奈賀の島、南の島を知
夫里島、西の島、船越の南を麗又の名宇留、北を比奈又の名を火地と称えた。海
人が来航して間もない頃になって出雲の大山祇の神様の一族が来航したが、数は
少なかった。その後海人の於佐の神が海賊に殺された。
三、山祇。海神の於佐之神が死して、出雲の鞍山祇之大神の御子沖津久斯山祇神
が小之凝呂島の神として来航、於母の島の東の大津の宮居して長い年月平穏で
あったが、出雲の国が於漏知に奪われてから、此島へも於漏知が来航して財主を
奪い、乱暴するので、三つ子の島の民は於母の島へ逃げ、於母の島の東大津も又
於漏知に襲われるようになったので、宇都須山祇山祇神の代に至り、神は於母島
の西の大津松野という地、後の主栖津、北潟に移して、海防に努めたが、後三つ
子の島は全く於漏知に奪われ、民は於母の島に避難し、神は於母の島民を結集
し、老若男女すべてに武事を教えて対抗、於母の島と三つ子の島は長い間闘争し
たが、三つ子の島の力は年月と共に強力になった。於漏知は踏鞴を踏んで金を作
り、鎧・兜・盾・剣を作るので、それを用いたので、人数は少なくても戦いは強
かった。然して於母の島も於漏知の度重なる来襲に耐え難くなり、流宮の加須屋
の大神祇大神の援助を受けるため使いをやった。小之凝呂島に米を作った。始ま
りはこの山祇神の代であったので、後の世まで島の各地の護神として山祇神が祀
られた。又流宮の大海祇神もこの島の海人共によって各地に祀られた。沖津久須
山祇其女神比奈真乳姫神其御子比奈真岐神は共に三つ子の島比奈の地に祀る。
四、大人様。流宮加須屋大海祇大神は宇都須山祇神の願により、軍兵を小之凝呂
島へ遣す準備を整、御子奈賀の大人様に多数の兵戦に多くの軍兵を乗せ武器・衣
料・農工具・種子類まで持たせて流宮を出発せしめ、大人様は於母の島の松野に
着船、全島征服の準備をされた
中略
大人様は、とりあえず、於母島の於漏知を討
伐したが、於漏知は相次いで渡来するので、油断ができず、その上於漏知は強力
で、遂にその子孫五代にわたり空しく松野に相継ぎ、年月が流れていった。六代
目の出雲大山祇神の姫をめとり、その援助を得て、於母の島全体を征服し、今度
は三子の島の征服の計を立てたが、三子の島では尚於漏知の数も多く容易でない
ので、先ず本拠を松野から於母の島の東の大津に移して宮居を作りこの宮地を公
処(くむだ)と称えた。これが後の宮田である。公処のある地を大人様の祖先の
発祥地名を取って奄可と称した。又大人様の土地の長職の意味から地公の命・又
の名奈岐の命と称え、この津一帯を奈岐の浦と称え、命は又奈岐の浦命とも称し
た。この命は津戸を三子の島征服の拠点として密かに渡船の機を待ち、奈賀の島
の豊田に上陸した。この地方は於母の島から最も早く着く里であったので、地方
名を早着里、又は佐作と呼んだ。而して三子島全島を服し、比奈の船越し美処・
又の名美田に三子の島の公として、主栖の山祇の神を駐し、奈賀の島の南の瀬戸
を左道と呼び左道守の神を屯せしむ。この神を左路彦命という。又奈賀島の北の
瀬戸を右道と呼び、その守神として海人比等邦公を充てたのであるが、この子孫
は天平の頃まで栄えたという。後奈岐の浦命の子孫は全島海部大神として栄え
た。
五、美豆別之主之命。又の名小之凝呂別命・水別酢命・瑞別主命、これの命天津
神の御子にて数多の久米部・綾部・工部・玉造部の民を率いて来島、小之凝呂島
を奈岐命より譲りうけ、その娘をめとりて宮居を奈岐の浦中の鼻に立て、城を築
き、目の城と称し、浦に注ぐ大川に添える地を開きて農耕をすすむ。
中略
周吉は加茂・新野・奄賀
三郷なり。役道は布施・飯尾・元屋・中村・湊・西村の大浦・今は牟羅という。
主栖は昔、主の住みけるによる。役道の南端を津麻という。端の意なり。これ役
道三郷なり。比等那公を以て治せしむ。三子の島にありては、主栖の沖津久期山
祇神を小期凝呂山祇首として比奈・麗・知夫里を兼治せしむ。那賀の地は奈岐浦
命を小之凝呂島海部首として兼治せしむ。この後、阿曇首という。かくて全島平
穏に帰し、於漏知も温和となり、高志・丹波・竹野・出雲との交通もひらけ、重
栖はこれらの地と韓との交通上、往航最後の待機港、復航最初の給食給水の穏息
港となったので、後に穏息または穏座と記して於母須と訓した事もあった。主栖
の地は三子の島から於漏知に追われて来住した山祇人が栄えたので、その遺跡が
特に多くあるが、海人のもある。斯くして小之凝呂別命に依って治められたこの
島も、その後出雲に大きな戦いが起こって因縁の深かった大山祇大神の勢力が落
ちてきたために、新たに出雲から奈賀の命が来航、この島の治神となり、小之凝
呂別命は免じられて、全島の久米の首として久米部の主力を率いて主栖に移住さ
れる事となった。その本拠は後の国府路の垣の内という地であった。別之主命の
祖神は別の祖の神として久米部の祖神としてこの地に祇られた。
六、奈賀命(后中言命という)。阿遅鍬高彦根命の御子にて丹波の須津姫をめと
り、来島。新野川辺に宮居を建てて住みたまうという。後この地を蔵見という。
この神大いに農耕をすすめ各地に開墾・溜池を作り道路を新設し、漁船の建造を
すすめたまえるによりて島民の生活は大いに向上してきた。又妻神須都姫命は丹
波の長自羽麻緒姫と共に織女を迎えて各邑に織布を教え、丹波の須津より薬師を
招きて薬草の栽培をすすめ、医師を迎えて病者の治療に努めた。その後主栖に珠
城宮天皇の皇子誉津部、又の名保地部という御名代部を定め給う。この後の名代
田、又の名苗代田植之内にて、その田は後の保地なり。更に日代宮天皇の御代に
いたり、新野と主栖に田部屯倉を定められ、そこを田部垣の内という。奈賀命は
田部首を兼ねたまう。この時美豆別主命は別の酢の神を奉じて久米部を率いて久
味に移駐し返防の事にあたり、開墾・農耕をはげました。息長足姫皇後、三韓を
討ちたまうみぎり、皇后は多遅摩出石にいたり、美豆別主命又の名伴の首に兵船
の事を命じたまう。命は小之凝呂の久米部を数多く率いて皇后の軍に従いたれ
ば、韓国より得たる数多くの財宝をば皇后より賜る。この時の剣は後美豆別酢神
社に残った。竹内宿弥は都万の地に祖神紀之健名草三神を祀りて武運長久を祈り
神地神戸に定む。更に神功皇后の兵船が役道の主栖に来れる時久米首の祖伊未自
姫は十挨命の妻となり十男子あり、後に姫死して男子は大和美和の父命の許に送
られしという。美豆別主命の後は大伴部首という。その後若桜宮の朝に至りて久
味の地に伊勢部を定められ、この命は美豆別主命の神璽を奉じ、伴部の民をつれ
て役郷に移住し、各地の久米部を持ち、奈賀命についで力があり。役郷は久米部
の郷の意なり。伊勢国造の御子健伊曾戸命は、その祖天日別命又の名大伊勢命の
神璽を奉じ、伊勢部の民を率いて久味に来住した。宇津志奈賀命は後国造の来島
により於母の島の田部首となりて一族を具して、その祖奈賀命の神璽を奉じ主栖
に移住し、役道を兼治したが、後に三子の島の田部をも領した。徳が高く、その
子孫阿曇首は後出雲大阿曇造に属し長白羽姫の子孫、服部首家と共に栄えた。
七、国造。誉田天皇御間都比古伊呂止命五世の孫十挨族命を隠岐国造に定め給え
るに及び大津部伊勢部海部山部服部の五首は国造に協力し功あり。この頃異国人
の来襲盛んなり。国造は沿岸の防備を益々堅固にし田部名代部を督して開墾を励
め道路を開き、島民に衣を与え、医師・薬師を各邑に見舞わしめ、兵船を数多く
作り、民心を和し、賞罰を明かにし、各部の氏神に領地を配し、敬神の志を厚ら
かしめ、孕婦の労力を禁じ、幼少老人病人に食衣を給し、密察使を置いて民情を
糺し、漂着者に(以下略)。
鯨面文身の海人(阿麻)が先住の「木の葉比等」に続いて渡来してます。
南の小島三島を三つ子の島と言う事より「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」
と言ったのでは?
この頃隠岐は小之凝呂島(おのころじま)と称えた、ともあります。
奈賀命(なかのみこと)は阿遅鍬高彦根命の御子にて丹波の須津姫をめとり、来島しております。
誉田天皇御間都比古伊呂止命五世の孫十挨族命を隠岐国造に定め給える、とあります。
美豆別之主之命が久米部を率いてやって来ております。
ついでに(ごめーん)たろさんがコメントで書いてた
後醍醐天皇の遺蹟が阿波における土御門上皇の遺蹟と取扱いの上に相似ている。
件については
後醍醐天皇行在所址は島後にある国分寺址が国指定となって居り古来人口に膾炙し後醍醐天皇の伝説のある島前の黒木御所が昭和30年に漸く県指定の史蹟となっている点は阿波における土御門上皇の遺蹟中板野郡池之診の丸山神社が明治の初頃火葬塚に決定を見,守護小笠原彌太郎長経が造営の申した御所村の行在所址が昭和2年漸く県史蹟となった事とよく似ている。
隠岐国分寺址は天皇に関する伝説口碑は全くないが黒木御所址には三位局館址隠岐守護佐々木判官館址見付島等の遺蹟があり伯耆国名和長年の忠勤により夜に乗じて変装衷道より土豪近藤氏の援助を得て御潜幸海上無事名和港に御脱出の有様は今尚土地の祭典行事として残っている。
これも「阿波学会研究紀要」にありました。
あー、すっげえ舌足らず!
言いたい事の百分の一も書けねえ!
「古事記の隠岐の国産みは阿波の長国、那賀から隠岐への進出の歴史だ」って言いたいのよ。
そーら、そこらの阿波史研究してる人、ことごとく敵に回しそうな予感。
ふむふむ。 そういう切り口で来ましたかぁ
返信削除国産み=長国の遠征とは思いつきませんでした
オレ個人は 「神話はホントは県くらいの地域内でおこったコトを西日本を巻き込んで大げさに書いてる」そんでもって・・・
「天岩戸も黄泉比良坂も高天原も、ぜ~んぶ徳島県内なんじゃないの?」とか考えてたんだけどなぁ
はぅぅ、阿波忌部は千葉とか行ってたし、以外に古代人の行動範囲は侮れないのかも
あと侮れないのは、ぐーたらさんの本気モードと書け書け呪いも♪
to たろさん
返信削除いや、合ってますよ。
「天岩戸も黄泉比良坂も高天原も」県内の話だと思います。
ある程度国の形が定まってから、その中でごちゃごちゃ
やってたんですよ。
だから、ボクが思うところの長国の遠征は出雲を通ってないし。
(まだ出雲は敵対してたって事)
弥生以前、縄文の頃の伝承を記紀の形で残したのかと思ってます。
紀伊の名草みたいにね(あそこは六千年前からって言ってるし)
で、もっと言えば「長国」と「粟国」の版図の争いもあって
古事記と日本書紀が分けられたのかなとも思います。
あるいは、よく言われる「忌部国」の存在も考えられますしね。
今度の記事については「麻植忌部」とは別の系統の伝承でしょう。
隠岐の忌部は、大分後から出雲経由で「麻植忌部」がやってきたんですよ。
多分(笑)
いや~おもしろかった!ってもうTHE END?(笑)
返信削除なるほどねぇ。納得できました。
あのう。私ちょっと人間社会に疲れた時代に、
ひょんなことから「漁師」をやってたんですね。
多分漁師の人なら納得してもらえると思うんですけど、
陸上の狭い場所で定住し、PCで仕事するような、
それでご飯が食べられるような、実行動範囲の狭い
現代と違い、「海の文化」は大昔からグローバルだった
ようです。
例えば「定置網」の漁師は、越中氷見の漁師が「博士級」
で、日本海の漁師も、岩手や宮城の漁師も、あっち行ったり
こっち来たりして・・・今でも手伝いあっている!ってこと、
漁師じゃないひとには、多分知られていない!(笑)
私が漁師やってる時は、台湾人の船頭でしたよ。
漁師の操船言葉に、「ごうへい」=GO AHEAD!
とか、いろんな言語がミックスされて使用されている。
海から見ると、島伝いにどこでも簡単にいけるんですよ。
意外とね。(笑)
ぐーたら先生の航路をみると、阿波の漁師が、土佐で闘犬
でちょっと儲けて、宇和島で闘牛でスッて、こりゃちょっと
儲けな帰れんちゅうて隠岐でまた闘牛で儲けて・・。(笑)
あのね。私の大先輩の漁師さんは、伊豆大島に漁に行くと、
海からネオンサインがキラキラ見えて・・・。
魚が獲れて儲けた頃は、夜な夜な伊豆大島で遊んで帰って
きたそうです。(長~くなってすんません。笑)
to ピコちゃんマン
返信削除>ってもうTHE END?(笑)
まだ、足んねぇだよぉ。
書き足んねぇけど、まどまらねぇんで、ここまでにしただよぉ。
「海の文化」や「海部族」を書き出したら何回書いても終わんねぇず。
でも、ピコちゃんマン(誰?)がおっしゃるように、ボクみたいな陸の人間は
海の事、海路の事なんか知らなさすぎるんです。
感覚が全く違うんですね。
多分、その頃は海部から難波くらいまでは隣町くらいの感覚だったかも
知れないし那賀から隠岐までも開発済みの航路だったかも。
ついでに、隠岐は「隠」された「岐」みち(分かれ道)
返信削除とも読めますしね。
御久しぶりです。
返信削除航路は瀬戸内を通らずに、あ、渦潮の回避?(あ、おバカだぁ)
なんでですかねぇ。
大古、夜、星や月を見て方角を知り、大航海に出た。
って、テレビで見ましたが。
この頃はどうやって、方角を知り、どんな船で、何人たちで・・・。
ロマンです。
to babymamaさん
返信削除どーも、おひさです。
航路はてきとーです(笑)
うそうそ、伊島の漁師さんの韓国方面への航路を参考にしたのと
瀬戸内海は島嶼が多く海流も入り組んでいるからです。
また、友好的でない一族の(ややこしい言い方だなあ)襲撃とかも
あったと思いますので(通ってるのが一目瞭然ですので)
外洋ルートだと思いました。
もう一つ理由があるんですが、それはおいおい書くとして。
やっぱロマンですねえ。
ぐーたらさん、こんにちは。
返信削除知らない神様の名前がいっぱい出てきて、
調べるのにいそがしかったです。
途中で挫折しました(笑)
テグスも堂の浦の猟師さんが発明したし・・・
徳島の漁師さんの航海術はすごかったんですね。
五島列島の方まで教えに行っていたと林先生からお聞きしたことがあります。
to サクラサク4869さん
返信削除桜咲古事記研究会設立おめでとうございます(笑)
また呼んで下さいね。
「伊未自由来記」は口伝なんで神名はちょっと違って
書かれてるはずですよ。
でも「奈賀命」がいたり「於漏知」がいたりして
面白いですね。
で、次は対馬と佐渡を調べなくちゃね。
こんばんは。
返信削除この伊未自由来記の伝承は貴重ですよね。
大山祇大神の勢力が出雲の勢力であることがこの古伝
から分かりますね。(伯耆大山を故郷とする人々)
出雲臣に山直の一族があるのも、この大山神を祖としている
事を証明していると思います。山神を祀る式内社は、
隠岐、出雲神門、伯耆大山神、但馬国気多郡(出雲神門から移住)
と出雲族の居住地にあります。
伊未自由来記からは、アジスキタカヒコの子が
須津姫を娶っていますから、隠岐の忌部は丹波(丹後)から来たように
見えますね。海部=忌部 という。
伊勢命神社は、外宮の度会氏=丹波直=海部=忌部
ですから。
丹後の籠神社の近くに、須津姫神社があって、これは式内社の吾野神社
です。アガノ、アノで、アマノと同意ですね。
出雲に吾郷氏が祀る式内、阿利神社(アジスキ神が祭神)と
阿利姫神社がありますが、これもこの人たちと関係がありそうです。
いつも貴重なコメントありがとうございます。
削除伊未自由来記、古史古伝などと、あまり信憑性が無いように云われていますが、いやいや。
それと
>隠岐の忌部は丹波(丹後)から来たように見えますね。海部=忌部 という。
ですか。
個人的には壱岐から隠岐へ廻って欲しかったんですが(笑)
いや、単に古事記にあてはめただけです(笑)
>外宮の度会氏=丹波直=海部=忌部
については、最近ちょっと分ってきました。
それにしても、やはり「吾」の一族の話に繋がってくるんですね。
興味深いです。